安全圏


「あら、自衛隊は負けちゃったのね」


 スマホ片手に、暁美夕子はあっけらかんと呟く。

 スマホに表示されていたのは、英文の記事。タイトルは「日本の防衛軍 怪獣に敗北」という、如何にも真実よりインパクト重視な表記だ。実際、中身も日本軍自衛隊がどれだけへなちょこか、米軍がそれらに比べてどれほど優秀か並び立てている。

 反日、というより米国最強と言いたいだけの、軽薄な記事だ。

 軽く読み終えたところで、スマホからアラームが鳴る。予め決めていた『休憩時間』が終わった事を告げる音だ。つまらない記事を読んでもやもやした気持ちになっているが、時間にルーズなのは気に入らない。

 スマホをすぐにデスクの脇に置き、軽く背伸び。解すように首を回した後、目の前にあるパソコンのキーボードを叩き始める。すっかり冷えた珈琲を口に含みつつ、視線はモニターに釘付けとなる。

 これが彼女の仕事だった。

 暁美夕子は日本生まれの日本人である。

 しかし彼女が暮らすのは、世界有数の大都市であるニューヨークだ。二十代前半の時に移り住み、三十後半になる今まで暮らしている。国籍は日本であるが、永住権を取得しているため、生活の拠点はアメリカのニューヨークだ。彼女はこの大都市で、とあるフリーの雑誌記者として働いている。それなりに人気のあるライターであり、舞い込む依頼の数は少なくない。

 お陰で暮らしは上々。借りているマンションの一室は、それなりに綺麗で快適だ。二十代の頃は結婚し娘も一人いたが、今は離婚していて独り身。この広い仕事部屋も、全て自分のものである。


「(日本には母さんと父さんもいるけど、地元は東京から遠いし心配いらないわね)」


 夕子の故郷は、東京から遠く離れた北海道。そのため東京に現れた怪獣……オカルティアに直接襲われる心配はないと考えている。

 そして自分がオカルティアに襲われる事も、まずあり得ないと考えていた。

 オカルティアの存在はアメリカでも報じられている。ただし危険な未確認生物というより、謎のオカルトモンスターという扱いが強い。同盟国日本で数百人の犠牲者が出たため、最初の頃はしっかりニュースになっていたが……一月も経てば、しょうもない記事が増えてきた。

 今では陰謀論でもお決まりの題材となりつつある。ディープステートが送り込んだ悪魔なんてのはまだマシな方で、米国政府が国民を操る(具体的にどう操るかは不明)ためのフェイクという話まである始末。

 日本では数百もの人々が襲われ、被害に遭っているのに……どうにも危機感がない。


「(まぁ、それは仕方ないわね。所詮他人事だし)」


 こうも危機感がないのは、やはり他国の事だからだろう。

 他国といっても、カナダやメキシコなど地続きであれば当事者意識は生じる。何時、自国に来るか分からないのだから。

 しかし日本は太平洋を挟んだ海の向こう。その海をオカルティアがたらたら飛んでくるなんて、どうしてあり得ると思えるのか。仮に飛んでくるとしても、避難を進める時間は十分あるだろう。

 陰謀論は流石にないとしても、無闇矢鱈に怖がるのも正しくない。精々投資した証券の乱高下を気にする程度が丁度良い。それが今の米国の抱く、オカルティアへのイメージだ。


「(武器が通じない、というのが気になるけど)」


 スマホで先程見た記事は、日本の自衛隊よりも米軍が如何に強いかをつらつらと書いていた。

 確かに、自衛隊より米軍の方が圧倒的に強いだろう。予算の掛け方も、訓練のやり方も、そして実戦経験も。しかしオカルティアはそもそも攻撃がすり抜けるという話である。

 自衛隊のミサイルが効かない相手に、米軍のミサイルが効くのか? 夕子は、とてもじゃないがそんな『夢』は見られない。米軍と自衛隊の使う武器の種類は違っても、その根源的な仕組み、物理学は同じなのだ。

 もしもアメリカにオカルティアが現れたなら、日本と同じように打つ手なしではないか……


「……はぁー。止め止め、こんな事考えても仕方ないわ」


 夕子は顔を横に振り、思考を切り替える。

 無駄な行い、とは言わない。しかし科学者でも政治家でもない自分に、あの謎の存在がなんなのか、アメリカに現れるかなんて分かる訳もないのだ。下手な考え休むに似たり、という祖国のことわざもある。

 結局、夕子のような一般人に出来るのは日常生活を送り、社会に貢献する事ぐらいだ。大体自身の身を案じ、米国の未来を憂いたところで、記事の締切は伸びてくれない。


「さ、仕事仕事っと」


 改めてパソコンに向き合い、文字を打ち込むためにキーボードを叩く。カタカタという無機質な音だけが、部屋の中に響いた。

 文字を書いては考え、消し、また書き直す。淡々黙々と文章を作り、仕事を進めていく。

 そうして仕事に打ち込めば、段々時間の感覚もなくなっていく。傍にある冷えた珈琲にも口を付けなくなる。

 仕事に対するストイックさ。ニューヨークという大都市で夕子が、トップとは言えないまでも裕福な生活が出来ているのはこの『仕事人間』ぶりが大きい。

 スマホがアラームを鳴らして夕飯時である事を伝えなければ、夕子は完成まで仕事を続けていただろう。


「――――あら。もうそんな時間?」


 好調だった筆を妨げられ、少しの不快感を覚える。しかし規則的な食生活というのは、健康を保つ上で重要だ。仕事が遅れているなら兎も角、今のところ進みは順調。

 切りの良いところまで書き上げたら、今日の仕事は終わりで良いだろう。

 そう考えてもう少しだけ続きを書こうとした、が、ふと違和感を覚える。なんだと思い辺りを見回し、周囲の気配を窺った。

 違和感の原因はすぐに分かった。

 ただし室内にはない。外からだ。どういう訳か外が非常に賑やかなのである。


「(いや、これ賑やかというより……騒ぎじゃない?)」


 夕子が暮らすのはマンションの一室。それも(高層というほどではないが)地上から離れた高い位置にある。余程大きな音でなければ、道行く人々の声なんて届かない。

 だというのに、賑やかに感じるほど声が聞こえる。耳を澄ませば、それがキャーキャーワーワーという、悲鳴や叫びの類だと聞き取れた。

 ニューヨークの治安は良い。日本と比べればかなり犯罪率は高いが、それは日本の治安が世界的に見て極端に良い結果である。また区によって犯罪発生件数に大きな差があり、安全な地区であれば尚更犯罪は少なく感じられるだろう。夕子が住む富裕層の住宅地は、治安の良い場所が殆どだ。

 日常的に悲鳴が聞こえるような町ではない。とはいえ事件が一件もない訳もなく、それが今、此処で起きないとも限らない。


「(これ、大事なんじゃ……)」


 何が起きたのか。窓から覗き込もうかとも思ったが、此処は銃社会アメリカ。もしもテロの類であれば、銃弾が飛んでくる可能性もある。

 流れ弾というのは早々当たるものではないが、しかしわざわざ危険に首を突っ込むべきではない。飛んでくるのが熱々のピザなら後で訴えれば良いが、銃弾なら主張する前にあの世行きだ。身を乗り出すのは危険だろう。

 そんな危険を侵さずとも、何が起きているか知る術はある。

 例えばテレビやネットだ。特にネットは、正確性こそどうしようもないが、極めて早く情報を得られる。このぐらいの騒ぎなら、SNSやネットニュースをさぞや賑わしている筈。

 傍にあるスマホを手に取り、ニューヨークについて情報を求める。文明の利器は、使い手の要望通り一つの記事を表示した。


「モン、スター?」


 ただし、使い手がその記事のタイトルを理解出来るとは限らないが。

 モンスター。

 間違いなく、記事にはそう書かれている。英語であるが、米国在住歴十年の夕子は当然英語を使える。専門性の高い論文なら兎も角、ネット記事を読むぐらい造作もない。

 曰く、ニューヨークにモンスターが現れたとの事。

 その姿形や大きさについての情報はない。記事が出たのも、更新時間を見るにほんの十数分前だ。いくら情報伝達が早くなり、AIが簡単な文章なら作成してくれるはいえ、その指示を出すのは生きた人間である。記事を精査する時間などを考えれば、これが最新情報と考えて良いだろう。

 つまりこの騒ぎは、モンスターとやらの仕業なのか。


「……と、とりあえず、外に出ないようにすべき、なのかしら……」


 モンスターの対処法なんて分からない。家には銃が一つ置いてあるが、普段使わないのでちゃんと扱える自信はない。映画やドラマよろしく戦ったところで、モブのように食い殺される未来しか浮かばなかった。

 ならば大人しく家の奥に引きこもるのが正解だろう。それと、モンスター相手なら自分が銃撃される可能性はない筈だ。なら、窓から覗き見ても危険ではあるまい。

 とりあえず様子を窺ってみよう。そう考えた夕子は慎重に、窓から身体を乗り出して外の様子を覗き込み――――

 姿


「……………え」


 思わず、声が出た。

 瞬きもする。それでも窓の外を通るモンスターの姿は消えない。

 相手は窓よりも遥かに大きく、故に全体像は不明。しかし半透明という奇怪な姿を見れば、一つの可能性が脳裏を過る。

 オカルティア。

 日本に現れたという奇妙なモンスターが、此処ニューヨークにも出現したのではないか。そして曲がりなりにも日本人である彼女は、故郷に現れた怪獣について少なからず調べていた。

 だから知っている。この奇妙な化け物は、建物をすり抜ける事が出来ると。その身に触れた人間が、原因不明の昏睡状態に陥っている事も。

 見付かれば、どうなるか分からない。その恐怖心によるものか、夕子はひしひしと感じてしまう。

 見られている、と。


「ひっ」


 小さな悲鳴を一つ漏らした夕子は、無我夢中で走り出す。

 仕事部屋から飛び出し、向かうは自宅の最奥である浴室。アメリカでは珍しくもない、トイレと一体化かつ洗い場のない様式のバスルームだ。中に入るやすぐに扉を閉じ、窓のない空間に引きこもる。

 それでも足りないとばかりにバスタブに入り、バスタブ周囲にあるカーテンも締める。防水性の分厚いシャワーカーテンは、外の景色を完全に遮断した。

 カーテンのうちにいる夕子には、もう部屋の様子は分からない。自分から見えないという事は、つまり相手からも見えないという事だ。だから自分は今、完全にオカルティアから隠れていると夕子は頭では確信している。

 なのに、どうしてなのか。

 見られている感覚は、何時までも消えない。


「(大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫……!)」


 心の中で唱える、自分に言い聞かせる言葉。その言葉が誤って外に出ないよう、口を両手で覆う。

 今度は心臓の音が五月蝿く思う。擦れる服の音が、金切り声のように感じる。呼吸の乱れが悲鳴のように喧しい。

 それら全てを止めたいと思いながら、夕子は隠れ続け――――

 それら全ての努力を嘲笑うように、カーテンをすり抜けて透明な触手が現れた。


「あっ……」


 声が出た。何もかも無意味と察して。

 透明で、太さ二メートルはあろうかという巨大な触手は、すり抜けてきた時から正確に夕子を狙っていた。最初から、此処にいると分かっていたかのように。

 隠れても無駄だと言われているように夕子には思えた。必死にバスルームに逃げ込んだ自分があまりにも滑稽に感じ、へらへらと笑い声が漏れ出す。

 尤も、人間の態度などどうでも良いのか。触手はゆっくりと、着実に夕子へと迫る。


「た、助けて……警察、ううん、ぐ、軍隊が、来てくれれば……」


 最早他人に頼る以外に、助かる術は思い付かず。

 しかしここまで追い込まれた状況で、都合良く軍人が駆け付けてくれる事はなく。

 急激に加速して飛んでくる触手が、夕子が最後に目にした光景となった。

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