第二章 入学式の火曜日
今日はいよいよ高校の入学式だ。
桜の花はもう散ってしまっていたけど、春めいた暖かなそよ風が吹いていて、新しい一歩を祝福しくれているようなお天気だった。
でも、前の日によりによって鼻の横にニキビができちゃって、気になってしょうがなかった。
チョコ食べ過ぎたかな。
春休み中にベッドの上でスマホをいじりながらゲームをやり続けていたから、不摂生が祟ったのかもしれない。
初日からニキビの目立つ女子だと思われるのは嫌だったけど、つぶすわけにもいかない。
一人で電車に揺られながらドアの窓に映る自分の顔を眺めて、私はため息をついていた。
校門では入学式の看板を背景に記念撮影をしているグループがたくさんいて、私は知り合いなんか一人もいないから看板だけスマホで撮影しておいた。
小さな画面の中で、知らない中学出身の人たちが楽しそうに笑っている。
「どけよ」
うつむきながらスマホを見つめていたら誰かがぶつかってきた。
振り向くと男子生徒がいて、私の背中を押しながら校門をくぐり抜けようとしていた。
振り向いた拍子に押されたものだから、そのまま一回りしてまた正面を向いてしまった。
こんなところで華麗なターンを決めてもまわりの人に変な目で見られただけだった。
肩越しに鞄を背負いながら人込みを縫うようにして、その男子はいなくなってしまった。
せっかくの入学式なのに気分が落ち込んでしまう。
私はクラス分けを見に、掲示板へ向かった。
同じ中学出身の子達がクラスが別れて残念がっていたり、スマホで記念撮影したり、悲喜こもごも賑やかだ。
そこにはさっきの男子生徒もいた。
一人で掲示板を凝視している。
私は思わず横顔に引きつけられた。
鷲鼻っていうのかな、鼻が高くて筋が通っている。
ちょっとウェーブのかかったふわふわした感じの髪の毛。
美術室にある石膏像みたい。
神話で神様に溺愛された美少年。
ハーフって言われても信じちゃいそうだ。
さっきぶつかってきた時のこわい印象が消えて、同じ新入生として知り合いになりたいという気持ちがわいてきた。
でも、もちろんいきなり声をかける勇気はない。
私よりも頭一つ分くらい背が高い。
私が掲示板を見上げる角度に彼の頭が重なる。
私はしばらくの間、自分のクラスを確認するのも忘れて彼の後ろ姿に見とれていた。
彼も一人みたいだけど、私と同じ境遇なんだろうか。
それなら、話が合うかもしれないなんて勝手に妄想してしまう。
私みたいな女の子に興味を持ってくれそうな男子ではないのは分かってる。
でも、妄想なら、するのは自由でしょ。
掲示板の数字を追っていたら「よそ見してたら危ないよ」なんて抱きかかえられたり、後ろから掲示板を見上げていたら急に振り向いた背の高い男子に「俺に何か用?」なんて勘違いされたり。
ちょっとは期待してみたっていいじゃない。
と、そのとき彼がこちらを向いた。
目が合ったような気がして、あわてて視線をそらす。
まさか予感的中とか。
彼がこちらに向かって歩いてくる。
さっきぶつかったことを思い出して、私は道を空けた。
でも、彼も同時に脇にどこうとして、お互いに鉢合わせしてしまった。
「あ、ごめんなさい」
「じゃまだろ」
え、また?
私は彼に頭を下げて道を譲った。
妄想は妄想で終わる運命なんだ。
なんだろう。
ひどく疲れた。
入学する前から辞めたくなってきた。
ふうっとため息をついてもう一度掲示板の前に立つ。
自分のクラスを確認する。
C組だ。
もちろん知っている名前なんか一つもない。
全然うまくやっていける気がしない。
足におもりをくくりつけられたみたいで教室に向かうのがつらい。
一年C組の教室に入ってまた驚いた。
彼がいる。
教卓のすぐ前の席にふてくされた表情で座っている。
黒板に席順が書かれていて、自分の席を探したら、彼の二つ後ろの席だった。
黒板に書かれた彼の名字は「木崎」だった。
へえ、木崎君ていうんだ。
名前を知ると急に親近感がわく。
さっきあんなにひどい扱いをされたのに、あまり悪い気持ちがわかないのはなんでだろう。
すぐ横の通路を通って自分の席につく。
さすがに今度は「じゃまだ」とは言われなかった。
この教室内にも当然知り合いはいない。
でも、まわりの人たちも同じ中学の出身者と別れた人ばかりでみなスマホをいじったりしておとなしくしている。
誰かに話しかけてみようかと思ったけど、やっぱり勇気が出なかった。
廊下が賑やかになった。
女子三人組が教室に入ってくる。
その中の一人には見覚えがあった。
入学説明会の時に男子達に噂されていた女の子だ。
その子が無愛想な彼に声をかけた。
「あ、ユウトじゃん、おはよう」
「うっす」
「またあんたと同じクラスってなんなの」
「知るかよ」
二人は知り合いのようだった。
同じ中学の出身なのかな。
木崎君はユウトって名前なんだね。
べつに秘密ってわけでもないのに彼の名前を知ってドキドキした。
そして、女の子は彼の後ろ、つまり私の前の席に鞄を置いた。
「よろしく」
思いがけず挨拶をしてくれた。それなのに、私は声が出なかった。
口を動かそうとするのに、顎が固まってしまったように動かない。
なんとか首を前に折り曲げて会釈したけど、まるで江戸時代のからくり人形になったような気分だった。
黒板に記された前の席の子の名前は赤城さんだった。
彼女もちらりと黒板を確かめて、「友永さんだね」と大きな目で私を見つめながら微笑んでくれた。
明るめの髪が肩につくくらいの長さで柔らかく巻かれていて、うなずくとふわふわと揺れる。
うっすらとメイクが決まっていて、唇が輝いている。
鞄にはアジア風なカラフルなお守りをつけている。
トウガラシみたいな形の房がたくさんぶら下がったアクセサリーで、魔よけみたいな雰囲気だ。
赤城さんにはちょっと似合わない。
でも、少し色あせた感じで、愛用している物らしい。
鞄に置かれた手の指先はきれいな桜色に塗られていた。
私はただ見とれるだけで、返事もできなかった。
彼女はそのまま席に座ってしまった。
もっとちゃんとお話をしておくべきだと後悔したけど、いまさら声をかけることなどできなかった。
初めが肝心なのに、もうこれじゃあ、悪い印象しか与えていない。
無視したと思われていないだろうか。
なんとか挽回したいと考えているうちに担任の先生が教室に入ってきてしまった。
「入学式の前に少し時間があるからクラス名簿を配るぞ。ついでに自己紹介もしてもらおうか」
前の方からプリントが回される。
木崎君は後ろを見もしないで肩越しに投げるように赤城さんにプリントを渡す。
彼女は慣れているのか、それをちゃんとつかんで今度は私に回してくれる。
私は右側に手を伸ばして受け取ろうとしたら、彼女は左から振り向いた。
あれっと、お互いにぎこちない動きになる。
「あ、ごめん、あたし左利きなんだ」と微笑んでくれるけど、やっぱり私は顔がこわばってただうなずくのが精一杯だった。
配られたプリントに記された二人の名前は『木崎悠翔』と『赤城真緒』だった。
私は何度も頭の中で木崎悠翔キザキユウト、赤城真緒アカギマオ……と呪文を唱えた。
私は人の名前を覚えるのが苦手だ。
名前と顔が一致しないときもある。
失礼にならないように気をつけなくちゃと思うとよけいに焦って覚えられない。
「プリント行き渡ったか。じゃあ、そっちから始めてくれ」
先生が教室を見回して右端の人を指名した。
廊下側の列の人から順番に立ち上がって自己紹介をしていく。
最初のうちはみんな拍手をしているけど、だんだん飽きてきて形式的になっていく。
自己紹介の内容も、名前と出身中学を言って、あとは読書とか動画鑑賞程度のありきたりな趣味と部活の話をするくらいで、変わったことをあえて付け加える人はいない。
眠くなってきたところで木崎君の番になった。
「木崎悠翔っす」
ほんの一瞬だけ振り向いてぶっきらぼうに名前だけ言って座ろうとする。
先生があわてて止める。
「なんだそれだけか。何かもう一言くらい頼むよ」
「何言ったらいいっすかね」
いかにも面倒くさいという仕草で右肩をいからせて頭を掻いている。
その仕草が何かに似ているように思ったけど、何なのかが思い出せなかった。
自己紹介なのに、みんなの方を向かないから後ろ姿しか分からない。
先生の方が困った顔をしている。入学早々悪い印象を与えなくてもいいのに。
顔もいいんだから見せてくれればいいのに。
「そうだな。じゃあ、得意科目は?」
「ないっす」
この答えにはさすがの先生もあきらめたらしい。
「じゃあ、次」
私の前の赤城さんだ。
彼女が立ち上がった瞬間、クラス中の視線が集中した。
後ろの方からも注目している雰囲気が伝わる。
木崎君の作っただらけた空気が一瞬で緊張に変わる。
冷たい壁に顔を押しつけられたような感覚に襲われて、自然と背筋が伸びる。
みんなはもうクラスの順位づけをしているんだ。
この子が一番頂点に立つということを暗黙のうちに認め合った瞬間だった。
「赤城真緒です。悠翔と同じ地元の豊ヶ丘中学出身です。コイツ、口と態度は悪いんですけど、けっこういいやつなんで、みんな仲良くしてやってください」
乾いた静かな笑いが起こる。
木崎君がちょっとだけ赤城さんの方を向いてポツリとつぶやいた。
「うっせーよ。自己紹介で他人を紹介すんなよ」
「あんたがちゃんとしないから、いつもあたしが世話してやらなくちゃならないんでしょうよ」
赤城さんが座りながら木崎君の後頭部をつつくと、それを彼が振り払う。
二人はつきあってるのかな。
誰が見てもお似合いの美男美女カップルだ。
私がぼんやり考え事をしていると、先生が私を指名した。
「おい、次は友永か」
「はい」
二人のやりとりの印象が強すぎてクラスがざわついている。
ただでさえ緊張するのに、私の時だけハードルを高くしないでほしい。
「友永さつきです。八木沼中から来ました。他にこの学校を受験した人がいなくて知ってる人がいないのでみなさんよろしくお願いします」
良かったちゃんと言えた。
声が詰まったり裏返ったりしないか心配だったけど、無難にできた。
無難。
そう、無難でいい。
ふつうが一番だ。
私の後ろの男子が自己紹介を始めた時、前の席の赤城さんが振り向いてきた。
「八木沼中ってさ、けっこう電車不便じゃない?」
「うん、朝一本、しかないよ」
声が裏返って『鹿ないよ』みたいなアクセントになってしまう。
「だよね。あたしさ、中学の時に部活の練習試合で行ったことあるよ」
「あ、そうな、んだ」
今度は区切れ目がおかしくなる。
アクセントも『遭難だ』みたいになってしまった。
実際私は途方に暮れていた。
赤城さんがふふっと笑い出す。
「なんかさ、さっきからそうだけど、緊張してる?」
「あ、人見知り激しくて」
「あたし、こわい?」
「いいえ、そんな」
「見た目で判断してない? あたしね、唇の端が下がってるのよ。だから、ふつうにしてると不機嫌みたいに思われちゃってね。でも、いつも頬を上げてるのって疲れるんだよね」
もう私は声が出なかった。
ちゃんと否定しなくちゃいけないのに、そんな余裕はなかった。
お腹が痛くなってくる。
本当はすごく友達になりたいのに、声が出ない。
出そうとするとよけいに喉が詰まってしまう。
「おい、他の人の話をちゃんと聞けよ。これから仲間になるんだから、失礼だぞ」
先生に注意されて赤城さんは前を向いてしまった。
二度も話しかけてくれたのに緊張してしまって、うまく返事ができなかった。
もう完全に嫌なやつだと思われただろう。
今後彼女に無視されたら、クラス中からいない人扱いされてしまう。
彼女はこのクラスの頂点なんだから。
自己紹介が終わって、体育館へ移動して入学式が始まった。
赤城さんのことが気になって何があったかほとんど覚えていない。
どうせつまらない校長先生とか来賓の話だからどうでもいいんだけど、校歌を歌う時に、やっぱり声が裏返っちゃって、まわりの子が苦しそうに笑いをこらえていた。
ああ、もうだめだ。
高校デビューどころじゃない。
私は髪の毛で顔を隠しながらもうずっと黙っていようと決めた。
教室に戻ってきて、さっきと同じ席に着く。
先生が行事予定のプリントなどを何枚か配る。
そのたびに赤城さんからプリントを手渡されるけど、お互いに無言で目を合わせることもなく作業が繰り返された。
ホームルームの後、入学説明会で配布されていた課題に沿った三科目の小テストが行われて、初日は午前中で終了になった。
赤城さんが前の木崎君の背中をつついている。
「どう、できた?」
「おまえと同じ」
「満点って、嘘こけ」
「おまえこそ、嘘だろ」
「課題ってやってた?」
「おまえと同じ」
「やっときなよ、ちゃんと」
同じ中学出身だけあって、二人の間にはお約束のようなやりとりが交わされていて、聞いているとうらやましくなる。
こんなに気持ちの通じ合う会話のできる友達なんて、私にはこの先もできないだろう。
木崎君が話の途中で鞄を肩越しに背負って教室を出ていってしまう。
赤城さんは、「ユウト、バーカ」と背中に声をかけて立ち上がった。
そのまま彼女は朝一緒だった友達に声をかけて帰ろうとする。
私もあわてて立ち上がって赤城さんになんとか声をかけようとした。
でも、やっぱり喉が詰まっていて声が出ない。
咳払いをしたらオッサンみたいに激しくて、驚いた赤城さんが振り向いた。
結果的に話しかけるのに都合が良かったけど、まわりのみんなにも注目されてしまった。
「あ、あの、さっきはちゃんと返事できなくてごめんなさい」
頭の中はどんどん混乱していく。
「うまく声が出なくて、緊張しちゃって、ほんとはいろいろ話したかったんですけど、なんにも言えなくて。ごめんなさい」
目を合わせることができない。
周囲の人の視線が目に入って、よけいに緊張してしまう。
赤城さんが、左手を胸の前にあげて私の方に押し出してきた。
「べつに気にしてないから」
そう一言だけ言い残して、友達と三人で教室を出ていった。
ああ、そうか、私のことなんか気にしてないんだよね。
なんとなくほっとした。
そうだ、気にしていないということは、気に入られたわけじゃないけど、べつに嫌われてもいないということだ。
彼女にとって私は背景画の中のその他大勢の一人に過ぎないんだ。
でも、それでいい。平穏無事な高校生活を保障してもらえればそれで満足だ。
私はもう高校デビューなんてあきらめていた。髪の毛で顔を隠しながら生きていくことにして、一人で下校した。
まだお昼前だったからどこか寄り道していこうと思った。
自分の路線とは反対方向になるJR側に足をのばしてみた。
地元から離れた高校だから、中学と違って自分の住む地域とは別の新しい街を探索する楽しみがある。
せっかくだから、楽しまなければ損だ。
お昼ご飯も食べていこう。
JR駅周辺は再開発されたばかりで、広い道路で区画された新しい住宅街が広がっている。
広い歩道に沿っていろんなお店が並んでいて華やかだけど、街路樹がまだ植えられてまもないのか、枝が細くて芽吹いたばかりの若葉が頼りない感じだった。
駅前にあったデパートが壊されて新しく国道沿いに移転して作られたショッピングモールは、道路を挟んで東館と西館に別れていて、その間を空中回廊でつないである。
うちの近所に昭和の時代からある中途半端なスーパーとは大違いの規模だ。
新しいショッピングモールの中央をくぐり抜けてJR駅前に出ると、バス停の並ぶロータリーに古本屋さんやアニメショップもあった。
友達がいなくても一人の方が都合がいい寄り道スポットがいくらでもあるのがうれしかった。
学校では勉強だけ適当にやって、放課後の時間を楽しむことにしよう。
そうやって三年間我慢すれば、大学デビューが待っている。
ああ、そうやって私は就職デビューも期待してしまうんだろうな。
ため息しか出ない。
でも、結局それが私なんだ。
私はいつまでも私だ。
私は来た道を戻って駅前側の入り口からショッピングモール東館に入った。
中は平日の昼間だから、ほとんど人がいない。
中学の時は休日にしかこういうところに来なかったから、いつも混雑しているものだと思っていた。
平日の昼って、世の中はこんな感じだったのか。
どのお店もお客さんよりも店員さんの方が多いし、フードコートはお年寄りのたまり場になっているけど、ラーメンやタコヤキの注文口にはまったくお客さんが並んでいない。
その中で、私は信じられない光景を目にしてしまった。
休日には行列ができる大人気のアイスクリームチェーン店にお客さんが一人もいないのだ。
北海道の牧場から直送した素材を液体窒素で瞬間冷凍させて作る新食感のアイスクリームが大評判のお店で、中学の友達と別のショッピングモールで三十分ぐらい並んだのが嘘のようだ。
私はさっそく駆け寄って、誰にも遠慮せず、ゆっくりとフレーバーを観察してみた。
「いらっしゃいませ。こちらの新作はいかがでしょうか」
店員さんはうちの母親くらいの歳のおばさんだ。
休日は高校生のバイトさんなのに、やっぱり平日は違うんだなと思った。
おばさんのお薦めは新作ニューヨーク・ブルーベリー・チーズケーキ味だ。
濃厚でクリーミーなブルーベリー・チーズケーキにサクサクのパイ生地を練り込んで生のブルーベリーをトッピング。
うん、これに決めた。
スマホで写真を撮って中学時代の友達に送っちゃおう。
待ち時間ゼロで注文できるなんて夢のようだ。
おばさんはアイスとパイ生地を冷たい石板の上で手際よく練り合わせ、ふんわりと空気を含ませながらのばしていく。
最初の量から二倍くらいに膨らんだところで、カップに盛りつけて、最後に山のてっぺんをへこませると、その穴にブルーベリーをトッピングしてできあがりだ。
休日のバイトさんよりもおばさんの方が盛りつけも丁寧でおしゃれだ。
これからもこんなことが楽しめるなら、高校生活も悪くない。
私はそんなふうに思った。
品物を受け取ってフードコートの席を探そうと思ったら、いつの間にか私の後ろに何組かの行列ができていた。
このお店は注文を受けてから手間をかけて作るので、一人頼むとすぐに行列ができるのだ。
すぐ後ろは小さな子供を連れたお母さんグループで、その後ろのお客さんを見て私はアイスを落としそうになってしまった。
赤城さん達だった。
彼女はさっきの友達と三人で楽しそうにおしゃべりをしていて、私には気づいていないようだった。
私は赤城さんの横顔に向かって軽く会釈をしたけど、彼女はこちらを見てはくれなかった。
他の友達もとくに私に気づいてはいないようで、調子を変えずに会話を続けていた。
『気にしていないから』と言われたことを思いだした。
そう、彼女は私のことを気にしていない。
私は赤城さんの世界には存在しない女子なんだ。
彼女たちとまた遭遇しなくてもいいように、なるべく遠くの席を探した。
中央に大きな葉っぱの観葉植物が置かれたラウンドテーブルが空いていたので、アイス屋さんから陰になる位置に席を取った。
気持ちを切り替えて目の前のアイスに集中する。
一口目を口に入れると、あっという間に舌の上で溶ける。
ブルーベリーの甘みと酸味がクリームチーズの濃厚さを引き立てて、後からパイ生地のサクサク感が絶妙なアクセントになって舌先の感覚を呼び戻して、二度おいしさを味わえる。
これはおいしい。
大当たりだ。
私は次々に口に運んでいった。
半分くらい食べ終わったところで写真を撮っていないことに気がついた。
いまさら食べかけを撮っても汚らしいだけだ。
中学の友達に写真を送れなくなってしまった。
私はせっかくのチャンスを失ってがっかりしてしまった。
アイスはこんなにおいしいのに。
観葉植物の葉の間から赤城さんが見えた。
他の子達は先に注文を済ませたのに、赤城さんだけ迷っているらしい。
声は届いていないけど、話の内容は想像がつく。
明るめの髪の毛の似合う笑顔はもちろん、早くしなよとからかわれて今決めてるんだから待ってよと怒る顔も、いったん決めてまた変えようとするちょっと甘えた仕草も全部素敵だ。
私はやっぱり赤城さんに見とれてしまっていた。
友達になれたらいいのに。
赤城さんと一緒にいる友達は確か沢口さんと平山さんという名前だった。
二人とも赤城さんほどではないけどもおしゃれで、一緒にいても違和感がない。
私があの輪に入っていたら、浮いてしまうだろう。
罰ゲームでアイスをおごらされている人にしか見えないんじゃないだろうか。
私は残りのアイスをかきこむようにして平らげると、フードコートを逃げ出した。
お昼ご飯を食べていないけど、そんなことはもうどうでも良かった。
もうお昼の時間も微妙に過ぎているし、ちょっと高いアイスを食べたからお昼ご飯代を節約するんだと自分に言い訳をした。
二階に上がって閑散としたモールを歩く。
服屋さんのブランドはあまり珍しいお店は入っていなくて、興味のわくものはなかった。
雑貨屋さんでアクセサリを見る。
水色と黄色のマーブル柄のカチューシャを頭につけてみた。
誰が買うんだろうという色だけど、誰もつっこんでくれなくて寂しい。
雑多な商品の中から、シルバーの小さな音符が並んだト音記号のヘアピンが目に飛び込んできた。
かわいい音符一つ一つがけっこう細かいところまでちゃんと作ってあって、値段のわりにこっている。
自分の髪に当てて鏡をのぞき込む。
私の髪は黒が濃くて、ヘアピンの落ち着いた色合いが調和していた。
それだけでなく、形もかわいいから華やかさが増して、けっこう似合うような気がした。
でも、学校につけていく自信はなかった。
目立つのは避けたかった。
せっかく良い物を見つけても、これでは中学の時と何も変わらない。
自分を変えたかったんじゃないのかと自問自答しても、結局最初から答えは決まっていた。
変えたいと思ったこともあったけど、今はそうじゃないんだ。
自分にそう言い聞かせるだけだった。
ひととおり東館二階フロアを見て回ったところで西館に渡ってみようかと思ったけど、空中回廊のベンチに赤城さん達三人が並んで座っているのを見つけてしまった。
脚が冷えた蝋のように動かなくなる。
変えたかったんじゃないの?
友達になりたかったんじゃないの?
自分に問いかければ問いかけるほど体がこわばっていく。
お腹も痛くなってきた。
向こう側へは行けないんだ。
私はあきらめて家に帰ることにした。
一階に下りてすぐに出口があった。
どうやらさっきのJR駅側とは反対の出口のようだった。
外の景色に見覚えがなくて、一瞬自分の現在位置が分からなくなってしまった。
壁に掲示された案内図を見る。
現在地からだと、目の前がショッピングモールで、背中の方向が豊ヶ丘高校と私が利用している私鉄駅になる。
だいたいの位置関係が理解できたところで帰ろうかと思ったら、出入り口脇にある明るいお店が目に入った。
入り口横に大きな鳥がいる。ペット屋さんだ。
大きな鳥はオウムだった。
赤と水色の派手な色合いだけど性格はおとなしい鳥らしく、こちらがじっと見ていても嫌がる様子はない。
ときどき頭を掻いたり、肩を広げてまた羽を閉じたり、暇そうだ。
平日の午後でお客さんが少なくて、誰も相手をしてくれないからなのだろう。
お店はモールの建物の中にあるけど、出入り口はショッピングモールの外側に向かって開いていた。
平面駐車場からペットをつれて直接入場できるような仕組みになっているのだろう。
外側の壁全面がガラス張りになっていて、中の様子がよく見える。
トリミング中のプードルがすました顔で私を見つめていた。
私は今までペットを飼ったことがない。
お祭りの金魚すくいだってやったことがない。
親も興味がないのか、家に動物がいたことがなかった。
ペットショップをのぞいてみたのは、なぜかオウムが気になったからだった。
それがなんなのかは分からない。
どういうわけか、何かが気になったのだ。
私はオウムとにらめっこしていた。
退屈なのか、羽を膨らませて足で頭を掻く。
頭を左右に振って、肩を上げ下げする。
あくびをするときに目を閉じて頬の毛を膨らませながら首をすくめる。
ようやく私は気がついた。
似てる。
自己紹介の時の木崎悠翔君だ。
右肩をいからせて頭をかく仕草が、鳥の仕草そっくりだった。
先生との話で、面倒くさそうに返事をしていた時の態度がうり二つだったのだ。
木崎君と重なったとたん、かわいいオウムが急にふてぶてしい顔に見えてくるから不思議だ。
まったく思いがけないものが結びついて私は思わずくすりと笑ってしまった。
オウムがそんな私を見つめながら首をかしげる。
まるで会話が成立しているみたいだ。
私は少し興味が湧いてきて、ペットショップを見ていくことにした。
ペットショップに入るのは初めてだ。
思ったほど動物の匂いはしない。
子犬と子猫のコーナーには幼稚園くらいの子供とお母さん達が何組かいた。
幼稚園帰りなんだろうか。
無料の動物園みたいなものなんだろう。
でも、ガラスを叩くのは注意した方がいいんじゃないかな。
ごめんね。
私には言う勇気はないや。
熱帯魚と金魚の泳ぐ水槽が壁一面に並んでいる。
エビがかわいい。
浮いたり沈んだり自由に泳いでいる。
オレンジ色の腹をしたイモリが水槽にたくさん貼りついていてちょっと引く。
でも、よく見ると意外とかわいい。
中学校の理科でイモリとヤモリの違いを教えてもらったことを思い出した。
両生類と爬虫類だったっけ。
いつしか自分が飼うとしたら何がいいかなと考え始めていた。
もちろん、親に相談しないといけないだろう。
べつにうちはマンションじゃないからペットを飼うことは問題ないんだけど、家族の協力がなければ世話をしきれないだろうし、責任が持てないのならペットがかわいそうだ。
安易に手を出してはいけないことくらい分かっている。
でも、見てるとやっぱりかわいい。
小動物コーナーでは、シマリスがくるくるとケージの中を跳び回っている。
生まれたばかりなのか小さくてやせている。
でも、元気いっぱいに壁から壁へめまぐるしく駆け回っている。
退屈しているのかな。
元気が良すぎて、私の部屋にいたら気になってしょうがないだろうな。
ハムスターは夜行性らしく、みんなでかたまって震えながら眠っている。
鳥のコーナーにはインコがたくさんいた。
背中が黄色でお腹が緑のと、全体が水色のものが多い。
セキセイインコだ。
これはお小遣いでも買える値段だ。
オカメインコやカナリヤなんかは結構な値段がする。
お小遣いじゃ無理だ。
目がまん丸なボタンインコもかわいいけど、やっぱり二万円以上する。
鳥籠とかエサなんかも合わせたらとてもじゃないけど買えないし飼えないや。
セキセイインコの鳥籠に『鼻の青いのが雄です』と書かれている。言われてみると、青い鼻とピンクっぽい色に別れている。
なぜか青い鼻の水色のセキセイインコが私の方に寄ってきて首を左右に振ってくれる。
目もぱっちりしていてなかなかイケメンだ。
鳥籠は上の蓋が開いていて、自由に触れあえるようになっている。
『ふれあうときは驚かさないようにしてね』と注意書きが貼ってあるけど、初心者でも大丈夫なんだろうか。
注意書きによれば、風切り羽というのを切ってあって、遠くには飛べないようになっているらしい。
私は横から鳥籠にちょっと指を押しつけてみた。
インコがくちばしを鳥籠の間から出して軽くつつく。
くすぐったい。
引っ込めると、顔を押しつけるようにしながら催促する。
もう一度指を出すと、今度は激しく噛まれた。
びっくりして引っ込めたら、インコもびっくりして鳥籠の中を跳びはねる。
「ごめんね。驚かせちゃったね」
ささやきかけると声に反応したかのように、またこっちに来てくれた。
私は自分から指を鳥籠にくっつけて、インコが来るのを待った。
私が手を動かす様子がないことを確認して安心したのか、またくちばしで軽くつついたり優しく噛んだりして遊んでくれる。
お互いに気持ちが通じ合ったような気分になるのが不思議だった。
「友達になりたいな、真緒ちゃんと」
私は思わず独り言をつぶやいていた。
言ってしまってから、鳥に向かって話しかけてるなんて、寂しすぎるぞと自分にツッコミを入れてしまった。
でも、どうせ他に誰も聞いていないんだし、首をかしげながら私の悩みを聞いてくれているような気がしてそのままインコに話しかけていた。
「私もあんなふうにかわいくなりたいな、真緒ちゃんみたいに」
ピッ。
あれ、今返事した?
気のせいか。
「真緒ちゃん友達になって」
ピッ。
返事してるよね。
「真緒ちゃんかわいいよね」
ウン。
一瞬、人間の言葉をしゃべったのかと思ったけど、喉の奥で鳴いているだけのようだった。
そもそも、キミは真緒ちゃんを知らないだろう。
でも、会話しているみたいでおもしろい。
意味は全然分からないんだろうけど、何かを話しかけると、返事っぽく返してくれるのがうれしい。
こんなことで喜んでいるなんて、友達がいないからか。
ちょっと悲しいけど、でも、目の前のインコはかわいい。
返事だけじゃなくて、そのたびに首をかしげたり、くちばしで噛んだり、肩を上げて羽を少し広げてみせたり、いろいろな仕草で答えてくれる。
「真緒ちゃんと友達になれるかな」
ピピッ。
「それは大丈夫ってこと?」
ピピッ。
占い師さんと話してるみたいだ。
「友達になれる?」
ピピッ。
あえて質問を変えてみた。
「友達になれない?」
クグッ。
あれ、違う声になった。
ちゃんと占ってくれてるんだね。
まあ、私がそう思いたいだけなんだけど。
私の指をカッカッカッと連続してくちばしでくわえてくる。
頑張れって言ってくれているのかな。
インコに励まされている自分が情けないけど、でも、思い切ってやってみる価値があるような気がした。
インコに話しかけていないで直接本人に言った方がいい。
「真緒ちゃん、友達になって」
そうやって本人に言ってみれば、何かが起こるかもしれない。
何もなければ?
明日からも同じ毎日を過ごせばいい。
断られたら?
黙って下を向いたまま三年間を耐えていかなければならない。
それは困る。
やっぱり、何もしない方がいい。
私は鳥籠から指を離した。
インコがくちばしを突き出して私の指を求めている。
「バイバイ。また来るね」
私はインコと別れてペット屋さんを出た。
外の空気は少しひんやりしていた。
春の日差しが傾いて西の空がほんのり桜色に染まり始めていた。
私はもう一度ショッピングモールに入った。
空中回廊へ行くんだ。
言わなくちゃいけないことを言うんだ。
『真緒ちゃん、友達になって』
言ってはいけないことじゃない。
もしそれで断られたら、それまでの相手だったってことだ。
残念だけど、仕方がない。
でも、言わなくちゃ友達にはなれない。
もしも友達になれたら、なってくれたら、どんなに素敵なことだろう。
これからの三年間がどんなに楽しくなるだろう。
真緒ちゃんと一緒に食べ歩きをしたりショッピングモールで買い物をしたり、同じこの場所が夢のような世界に変わるはずだ。
言うんだ。
私は絶対に言うんだ。
まるで男の子に告白するような勢いで真緒ちゃんのところへ行ってみた。
自然に足が速くなる。
もう冷えた蝋のように固まったりはしない。
階段を駆け上がって買い物客が増えてきた二階通路を抜ける。
東館から空中回廊へ出るガラス扉を開けるのがもどかしい。
でも、回廊に駆けだした私の脚はまた固まってしまった。
もうそこに真緒ちゃん達はいなかった。
それはそうだ。
時間がたちすぎた。
もう帰ってしまったんだろう。
私はほっとしていた。
言わなくて済んだ。
結果も知らなくて済んだ。
少なくとも明日学校に行けなくなることはなくなった。
友達にはなれなかったけど、学校に行けなくなるよりましだ。
これでいいんだ。
私は肩掛け鞄の紐をぎゅっと握りしめながらショッピングモールを出た。
いったん高校まで戻って街の反対側にあたる私鉄駅へ向かう。
学校には部活の上級生がまだたくさん活動していて、掛け声が賑やかだった。
みんな充実しているんだな。
新入生でも、もう体験入部に参加している人もいるんだろうか。
私は部活に入るつもりはなかった。
運動はできないし、文化系の部活も興味がなかった。
私には人に自慢できるような特技がない。
楽器も弾けないし絵も描けない。
趣味といえば本を読むくらいだ。
ずっと一人でできることばかりやってきた。
これからもそれでいい。
私は校門の前を通って自分の利用する私鉄駅にたどりついた。
帰りの電車はこの駅が始発だ。
だから必ず座れる。
鉄道オタクのお父さんが、この支線は電車を車両基地に引き込むためにあるんだと教えてくれた。
だから人が乗り降りすることは最初から考えられていなくて、運行本数は少ないし、駅前は閑散としているのだそうだ。
確かに、ホームから見える光景は何本もの線路と工場みたいな車庫といった殺風景なものだ。
それほど田舎でもないのに無駄に空が広い。
ホームに止まっている電車の中は数名のお客さんがいるだけでがらんとしている。
ロングシートの端に座って膝の上に鞄を載せる。
文庫本を持ってきているけど、読む気がしなかった。
頭の中にいろいろなことが浮かんできて、文章なんて頭に入ってこないだろう。
反対側の窓に自分の顔が薄く映っている。
黒い髪に肌が浮き上がっているようで、まるで幽霊みたいだ。
表情もそんな感じだ。
私ってブサイクだな。
ワタシハブサイクダ。
窓に映る自分に向かって何度も何度も心の中で呪いをかけた。
乗客が増えることもなく、発車時間になった。
静かにドアが閉まって電車が動き出す。
車両基地だけあって線路を何本も切り替えるせいで、しばらくの間かなり揺れる。
「お立ちのお客様は手すり、吊革などにしっかりとおつかまりください」というアナウンスが流れるけど、立っているお客さんなんて一人もいない。
ふと、さっきショッピングモールで本屋さんに行くのを忘れていたことに気がついた。
真緒ちゃんがいなかったんだから、西館に行ってみれば良かったのか。
まあ、いいや。
また明日ショッピングモールに行ってみよう。
それを楽しみにしていれば、学校に行く理由にもなるし。
もしもまた明日ショッピングモールで真緒ちゃん達に会ったら……。
急に私の胸に黒い感情が湧いてきた。
無視してやろう。
目の前をまったく気にもしていないようなそぶりで通過してやるんだ。
あなたのことなんか眼中にないの。
私は私の時間を楽しんでいるの。
友達と一緒じゃないと楽しめないあなたとは違うの。
電車が次の駅に入る。
本線に合流する駅で、ここからは一気にたくさんのお客さんが乗り込んでくる。
高校生もいっぱいいるけど、知り合いはいないようだった。
ロングシートの端の私を囲むようにお客さんが立っている。
向かいの窓の幽霊みたいな私の顔は見えなくなった。
あれ。
涙が出てきた。
私はあわてて鞄からハンカチを出して顔に押し当てた。
まわりのお客さんに変な目で見られないように目を閉じて眠っているふりをした。
涙がこぼれないように目をふさいだ。
真緒ちゃんのことを考えていると涙が出てしまう。
私はペットショップのインコのことを思い浮かべた。
私の指を優しく噛むくちばしの感触を思い出した。
私のことを求めてくれる存在。
インコだけど。
また明日会いに行ってみよう。
駅に着くまで私はずっと目を閉じてうつむいていた。
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