第四章 最悪の木曜日
翌朝、目を覚ますと私の部屋の中をインコが飛んでいた。
ほんの一瞬、事態が飲み込めなかったけど、すぐに思い出して理解した。
昨日のことは夢じゃなかったし、このインコが悠翔君だということもすんなり受け入れていた。
悠翔君だから受け入れられるんだ。
たぶん私は好きなんだ。
でも、言わないでおこう。
調子に乗せたら何されるか分からない。
羽毛に包まれたような心地よい夢を見ながら眠ったことは間違いなく本当のことなんだ。
今はそれだけでいい。
「サツキオハヨ」
「うん、おはよう」
具合はどうなんだろう。
元気に飛び回っているから大丈夫なのかな。
「元気そうだね」
「ゲンキ、ゲンキ」
「よかったね。心配したんだよ」
ベッドに下りてきて、私の膝の上に乗ってくる。
インコ姿の悠翔君はかわいい。
羽毛を膨らませてお団子みたいな姿で私を見上げている。
頬をなでてあげるとくすぐったそうに首をかしげて目を閉じる。
あれ、でも、何かが気になる。
夜中は悠翔君の姿だった。
それが今はインコの姿に戻っている。
ということは……。
「ちょっと、あんた夜中にキスしたでしょ」
「シテナイ、シテナイ」
首を左右に振る。
油断した。
こいつ、スケベ男子だったんだ。
「まさか、それ以上何かしてないでしょうね」
「シテナイ、シテナイ」
「ホントに?」
「マジデ、マジデ」
全然信用できない。
私はインコの頬をグニグニと撫でた。
くすぐったそうに首をかしげながら目を閉じてすり寄ってくる。
そんな様子を見ていると、なんとなく、どうでもいいような気がしてきた。
ずるいな、インコって。
何でも許せちゃう。
悠翔君の姿のままだったら目覚めた瞬間平手打ちだったよね。
「着替えるから鞄に入っててよ」
鞄を開けた時、昨日の体操服が入れっぱなしだったことに気がついた。
新しいのと入れ替えて、インコにふんわりとかぶせる。
「顔出して着替えをのぞいたら追い出すよ」
「ミナイ、ミナイ」
ホント?
信用できないので昨日着た体操服もかぶせて二重にした。
「オモタイ。クルシイ」
「我慢しなさい。ちょっとの間だから」
私は急いで着替えた。
髪にスプレーをかけて寝癖をゴシゴシ直す。
「起きた? 朝ご飯よ」
お母さんが呼んでいる。
「今行くよ」
昨日の体操服を持って下におりた。
「お母さんゴメン、洗濯物出すの忘れてた」
「なんだか、大丈夫? 環境が変わって調子が合わないのかもね」
「具合は大丈夫よ。忘れてたのはうっかりだよ」
「だといいけど」
お母さんを心配させないように、わざと明るく振る舞いながら朝ご飯を食べた。
「最近、お昼はどうしてるの?」
「学校の近くのショッピングモールに行って友達と食べてるの」
「あらそう。新しい楽しみができたのね」
お母さんは財布を取りだしてお小遣いをくれた。
「お昼代にしなさい」
「いいの?」
「高校生だもん。中学までとは違うんでしょ」
にっこりと微笑んでくれるお母さんの顔を見なくてもすむように、私はマグカップのカフェオレを味わって顔を隠した。
本当のことがばれたら申し訳ない。
今の私はひとりぼっちで、しかも、変な男子高校生を連れ込んでいる。
なんとか隠し通さなければ。
部屋に戻って鞄の中を確かめる。
インコは私の新しい体操服にくるまって気持ちよさそうに眠っている。
二度寝の朝寝坊。
あんたは気楽でいいね。
さて、私は今日も緊張と気苦労の連続を克服しに出かけなければならないんですよ。
こんな高校生活のはずじゃなかったんだけどな。
家に置いていくわけにはいかないから、とりあえずインコの悠翔君を鞄に隠しながら出発した。
家の外でもこんなものを隠し持っているのがばれたら大変だ。
電車に鳥を持ち込むのは悪いことなんだろうか。
スマホで検索してみたら、意外と問題はないようだった。
キャリーケースに入れてあれば私の利用する鉄道会社は無料らしい。
キャリーケースはないけど、学校の鞄なら外に出さなければ大丈夫かな。
それより、人間の姿になってくれれば、何も気にしなくていいのにな。
でも、人間の姿の悠翔君のほっぺをグニグニするなんてできるわけがない。
当分このままでいいや。
教室に着いて、机の上に鞄を置いて中を確かめた。
体操服にくるまって気持ちよさそうに目を閉じている。
ときおり体がぴくっと震える。
夢でも見ているのかな。
「あれ、ユウトは来てないの?」
いつの間にか真緒ちゃんがいた。
「あ、おはよう。うん、まだみたいだね」
インコに気を取られていたせいであまり意識しないで自然に真緒ちゃんに返事ができた。
そんな私に、真緒ちゃんも微笑んでくれた。
と、そのとき私の鞄の中で声がした。
ユウトキテナイ、ユウトキテナイ。
真緒ちゃんが教室を見回す。
「え、何、今の?」
ちょっと、しゃべらないでよ。
何やってるのよ、悠翔君。
困惑する私に追い打ちをかける。
サツキブサイク、サツキワラエ。
ちょっと、あとで人間の姿になったら覚えてなさいよ。
真緒ちゃんが私の顔を見る。
「え、鳥? モノマネ?」
「ち、ちがうの」
おさえようとしたけど、遅かった。
インコが鞄から顔を出していた。
「サツキブサイク。サツキブサイク」
真緒ちゃんが驚いた顔を鞄に近づけてインコを凝視している。
目がまん丸だ。
「これ、どうしたの?」
「さあ……」
真緒ちゃんは左手の人差し指をインコの頬に押しつけてふわふわと撫でた。
たちまちインコが首をかしげてうっとりとした表情になる。
小鳥の扱いになれているんだろうか。
「こら、『サツキカワイイ』でしょ」
真緒ちゃんが叱りつけると、インコがすぐに復唱した。
「サツキカワイイ、サツキカワイイ」
「この子、すごく頭いいね。すぐ言えるね。じゃあ、『マオチャンカワイイ』は?」
「……」
「あれ? 照れ屋さんなのかな?『マオチャンカワイイ』だよ」
インコが体を細くして首を伸ばす。
「この子緊張してるね。人見知り? 鳥見知り? 緊張しいだね。サツキちゃんと同じだ」
『サツキちゃん』っていきなり下の名前で呼ばれて緊張した。
「どうして分かるの?」
「インコがね、体をこうやって細くしてるときって、緊張してるんだよ。ほら、敵から身を隠すにはなるべく体を小さくした方がいいでしょ。自分では見えなくなってるつもりなんじゃないかな。透明人間になったつもりの子供みたいだよね」
へえ、そうなのか。
真緒ちゃんは鳥に詳しいんだね。
「ねえ、『マオチャンカワイイ』は?」
首をひねるだけだ。
「私の声だと慣れてないから聞き取りにくいのかもね。ねえ、サツキちゃん、代わりに教えてみてよ」
え、やばいじゃん。
もしもうまくいかなかったら、私この学校いられなくなるって。
マジでお願い。
頼むよ。
ねえ、悠翔君。
「マオチャンカワイイ?」
ウン。
「あ、ね、今この子返事したよね」と真緒ちゃんが手を叩く。
え、そ、そうかな。
気のせいだと思うけど。
私はもう一度くりかえした。
「マオチャンカワイイ?」
ウン。
真緒ちゃんが両手をお皿のようにしてインコを持ち上げる。
悠翔君は団子のように丸くなっておとなしくしている。
「やっぱり照れ屋さんだったんだね。もう、この子かわいい」
「コノコカワイイ、コノコカワイイ」
「あ、すごい私の声でも分かるんだね。じゃあ、『マオチャンカワイイ』は?」
「……」
「あれ、だめか。でもかわいいから許しちゃう」
くちばしに口づける。
「キャー、チューしちゃったあ。私のファーストキス奪われちゃった。うふふ」
奪われたというよりも、むしろこっちから奪いにいったように見えたけど。
インコの目がまん丸。
あ、まあ、鳥の目って、もともと丸いか。
ふと、まわりを見たら、男子の視線が釘付けだ。
みんな目が丸い。
あいつファーストキスだったんだなんて、ざわついている。
と、そのとたんインコが飛び立った。
「あ、逃げちゃった。大変」
真緒ちゃんが手をのばしたけどインコは教室の中を一回りしてしまう。
「あ、ねえ、みんな窓とドア閉めて」
真緒ちゃんの呼びかけに応じて男子達が協力してくれるけど、インコは一瞬の差で廊下へ飛び出してしまった。
「ごめんね。どうしよう」
泣きそうな顔で真緒ちゃんが目で追う。
机に手をついて、おびえたような表情のまま固まったように動かない。
こんな青ざめた顔の真緒ちゃんを見ることになるとは思わなかった。
「大丈夫。待ってて」
私は教室を出てインコを追いかけた。
ちょっと、どういうことよ。
逃げることないじゃないの。
面倒かけないでよ。
私は心の中で悠翔君をののしった。
でも、それほど追いかけなくても大丈夫だった。
インコは廊下の角を曲がったところで悠翔君の姿になっていた。
荒い息を整えながら乱れた髪の毛を整えている。
「危ねえ、バレるところだった」
「なんで逃げるのよ」
「あいつ、俺にキスしただろ。姿が変わったらバレるじゃん」
まあ、そういう仕組みなら、仕方がないか。
「そもそも、なんで鞄から顔を出しちゃうのよ」
「おかげであいつと仲良くなれただろ」
まあ、そうだけど。
「あいつ鳥が好きなんだよ」
へえ、そうなんだ。
あれ?
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「まあ、長いつきあいだからな」
そうか、中学が一緒だったんだからね。
えっと、違う。
鳥なのに中学が一緒っておかしいじゃない。
自己紹介の時にクラスが一緒だったって聞いてたから納得してたけど、話がおかしい。
私が問いただそうとした時に、予鈴がなって登校してきた生徒がたくさん階段を上がってきてしまった。
悠翔君も私をおいてさっさと教室に行ってしまう。
ポケットに手を入れて丸くなった背中をあわてて追いかけた。
もやもやした気持ちを抱えながら教室に戻ると、真緒ちゃんが心配そうな顔で待っていてくれた。
「つかまえた?」
「あ、うん」
一気に頬に赤みが差して笑顔になる。
「どこにいるの?」
「ロッカーに入れてきたの。授業中はそうするつもりだったから」
私はでまかせを言った。
「あ、そうなんだ。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「大丈夫。こちらこそ心配かけてごめんね」
ホームルームが始まってインコの話はいったんうやむやになった。
今日から正式な授業が始まるけど、明日の金曜日までは午前中だけの短縮授業だ。
退屈な授業の間、私は学校にインコを持ってきてしまったことの言い訳を考えていた。
何も思いつかなくて焦ってしまう。
お腹も痛くなってきた。
悠翔君がインコだと説明するわけにもいかないし、かといって、このまま悠翔君の姿だと、今度は真緒ちゃんにインコを見せることができなくなる。
あんたのせいだからね。
私は二つ前の席に座る悠翔君の背中に呪いを送った。
悠翔君が肩をブルルっと振るわせる。
言い訳が思いつかないままあっという間に放課後になってしまった。
こんな時に限って授業が短い。
内容なんか全然入ってこなかった。
真緒ちゃんがいきなり振り向く。
「ねえねえ、ロッカーでインコ見せて」
ずっと待っていたみたいで、鼻息が聞こえてきそうな勢いだ。
「あ、うん」
「さっきはごめんね。今度は驚かさないようにするからさ」
どうしよう。
断るわけにもいかないし、かといって、これがインコですなんて悠翔君を見せるわけにもいかない。
誰かぬいぐるみでも持ってないかな。
実はあれ、最新型のドローンだったんです、なんてごまかせないか。
「ちょっと私、先にトイレ行ってくるね」と苦し紛れの言い訳をする。
「じゃあここで待ってるね」
期待に満ちた真緒ちゃんの表情がまぶしい。
悠翔君がさりげなく席を立つ。
「じゃあな」
後ろから声をかけられた真緒ちゃんが顔だけ軽く振り向く。
「あ、ユウト、帰るの?」
「おう」
私が教室を出たところで、悠翔君もならんだ。
「ねえ、どうしたらいいのよ」
廊下を歩きながら耳打ちする。
「こっちに来いよ」
悠翔君が親指を立てて廊下の端まで私を連れてきた。
階段を上がって踊り場で立ち止まると、私を壁に押しつける。
「ちょっと、何するのよ」
「鳥になるから協力しろよ」
それって、つまり……。
「やだよ。こんなところで無理」
上の階は二年生の教室で、上級生は通常日程でまだ授業中だから上から人が来ることはない。
だからといって、今ここでキスなんかしたくない。
「優しくされたいのか」
はあ?
何言ってんの?
「それとも、昨日みたいに無理矢理されたいのか」
ベッドでされたことを思い出して顔が熱くなる。
「早くしないと真緒が待ってる」
そんなこと言われたって。
困るよ。
インコを見せられなくても困るけど、悠翔君とキスしなくちゃならないのも困る。
「なんか違う方法はないの?」
「おまえが俺の指を噛むとか?」
ペット屋さんで鳥に噛まれた時みたいに?
それも嫌だな。
そもそも、あれは鳥に噛まれたから鳥になったのかもしれないじゃない。
あたしが噛んだら、ただ怪我するだけかもしれないでしょ。
うつむいて選択肢を考えていると、悠翔君がつぶやいた。
「あいつ、ファーストキスとか言ってたけど、昔はよく俺としてたくせに、なかったことにしやがって」
え?
どういうこと?
よくキスしてたの?
二人はどういう関係?
困惑している私の顎を指で支えると、悠翔君が顔を近づけてきた。
え、無理。
だめ、無理。
思わず目を閉じる。
自分自身を納得させるための言い訳を考えた。
真緒ちゃんのために我慢しよう。
これは仕方なくやることなんだ。
仕方なくキスされるんだ。
本当は嫌なのに。
私は本当は嫌なのに……。
悠翔君の唇が触れた。
ちょっと涙が出た。
目を開けた私の目の前でインコが羽ばたいている。
私の肩に止まって耳たぶに頬を押しつけてくる。
なんて優しい感触だろう。
あたたかな体温を耳に感じながら、私は涙を指でぬぐった。
私はウソツキだ。
本当は言い訳なんかいらないんだ。
私は悠翔君にキスされたかったんだ。
だけど、言い訳で逃げたかったんだ。
自分の自信のなさから逃げたかったんだ。
真緒ちゃんのせいにして、逃げだそうとしていたんだ。
私は自分に嘘をついたことと、真緒ちゃんを悪者にしたことを後悔していた。
また少し涙が出た。
インコがしゃべる。
「サツキ、ウソツキ」
ラップかよ。
韻を踏むな。
馬鹿。
「あんた、さっき『サツキブサイク』って言ってたよね」
「イッテナイ、イッテナイ」
「あんたのほうがウソツキじゃないのよ。インコのくせにキツツキにするよ」
「サツキヘタ。ノリワルイ」
ああ、もう、なんだこいつ。
こうなったら帰りに絶対フライドチキン食べてやる。
「じゃあ、真緒ちゃんのところに行くよ」
もう一度涙をぬぐって私はインコの悠翔君を肩に乗せて教室に戻った。
「わあ、かわいい」
真緒ちゃんが手のひらを差し出すとインコが飛び移った。
真緒ちゃんの指を優しくつついたり噛んだり、頬の毛をこすりつけたりする。
「この子、あたしにもなれてくれたみたいだね」
悠翔君、私の時より優しい感じだ。
やっぱり男の子って美人さんが好きなのかな。
「この子、サツキちゃんが飼ってるの?」
「あ、うん、そんな感じ」
焦ってしまって、てきとうな返事しか言えない。
「この子、何食べるの?」
そういえば、私も知らない。
昨日みたいに人間の食べ物をあたえて万一のことがあったら大変だ。
ちゃんとした餌を買ってきた方がいいんだろうか。
でも、うちで飼うことになったわけじゃないんだけどな。
「ねえ、これから時間ある?」と真緒ちゃんがインコの顔をのぞき込みながら言った。
一瞬、インコに話しかけてるのかと思って返事が遅れてしまった。
「いそがしいの?」
「ううん」
「じゃあさ、ショッピングモールのペット屋さんに行ってみない?」
「連れていっても大丈夫かな」
「さっきみたいに逃げなければ大丈夫でしょ。学校にも連れてきてるんだし」
真緒ちゃんがインコを私に返して自分の鞄を持つ。
アジア風のアクセサリーがじゃらりと揺れて、悠翔君が首を伸ばす。
「じゃあ、行こうか」
私は鞄の中のタオルにインコを乗せた。
悠翔君は自分からタオルに潜り込んでおとなしくしている。
「この子、お行儀良いね」
全然良くないよ。
猫かぶってるんだよ。
鳥だけど。
真緒ちゃんが先に教室を出ていく。
「今日は沢口さんと平山さんは?」
私が声をかけると、真緒ちゃんは歩きながら軽く振り返った。
「部活の体験入部に行くんだって。先輩達の授業が終わるまで学校に残るから、お昼を買いにコンビニに行っちゃったよ。だから私は暇だからつきあってよ」
部活か。
私は今のところ何もするつもりはない。
沢口さん達みたいにやりたいことがあってがんばれるのはうらやましい。
私にはそういう何かがない。
それに、真緒ちゃんに暇つぶしと言われたことが気になってしまった。
本当は私となんか遊びたくないけど、仕方なく相手をしてくれるだけなんじゃないだろうか。
小鳥と遊べるから誘ってくれているだけなんだ。
せっかく誘ってくれているのに、がっかりした気持ちを抱いてしまう自分がなんだか情けなかった。
もうちょっと素直に好意を受け取るべきなんじゃないだろうか。
ぼんやり考え事をしていたら少し距離があいてしまって、私はあわてて追いかけた。
「赤城さんは部活やらないの?」
「迷ってるんだけどね。まだいいかな」
真緒ちゃんが立ち止まって振り向いた。
「『真緒』でいいよ」
え?
悠翔君にも下の名前で呼べと言われたときの事を思い浮かべてつい顔が熱くなってしまった。
「え、どうしたの?」
真緒ちゃんに変な勘違いをされてしまったようだ。
意識してしまうとなかなか呼べないし、話しかけられない。
高校に入学してから毎日ショッピングモールに寄り道している。
おとといは一人、昨日はイケメン男子と、今日はこれからあこがれの友達と。
気がつくと入学前に思い描いていた高校生活が実現している。
不思議なものだ。
でも、私の心の中は穏やかではなかった。
真緒ちゃんと二人きりで何を話したらいいのか分からない。
変なことを言って嫌われたらどうしよう。
あんなに仲良くなりたいと思っていたのに、いざとなると何も言えなくなってしまう。
学校を出て、二人並んで歩く。
真緒ちゃんは跳ねるような足取りで歩いている。
そのたびに髪がふわふわと揺れる。
本当にきれいだ。
憧れる。
私の髪なんて太くて重くて真っ黒だ。
真緒ちゃんは気をきかせてくれているのか、今日の授業のことなんかを話題に持ち出してくれるけど、私の方は生返事しかできない。
『真緒ちゃん』と呼びかけるタイミングばかり気になって会話が頭に入ってこない。
気まずい空気が漂う中でショッピングモールまで来てしまった。
今日もペット屋さんの入り口ではオウムが出迎えてくれる。
「うわ、こんなに大きいのがいるんだね。暴れたりしないのかな」
真緒ちゃんが駆け寄っていく。
勢いに圧倒されたのか少し肩を怒らせて羽を膨らませる。
でも、騒いだり暴れたりはしないようだ。
「こんにちは」
真緒ちゃんが話しかけるけど、オウムは無言だ。
「この子はしゃべらないのかな」
真緒ちゃんはバイバイとオウムに手を振ってお店の奥へ入っていく。
小鳥コーナーで腰をかがめて横から鳥籠をのぞき込む。
「かわいいね。お友達がたくさんいるよ」
私を手招きして鞄の中に手を入れる。
インコの悠翔君が顔を出して真緒ちゃんの手に顔をこすりつけている。
人間の姿の悠翔君だったらと想像して思わずにやけてしまった。
「ほら、おいで」
真緒ちゃんがなれた手つきで悠翔君を手の中に包むと、鳥籠のそばに寄せた。
中の鳥たちが好奇心を示して近寄ってくる。
でも、悠翔君はピョンと跳びはねて私の鞄の中に戻ってしまった。
「あれ、遊びたくないのかな。こわがりなのかもね」
無愛想な悠翔君だから、お友達と遊びたくないのかもしれない。
我が子の公園デビューを見守るお母さんみたいな気分だ。
真緒ちゃんは起き上がって鳥籠の上から手を差し入れて中のインコたちを撫でている。
一羽のインコが鳥籠の横からくちばしを突き出して真緒ちゃんの鞄についたアクセサリーをつついた。
「あ、これはだめよ。ごめんね」
真緒ちゃんが鞄を背中の方に回す。
「これね、昔飼ってたインコのおもちゃなんだ」
昔インコを飼っていた?
そうか、だから小鳥の扱いになれているのか。
真緒ちゃんは鳥籠の中のインコたちに手を振って餌売り場の方に歩いていった。
「あたし、昔、インコを飼ってたことがあってね。なつかしいな。よくこんな餌を買ってあげたっけ」
イカの甲を干したオヤツとかアワの袋を商品棚から取り上げて、鞄の中に隠れている悠翔君に見せるけど、顔を出すだけで興味はなさそうだ。
餌の棚の隣には真緒ちゃんの鞄についているのと同じような小鳥用のおもちゃがたくさんならんでいた。
木や布でできた小物が紐でつなげられていて、鳥籠にぶら下げられるようになっている。
真緒ちゃんのと同じようなトウガラシ形の物もある。
アジア風なお土産物かと思っていたけど、インコ用のおもちゃだったのか。
真緒ちゃんは小鳥用の餌の袋を持ってレジへ向かった。
会計を済ませてお店の外に出たところでベンチに腰掛けると、真緒ちゃんが鞄から眉毛切りばさみを取り出して袋の隅を小さく破った。
私も少しだけ間をあけて隣に座る。
「ね、ちょっとこれ持ってて」
袋の中身を少しだけ手のひらに出すと、袋を私に差し出して鞄の中の悠翔君を呼んだ。
「ほら、ご飯だよ。お腹空いてるでしょ」
悠翔君は首を長くして顔を出すと、真緒ちゃんの手のひらから餌をついばみ始めた。
食べている姿は無防備で、ふてぶてしさはまったく感じられない。
「かわいいね。名前はなんて言うの」
「ユウ……」
危うく『悠翔君』と言いそうになって咳払いでごまかした。
私は人間の悠翔君だと思っていたから、インコとしての名前は考えていなかった。
「まだ決めてないんだけど……」
「あれ、そうなの? 飼い始めたばかり?」
うん、とうなずくと、真緒ちゃんが首をかしげながら口を尖らせた。
柔らかく髪の毛が揺れてインコの悠翔君が毛先をつつく。
「じゃあ、『ピィちゃん』は?」
「うん、いいよ」
「あっさり決めちゃうんだね。何かこだわりはないの?」
「だってかわいい名前だもん。ねえ、ピィちゃん」
私が呼びかけると、気のせいか悠翔君は嫌がっているように首を振っていた。
たしかに、あのふてぶてしさで『ピィちゃん』は恥ずかしいのかな。
「ピィちゃん、いたずらしてないでご飯食べなさい」
真緒ちゃんがインコの頬を撫でると、鞄の中から出てきて手の上に乗った。
「あ、やっと出てきてくれた。かわいいね」
優しく頭を撫でられて目を閉じてうっとりとしている。
「ピィちゃん、ほら、ご飯だよ」
インコは素直におとなしくまた餌をついばみ始めた。
「このインコ、どうして学校に連れてきたの?」
真緒ちゃんの疑問は当然だろう。
ふつう、ペットを学校に連れてきたりはしないものだ。
「ええとね、飼育動物にどうかなと思って」
「ああ、小学校のウサギみたいな感じ?」
「うん」
「いいね、私もお世話していい?」
「うん」
「先生に許可はもらったの?」
「ううん」
「教室で飼うの?」
「そういうわけにもいかないよね」
「じゃあ、どうするの?」
口からでまかせだったから、もちろん何の考えも浮かんでこない。
真緒ちゃんが不思議そうに私を見ている。
それはそうだ。
いきなり鳥を学校に連れてくる不思議ちゃんだ。
しかも、その鳥は悠翔君で、いつ人間の姿に戻るのかわからない。
そんな本当の話を打ち明けたらちょっと困った子だと思われてしまうだろう。
お友達になりたいと思っていた人とこうしてお話ができているのに、深く踏み込むことができない。
なんで私はこんなに臆病なんだろう。
いつの間にか私は手にじっとりと汗をかいていた。
「動物同好会でも作るの?」と、真緒ちゃんが思いがけないことを言った。
「え、まさか」
そんな大げさなことは考えたこともなかった。
「そうなの。もし作るなら、私も入ってもいいよ」
え、いいの?
真緒ちゃんと放課後一緒にクラブ活動ができる。
私にも居場所ができる。
とても素敵なことのように思えた。
でも、どうやったらそんなことができるのか分からない。
「そんなことできるのかな」
「先生に聞いてみるのが一番いいんじゃない? 手続きとか、そもそも使える部屋があるのかとか」
私にはそんなことできそうには思えない。
返事をしないでいると、真緒ちゃんが私のことを見つめていた。
「サツキちゃんてさ、なんか、いつもムスッとしてるじゃん。あたし、なんか悪い事しちゃったかな」
うわ、どうしよう。ごめんなさい。
ちがうの。
本当はすごくうれしいの。
でも、言葉が出てこない。
言うべきことは分かっているのに、喉が詰まって声が出ない。
言おうとすればするほどますます焦って何も言えなくなってしまった。
ピィちゃんが真緒ちゃんの手から私の鞄に飛び移ってタオルの中に潜り込む。
次の瞬間、私は逃げ出していた。
たぶん頭を下げるくらいのことはしてたと思うけど、でもとにかくその場から走り出していた。
だめだ。
こんな失礼なことしちゃってたら、もう明日から学校なんか行けない。
やばい、もうだめだ。
大通りの赤信号で立ち止まったら、隣に真緒ちゃんがいた。
追いかけてくれていたんだ。
荒い息で私の肩に手をかける。
「ゴメン。あたし、言い方悪いってよく言われるんだ。怒らせちゃったかな。ゴメンね」
ち、違うのに。
言葉が出ない。
黙っている私に真緒ちゃんがどんどん詰め寄ってくる。
「あのさ、あたし、鳥にだけ興味があるわけじゃないよ。サツキちゃんの気持ちも知りたいんだよ。あたし見た目がチャラいから中身もそうだと思われてるんだろうけど、べつにそういうわけじゃないんだよね。中学くらいからずっとこんな感じで見た目で判断されてたからあたしはなれてるんだけどね。逃げるのだけはやめてよ。友達に逃げられるとあたしもつらいからさ」
友達?
友達なの?
青信号だ。
「あ、赤城さんは……、とっ友達じゃないから、私のことなんかかまわなくていいです」
なんとか声を絞り出したのに、出てきた言葉は破滅につながるセリフだった。
私は逃げてしまった。
全力で駆けだしていた。
肩掛け鞄の紐をぎゅっと握りしめながら道路を渡って高校の前を通り過ぎると、自分の利用する私鉄駅まであっという間に逃げてきてしまった。
もうだめだ。
終わりだ。
もう戻れない。
涙が出てくる。
真緒ちゃんを怒らせてしまった。
あんなに失礼な態度を取ってしまった。
言えばいいのに。
友達になりたいって言えばいいのに。
友達だって言ってくれたのに。
『真緒ちゃん』って名前を呼ぶ事すらできなかった。
電車のロングシートに腰掛けて鞄を膝の上にのせたら餌の袋から粒がこぼれ出た。
それをピィちゃんがついばんでいる。
さっき真緒ちゃんから袋を預かって、そのまま鞄に入れっぱなしだったんだ。
いまさら返すこともできない。
ピィちゃんはタオルにこぼれた餌をのんきについばんでいる。
器用に殻をむきながら首を振って喜んでいる。
「おまえはいいね。楽しそうで」
私は一瞬、インコが悠翔君であることを忘れていた。
頭を撫でてあげると気持ちよさそうに目を閉じる。
ああ、私もこんなふうに頭を撫でてもらいたい。
全部忘れてきれいさっぱりやり直せたらいいのに。
でも、もうだめだ。
明日から学校に行けない。
電車から降りて、重い足取りで家までたどり着いて、私はベッドに突っ伏した。
泣いた。
枕がぐっしょり濡れたけど、もうどうでも良かった。
私が悪いのは分かってる。
真緒ちゃんにあんな失礼な態度を取ってしまったのは自分のせいだ。
自分の弱さのせいだ。
せっかくそれを変えたかったのに、もうそれもできなくなってしまったんだ。
いつのまにかインコが鞄から出てきて、私の顔のそばにいた。
耳たぶを噛む。
おまえ、ほんとにそれ好きだね。
「サツキキガエロ、サツキキガエロ」
「うるさいよ」
「ダラシナイ。キガエロ」
「わかったわよ」
私が起き上がって制服の上着を脱ぎ始めると、ピィちゃんはあわてて鞄の中に飛び込んだ。
あれ?
案外、恥ずかしがり屋なの?
「ちょっと、悠翔君、なに照れてるのよ」
ピピピィ。
鳥のフリしたってごまかせないからね。
「こっちが堂々と着替えてるんだから、あんたも好きなだけのぞいていいわよ」
インコがお尻だけ出してタオルに首をつっこんでいる。
「ちょっと、あたしの着替えなんか見たくないって言うの?」
「ミテナイ、ミエナイ」
タオルをどかすと、インコは目をつぶったまま首を振っていた。
私は両手でピィちゃんを包み込むと顔の前に持ってきた。
「覚悟しなさいよ」
くちばしに口づけすると、インコが悠翔君の姿になった。
「ちょっ、おまえ、馬鹿か」
悠翔君は真っ赤な顔をして、私から目を背ける。
私も急に恥ずかしくなった。
鳥だと平気なのに、男子高校生に見られるのはダメだ。
上着を脱いだだけで、ブラウスも着ているのに、なんだか恥ずかしい。
「ごめん、やっぱりあっち向いてて」
「だからそうしてたんじゃねえかよ」
悠翔君は素直に反対側を向いて頭にタオルをかぶった。
もうなんだか、今日は自分が馬鹿みたいなことばかりしていて、疲れてしまう。
私も悠翔君に背を向けて、ブラウスを脱いでTシャツをかぶる。
スカートを脱いでスウェットを履く。
髪の毛をまとめて頭の上でお団子にした。
部屋にいる時はいつもこんな感じだ。
「いいよ、もう」
私が声をかけると悠翔君がタオルを取って振り向いた。
妙に顔が赤い。
悠翔君の向こうの窓に広い背中が映っている。
「あ、あんた、ガラスに映った私の着替え見てたんでしょ」
「見てねえよ。あんな汚いガラスにはっきり映らねえよ。だいたい、なんか薄い下着きてたじゃんか」
「それを知ってるってことは見てたんじゃないの?」
「いちいちうるせえな。だいたい、俺が鳥の姿で顔を引っ込めてたのに、引っ張り出してわざわざ人間に変えたのはおまえだろ」
うん、まあ、確かにそうだ。
「見せつけようとしたり、見るなって言ったり、考えていることとやっていることがちぐはぐじゃねえかよ」
悠翔君の言うとおりだ。
「そんなんだから真緒にだって本当のことが言えなくて、あんな態度を取っちまうんじゃねえのか」
そう、その通りだ。
「おまえの本当の気持ちを正直に伝えればいいじゃないか」
それができればこんなことになってない。
「おまえはなんで自分の気持ちを素直に伝えられないんだ?」
わからない。
どうしてだろう。
こわい?
はずかしい?
自分でも分からない。
「まあ、どうせ、あいつだって、おまえとなんか友達になりたいなんて本当はこれっぽっちも思ってないんじゃないか」
やっぱりそうなのかな。
そうだよね。
私なんかと友達にならなくたって、他にも真緒ちゃんのまわりにはいろんな人がいるんだから。
悠翔君が怒った声で言った。
「なあ、なんか言えよ」
「あ、ごめん」
私はずっと自分の心の中で会話をしていた。
こういうのもいけないのかもしれない。
「なにから伝えればいいのかすら分からなくて、黙っちゃって、ごめんね」
「じゃあ、そう言えばいいじゃねえか」
「そんなの変じゃない?」
「べつに変じゃねえよ。黙ってる方が相手には嫌な印象を与えるだろ」
そうかな。
あ、また黙っちゃった。
「ごめんね。また黙っちゃった」
鳥にしかられてるんだな、私。
それよりも、悠翔君は今夜も私の部屋に泊まるんだろうか。
「ねえ、今日も私の部屋に泊まっていくの?」
「さっきまで鳥だったのに、おまえのせいで人間になっちまったんじゃないかよ」
「今まではどうしていたの? それより、家はどこ?」
悠翔君は視線をそらせてベッドに腰掛けると、ふっとため息をついた。
「家なんかねえよ」
「どうして?」
「俺はこの世の存在じゃないからだ」
またなんかわけが分からないことになった。
鳥になったり、この世の存在じゃなかったり。
「じゃあ、どういう存在なの?」
「分かりやすく言えば幽霊だ」
鳥で人間で幽霊?
「なぞなぞなら、答えはスフィンクス?」
「ちげえだろ、それ問題出した方だろ。『答えは人間』ってやつ」
「でも人間じゃなくて幽霊なんでしょ?」
「話をややこしくしてるのはおまえだろうが」
「存在がややこしいのはあなたでしょ」
「しょうがないだろ、実際、俺は俺なんだから」
それっきり悠翔君は黙り込んでしまった。
「ずるいよ。あんただって黙ってるじゃん」
「しょうがねえだろ。なにからしゃべったらいいのか分からないんだから」
「私が真緒ちゃんの前に出るとそうなるって気持ちが分かった?」
「分かったところで解決にはならないだろ」
「傷のなめあいってこと?」
私は悠翔君の隣に座りながら尋ねた。
「そんなことをしたって傷が治ることはない」
眉間にしわを寄せながら悠翔君がベッドに仰向けになった。
私はそのまま話を聞いていた。
「俺は昔、真緒に飼われていたインコだった。俺は鳥籠から逃げ出したんだ」
そうだったんだ。
「あいつが小学生の頃だったな。雛の時から飼われていて、よくなついていたんだ」
でも逃げ出した?
「あいつは学校から帰ってくると毎日鳥籠の掃除をしたり、野菜をくれたりしてさ。仲良く遊んでたんだ。掃除している間はあいつの頭とか肩に止まって耳たぶ噛んだりして楽しかったよ」
ちらっと振り向くと、悠翔君が微笑んでいた。
いい思い出を話す時の顔だ。
「ピィちゃんていうのは、その時の名前なの?」
「ああ。まだ覚えていたんだな、あいつ」
「さっき、その名前を聞いた時に嫌そうな顔してたけど、どうして?」
「おまえも鳥の表情が分かるんだな」
「なんとなくだけどね」
「あの名前にかかわる記憶は、いい思い出と嫌な思い出が半分ずつだからな」
そうか。
私はつい、かたわらにあった悠翔君の手に自分の手を重ねてしまった。
温かな手だった。
「あいつが鳥籠の掃除をしている時に、風が吹いたんだかなんだかで、急にどこかのドアがバタンと閉まったんだ。それで俺は驚いて羽ばたいたんだよ」
「それでどうなったの?」
「俺はリビングの中を一回りして廊下に出てしまったんだ。そしたら、ちょうどあいつのお母さんが買い物から帰ってきたところで、玄関から外に飛び出しちまったってわけさ。あとは、パニックになっちゃって、どこまで飛んだのかは覚えていないんだ。落ち着いた時には、家がどこかも分からなくなってた」
そうか、だからインコの悠翔君が教室から廊下に飛んでいったときに、真緒ちゃんはあんなに表情がこわばっていたんだ。
昔の悲しい記憶を呼び起こしてしまったんだろう。
「鳥っていうのは、驚いたらとにかく遠くに飛んで逃げるようになってるんだ。飛ぶ以外に防ぎようがないからな。それが本能なんだよ。気がついたらもうどこにいるのか分からなくなっていたんだ。いつも居心地のいい室内にいた俺にとって外の環境自体がまったく知らない異世界だったからな」
「真緒ちゃんも、探したんだろうね」
「ああ、でも、会えなかった。あいつも小さかったから、そんなに遠くまで行けなかったんだろうよ」
「それからどうなったの?」
「聞きたいか?」
うなずこうと思ったけど、悠翔君が言っていた言葉を思い出して、彼の手を握る手に力を込めてしまった。
『逃げ出した鳥が外の世界でどうなるか、知らない方がいいこともあるさ』
幽霊になっちゃったんだ。ということは……。
「まあ、そういうことだ」
悠翔君が私の手を握り返した。
「鳥籠から出た小鳥なんて、弱いもんだ。カラスに追われ、猫に襲われ、寒さに凍えてあっというまだ」
私には想像もつかないような恐怖だったんだろう。
ただ黙って悠翔君に手を握られているだけだった。
私にできることはそれだけだった。
「俺はあいつに会いたかった。もう一度会いたかった。だから、もどってきたんだ」
「幽霊として?」
悠翔君が手に力を込めた。
「俺はあいつに言いたかったんだ。嫌いだから逃げたわけじゃないって。本当はずっと一緒にいたかったんだ。ただ単純に驚いただけだったんだよ。本能ってやつで仕方がなかったんだ。でも、あいつはそれを知らないだろ。俺が鳥籠の中が嫌になって自由に空を羽ばたきたくて逃げたんだって思っちまったら、あいつずっと心の中に傷を抱えたままだろ。俺はそれが嫌だったんだ」
悠翔君は私の手を離して顔を覆った。
「まるで俺があいつのところにいたくなくて逃げたんじゃないかって思われるのが……、俺は嫌なんだ」
私もベッドに仰向けに倒れた。
悠翔君は肩を軽く上げて私から顔が見えないようにしていた。
「俺はあいつと一緒にいて楽しかった。自由になりたかったんじゃなくて、むしろびっくりして本能で逃げちまっただけ。飼い主のところに戻りたかったんだけど分からなくなっちまっただけなんだよ。翼さえなければ、俺はあいつのそばにずっといられたのによ。翼があるせいで、遠くまで羽ばたいちまっただけなんだ。本当はずっとそばにいたかった。それを伝えたくて、俺は生まれ変わって会いに来たんだ」
「うまく伝えられたの?」
悠翔君は返事をしなかった。
「言わなくていいの?」
やっぱり黙ったままだ。
私は起き上がって背中を向けている悠翔君の顔をのぞき込んだ。
ちょっと目が赤い。
からかうつもりはなかった。
でも、こんな時どうしてあげたらいいのか、私には分からなかった。
悠翔君の肩にそっと手をのせた。
悠翔君の体温はいつも心地いい。
「言ったら、俺は消えなくちゃならないんだ」
「どうして?」
「言うために戻ってきた。だから、言ったら、消えなくちゃならない。それが幽霊の定めだ」
そうなのか。
「あいつ、昔鳥籠につけていたおもちゃを今でも鞄にぶらさげてるだろ」
「うん。古そうなのを大事にしてたよね」
「あいつが俺のことを大事にしてくれていたのなら、俺もあいつのことを守ってやりたいんだ。姿はインコだけど、心は鷲なんだよ」
私は思わず吹き出しそうになって両手で口を押さえた。
「笑うなよ」
「笑ってないよ。ちょっとキュンときただけ」
「うそこけ。鼻水飛ばしたくせに」
「汚いな、もう。そんなことしてないし」
悠翔君もベッドの上に起き上がった。
「あいつさ、俺にはキスしないくせに、インコにはチューしやがった」
「自分自身に妬いてるの? 複雑だね」
今度は本当にちょっとだけ笑っちゃったから、露骨に嫌な顔をされた。
「悠翔君はイケメンなのに、真緒ちゃんは鳥の姿の方が好きなんだね」
「なんだよ、追い打ちかよ。背中からパンチするのかよ」
「違うよ、ほめてるんだよ。イケメンって」
「うれしくねえよ」
悠翔君は不機嫌そうに肩を回しながら首を振った。
気づいてほしかったな。
私の告白だって。
ちょっと残念。
本当に背中をパンチしてやる。
「おい、何すんだよ」
「嫉妬には嫉妬攻撃」
「意味分かんねえし」
今度は背中を撫でてあげた。
びっくりしたような顔で私を見ている。
何となく、接し方が分かってきたような気がする。
「そのまんまインコの姿だけで戻ってくれば良かったんじゃないの? なんで姿が変わっちゃったんだろうね」
「知らねえよ。生まれ変わったらこんなふうに人間の姿になっていたんだからよ」
「インコだったらチューしてただろうけど、男子高校生相手じゃ無理だよね」
「なんでだよ」
「人間同士だと気軽にキスなんかしないでしょ」
「俺とおまえはしてるじゃん」
「無理矢理してるくせに。そういうの、本当はいけないんだよ」
「そうなのか」
「そうだよ」
あ!
真顔の悠翔君にだまされそうになる。
「本当は知ってるんでしょ」
「知らねえよ」
「だって、私にしたみたいに真緒ちゃんに迫って無理矢理キスすればいいじゃない」
悠翔君が顔を赤くして黙り込む。
ほら、やっぱり、分かってるんじゃん。
「ずるい男。サイテー」
「ちげえよ。したら鳥の姿になってバレるからだよ」
ま、半分くらいはその通りか。
「それにさ……」
「なに?」
「あいつの知ってるユウトと俺は別の悠翔だろ」
なんだか難しそうなことを言ってるけど、中身が違うってことになるのか。
中学からの同級生の男の子。
インコが生まれ変わった男の子。
まあ、確かに違うか。
外側だけ同じだから面倒なことになるんだね。
「そもそもあいつがキスしたいのはインコだろ。悠翔じゃないんだよ。だから、悠翔の俺が勝手にしちゃいけないんだよ」
それって、悠翔君にとってはものすごく寂しいことなんじゃないだろうか。
「ねえ、つらくないの?」
「なにが」
「正体を明かして真緒ちゃんのそばにいられないこと」
「べつに、それでそばにいられるならそれでいいさ。インコだろうと悠翔だろうと、俺は俺で、俺にとっては本物の気持ちなんだから」
「複雑だね」
「なあ、人を好きになるのって、単純なものなのか」
私は答えられなかった。
そんなふうに本気で人を好きになったことがないからだ。
恋にあこがれはある。
でも、何もかも投げ出して自分のすべてを捧げてもいいと思えるような恋をしたことがない。
そんな相手はいなかった。
恋人どころか、同性の友達だってあやふやなくらいだ。
私は相手に飛び込んでいくことなんてできないんだ。
「いつか、自分の正体を告白するの?」
「さあな。今はその時が来ることの方が怖いよ。終わりの瞬間だろ。だから、正体がばれないように必死だよ」
「チューされてたら、インコの姿になって気づいてもらえたのにね。今朝の教室は逆だったもんね」
「だから、いいんだよ、それで。されたら終わりだ。だからサツキとする」
ハァ?
何それ。
「なんかものすごく失礼なんですけど。他人の代わり?」
「ちげえよ。鈍感女」
「なによ、くすぐられたらビクッてするよ」
アウッ。
脇腹つつくのやめてよ。
「やめてよ、エッチ」
悠翔君が真面目な顔になってため息をついた。
「おまえさ、明日、学校で真緒に本当の気持ちを伝えろよ」
無理だ。こわい。
もういまさら仲直りなんかできない。
悠翔君に手をつかまれた。
ビクッとして手を引っ込めようとしたけど逃がしてはくれなかった。
低い男子の声で私の目を見つめながら話している。
「おまえは俺と違うんだから、むしろちゃんと伝えて仲直りしなくちゃいけないだろ。おまえが悪いんだから、おまえが謝るべきだろ。それでののしられても、おまえの責任だから仕方がないだろ」
「真緒ちゃんはそんなこと言わないよ」
「友達でもないのに、なんでそんなにかばおうとするんだよ」
「今はそうじゃなくても、これから友達になりたいから」
「だから、それは俺じゃなくて、あいつに言えよ。それだけあいつのことを大事に思いたいなら、ちゃんと態度と言葉で示せよ」
頭では分かってる。
もちろん私が悪い。
でもこわい。
「なあ、おまえさ、真緒のこと誤解してるだろ」
誤解?
「あいつ見た目はおしゃれだし、交友関係も広いから誤解されやすいけど、けっこう繊細なんだぞ。俺の知ってる昔のあいつは傷つきやすくて、もろくて……」
悠翔君は言葉を切ってしまった。
微妙な沈黙が流れる。
「そんなふうには見えないけどな」
「だからさ、人間の中身は見えないだろ。当たり前のことだよ。でも、それを見てやるのが本当の友達ってもんだろ」
うん、そうだ。
「あいつさ、俺が鳥だった頃、よく俺に話しかけてたんだよ」
ペット屋さんで自分も小鳥に話しかけていたことを思い出して顔が熱くなる。
小鳥ってどうして話し相手にしたくなるんだろう。
「クラスの子と友達になりたいとか、ケンカしたけど仲直りしたいとか、おまえみたいな愚痴をよく聞かされたもんだよ」
「え、そうなの?」
「意外だろ」
うん。
ちょっと乙女なところもあるんだ。
「作り話?」
「なわけないだろ」
悠翔君はふふっと笑い始めた。
「あのさ、明日でも、いつでもいいからさ、あいつと仲直りしたら聞いてみろよ。あいつ小さい頃自分で髪の毛をまとめてから必ず俺にきれいかって聞いてたんだぞ」
「そうなんだ」
「おれがピピィッて鳴いてやるとにっこり笑って学校に出かけてたんだ」
悠翔君が遠い目をしながら思い出を語っている。
疑ってごめんね。
本当にかわいがってもらってたんだね。
悠翔君も真緒ちゃんが大好きだったんだね。
私は握られていた悠翔君の手を握りかえした。
今度は悠翔君の肩がビクッと震えた。
「ねえ、私、明日ちゃんと真緒ちゃんに謝るよ。許してもらえるか分からないけど、ちゃんと謝るよ」
「そうか」
悠翔君がうなずいてくれる。
手から伝わる体温が心を温めてくれる。
大丈夫って言ってくれている。
悠翔君は真緒ちゃんのことをよく知っているからだ。
私は悠翔君の肩に頭を載せた。
せっかくだからちょっとくらい甘えさせてよ。
ちょっと安心して、ふと思い出した。
「フライドチキン食べるの忘れてた」
悠翔君があきれ顔でつぶやく。
「この流れで、それを言うかよ」
「それとこれとは別。鳥だからって関係ない」
「俺の前でそんな物を食う度胸があるなら、もう逃げるなよ」
「うん、逃げない」
「なんだよ、素直だな」
うん。素直だよ。
「じゃあ、おやすみ」
私は悠翔君に口づけた。
びっくりした顔のまま悠翔君はインコの姿になった。
「夜中にキスして人間の姿になっちゃだめだよ」
枕元のライトを消すと暗闇の中でピピィと鳴き声がした。
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