第三章 インコと彼氏と水曜日
翌朝、学校に着くと、まだ木崎君も真緒ちゃんも来ていなかった。
私が席についてまもなく木崎君が入ってきた。
誰にも挨拶をしないで、私の二つ前の席に座る。
それっきり机に突っ伏して寝てしまう。
私の存在などまったく気にもしていないかのようだけど、それは仕方のないことだ。
まるで接点がないのだから。
予鈴が鳴ったタイミングで、真緒ちゃんがまた三人組で教室に入ってきた。
地元だから、待ち合わせて一緒に登校しているんだろう。
コンビニで買ってきたお菓子の袋をぶら下げている。
木崎君の席の横を通る時に、真緒ちゃんはコンビニ袋をわざと頭の上に載せて「起きな、ユウト」と声をかけた。
ゆっくりと頭を上げた木崎君が面倒くさそうにコンビニ袋を払いのけて、一言「うす」と挨拶した。
おそらく中学時代からの二人の間のお約束なんだろう。
やっぱりうらやましい。そこに私の入る隙間はない。
と、次の瞬間、「友永さん、おはよう」と真緒ちゃんが挨拶してくれた。
私はとっさに言葉が出なかった。
昨日と変わらず挨拶をしてくれた。
その事実に驚いて喉が詰まってしまったのだ。
うなずくのが精一杯だった。
ものすごく失礼で偉そうな態度だ。
本当はこんな返事をしたいんじゃない。
でも、真緒ちゃんは気にもしない様子で前の席に座ってしまった。
ふつうに挨拶をしてくれた。
昨日、ショッピングモールのフードコートで私のことを無視したんじゃなかったんだろうか。
ただ単純に気がつかなかっただけなのかもしれない。
帰りの電車で、無視しかえしてやろうなんて思った自分が恥ずかしくなってしまった。
気にしてないからと言われたけど、気にしてもらえるように努力をしなくちゃいつまでも振り向いてもらえない。
挨拶くらいちゃんと返せるようにしなくちゃ。
入学して二日目。
今日は身体測定と体力測定がおこなわれる日だった。
ホームルームの後、更衣室で着替えて体育館に集合する。
真緒ちゃんはジャージ姿もやっぱり素敵だ。
中学の時に何か運動をしていたんだろうか。
肌は白いのに、体が絞られている。
室内競技かなと、そんな想像をした。
木崎君はすらりと背が高くて見た目は悪くないのに、やっぱりポケットに手を突っ込んで背中を丸めてやる気のなさそうな態度を見せていた。
なんだか近寄りがたい雰囲気を醸し出していて、男子の友達はいないみたいだ。
何かと真緒ちゃんが声をかけてあげているのに、返事をするのも面倒くさそうだ。
クラスごとに別れて順番に種目をこなしていく。
運動能力測定は外のグラウンドでも長距離走やハンドボール投げなどがあって移動するだけでもいそがしい。
途中に保健室で身長体重測定もある。
胸囲は……。
まあ、いいや。
ここだけは異次元の世界に迷い込んで成長が止まったのです。
いつもと変わらない。
記憶から消そう。
真緒ちゃんはどの運動競技も上手だった。ハンドボールを投げれば歓声が上がるし、反復横跳びですらみんなの応援に包まれる。
胴長短足の自分の動きと比べてしまう。
私は運動なんてしていないから仕方がないけど、それにしても違いがありすぎる。
長距離走のタイム測定は男子が見ている前で走らなければならなかった。
真緒ちゃんはグイグイ先頭を引っ張っていく。
私は後ろから数えた方が早い位置で、完走するのが精一杯だった。
木崎君が真緒ちゃんを見ている。
でも、すぐ近くを通過する時は興味のなさそうな顔になって知らんぷりをしていた。
やっぱり意識しているのかと、ちょっとおもしろくて、息は苦しいのに気分が軽くなった。
今日も学校は午前中までで終わりだった。
ホームルームが終わると真緒ちゃんが立ち上がって、友達に声をかけていた。
三人そろったタイミングで、私にも声をかけてくれた。
「じゃ、友永さんも、また明日ね」
「あ、うん」
私はなんとか声を振り絞って返事をした。
でも、ちゃんと、さようならとは言えなかった。
せっかく声をかけてくれるのを待っていたのに、一歩を踏み出せない自分がもどかしい。
泣きたくなってしまう。
「ユウトはどうすんの?」
「べつに」
真緒ちゃんの問いかけに木崎君は相変わらず無愛想に応じるだけだ。
「じゃあね」
「うっす」
軽く右手を挙げるだけで視線を合わせようともしない。
真緒ちゃんは苦笑しながら三人で教室を出て行った。
私の態度も失礼だけど、木崎君も相当なものだ。
それでも毎回声をかけてあげる真緒ちゃんはよっぽど優しい子なんだなと思った。
あんなふうに気軽に声をかけられる子になりたかった。
スマホには中学時代の友達からのグループメッセージやタイムラインが次々と流れてきていた。
みんなはさっそく学校にも溶け込んで楽しくやっているみたいだった。
中学時代の仲間と同じクラスになったとか、イケメンの先輩から部活の勧誘を受けたとか、放課後の寄り道もみんなでわいわい楽しそうだ。
一人で本屋に行こうなんて思ってるのは私だけだった。
もちろん、私からそんなつまらないメッセージを送信できるわけがなかった。
スマホに一方通行の通知が溜まっていく。
ふと見るといつの間にか木崎君はいなくなっていた。
あれ、ついさっきまで席に座っているのを見たような気がしたのに。
ほとんどの生徒がいなくなってから、私は一人でゆっくりと立ち上がって鞄を肩にかけた。
べつに急いでいるわけでもないし、誰かと待ち合わせているわけでもない。
人の気配の絶えた廊下を歩いていたら、鳥の鳴き声が聞こえた。
これからまたペットショップへ行こうと思っていたからそんな空耳が聞こえてしまったのかと思った。
違う。
いる。
確かに聞こえる。
昨日鳥籠の中のインコと話した時に聞こえたピピッとかクグッという鳴き声だ。
私は立ち止まって辺りを見回した。
廊下には誰もいない。
一年生の教室の中にはまだ人が残っているけど、もちろんそんなところに鳥がいる気配はない。
窓の外を見てもインコどころか雀も飛んでいない。
廊下の端の階段まで来ても、まだ鳴き声が聞こえてきた。
上級生のクラスは通常授業がおこなわれていたから生徒がたくさんいて、鳥が紛れ込んでいたら逆に大騒ぎになっているだろう。
でも、階段の上も下もしんと静まりかえっている。
そもそも鳴き声は遠くからではなかった。
すぐ近くだ。
まるで私の肩に止まっているんじゃないかというくらい近くで聞こえたのだ。
ピピュイ。
間違いない。
私は階段の途中で立ち止まって、肩にかけた鞄の中を見た。
私の体操服にくるまってインコが顔を出していた。
「ちょっと、なんなの」
思わず声に出してしまっていた。
鞄の中にインコがいる。
かわいらしい表情で布の中から顔だけ出して私を見つめながら首をかしげている。
動いている。
ぬいぐるみじゃない。
間違いなく生きたインコだ。
いや、おかしいでしょ。
なんで私の鞄の中にいるのよ。
まさか、昨日のペットショップから紛れて連れてきてしまったとか?
いや、そんなはずはない。
昨日家に帰って鞄を開けたし、今日だって着替えた時には鳥なんかいなかった。
体操服を脱いで鞄に入れた時もインコなんかいなかった。
学校の廊下でまさかこんなことになるなんて予想もしなかった。
おまえはどこから来たの?
指を出すと、ちょっと乱暴な感じでつつかれてびっくりしてしまった。
昨日のペットショップのインコとは大違いだ。
同じ鳥でも、やっぱり性格の違いがあるんだろうか。
最初は顔だけ出していたのが、指に食いついて、だんだんと体操服から出てきた。
色も昨日は水色の雄だったけど、今日のは黄色い背で緑色の腹の雄だった。
鼻が青いからたぶん雄だろう。
もう一度指を出すと、今度は少し強めに連続して噛みついてくる。
昨日のインコはもっと優しかったのに。
なんだか、いろいろ比べてしまって悪いような気がして少しインコの遊びにつきあってあげることにした。
だんだん慣れてきたのか少しずつ指を噛んだりつついたりする感触が穏やかになっていく。
それにしてもこれはいったいどうしたらいいんだろうか。
今からショッピングモールに行こうとしていたから、ペット屋さんに返しに行くのは問題がない。
でも、万引きして連れて帰っちゃったと勘違いされたら、うまく説明できそうにない。
どうしよう。
「ねえ、おまえ、どうしたらいいの?」
私は階段の途中でインコに顔を近づけて問いかけた。
その途端、インコが翼を広げて羽ばたき始めた。
逃げられたら大変なことになる。
私はとっさに鞄を閉じようとした。
その手をインコがつつく。ちょっと痛いじゃないよ。
思わず手を引っ込めると、今度は羽ばたいたインコが私の顔につっこんできた。
思わず目を閉じる。
一昨日からある鼻の横のニキビをつつかれたような気がしたけど、気が動転してしまってなんだかよく分からないうちに、私は階段から落っこちていた。
「大丈夫か、おまえ。派手に転んでたけど」
え?
誰かいるの?
目を開けるとどうやら階段の踊り場にいるらしい。
私は座り込んでいた。
鞄が下敷きになって背中と腰は打たなくて済んだようだ。
でも、逆にそれがソリになって滑っちゃったって事か。
運が良かったのかどうかよく分からない。
だんだん状況がつかめてきて、ようやく目の前に男の子の脚があるのに気づいた。
顔を上げると窓の光を背にしてこちらを見下ろしていた。
まぶしくて相手の表情は分からない。
声に聞き覚えがある。
腰をかがめながらその男の子が近づいてきて光が遮られた。
ようやく相手の顔が分かった。
あ、木崎君だ。
「おまえ、足閉じろよ。丸見えだぞ」
へっ?
丸見え?
あたしはあわててスカートを押さえる。
で、気がついた。
「あたし、下に短パンはいてるんだけど」
「短パンだったら足広げててもいいってのかよ」
「だって、そもそも見られてもいいようにはいてるんだし」
「そんなもん見せられるこっちの身にもなれよ」
「そんなもんってどういうことよ。短パンなんて、体育の時にふつうにはいてるじゃん。今日の体力測定でもはいてたし。スカートの中身が見えたらいけないって言うのなら、なんならスカート脱いで短パンだけになればいいっていうの? 何よ、ヘンタイ!」
「うるせえよ、落ち着けよ」
腕を捕まれて無理矢理立たされた。
階段の壁に押しつけられる。
顔が近づく。
イケメンに見つめられて顔が熱くなる。
何このシチュエーション。
私、頭打って夢でも見ているの?
「うるさいこと言ってると耳たぶ噛むぞ」
えっ?
耳たぶ?
噛む?
何言ってるの?
理解できなくて黙っていたら、私がおとなしくなったせいか、彼は一歩後ろに下がって私を上から下まで眺め回した。
「もったいないな」
「何が?」
「けっこうかわいいのにさ」
は?
「スカートまだめくれてるぞ」
私はあわててスカートを直した。
あ、だから短パンはいてるんだってば。
木崎君がにやりと笑う。
「何よ?」
「スカート押さえて恥じらう姿がなかなかのもんだなって」
「ヘンタイ、キモイ」
「女として認めてやってるんだ、感謝しろよ」
「うれしくないし。セクハラで訴えるよ」
またニヤリとする。
なんなのよ、この男。
「少しは威勢が良くなったじゃないか」
は?
「さっきまでしょんぼりしてただろ」
「さっきっていつ?」
「廊下を歩いていたとき」
なんで知ってるの?
「え、見てたの?」
「いたじゃん、俺」
「いなかったよね」
「いたよ。その鞄の中に」
鞄の中?
何言ってるの?
この人、変なの?
「私の聞き間違い? 鞄って言った?」
「ああ、だから、その鞄の中。体操服にくるまってただろ」
体操服にくるまっていた?
……あ。
私は鞄の中のインコがいなくなっていることに気がついた。
あれ、インコは?
どこに行っちゃったんだろう。
階段から落ちたときに逃げてしまったんだろうか。
「ねえ、インコがいなかった?」
「いるよ」
「どこに?」
「ここに」
え、どこ?
インコの姿は見えない。
「だから、ここにいるだろ」
「ねえ、意地悪しないで、教えてよ。はやくつかまえなくちゃ。騒ぎになっちゃう」
「あのさ、だから俺だって」
悠翔君が右肩を上げながら頭をかく。
昨日ペット屋さんで見たオウムの動きにそっくりだ。
俺って……。
何を言ってるの?
「だからさ、俺がインコなんだって」
ああ……。
イケメンなのに残念な人だった。
私の人生で初めてのイケメンは残念な人でした。
インコって……。
馬鹿じゃないのと叫びそうになるのをぐっとこらえて、私は愛想笑いを浮かべた。
精一杯の思いやりのつもりだった。
変な話につきあわされてしまって、なんだかお腹が痛くなってきた。
「あ、私、帰るね」
「おい」
木崎君が私の肩に手をかける。
食い込みそうなほどがっちりとつかまれた。
「おまえ、信じてないだろ」
「そんなことないよ」と思わず目が泳いでしまう。
「おまえの鞄の中にいたインコが俺だったんだよ。おまえの体操服の中にくるまって休んでたんだ。さっきおまえに見つかったから、ニキビつついてやったろ」
まるで見ていたかのようなことを言っている。
インコとか言って、信じさせて、後でからかうつもりなんだ。
「見てたんでしょ」
「だから、見てたとかじゃなくて、当事者だって。俺がニキビをつぶしたんだって」
こういうときってどういう返事をしたらいいんだろう。
相手に合わせてノッてあげるべきなんだろうか。
イケメンだからまだ話を聞いてあげられるけど、ブサイクだったらグーで殴っちゃってるかもしれない。
私はカマをかけてみた。
「体操服、汗臭かったでしょ」
「そんなの気にしてもしょうがないだろ。今のおまえの方が汗まみれじゃん」
言われるまで気がつかなかったけど、木崎君と二人で話しているうちに私は汗をかいていた。
それはそうだ。
男子と二人きりで会話するなんて、私の人生の中ではほとんどなかったことだ。
しかも、残念要素満載だけど、いちおうイケメンだし。
「それにさ……」
木崎君が視線をそらす。
「けっこう落ち着く香りだったぞ」
うわ、やめて。
「キモイ」
「なんだよ。ほめたんだぞ」
「ほめられてないよ。なにそれ、落ち着く香りって」
「あのさ、鳥にも人間と同じくらいの嗅覚はあるんだぞ」
そんな説明されたって、納得できるわけないでしょ。
「人の汗のにおいかいで落ち着くって、もろヘンタイじゃない。がっかりイケメンじゃん」
「おまえだって俺のこと今イケメンって認めたじゃん」
「キモイって言ってるの」
私はこれ以上彼と話をしているのがイヤだったから、勝手に歩き始めた。
今度は踏み外さないように一段一段注意しながら下りる。
彼も軽やかな足取りでついてくる。
え、なんで?
「どうしてついてくるのよ」
「俺も帰るから」
昇降口まで来て、靴を履き替えて外に出ると、やっぱり木崎君は並んで歩いている。
「ついて来ないでよ」
「俺の帰り道もこっちだから」
私は今日もショッピングモールに買い物に行くつもりだったから、自分の通学路線とは反対のJR側へ向かおうとした。
「おまえの家、こっちなのか?」
「ショッピングモールに買い物に行こうと思って」
二人並んで歩いていると、本当にデートしているみたいな気分になる。
顔だけ見ているとイケメンだから、心の中ではけっこう動揺していた。
せっかくだから、少し彼のことを聞いてみようと思った。
「木崎君」
「ユウトでいいよ」
「無理」
「なんで」
「親しくもない男の子のこと、名前で呼べないよ」
「もう俺の秘密知ってるじゃん」
秘密?
ああ、鳥っていう設定ね。
まだ言ってるんだ。
イマイチおもしろくないイケメンなんだな。
残念。
「おまえ、照れてるの?」
「べつに」
「俺のこと、好きなの?」
「まさか、そんなことあるわけないでしょ」
「顔に書いてあるぞ」
そんなベタな恋愛小説みたいなセリフ、ごまかされないから。
「なんて書いてあるの?」
「おでこに汗かいてる。おまえ図星で焦るとおでこに汗かくだろ」
「そ、そんなことないし」
私は自分のおでこを触ってみた。
確かにじんわりと汗をかいて前髪がはりついている。
さっき階段で話していたときもそうだったから、ごまかしようがないか。
一応イケメンだから、並んで歩いていると緊張してしまう。
悠翔君が舌打ちをする。
「気づけよ」
「何を?」
「『書いてある』と汗を『かく』がかけてあるだろ」
「え、ダジャレ?」
ガッカリ度二倍増し。
自称鳥人間にオヤジギャグ好き。
乙女の期待と緊張をどうしてくれるのよ。
何とも言えないもやもやした気持ちを抱えながらショッピングモールまで来てしまった。
ペット屋さんでは、今日もオウムがお客さんを出迎えている。
羽を広げて首をかしげながら頭をかく仕草がやっぱり悠翔君そっくりだ。
「ねえ、悠翔君」
「なんだよ」
「悠翔君って、オウムとかインコに似てるよね」
「だから鳥だって言ってるだろ」
やっぱり設定じゃなくて、本当だと言い張ってる。
「ねえ、その設定って、右手に封印された魔力とかそういうやつ?」
「はあ? 何言ってんのおまえ」
イケメンにあきれられるとけっこうダメージを食らう。
でも、そのセリフはこっちもお返ししたい。
「だって、ふつう、自分のことを鳥だなんて主張しないでしょ」
「しょうがねえだろ。普通じゃねえし、事実なんだから」
悠翔君はお店の中に入ってまっすぐに鳥のコーナーに向かって歩いていく。
私も黙ってついていった。
せっかく二度も『悠翔君』と呼んであげたのに、気づいてくれていないのが残念だった。
下の名前で呼べって言ったのはあんたでしょうよ。
私は心の中でイケメンに悪態をついていた。
昨日私の指を噛んでいた水色のインコが今日も顔を突き出しておねだりをしてくれる。
私が指を出すと、優しく噛んでくれた。
さっきの自称インコの悠翔君の荒っぽさとは全然違う。
「この子すごくカワイイでしょ。鳥籠から出して自由にしてあげたいよね」
私の言葉に悠翔君は首を振った。
「鳥籠っていうのは、檻じゃないぜ」
「じゃあ、何?」
「外界の敵から守ってくれる大事なものでもあるんだ。この中にいる限り、猫に襲われても大丈夫だろ。小鳥っていうのは飛んで逃げる以外に防ぐ力はないからな。でも、空には別のカラスみたいな敵もいる。決して大空が自由というわけじゃない」
そうか。
それは確かにそうだ。
「居心地のいい鳥籠っていうのは、鳥にとっては家みたいなものだ。べつに不自由の象徴ってわけじゃないさ」
私は悠翔君の言葉に自然に引き寄せられていた。
鳥のことを話すときの悠翔君の表情にも……。
「逃げ出した鳥が外の世界でどうなるか、知らない方がいいこともあるさ」
急に重たい話をし始めたと思うと、悠翔君がインコに指をさしだした。
さっきまで私の指を噛んでいたインコが悠翔君の指を激しくつつく。
まるで敵対意識を持っているかのようなつつき方で私は思わず「あ、あぶない」と叫びそうになってしまった。
でも、次の瞬間、私は言葉を失ってしまった。
鳥だ。
鳥になっていたのだ。
悠翔君は黄色いインコの姿に変わって私の手に止まっていたのだ。
学校の廊下で見たインコだった。
『俺は鳥だ』
悠翔君の言葉は本当だったのだ。
でも、この状況はとんでもなくまずい。
どう見ても、私が勝手に鳥籠から売り物のインコを出してしまったようにしか見えない。
万引きと間違えられたら言い訳なんかできない。
悠翔君のあり得ない話が本当だったことと、この状況のせいでお腹まで痛くなってきてしまった。
「サツキ」
悠翔君が鳥の姿でしゃべる。
「ちょっと、ここでそんな姿になったら困るでしょうよ。どうするのよ」
「サツキトイッショ。カエル」
「そんなの無理に決まってるでしょ」
悠翔君は私の手から勝手に鞄に跳び込んで体操服の中に潜り込もうとする。
もう、どうしたらいいのよ。
ああ、もう、お腹も痛いし。
どうしようもなくて、私はいったんお店の外に出た。
「ねえ、お腹痛いから、どこかで飛んでて」
「カラスコワイ。ネココワイ」
「トイレに行きたいのよ。どこかで隠れてじっとしてれば大丈夫よ」
「サツキトイッショ。サツキトイッショ」
「女子トイレをのぞきたい変態インコ。あなたなんかインコじゃなくてウン……」
つい勢いで下品なことを言いそうになって、ばちが当たったのかもしれない。
息が苦しくなるくらいおなかに痛みが走る。
もう限界だ。
「ねえ、お願い。もう我慢できないのよ」
私はまたペットショップに入って、鳥の餌が並んでいる商品棚にインコ姿の悠翔君を置いた。
体を丸めて首を縮めながら私を見上げている。
「マッテル。ココデマッテル」
「ごめんね。すぐもどるから」
私はお店を出てショッピングモールに入ると入り口横のトイレに駆け込んだ。
幸いセーフだった。
やっと少し落ち着いた。
でも、変な汗をかいてしまっていた。
鞄からタオルを出して拭いたけど、おでこがベタベタしていて気持ち悪い。
手を洗うついでに顔も少し洗った。
鏡の中の自分は頬が赤い。
悠翔君に恥ずかしい姿を見せてしまった。
トイレからもどって、「スッキリしたか」なんて聞かれたらどうしよう。
顔を合わせたくない。
でも、店内に放っておくわけにもいかない。
ペットショップで他の誰かに売られてしまったら大変だ。
髪も少し乱れていたけど、あまり待たせてはいけないと思ってペット屋さんにもどってみた。
あれ?
お店の外に悠翔君がいた。
人間の姿にもどっていた。
「どうしたの。姿がもどってるね」
「ペット屋で籠から逃げたかと間違われて騒ぎになりかけてさ。焦って逃げてたら、人間の姿になってた」
私はもう悠翔君のことを疑ってはいなかった。
むしろ、事情を確かめた方がいいと思うようになっていた。
「あわてたりすると姿が変わるのかな」
「さあ、どうだろうな。自分でも分からねえよ」
鞄を肩越しに背負って悠翔君が歩き出す。
「おまえさ、何か用事あるんじゃないの?」
悠翔君はトイレのことは話題にしなかった。
もしかして女子の羞恥心に気をつかってくれているんだろうか。
それとも記憶力がないんだろうか。
鳥だから。
三歩歩くと忘れるのはニワトリだっけ?
「私、本屋に寄りたかったんだけど……」
「じゃあ、行こうぜ」
そう言われても、正直困る。
自分が読む本を人に見られるのは恥ずかしい。
まして、それがイケメン男子ならなおさらだ。
鳥だけど。
いちいち、「おまえこんなの読むの」とか、「その犯人、執事だから」とか、横から口を出されたくない。
でも、本屋の前まで来ると悠翔君はわざと興味のなさそうな素振りを見せて言った。
「俺、適当に雑誌でも見てるから、好きなの見てこいよ。べつに時間とか気にしなくていいし」
「あ、ありがとう」
やっぱり気をつかってくれているんだ。
ちょっと意外な感じで、案外いい人なのかもって見直した。
鳥だけど。
でも、なんで待ってるのが当たり前みたいな話になってるんだろう。
べつに私たち一緒ってわけでもないでしょうに。
まあ、一応同級生なんだし、あんまり冷たい態度をとるのも失礼かと思って、とりあえず気遣いを素直に受け取ることにした。
鳥だって言われたときはガッカリイケメンだと思ったけど、本当に鳥なんだと分かったとたんに彼のことを受け入れてしまっている自分のことがおかしかった。
ちょっと変わった人という程度で、高校に入学して初めてできた友達であることにかわりはないのだ。
しかも見た目はイケメンだし、インコの姿の時もけっこうかわいらしい。
ちょっと気性は荒そうだけど。
私は楽しみにしていたラノベの新刊をいくつか見て回った。
書棚の間を巡りながら私は浮かれていた。
店内の鏡に映った自分の顔があまりにもゆるんでいて恥ずかしかった。
書店で同じ本に手を伸ばして始まる恋とか、そんな出会いを妄想したこともある。
イケメン男子と放課後デートなんて私の人生では考えられないことだと思っていたのに、いきなりそんなチャンスが巡ってきた。
インコだけど。
でも、むしろ鳥だからこそ、私は安心していられるんだろう。
これが鳥じゃなくて本物のイケメンだったら、顔から火を噴いて今頃溶けて無くなってると思う。
べつにモテない系女子というわけではない。
実は私は中学の時に、クラスで一番人気のあった男子に呼び出されたことがある。
その時は自分の好みではなかったので断ってしまった。
ただ、それが元で嫌な出来事もあったから、今では黒歴史として封印してあるのだ。
悠翔君が鳥で良かったなんて、変なことを思った自分のことがおかしくてつい本を選びながら笑ってしまった。
「なんだよ、おもしろい本でもあったのか?」
いきなり悠翔君が隣に立って私の手元をのぞき込んでいた。
ちょうど新刊『恋の空模様は俺様次第 ドSカレシの溺愛天気予報』を手にしていたところだった。
「え、雑誌見てたんじゃないの」
「うん、でも、おまえのことが気になってさ。どんな本読むのかなとか」
さっきの彼の言葉を信じていた自分が馬鹿だった。
油断しすぎた。
こんなコテコテの溺愛系恋愛小説を読んでいるなんて明日学校で言いふらされたら終わりだ。
「なんでこんなところにいるのよ。私、本を読む時は一人がいいの」
「悪かったな。ちょっと気になったんだよ」
「べつに私が何を読んだっていいでしょ」
うん、と静かに彼はうなずいた。
「怒るなよ。ただ気になっただけだって言ってるだろ」
「知られたくないの、誰にも」
「なんで?」
「なんでって、恥ずかしいし、それに、よく知らない人に『分かる』とか言われたくないから」
「言わねえよ」
「だったら、見なくたっていいじゃない」
「悪かったよ。おまえのことが知りたかったんだけどさ」
おまえのことが知りたい。
なんで?
私みたいな女の子のことを知ってどうするの?
でもそれを言葉にすることはできなかった。
私が混乱して黙っている間に、悠翔君はポケットに手を突っ込みながら私に背中を見せて本屋さんから出ていってしまった。
私はあわてて追いかけた。
「どこ行くの?」
こっちを向かずにずんずん進んでいってしまう。
「べつにその辺ふらふらしてるだけだよ。いると邪魔なんだろ」
「べつにそんなこと言ってない」
脚が長いから、歩くのも速い。
早足でも追いつけない。
「なんなんだよ。近寄るなって言ったり、行くなって言ったり」
「ごめん」
私もわがままを言いすぎたと反省した。
「違うの、ゴメンね」
「何が違うのか分からねえよ。面倒くせえな」
私は悠翔君のシャツの袖を引っ張った。
やっと彼が立ち止まる。
でも振り向いてくれない。
「俺さ、分からねえんだよ、鳥だから」
ああ、そうか。
そうなんだ。
鳥なんだ。
だからお互いにわかりにくい部分があるんだ。
だからこそ、お互いにそれを伝えあっていかなくちゃいけないんだ。
言われてみれば確かにその通りだった。
気がつかなかった私も悪い。
私は少し反省した。
自分の都合ばかり言って相手に押しつけていたんだってやっと気がついた。
あれ、でも、なんで私が鳥に遠慮しなくちゃいけないのよ。
そもそも押しかけてきたのはそっちじゃないの。
でも私は悠翔君と仲直りがしたかった。
彼を怒らせたままでは嫌だった。
今の私にできることはとりあえず謝ることだった。
「ねえ、ごめん。私も悪かったから。ね、怒らないで。お願い」
あれ、涙が出て来ちゃった。
私、ものすごく格好悪い。
悠翔君が振り向いて私の手を引っ張る。
ぐいぐい引っ張って通路の端の非常口扉のところまでやってきた。
「泣くなよ。耳たぶ噛むぞ」
「泣きたくて泣いてるわけじゃないよ」
「じゃあ、なんだよ」
「私にも分からないよ」
「ほら、拭けよ」
悠翔君はポケットからぐしゃぐしゃに丸まったハンカチを出して私にくれた。
「何これ、汚いハンカチ」
「うるせえな、いちいち」
「自分の出すからいいよ」
「素直じゃねえなあ」
うん、そうだ。
私、素直じゃない。
悠翔君だって、私のところにいたくているんじゃないんだろう。
何かの事情で姿が変わってたまたま私の鞄の中に入ってしまったんだろう。
彼だって何がなんだか分からなくて困っているのかもしれない。
だから、私の方だって気をつかってあげなくちゃいけないのに。
分かってるけど、でも、素直になれないのはなんでなんだろう。
「おまえ、俺に甘えてるの?」
「はあ?」
そんなわけないじゃんって言おうとしたけど、彼の言うとおりだった。
私は彼に甘えている。
素直にそれを認めたくないんだ。
こんな私と一緒にいてくれる彼の優しさに甘えているんだ。
悠翔君に手を握られたままだった。
男の子の手は固い感触なのかと思ってたけど、大きくて柔らかい。
私に合わせて握る力を加減してくれているんだ。
そんな何気ない優しさもずるいなって思った。
泣いたせいか少しお腹が空いた。
そういえばお昼ご飯もまだだった。
「ねえ、お腹空いた」
「今度は食い気かよ」
「女子はね、泣くとお腹が空くの」
「女って自分に都合のいい理屈ばっかり言うよな」
「男の方が屁理屈でごまかすじゃない」
悠翔君が鼻で笑う。
「男のことなんて、おまえ何も知らないだろ」
うん、本の世界の知識だけだ。
こてこてのラブロマンス物ばっかり読んでます。
蹴っ飛ばしてやりたいほどくやしい。
「フライドチキン食べたい」
「おまえ、俺の前で、よくそんな物食えるな」
「べつにあなたを食べるわけじゃないでしょ」
「女ってこわいな」
「知ったような口聞かないで」
「なんだよ、さっきまで弱気だったくせに。物食うときは強気になるんだな、女って」
「一つ賢くなったじゃない。次から気をつけなさいよ」
「さっきみたいに腹壊すなよ」
「ちょっと、女子に向かってそういうこと言わないで。デリカシーっていうものがないの?」
「鳥の前でフライドチキン食うのと変わらないだろ」
ふと、私今イケメン男子とケンカしてるんだなんて思った。
自然に頬が緩んでしまった。
「なんだよ、急に」
「べつに。なんでもいいでしょ」
私はショッピングモールを出て自分の利用する私鉄駅の方へ向かって歩き出した。
悠翔君がついてくる。
「ちょっと、どうしてついてくるのよ」
「行くとこないから」
はあ?
「家に帰れば? 地元でしょ」
豊ヶ丘中学はこの地域の中学校だ。
ということは家もこのあたりにあるんだろう。
「俺は鳥だからな。家なんかない」
そんなこと、威張って言われても困る。
「鳥なんだから巣に帰れば?」
「だから、ないって、そんなもん」
「じゃあ、いつもどうしてるの?」
悠翔君は黙り込んでしまった。
高校の前を通り過ぎて私の使っている路線の駅まで来ても、悠翔君は私についてくる。
「まさか、ついてくるつもり?」
悠翔君は顔を背けて口笛を吹く。
ごまかし方がものすごく下手だ。
しかも、鳥のくせに、口笛もひどい音痴だ。
「ついてこないでよ」
「冷たいな」
だって、家に連れていくわけにもいかないじゃない。
「また明日、学校でね」
私は手を振って改札口を通り抜けた。
電車に乗ってしまえば追いかけてくることはないだろう。
でも、その考えは甘かった。
三十分後、電車を降りて改札口を出たところに悠翔君がいたのだ。
「よう」
まるでデートの待ち合わせでもしていたかのように手を振っている。
いちおうイケメンだから、まわりの人たちに注目されてしまう。
本当のカレシだったら優越感を味わえるんだろうけど、コイツはただのストーカーだ。
「何やってるのよ。だめだってば」
「せっかくおまえのこと追いかけてきたのに。こっそり電車に乗って、隣の車両からずっと見てたんだぞ」
「ヘンタイ。ストーカー」
悠翔君が首を振って微笑む。
私のことを見つめている。
ほんの一瞬、許してしまいそうになって焦る。
私って、チョロい女の子なのかな。
なれなれしく私の肩に手を置きながらもう一度悠翔君が微笑む。
ちょっとキュンときたのがくやしい。
「あのさ、頼みがあるんだ」
「だめ」
「まだ何も言ってないだろ」
「だめ、ここで別れましょう」
「恋人気取りかよ」
私も恋愛小説の一場面みたいなセリフだなと思ってたから、図星で顔が熱くなる。
「あのさ、俺、鳥になりたいんだよ」
まるでポエムみたいなセリフだと思ったけど、悠翔君が実際に鳥だということに気づいて、また額に汗をかいてしまう。
なんだか調子が狂う。
「今のこの姿だと行くところがないだろ」
ああ、そうか、そう言われてみればそうだ。
「でも、鳥になるってどうするの?」
さっきみたいに鳥に指を噛まれたりすると姿が変わるんだろうか。
でも、ここら辺には鳥はいないし、いても都合良く近寄ってきて指を噛んでくれるわけがない。
鳥って臆病だから、人が近づくと逃げていくものだ。
鳩のいる公園に行くとか?
悠翔君が辺りを見回す。
「ここじゃまずいか」
何か方法があるんだろうか。
でも、駅前は人通りも多い。
いきなり人が鳥に姿を変えたら大騒ぎになるだろう。
「ちょっとこっちに来てくれ」
私は悠翔君の後についていった。
別について行かなくてもいいはずだけど、正体を知ってしまった以上、このまま放っておくわけにもいかないような気がした。
人間の姿のままだと今夜の居場所がない。
居場所がない人の苦労は私にも分かる。
悠翔君は駅前の駐輪場に入った。
二階建てのプレハブ建築の裏手に回って私を壁に押しつけた。
「目を閉じろよ」
はあ?
何言ってんの?
悠翔君が顔を近づけてくる。
私は思わず彼を突き飛ばしていた。
「ちょっと、いきなり何するのよ」
「今日さ、俺、おまえのニキビつぶしただろ」
「うん、跡が残らないといいけど」
「それよりさ、俺のくちばしでつぶしたんだぜ、それってどういうことになる?」
「どうって……」
口を顔につけることを何と言うか。
なぞなぞ?
真剣に考えている私のことを悠翔君が笑う。
「されたことがないからわからないか」
「え、何?」
「口をつけるを短くして言って見ろよ」
「口を、つける? ……口つける。口づけ!」
まさか、それが鳥になる方法だって言うの?
やだよ。
無理。
なのに悠翔君はにやけた表情で私に顔を近づけてくる。
「いいだろ、少しくらい」
「よくないよ。どういうつもり」
「だから、鳥になる方法がそれしかないからだよ」
「私じゃなくたっていいんじゃないの」
「他にいないだろ、こんなこと頼めるやつなんて」
「私は嫌よ」
「なんで?」
「好きでもない人と、キ……、こんなことしたくないし」
まだ誰ともしたことないし。
「じゃあ、この格好のまま、おまえの家に行くぞ」
「それは困るよ」
彼に見つめられて視線の圧力に耐えられなくなった私はうつむいてごまかそうとした。
その瞬間、悠翔君が私の顎に手を添えて唇に自分の唇を押しつけてきた。
「ちょっと、何するのよ」
驚いて押しのけた時、悠翔君の姿はそこにはなかった。
目の前に置かれた自転車のサドルの上でインコが私を見上げている。
ずるいよ。
そんなのずるいよ。
あんなのキスじゃないよ。
私の思ってたのはもっと優しい感じで……。
初めての口づけだったのに、乱暴に奪われてしまった。
そんなことを思ったら顔が熱くなってきた。耳の中の血管が激しく波打って自分の心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。
インコの悠翔君は無邪気に自転車のハンドルに飛び移って、私の鞄の中に飛び込んできた。
「ちょっと、なんで」
「サツキノイエ、サツキノイエ」
ああもう、コイツ、最初っからこれを狙っていたんだな。
だまされた。
やっぱり私はチョロい女だったんだ。
怒りの気持ちが膨らんでいたけど、鞄の中で体操服に潜り込んで丸まっている悠翔君を見ていると、追い出すのもかわいそうな気がした。
鳥だったら、一晩くらい部屋の中にいさせてあげてもいいかもしれない。
親に見つかっても友達に預かってくれって頼まれたとか言い訳すればごまかせるし、いざとなったら窓から出て行ってもらえばいいし。
私はあきらめて帰ることにして、途中のコンビニに寄った。
あんなに威勢良くフライドチキンを食べてやると宣言したにもかかわらず、いざレジ横の品物を前にすると食欲がなくなっていた。
鞄の中の悠翔君も鳴き声をたてることもなく、心なしかおびえているような表情をしていた。
そこまでして嫌がらせをすることもない。
いつも買っているチョコレートにした。
家に帰ってきて「ただいま」と言うとキッチンの方から「おかえり」と朗らかなお母さんの声が返ってきた。
いつもなら牛乳でも一杯飲んでから部屋に行くところだけど、今日は悠翔君を隠さなければならない。
私は階段を上って直接自分の部屋に駆け込んだ。
「おとなしくしててよ。無駄に鳴いたりしたら、窓から追い出すからね」
「ドウブツギャクタイ、ドウブツギャクタイ」
「だから、そういうのが無駄なおしゃべりって言うのよ」
私は机の上に買ってきたチョコレートの箱を置いて、ベッドの上に鞄を置いた。
部屋にはベッドと机とクローゼットしかない。
フローリングの床には円形のラグが敷いてある。
カーテンも遮光タイプでライトグリーンのシンプルなものだ。
あまりごちゃごちゃと物を置くのは好きではない。
ぬいぐるみなんかも飾っておかないくらいだ。
そんな部屋にインコの悠翔君がいるのは不思議な感じだ。
鞄から出てきたインコはベッドの上で羽毛を膨らませてお団子のような格好でふるふると震えている。
慣れない場所に来て不安なんだろうか。
私は両手をお皿のようにしてインコの前にさしだした。
ぴょんと飛び乗ってきて、ピピィと鳴く。
鳥の体温が伝わってくる。
とても心地よい温度だ。
親指で体を撫でてあげると気持ちよさそうに目を閉じて頬を押しつけてくる。
かわいらしいしぐさに、私はついよく観察しようとして顔の前にインコを持ち上げてしまった。
次の瞬間、インコの悠翔君は待ち構えていたかの様に私のニキビをくちばしでつついてきた。
あっと思ったときにはもうベッドに悠翔君が腰掛けていた。
「ちょっと、あんたどういうつもりよ」
「人間の姿の方が会話もしやすくて楽だろ」
「私は困る」
「なんで?」
「だって、部屋に男の子がいるなんて……」
「初めてだから?」
何よ、笑うつもり?
悠翔君は急に真面目な表情になってうつむいた。
「すまないとは思ってる。一晩でいいから泊めてくれ。迷惑はかけないから」
もうすでに迷惑なんですけど。
鳥だと思って連れてきたら人間の姿に戻っているし。
「ちょっと、着替えるんだから、外に出ててよ」
「出てていいのか?」
あ、だめか。
「じゃあ、鳥になりなさいよ」
「ムリ。なりたくてなるわけじゃないし。勝手に着替えればいいじゃんか。俺は気にしないから。どうせたいしたものじゃないし」
殴ってやりたい。
「ヘンタイ。エッチ。毛布でもかぶって目隠ししててよ」
悠翔君はおとなしく私のベッドに上がって毛布をかぶって丸くなった。
私が制服を脱ごうとしたその瞬間、毛布から顔を出す。
「暑いよ」
「ちょっと、わざとでしょ」
「ちげえよ」
「サイテー」
悠翔君が口に人差し指を立てる。
あ、声が大きくなってた。
たしかにまずい。
下からお母さんが呼んでいた。
「サツキ、ご飯よ」
「はあい」
結局、着替えられなかった。
「おとなしくしててよ」
「机の引き出しはのぞいたりしないからさ」と片目をつむる。
「サイテー」
べつに見られたら困るような日記帳とかマイポエムなんかないからいいんだけど、下着をあさられたりするのはマジで嫌だ。
「ねえ、本当にやめてよ」
「しねえよ」
私は悠翔君を真っ直ぐ見つめて言った。
「約束だからね」
かすかに視線をそらせて彼がうなずく。
「大丈夫。約束は守るよ」
「ちゃんと私の目を見て言ってよ」
「信じろよ」
「今までさんざんひどいことばっかりしてて、信じられるわけないでしょ」
また下でお母さんが呼んでいた。
あんまり遅いと二階に上がってきてしまう。
私は悠翔君を部屋に残して制服姿のまま一階に下りた。
お母さんが配膳の手を止めて心配そうに私を見た。
「あら、まだ着替えてなかったの?」
「うん、ちょっとうとうと寝ちゃって」
「まだ新しい環境に慣れてないから疲れが出たのかもね」
「大丈夫よ。食欲はあるし」
「そう。じゃあ食べましょうか」
「はい、いただきます」
夕飯はコロッケだった。
箸を入れるとサクッといい音がする。
悠翔君にも食べさせてあげたいけど、そういえばご飯はどうしたらいいんだろう。
それよりも、今晩どうしたらいいんだろう。
男の子と一緒の部屋で寝るの?
無理だって。
「サツキ、楽しそうね。学校おもしろい?」
え?
お母さんが私の顔をのぞき込むようにしながらコロッケを口に入れている。
私はとびっきりの笑顔を返した。
「うん、おもしろい人と知り合いになってね」
私の言葉を疑うこともなく、安心したようにうなずいてくれた。
ごめんなさい、お母さん。
今私の部屋にはイケメン男子を連れ込んでいます。
腰抜かすだろうな。
インコだから認めてなんて説明しても、逆に信じてもらえなさそうだ。
夕飯を食べ終えてお母さんはお茶を入れた。
私は自分で牛乳を出して飲んだ。
「あら、そういえば、今日は帰ってから牛乳飲んでないのね」
「ああ、うん」
「疲れてたから?」
「そんなことないよ」
努めて笑顔を見せる。
親孝行は大切だ。
心配させて部屋まで見に来られたらおしまいだし。
「お風呂できてるから、早く入って寝なさいよ。疲れたときは寝るのが一番」
「うん、そうする」
部屋に戻ると、悠翔君は床のラグにあぐらをかいてくつろいでいた。
「約束は守ったぞ。何も見てない」
「ホントに? かえって怪しい」
「証明しようがないからな」
「ちょっと毛布かぶってて」
「なんでだよ」
「お風呂の支度するから」
「すれば?」
「あのね、パジャマと下着を出すのよ」
「出せば」
ああ、もう、面倒くさい男。
「いいからかぶってて」
私はベッドの上から毛布をつかんで悠翔君にかぶせた。
網でつかまった鳥みたいにもがいているうちに、クローゼットの引き出しから下着を取り出してパジャマの間に挟んだ。
「はいよ、もういいよ」
毛布をはぎ取ると悠翔君がふうっと息を吐いた。
「苦しいじゃねえかよ」
「人の部屋に居候してるんだから、文句言うんじゃないの」
会話をする気力もなくなって、私はお風呂場に行った。
お湯につかっていても全然リラックスできない。
かといって、すぐ出たりしたら、またお母さんに何事かと疑われてしまう。
もう、全部あいつのせいだ。
窓から追い出したいけど、そういえば、鳥って夜は目が見えないんじゃなかったっけ。
鳥目とか言うんだった。
どうしよう。
悠翔君をどこに寝かせればいいんだろう。
ラグの上?
でも、掛け布団がない。
いくら何でも寒いだろう。
考えているとのぼせそうになる。
全然体は温まっていないのに、頭だけぼんやりしてくる。
お風呂を出てドライヤーをかけているときに思い出した。
そうだ、コンビニで買ってきたチョコレートがあるんだった。
私の毎晩の楽しみだ。
寝る前に食べると太るというのは都市伝説です。
私が証拠です。
太るどころか胸だって平らですが。
鼻息荒く部屋に戻ると悠翔君がラグの上に足を伸ばしてベッドにもたれかかっていた。
勝手にくつろいでるよ。
あれ、机の上に置いてあったはずのチョコレートがない。
「ねえ、ここにあったチョコ知らない?」
「食った」
「何すんのよ。楽しみにしてたのに」
「腹減ってたからさ」
「だからって断りもなく食べていいわけないじゃん」
悠翔君が口に人差し指を立てる。
自然と声が大きくなっていた。
声は抑えられても、怒りはおさまらない。
「もう、バカ」
「うまいな、これ」
背中からチョコのパッケージを取り出す。
隠してたのか。
もう空っぽだ。
全然反省していない。
悠翔君からゴミを奪い取ってゴミ箱に投げ捨てた。
「まあ、落ち着けよ。座れば」
自分の隣の床をポンポンと叩いて合図している。
「ここは私の部屋です。座る場所くらい指図されなくても自分で決めます」
「いいじゃん、隣に座れよ」
悠翔君が手を差し出す。
その手を握ろうかどうか、一瞬迷ってしまった。
本当に嫌なら、パシンと叩いて払いのけてしまえばいい。
でも、私にはそれはできなかった。
迷ってしまったことで弱みを見せてしまったようなものだった。
本当は隣に座っておしゃべりしたりできたらどんなに素敵なことだろうって期待しているんだ。
恥ずかしいから遠慮しているだけで、本当はそうしたいんだ。
私は悠翔君の隣に少しだけ隙間を空けて座り込んだ。
ささやかな抵抗のつもりだったけど、どうせそんなこと気がついてはくれないんだろうな。
二人並んでラグに座ってベッドにもたれかかっている。
これじゃあ、完全に恋人同士だ。
悠翔君が私の耳元にささやく。
「パジャマかわいいじゃん」
ハア?
話題を変えてチョコを食べちゃったのをごまかそうっていうの?
でも、そんなふうに言われると、お風呂上がりの姿を見られるのは恥ずかしい。
なんだか無防備な気がする。
「からかわないでよ。恥ずかしいでしょ」
「学校の階段で大股広げてる方がよっぽど恥ずかしくないか?」
「うーん、どうだろう。短パンはいてたし」
「おまえの基準の方がずれてるのかも知れないぞ」
「そうかな?」
「だってさ、いちおう俺、人間の姿の時はふつうの男子高校生なんだからさ。何に興奮するか分かるだろ」
興奮?
男子が興奮すること。
何となく分かるけど、そんなこと言えるわけないじゃん。
私が黙っていると、見透かしたように続ける。
「シャンプーの香りがたまらねえな」
「やだ、キモイから離れて」
「いいじゃん、鳥なんだから」
「今は人間じゃん」
「じゃ、鳥になろうか」
悠翔君がまた顔を近づけてくる。
私は思わず跳び上がってベッドの上に座り直した。
悠翔君の顔が胸の前にある。
そのまま顔を近づけようとしている。
このままじゃ胸に跳び込まれてしまう。
「ちょっと、やめてよ」
悠翔君が私の肩に手をかける。
ゆっくりとベッドに押し倒された。
ちょっとマジで叫ぶよ。
と、悠翔君がじっと私を見つめる。
「サツキ」
「なに」
「いろいろ迷惑かけてすまない」
何よ急に、改まっちゃって。
「迷惑だってことは承知してる」
分かってるなら、迷惑かけないでよ。
「だからさ」
だから?
「もう一つ迷惑かけさせろよ」
ハァ?
悠翔君がのしかかってきて唇を触れあわせた。
またやられてしまった。
はねのけようとしたときにはもうインコの姿になって部屋の中を飛び回っていた。
ホント、ずるい男。
サイテー。
インコがベッドに下りてきてしゃべりだす。
「サツキネムイ。サツキネムイ」
「ちょっと、ねえ、悠翔君、都合が悪くなると逃げるのってずるいじゃない」
本当はずるいのは私だ。
私は相手が鳥だから強気になれるんだ。
鳥の姿の彼には思ったことが言えるんだ。
悠翔君の前では弱気で甘えてばかりいるのに。
「眠いってごまかそうとしてもダメ。謝るまで寝させないよ」
「ドウブツギャクタイ。ドウブツギャクタイ」
勝手に布団の中に潜り込む。
なんて勝手なんだろう。
鳥だからか、男の子だからなのか。
私には分からなかった。
どっちも経験ないからな。
なんだか疲れちゃったよ。
考えるのが嫌になってきた。
今日はいろんなことがあった。
私も眠くなってしまった。
布団に潜り込んで明かりを消すと、暗闇の中で微かに声が聞こえた。
「オヤスミサツキ」
そのとき、ふと気がついた。
昼間、学校の廊下ではニキビをつぶされたんだった。
唇じゃなくても良かったんじゃないの。
だまされた。
私はこいつにだまされたんだ。
ちょっとイケメンだからって、調子に乗って。
ほんと、ずるい男。
嫌いじゃないんだけどな。
好きになっていいのか、よく分からない。
だって鳥なんだもん。
……おやすみなさい。
でも、夜中に事件が起きていた。
眠っていたときに、何かが体に当たったような気がして目が覚めた。
目の前に男の子がいた。
同じ布団の中に男の子が寝ていた。
私は思わず叫んでその男子を蹴っ飛ばしていた。
布団をはねのけて起き上がる。
「いったい何!?」
「イテェな。俺だよ、俺、悠翔」
寝ぼけていたせいか、一瞬なんだかよく分からなかった。
悠翔?
……って誰?
俺?
あ、悠翔君。
あれ、人間?
私は枕元のライトをつけた。
背中を丸めてお腹を押さえた悠翔君がベッドの上にいた。
もしかして、私、いけないところを蹴っ飛ばしてしまったんだろうか。
ごめんね。
びっくりしちゃったから。
しょうがなかったのよ。
だいたい、女の子のベッドに潜り込むなんて、もう警察呼ぶレベルでしょ。
そっちが悪いんだからね。
でも、様子がおかしい。
一瞬悪ふざけかと思ったけど、状況はもっと深刻なようだった。
悠翔君は顔にびっしょり汗をかいている。
明らかに具合が悪そうだ。
それに、そもそも、眠ったときは鳥の姿だったはずだ。
「どうしたの?」
「気持ちが悪い。吐きそうだ」
大変、どうしよう。
私はゴミ箱を引き寄せて中のゴミを取り出した。
チョコのパッケージと私が鼻をかんだティッシュしかないからそれはどうでも良かった。
「これに吐いていいよ」
間一髪。
間に合った。
悠翔君は苦しそうにあえいでいる。
私は背中をさすってあげた。
「蹴っ飛ばしちゃったから? ごめんね」
「違うよ。チョコレートだ」
チョコレート?
どうして?
「鳥には毒なのかもしれない。人間の姿だったから俺も油断してた」
あ、そうか。
動物には食べさせてはいけない物があるのか。
猫にタマネギを与えてはいけないという話は聞いたことがある。
鳥のことは分からなかったな。
「ゴメンね、私のせいだ」
「いや、俺が勝手に食ったんだし、おまえは悪くないよ。それより、汚くてすまない」
「大丈夫だよ。ゴミ箱だから汚れても平気。後でトイレに捨ててくるよ」
ゴミ箱はプラスチック製だから、吐瀉物をトイレに流せば、洗ってきれいにできる。
それほど手間はかからない。
悠翔君は苦しそうにうめきながらずっと私にお詫びを言っている。
「いいよ、気にしないで」
体が震えている。
私は肩に毛布を掛けてあげて、体を温めるためにぎゅっと抱きしめてあげた。
毛布の上からだと、あんまり意識しなくてすむ。
今はそんなこと言ってる場合じゃないし。
私が同じように吐く病気になった時も、誰かが処理してくれていたんだなと、ふとそんなことを思った。
少なくとも自分で片付けたのではないからお母さんかお父さんだろうけど、一人で生きてきたわけじゃないってことに気がついた。
「どう、大丈夫?」
「ああ、少し落ち着いてきた」
時計を見たらちょうど十二時を過ぎたところだった。
朝になったら学校に行けるだろうか。
悠翔君をここに置いていくわけにはいかない。
「少し横になってもいいか」
「あ、うん。ここに寝ていいよ」
私はベッドを明け渡した。
「私、これ捨ててくるから寝てていいからね」
「すまない。ありがとう」
素直な悠翔君はかわいい。
無愛想でふてぶてしい態度の悠翔君は?
どちらも悠翔君なんだ。
私は音を立てないように部屋を出てトイレに向かった。
中身を処分した後でゴミ箱を洗わなくちゃならないから一階のトイレに行った。
吐瀉物をトイレに捨てて、トイレットペーパーでゴミ箱に残ったものをぬぐって流した。
だいたい汚れは落ちていたけど、キッチンに行って洗剤をつけて洗った。
いちおう手もちゃんと洗っておいた方がいいだろう。
中学の保健の授業で感染症というのを習ったのを思い出した。
静かにしていたつもりだけど、水の音を聞きつけたのか親が起きてきてしまった。
「あら、どうしたの? 吐いたの?」
お母さんは私が手にしたゴミ箱を見て心配そうな顔をしている。
「あ、うん。なんか、目が覚めてトイレに行こうと思ったら、急に気持ち悪くなっちゃって。貧血かな」
「疲れてるのかねえ。夕方も寝ちゃってたって言ってたし」
「今はもう大丈夫だから。心配かけてごめんね」
「何言ってんの。ちゃんと布団かけて寝なさいね」
「うん、おやすみ」
体調が悪いわけではないのに心配をかけてしまったのが申し訳なかった。
お母さんに嘘ばかり言ってしまっている。
全部悠翔君のせいだ。
でも、そんなことを打ち明けるわけにはいかない。
もっと心配されてしまうだろう。
今はとにかく朝までに彼の具合が良くなってくれるのを祈るしかなかった。
部屋に戻ると、悠翔君はベッドの中で丸くなって安らかな寝息を立てて眠っていた。
びっしょりと濡れたおでこをティッシュで拭いて髪を撫でてあげると目を閉じたまま気持ちよさそうな微笑みを見せる。
まるで羽を膨らませた小鳥みたいに頬が丸い。
まあインコだもんね。
顔色もさっきよりはだいぶ良くなっている。
ちょっと安心した。
私はティッシュとさっき床に出しておいたゴミを集めて改めてゴミ箱に片付けると、悠翔君の背中側に横になった。
布団にくるまった彼を抱きしめると、目を開けた悠翔君がゆっくりとこちらを向く。
「寒いだろ。入れよ」
鳥が翼を広げるように悠翔君が毛布を広げて私を誘う。
私は柔らかな羽毛に包まれて眠りについた。
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