僅かな収穫

「お、おおおお……! これが、これがあの……!」


 ロバート・アシモフは興奮していた。

 齢七十を超える身体に、興奮のあまり痛みが走る。心臓が痛々しく鼓動し、息切れもしてしまう。顔に装着しているガスマスクの所為もあってか、本当に苦しい。

 間違いなく健康に悪い。母国の平均寿命を考えればまだまだ生きる身とはいえ、何時ポックリ逝ってもおかしくないのも事実。この興奮が続くのは不味いとロバート自身自覚している。

 だが、彼は此処から離れようとは思わない。

 マウスの『死骸』を前にして、どうして此処から離れようと思うのか。生涯を研究に費やしてきた彼にとって、知的好奇心由来の興奮によって心停止する事など恐れるほどのものではなかった。


「まさか、奴をこんな間近に見る事が出来ようとは……」


 急ぎシドニーに駆け付けた甲斐があった――――内心思った言葉を、しかしロバートは口にはしない。

 シドニーを襲った災禍を考えれば、この言葉一つでも不謹慎だと言われそうなのだから。

 オーストラリアの大都市シドニーは今や灰燼と化した。突如として現れた巨大なオカルティアの攻撃により、半径数キロの物体が潰されたのだから。

 オカルティアの攻撃により、シドニー中心部は原爆でも炸裂したかのような……いや、それ以上に絶望的な様相だ。人類の科学力の象徴とも言える建造物は、一つも残っていない。全てが砂状になるまで砕かれ、大地に広がっている。

 シドニーをここまで滅ぼした巨大オカルティア、それと二十数体の通常オカルティア、そして幼体と思われる何万もの小型オカルティアは二日ほどこの場に留まっていた。奴等が移動したのは三日後である昨日。オーストラリア軍や救助隊は四日ぶりにようやく立ち入れた状態で、今は懸命な救助活動が行われているが……この惨状だ。生存者はいないだろう。

 本来なら一科学者が立ち入る事など出来ない。しかしロバートはただの科学者ではない。オーストラリアで随一の、オカルティア科学の専門家だ。マウスもまたオカルティアに近しい存在。その亡骸があるならば、『劣化』する前に彼に調査が依頼されるのは当然の事だった。


「ロバート博士。これ以上近付くのは……」


 とはいえ、なんでも好きにやらせてもらえる訳でもない。ロバートの傍にはオーストラリア軍から派遣された、護衛兼監視役の兵士が一人いる。

 己の行動を牽制され、ロバートは眉を顰めた。


「ふん。安全のため、と言いたいのか?」


「はい。博士の身に何かあっては、国益に関わります」


「くだらん。俺の身など、この偉大な生命に比べればちっぽけなもんだ」


 ロバートはそう言いながら、兵士を無視するように前へと進む。兵士の方は抑えようと何度もロバートの前に出るが、それを無視して歩み続ける。

 ロバートとマウスの距離は、凡そ五百メートルは離れている。だがマウス自体が三百メートルもの大きさだ。これだけ離れていても、その存在感はひしひしと感じられる。周りに建物がないのもあって、マウスの姿を観察するのは容易い。

 巨大オカルティアに倒されたマウスは、厳密には地面に横たわっていない。僅かだが、その身体は宙に浮いていた。あちこちにある瓦礫(正確には砂塵の山だが)に身体の一部が埋もれているが、しかしそれも瓦礫を押し退けておらず、すり抜けている。死してなお、透過能力は失われていないらしい。

 そして亡骸は、死後百時間近くが経った今、徐々に崩壊しつつある。あちこちがボロボロと崩れ、細かな粒子が四方八方に霧散していた。半透明故の煌めきで、辺りは満たされている。


「博士。粒子の濃度があまりにも高い状態です。これ以上の接近は、何があるか分かりません」


 この粒子が、兵士がロバートの接近を快く思わない一因だ。

 気持ち自体はロバートも理解する。訳の分からない生物から出た、訳の分からない粒子だ。おまけにマウスと生物学的に近縁と思われるオカルティアや小型未確認生物は、触れただけで人間を意識不明にしてしまう。マウスの粒子身体に触れるのを警戒するのは、合理的な判断だ。

 しかしもっと合理的に考えれば、その警戒が無意味なのも分かる。


「くだらん。そもそもこんなガスマスクが意味を為すと思うか? 奴等はものをすり抜けるんだ」


「それは……」


「規則だから付けてやったが、俺には馬鹿馬鹿しいとしか思えん」


 死んだとはいえ、マウスの身体は未だものをすり抜けている。死骸から離れた粒子も、物をすり抜けると考えるのが自然だ……というより観察する限り、近くにいる人やものをすり抜けているように見える。

 ガスマスクだけが例外という事はあるまい。大体肺だけ守ってどうなると言うのか。


「お前達からすれば、不安で仕方ないかも知れないがな。だが、お陰で分かった事が一つある」


「分かった事?」


「触れた人間を意識不明にする。この性質は、少なくとも連中にとっては意図的に引き起こされたものという事だ」


 仮に、意識障害を引き起こす性質が体質であれば、マウスの死骸に近付いた者は今頃全員倒れているだろう。

 されど現実にはそうなっていない。

 つまりマウスやオカルティアの『体質』により、人間は意識不明に陥っているのではない。世界で百万人を超えるという犠牲者達は不幸な事故ではなく、オカルティア達が何かしらの目的を以て行動した結果生まれたのだ。


「成程……しかし、ならばなんのために? 攻撃、でしょうか」


 そうなれば、次に気になるのは何をされたのか、という事。

 相手の目的が判明すれば、それを回避する手段が見付かるかも知れない。無論(生物学者など一部を除いた者達の)理想は二度と被害が出ぬよう、絶滅するまで奴等を駆除してしまう事だろう。しかし現状、人類はオカルティアどころか小型未確認生物の一匹さえも倒せていない。回避策だけでも見付けたいのは軍人として率直な願いの筈だ。

 また、目的次第では共存の可能性もあり得る。例えば向こうがただコミュニケーションを試みている場合、こちらから向こうと話す事で問題は解決するだろう。或いは復讐などでも、話し合いなり、犯人を突き出すなりで和解出来る可能性もある。

 全面戦争よりも、平和的に解決出来るに越した事はない。軍人だからこそ、戦争の悲惨さはよく理解している筈だ。そもそも今の状況を思えば、仮に対抗策を見付けたところで、真正面から戦っても人類に勝ち目はあるまい。

 ロバートはその想いを汲みつつ、忖度はしない。科学に正直な彼は、現時点で最も有力な説を言葉にする。


「十中八九、捕食だろうな」


 友好や共存など、欠片も期待出来ない説を。


「……捕食、ですか。以前から言われていた説ではありますね」


「ああ。そして此処シドニーでは、オカルティアの繁殖も確認された。栄養満点の人間を食べて、子供達を大きく育てようって算段なんだろう。少なくとも俺の中では、確信に至っている」


 生物が他種に興味を持つ理由など、大抵は餌かどうかだ。イルカやオオカミのような知能の高い生き物だと相手で遊ぶ(そして結果的に殺す。シャチがオタリアを放り投げて遊ぶように)事もあるが、これは狩りの訓練を兼ねている事が多く、結局は食べるためと言えよう。

 オカルティア達がどんな気持ちで人間を襲ったにしろ、食べるためと考えるのが一番自然だ。加えて観測された限り、意識不明になった人間はオカルティア達に二度と襲われない。遊びや好奇心ならしばし弄んでもおかしくないが、『食べカス』ならさっさと捨てていくのも頷ける。

 ただしこの考えにも問題点はある。


「しかし……何を、食べているのです?」


 護衛の軍人が尋ねたように、食べたものがまるで分からない点だ。

 オカルティアや小型未確認生物の被害者は世界中にいる。つまり世界中の医療機関が、被害者の研究を進めている。

 仮に何処か、例えば脳の一部が『欠損』していたなら、奴等が出現したこの半年ちょっとで報告がある筈だ。しかしロバートが知る限り、そのような報告は一件もない。何も欠けたものがないのに昏睡状態だからこそ、対処に困っているのだ。

 食べたからには、何かを失っている筈である。人間の意識に関わる重大な何かが。しかし今の人類、或いは医学が想定していないものとは何か。

 ロバートがぱっと考えて、思い浮かんだものは一つだけ。


「さてな。案外心そのものかも知れんな」


 人間の精神自体を喰らうのではないか、と。


「……博士、意外とロマンチストだったりします?」


「お前中々失礼だな。気に入った」


 軍人の兵士が怪訝そうに尋ね、本気で言った訳ではないロバートはけらけらと笑う。

 心を喰う。

 創作ならば稀に見るその力は、科学的に言えば考慮に値しない。というのも人間が感じている心というのは、に過ぎないからだ。仕事にやり甲斐を感じるのはニューロン間で分泌されたドーパミンの影響であり、子供のイタズラに怒りを覚えるのはノルアドレナリンの作用に過ぎない。死を考えるほど気持ちが落ち込む鬱病も、逆に病的に気持ちが高ぶる躁病も、投薬により治療可能……つまり化学物質の添加でコントロール出来る。

 完全ではないにしろ、人類は自身の心についてある程度把握しているのだ。心がないとは言わないが、それは決して幻想的なものではない。不可侵ではなく、化学物質で十分説明出来るものに過ぎない。

 心を喰うとしたら、科学的に言えば特定の化学物質の摂取を意味する。だがそんなデータは何処からも出ていない。やはり、オカルティア達由来の昏睡は未だ原因不明だ。

 分からない以上、調べるしかない。


「まぁ、それについても要研究だ。そして死骸が豊富に手に入った今、実験も研究も出来る」


「ええ。心を喰うなんて非科学的でない結果が出る事を願っています」


 軍人はロバートの考えに同調したつもりか、そのような言葉を口走る。

 ロバートは嗤う。

 非科学的? それもまた違う。あくまで現代科学では、心が脳の化学物質により生み出されているとされているだけ。実験などにより、そう考える方が自然だというだけの事だ。

 より論理的で、現実を上手く説明出来る説が出ればそちらに塗り替えられる。それが科学の歴史だ。『心』が幻想であると断言する方が非科学的だろう。

 ましてやオカルティア達は、宗教施設などを襲わないと聞く。もし本当ならば、果たして心の全てを化学物質と言っても良いのか。

 もしかしたら人類は、オカルティア達から新たな知見が得られるかも知れない。

 ……尤も、科学者だけでは答えに辿り着けない知れない。宗教についてなど、無神論者であるロバートはまるで知らないのだ。

 より答えに近い者がいるとしたら。


「(そいつは、きっと宗教家だな)」


 思った事は、口には出さず。

 一旦今は目の前の、大きなマウスの亡骸を調べようと、ロバートはまた一歩前へと踏み出すのだった。

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