百鬼夜行
カタリナはその日、学校からの帰りで商店街に寄り道をしていた。
理由は、ただなんとなく。十六歳の多感な年頃の女子には、真っ直ぐ家に帰らず寄り道をしたくなる日がある。その程度の、些細な動機からだ。
そんな出来心を起こした日に、彼女が暮らすイギリスの夕空に異変が起きた。
「……何、あれ」
つい先程買ったばかりの甘いジュースを手に持ったまま、カタリナはぽつりと独りごちる。
午後三時を迎え、夕暮れに向かいつつある空が波打つ。
カタリナがその光景を目にしたのは、ほんの偶然。建ち並ぶ小さな商店と商店の隙間から見えた空が、大きく波打ち、その波紋が彼方へと流れていくのが偶々目に入った。
空というのは液体ではない。あまり出来の良い学生ではないカタリナだが、それぐらいの事は知っていて、だから波打つなんてあり得ない出来事だとは思う。しかしそうとした表現出来ない光景だったのも確か。
明らかに異常な光景だが……特に悲鳴や叫びは聞こえない。カタリナの周りには大勢の買い物客や店員がいたものの、誰も空など見ていないようで騒ぎにはなっていなかった。
ひょっとして、自分の見間違いだろうか。
段々、カタリナは自分の目が信じられなくなってきた。実際波打ちは一回だけで、その後は何も起こらない。衝撃波のようなものが身体に伝わる事もなく(風のような違和感はあったが果たしてその波打ちが原因かは分からない)、人々は変わりなく日常を謳歌している。
「まぁ、いっか」
きっと見間違いだろう。カタリナもそう思い、しばらくして興味を失う。
そうして視線を地上に戻そうとした、その時だった。
また、空が波打ったのは。
今度は見間違いではない。間違いなく起きた事象だと確信する。風のような違和感もまた全身を走り、何か奇妙な事が起きたのだと身体で感じた。
そこでカタリナはスマホを取り出す。
動画を撮ろうとしたのだ。彼女はやはり年頃の女の子。撮影した動画をSNSに投稿し、一時でも注目を浴びてみたいという現代っ子らしい承認欲求を持ち合わせていた。
カタリナが空にスマホを向けると、今まで無関心だった人々も空を見始める。中にはカタリナと同じようにスマホを構える者もいた。大勢、というほどではないかも知れないが、騒動の発端になったと思うと少しカタリナの自尊心が満たされる。
尤も、その満足感は長続きしなかった。
今度は空が、水飴のように歪み始めたがために。
「……………あっ」
一瞬の思考停止。そしてすぐに顔を青くする。
オカルティア。
世界中に現れているという怪獣。その出現の兆候は、空が歪んで見える――――ネットのニュース記事などで見た現象が、目の前で起きたのだ。
此処から逃げないと不味い。
頭ではそう思っているが、しかし心の奥底で湧き出す「きっと大丈夫」という気持ちが足を止める。大丈夫かどうかなんて分からないのに、大丈夫だという根拠のない安心に縋りたい。むしろここで逃げたら、予感が現実になってしまうという『オカルト』めいた気持ちが身体を強張らせてしまう。
そうして迷っているうちに空の歪みは更に大きくなり、ついには地上に向かって降りてくる。それでも棒立ちしていたカタリナは、いよいよ目の当たりにした。
歪んだ空から、何かが出てくる光景を。
出てきたのはオカルティア、ではなかった。オカルティアを食べたという、巨大な怪獣でもない。想像していた中で最悪の展開ではなかった事に、カタリナは少しばかり安堵の気持ちを抱く。
希望が絶望へと転じるのに、数秒と掛からなかったが。
出てきたのはオカルティアではない。ではないが、されど見た事もない『異形』が続々と現れたのだ。巨大な目玉から触手が生えたような怪物、翅が人の手のようになっている虫のようなもの、顔面が左右に割れた魚モドキ……
ホラーゲームに出てくるモンスターのような、生理的嫌悪を煽る外観の生物達。いや、生物なのかどうかも怪しい。あまりにも醜悪な見た目であり、おまけにその身体は半透明なのだ。
尤も、そんな事は今重要ではない。
重要なのは、この化け物達が地上を目指すかの如く一直線に降りてきている事だ。それも一体二体ではなく、何十何百、或いはそれ以上の大群で。
「きゃあああああああ!?」
やがて先陣を進んでいた化け物が地上に到達した頃になって、誰かの悲鳴が上がった。
とても遠くから聞こえてきた。少なくとも、人混みに遮られてカタリナからは見えない位置での出来事だろう。或いは周りにある建物の向こう側で上がった声かも知れない。
だから何が起きたかなんて分からない。ただ、悲鳴が上がるというのはろくでもない事態なのは間違いない。
「……ひ、ひぃっ」
それを察した誰かが、情けない声を漏らす。
果たしてその声を上げたのは誰だったのか。男か女か、若者か年寄りか。あまりに急だったので、カタリナは聞き分ける事が出来なかった。
しかしその声が、カタリナの心の中にあった恐怖心を後押しする。
ただしカタリナが恐怖に負けて逃げ出すよりも、周りの群衆が悲鳴と共に走り出す方が早かった。
「きゃっ!?」
こっちに走ってきた誰かに突き飛ばされ、カタリナは転んでしまう。
この時、道の端にいたのが幸いした。もしも少しでも道の真ん中付近にいたなら、転んだ彼女は押し寄せる群衆に踏み付けられていただろう。
「わあああああああああ!?」
「きゃあああああああああああ!」
人々は恐怖で顔を引き攣らせ、我先にと走る。大人も子供も、逃げるのに必死だ。
転んだ拍子に我を取り戻した、というのも妙だが……カタリナは尻の痛みのお陰で、その心が恐怖に染まる事はなかった。頭は何処か他人事のように冴え、冷静に思考を巡らせられる。
冷静と言っても、闇雲に走らない程度の事だが。しかしそれで十分。自分がどうすべきかぐらいは分かる。
「(お、落ち着いて……まずは、ど、何処か、安全な場所に逃げないと……!)」
ただ走って逃げても、勢い付いた群衆に突き飛ばされるのは目に見えている。ならば安全な場所に身を隠した方が良い。
しかし、何処なら安全か?
そこらの商店に逃げ込むのは、難しいだろう。カタリナと同じ考えに至った者が、続々と集まっていたのだから。最寄りの場所は人が群がり過ぎている。また、早々に扉を締めて、避難の受け入れを拒むところも少なくない。
ここらの商店は駄目だ。
逃げ込むなら少し離れた場所の、それでいて来訪者を快く受け入れてくれるところ。そんな都合の良い場所は、カタリナには一つしか思い付かない。
それさえも、向かうのが遅くなれば扉を閉められてしまうかも知れない。
「っ……!」
立ち上がったカタリナは、目的地目指して路地裏へと走り出す。
幸いと言うべきか、パニックに陥った群衆は通りやすい表通りに群がっているため、路地裏は人が少ない。全くの無人ではないが、それでも表通りよりは遥かにマシだ。カタリナが突き飛ばされる事はなく、そのまま路地裏の先の道へと出る。
出た先の道も逃げる人で溢れていたが、先程までいた表通りよりは幾分少ない。これなら群衆に飲まれ、為す術もなく転ぶ未来は避けられるだろう。
それと、今此処で『何』が起きているかも辛うじて見える。いや、見えてしまう、という方が正しいかも知れない。
「ひ、ひ、ひぃいいいぃいいい!?」
群衆の最後方で上がる悲鳴。
声の方を見れば、太った中年男性が化け物に追い付かれていた。左右に割れた魚の頭を持つ化け物で、割れた頭の内側から伸びた触手が男の頭を貫く。
男は一瞬痙攣を起こすと、顔面から、受け身も取らずばたりと倒れる。それきり、もう彼は動かない。
化け物は満足したのか、空高く飛び上がる。
化け物が一体だけなら、男には申し訳ないが安全になったと言えよう。だが化け物はまだ大勢いる。それどころかちらりと空を見れば、新たな化け物の大群が地上へと流れ込んでいるではないか。
一体どれだけいるのかは分からないが、化け物全てが満足して何処かに帰る事は期待出来そうにない。
「あ、あああ……!」
カタリナは大急ぎで目星を付けた避難場所へと走る。
それは、とある教会だ。
イギリスはキリスト教徒が国民の半数を占める、立派なキリスト教国である。当然祈りの場である教会も多く、この町にもやや大きめの教会が一つあった。カタリナは熱心な教徒ではない(むしろ今時の若者らしく無宗教気味)が、地元民として教会の場所ぐらいは覚えていた。
教会ならば、助けを求める人を拒む事はしないだろう。広さだって十分あるため、何十人と押し掛けても入れる筈だ。
現に、今教会の前にはシスターが一人立っていて、やってきた人を中へと受け入れている。
「た、助けて……!」
「落ち着いて! もう大丈夫ですから、早く中に!」
カタリナが助けを求めれば、シスターは快く避難を受け入れてくれた。カタリナは飛び込むように扉を通り、教会内に入る。
疲れからその場に転ぶと、すぐに両腕を掴まれた。先に避難していた大人達だ。彼等はカタリナの顔を見て、少し安堵している様子だった。
受け止めてくれた事に礼を伝えつつ、カタリナは周りを見回す。
既に数十人ほどの人達が教会内にいた。敬虔なキリスト教徒に見える老夫婦や、幼い子供を連れた母親、筋肉質な若い男……教会に助けを求めたのはカタリナだけではなかった。
これだけ大勢の人が、安全だと思って逃げ込んだのだ。きっと本当に安全に違いない――――
「おいおいおい……マジかよクソっ……!」
その想いは、誰かが吐いた悪態により砕かれた。
その誰かは今風の若者。彼は窓の外を見ていて、表情が苦々しく歪んでいる。
ろくでもない出来事が見えているのは間違いない。
見たら後悔するかも知れない。だが見るのを我慢出来るほどの、カタリナは不安に強くもない。
恐る恐る、教会に備え付けられた窓の一つに近付き、カタリナは顔を覗かせる。
一目で、声を上げた男が何を見たか理解出来た。
外では今も化け物が逃げる人々を襲っていた。化け物は相当(恐らく自転車ぐらいには)速く、一度追い付かれた者が振り切る事は出来ていない様子だ。
それだけ速い相手なのだから、建物に逃げ込む者は少なくない。
カタリナが見ている前でも、建物に入り、扉を閉める者は何人もいた。扉をガンガン叩く人が来ても、決して開けない者もいる。
しかし彼等の抵抗は無駄に終わった。
何故なら化け物達は、難なく扉や壁をすり抜けているからだ。試すような素振りもなく、最初からそこに何もないかのように向かって、室内に侵入している。建物内の様子は見えないが……路上で起きた悲劇が生じている事は想像に難くない。
「(だ、駄目じゃん! こんなところに逃げても、アイツらは入ってくる!)」
教会でも身を守れそうにない。此処は安全ではない。
現実を理解したカタリナであるが、だが打てる手もない。教会から出たところで、自転車ぐらいには速い相手から何時までも逃げ切れるとは思えない。アクション映画のように方向転換で翻弄しようにも、相手は壁をすり抜ける。何かに引っ掛かって転ぶなどあり得ないだろう。
車を使えばなんとかなるかも知れないが、生憎カタリナは免許を持っていない。車を盗んだところで運転の仕方なんて分からず、何処かの壁に突っ込むのが精々だろう。大体普通の車には鍵が掛かっていて、プロでもないカタリナに盗み出す方法などなかった。
逃げられない。隠れても無駄。ならば戦う? 壁をすり抜ける奴を殴ってどうなると言うのか。
どうにもならない現実を、理解してしまう。
「ああ、主よ……どうか……」
カタリナが打ちひしがれていると、誰かがぽつりとそんな言葉を漏らす。
それは扉を開け閉めしていた、シスターの声だった。
彼女もまた現実を目の当たりにし、此処が安全ではないと理解したのだろう。そして何も出来ないがために、神に祈り始めたのだ。
「主よ……」
「お導きを……」
シスターの声が聞こえたのか、次々と祈りの声が聞こえてくる。
無宗教であるカタリナには、現実逃避にしか思えない。そんな事をしている暇があれば、現実的な対応を考えるべきだ。
「(どうしたら……数が減ったタイミングで、みんなで走れば追手も分散される……? って、いくらなんでも、お年寄りを囮にするようなのは……)」
尤も、考え付くのは非道な案。大体リスクある作戦を提案し、すんなり賛同を得られるとも思えない。
何か他の、起死回生の一手はないものか。考えても考えても答えは出ず、情報を求めて無意識に窓の外を覗く。
その時、偶々道路を漂う化け物の一体と目が合ってしまった。巨大な目玉に触手の生えた、特に気色悪い怪物だ。
「(不味……!)」
見付かった。そう感じて慌てて身を引っ込める。だが、見付かった時点で隠れても意味があるとは思えない。
最早これまでか。
……そう思い震えながら縮こまっていたカタリナだが、化け物は何時まで経っても教会内に侵入してこない。
最初は恐怖心から時間が長いように感じていると思ったが、しかしそれにしたって長過ぎる。拍子抜けした心から恐怖心は消え、もう一度窓から外を覗く。
また化け物と目が合う。
だが今度のカタリナは怯えない。何故なら先程目が合った時と、化け物のいる位置が変わっていないように思えたからだ。
【■■■■■■】
化け物は声を発しながら、右へ左へと動く。
前進しない訳ではない。しかしかなり動きが鈍く、それでいてある程度進むと一気に後ろに下がってしまう。
右往左往するその様は、何かを警戒しているようにも見える。
その化け物一体だけなら、そいつが極度の臆病者という可能性もあっただろう。だが他の化け物達も、やはり教会に近付こうとしない。
というより、大半の化け物はちらりと見るだけで、そのまま通り過ぎている。
ついには化け物達の殆どが逃げる人を追って何処かに行ってしまい、周りから仲間がいなくなると、教会を見ていた化け物達も段々離れていく。
【■■■■■■■■■】
最後までいた一匹の化け物も、やや不本意そうな(何故そう見えたのかはカタリナにも分からないが)身振りの後、教会の傍から離れた。
後に残るのは、化け物に襲われて動かなくなった人の姿だけ。
「……………あれ……」
カタリナの口から漏れ出たのは、困惑の一声。
助かった。
結論を述べればそうなのだろう。それ自体は嬉しいと思うが、あまりにもご都合が過ぎる。
どうして助かったのか。何があの化け物達を遠ざけたのか。教会を忌避する、或いは恐れるものがあったのか。
まさかとは思うが。
「(神様への祈りが通じた、とか)」
カタリナの背後には、今も必死に神への祈りを捧げる者達がいる。彼等の想いが神に届き、化け物を跳ね除けたのか?
もしもそうなら、それは、カタリナには受け入れ難い。そんな非科学的な行いで、現実が変わるなんて思えない。
だけど現に化け物は近寄らなかった。なら、やはり神様への祈りが通じた……?
「(ああ、もう分かんないや)」
科学者ならばとことん考えたかも知れないが、カタリナはまだ将来も決めていない少女。延々と一つの事を考えられるほど、この状況に興味などない。
どうして助かったかなんてのは、科学者が考えれば良い。そしてこれからどうするのかも、カタリナ自身が考える必要はない。
理屈はどうあれ『安全』な場所に逃げ込めたのだ。
「救助隊が来るまで、大人しくしてよ……」
今一番賢い選択は此処に引きこもり、助けが来るまで待つ事なのは、考えるまでもなかった。
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