撮影者の矜持

 背中を覆うほどに大きなリュックの中身をガチャガチャと鳴らしながら、岩井三彦は歩いていた。

 大都会、というほどの規模ではないが、ビルが建ち並ぶ発展した市街地。人間の繁栄を物語る都市を歩く三彦だったが、彼の進む先に人の姿はない。それどころか放置された車や、落としたまま片付けられていないゴミなどがあちこちに散乱。コンビニやレストランは腐った食べ物の臭いを撒き散らし、美容室やブディックなどの店は割れた窓ガラスが放置されている。

 都市は無人だった。三彦は車道の真ん中を歩いていたが、車が来ないため全く危険はない。なんとも異様な風景だが、三彦はこの状況に戸惑いなど覚えない。少なくとも情報だけは、今や世界中の誰もが知っているのだ。

 我が物顔で町の上空を飛ぶ、正体不明の生命体によって、この都市の人間達は『避難』を余儀なくされたのだと。


「あれを生物だとは、俺は思わねぇがな」


 遥か数百メートル先。人間からすれば十分でも、相手からすれば然程遠くないであろう場所で堂々と三彦は独りごちる。当の未確認生物は、彼の悪態など興味もないようで、海中のクラゲのようにふわふわと空を流れていくだけ。

 ――――未確認生物。

 の昼頃、突如現れたこの存在を日本政府はそう呼んでいる。とはいえ正式名称ではなく、生物的な見た目をしているため一旦はそう呼称しよう、程度のものだ。いずれ専門家がそれっぽい名前を付けるだろう。

 しかし新しい名が定着する事は恐らくない。何故ならその存在が公表されてから、今や誰でもアクセス出来るネットの世界は大盛り上がり。冷静な対応を求める政府などお構いなしに、あれやこれやと意見が飛び交い、ついには名前も(誰が言い出しっぺかは不明だが)勝手に与えられているのだ。

 触れる事の出来ない、科学的に説明出来ない存在……オカルティアと。


「(ま、おふざけで付けた名だろうが)」


 未確認生物オカルティアの被害者数の全容は、オカルティア出現から五日も経ってようやく判明しつつある。

 逃げる際の事故などによる死傷者は五十九名、そして触手に触れられるなど直接的な被害を受けた人数は六百十二名。

 大規模災害にも匹敵する、甚大な犠牲者数である。それほどの災禍でありながら、しかし国民に然程危機意識はない。巨大生物による被害となれば自衛隊の出撃を求める声も出そうなものだが、これもかなり小規模でしかない。

 理由は簡単。

 今時、災害でも戦争でも映像による証拠はいくらでも出てくる。スマホや携帯電話の普及により、何時でも誰でもカメラマンになれるからだ。それは誰でも情報を迅速に得られるという意味では大きな進歩であるが……しかし同時に、フェイクニュースという偽情報も生み出した。だからこそ、証拠のないものは半信半疑で見られる。

 それ自体は悪い事ではない。証拠なしになんでも信じるよりは遥かに健全だろう。だが証拠なしには多くの話が信じてもらえなくなった。

 流石に「政府が嘘を吐いている」「マスコミは政府の手先」とまで言う陰謀論者は少数だが……大抵の人々に、未確認生物オカルティアの危険性はいまいち伝わっていない。むしろ必死に話すほど滑稽に見られてしまう。間違いなく被害者がいるというのに。

 それは、報道機関であるマスコミの威信に関わる。

 どうにかして映像を撮りたい。世界が注目する映像を撮影し、世間に放送したい。人々に今起きている出来事を伝えたい。

 マスコミ関係者が抱く強烈なプライド願望

 それを叶えるために三彦は此処を訪れた。正確には、依頼されたと言うべきか。


「(マスコミの威信、なんてもんには興味ないが……誰も撮影した事のない存在を捉えるのは、面白い)」


 三彦という男は、撮影に魅了されている。幼い頃からカメラを持ち、青年期には身近にあるものをなんでも撮影した。

 写真も動画も嗜む。スマホの小さな画面で撮影したものも、高級カメラで撮ったものも別け隔てなどしない。兎に角撮影する事が好きな、別れた恋人が言うには「カメラ狂い」である。彼の撮影した写真は世界中で見られ、世界で最も有名な日本人カメラマンといっても過言ではない。

 そんな彼にとって、誰も撮影した事がない謎の生命体というのは……イエティやネッシーのような胡散臭いものでなければ……是非とも挑みたい獲物だ。

 例え相手が人間を襲う、『命』の危険がある相手だとしても、その情動は止められない。むしろ、だからこそ撮影し甲斐があるとすら思う。

 無論、やる気があれば願いは叶う、なんて甘っちょろい事を三彦は考えていない。願いを叶えるためには、二つの要素が必要だ。

 一つは腕前、もう一つは道具。

 そして世界でも名だたるカメラマンである三彦は今日、最高峰の道具を持ってきた。


「(まずは、普通のカメラを使うとしよう)」


 背負っているリュックの中から取り出したのは、一台の一眼レフカメラ。

 普通の、と三彦は思っていたが、その大きさは平均的なカメラを大きく上回る。大の男でも、両手でしっかり掴まねば落としてしまいそうな重量感がある代物だ。素人目には何が良いかは分からないだろうが……それはカメラに関わる仕事をする者ならば、誰もが知っているほどに有名かつ高級な一品だった。フィルム式で、後ほど現像を必要とする古い仕組みのカメラでもある。

 高い=良いとは限らないが、良いものは安くない。少なくともこのカメラは、カメラ狂いである三彦にとって仕事道具とするに足る性能を持っている。もう十年も使っている、相棒と言える道具だ。

 その相棒のファインダーを覗き込み、眼前のオカルティアを撮影しようとする。

 が、すぐにカメラを下ろす。

 覗き込んだカメラのファインダーに、オカルティアの姿がなかったために。


「ま、これで撮れたら苦労はねぇな」


 納得したように独りごちる三彦。淡々とした言葉は冷静そのものである。

 当然だ。カメラに映らないというのは、事前情報として散々聞いた話。その通りになって驚くなんて間抜けにも程がある。

 ただ、不思議には思うが。


「(確かに、人間の目とカメラは違う。だから映り方も違う)」


 そもそも『見る』とはどのような原理で起きる事象か。

 それは目に入ってきた光を、事で生じている。つまり人間は、現実をありのまま見ている訳ではない。見えているのはあくまでも電気信号の解析結果だ。

 こう言うと、多くの人はまさかと思う。自分の目が現実を見ていないなんて、信じたくないからだ。

 しかし証拠はある。

 例えば色盲。これは目に一部の色を『受信』する能力が欠如していて、脳に情報が伝わらない事で生じる。また色盲でなくとも、人間の目は可視光と呼ばれる一定周波数の光しか受信出来ない。昆虫などは人間には見えない紫外線も感知出来るため、人間よりも余程世界を正確に捉えているだろう。

 また幻覚も、人間が現実をそのまま見ていない証拠だ。これは目から入ってきた情報を脳が正しく処理していない、或いは別の刺激を『視覚』として誤って処理する事で生じる。認知症の症状に電源コードをヘビと判断するなど『見間違い』があるが、これもまた脳の認知機能が衰えて見たものを正確に判断出来ない事に由来する。

 更に脳は、認識した映像を様々な形で補正する。赤などの暖色を実物より大きく感じ、青などの寒色を実物より小さく感じるという錯視は、この補正の影響である。しかもこの補正を意図的に利用すれば、色さえも誤認させる事が可能だ。人間の目というのは、人間が思うよりも遥かにポンコツなのである。

 さて。ではカメラはどうなのか。

 カメラというのは、レンズに入り込んできた光を絵として映し出す道具だ。ある意味人間の目より、余程正確に世界を映し出す。人間のような幻覚は生じない。

 なら、オカルティアは人間に錯覚や幻覚を引き起こす見た目をしているのか? だからカメラに映らないのか?

 ――――それも、納得は出来ない。


「(少なくとも人間の目には見えてる。つまり、可視光はある筈なんだ。だったらそれは映らなきゃおかしい)」


 相棒のカメラをバッグにしまい、代わりに取り出したのは安物のデジカメ。

 これにも、やはり映らない。レンズを覗き込めば、そこにいる筈のオカルティアは全く見えない。

 あり得ない、と言いたくなる。

 先程人間の目は世界を正確に見ていないと述べたが、ではそもそも目で見ている『世界』とは何か。それは物体が放つ(或いは反射した)光だ。光とは電磁波であり、人間はこの電磁波のうち凡そ三百六十〜八百三十ナノメートルの波形が見える(これを可視光と呼ぶ)。

 当然ながら、デジカメもフィルムカメラもこの可視光を映す。そうでなければ紫外線やら赤外線などに反応し、人間が見ているのとは全く違う景色を描いてしまう。仮に写った場合でも、それは可視光へと変換されたものだ。そうでなければ写真に写らない人間には見えない

 人間の目には見えるのに、カメラには映らない。そんな存在は、カメラの原理的に考え難い。

 だが、現に映っていない。可視光を捉えるカメラでは、何も見えない。

 もっと言うと、鳴き声も録音出来ていない。デジカメのカメラ映像を見直しても、そこにはのどかな青空が広がるだけ。こんなものを提出しても、頭のおかしな奴のアレな記録動画にしかならないだろう。

 音についてはやや専門外ではあるので多くは言わないが、映像についてなら三彦は色々思うところがある。


「(人間の目には、可視光以外の何かが見えているとでも言うのか)」


 辺りを見回してみる。

 集中すれば、あちこちに『生き物』の姿が確認出来た。鳥や虫、それと猫。探せば、そこらに放たれた野良犬なども見付かるかも知れない。

 動物達は見る限り、オカルティアを警戒している様子はない。鳥の一部は平然とオカルティアの方へと飛んでいる。オカルティアも近くを飛ぶ鳥には興味がないのか、特に行動を起こさない。

 色々実験してみなければ確かな事は言えないが、人間以外の生物にもオカルティアは見えていないのではないか。

 人間の感覚だけが、オカルティアを捉えているのではないか。


「(俺達の目や耳ってのは、そんなに特別だったかね)」


 デジカメをしまう。次に取り出すのは、赤外線カメラ。

 赤外線は可視光よりも波長の長い電磁波である。故に人間の目には見えないが、赤外線自体はほぼあらゆる物質が放っている。というのも熱は外へと逃げる際、赤外線という形になるからだ。

 ヘビなど一部の生物は、獲物の『体温』から放たれる赤外線を視認するという。これにより一見して暗い、真夜中や草むらの中でも問題なく獲物を探し出せる。

 人間の目は赤外線に対応していない。というより「赤の外側見えない部分」にあるものを赤外線と呼ぶのだから、定義からして赤外線が見えたらおかしい。とはいえもしかすると微かに見えていて、それがオカルティアの姿が写真に映らない秘密なのでは……

 そんな僅かな可能性は、何も映さない赤外線カメラが否定する。


「(赤外線が見えている訳でもない。それどころか熱を発していない、って事か)」


 ますますあり得ない。

 赤外線を、熱を発しない物体など考えられない。何故ならそれは、自身が受けた熱を一切外に逃さない……永遠に加熱され続けるのと同じ事だからだ。周囲よりも温度が高ければ、熱力学の法則に従い必ず放熱は起こる。

 或いは、一切熱を吸収していないのか。これも考えられない。確かにオカルティアの身体は透けているが、完全な透明ではない。ならば光の一部は、その身で受け止めている(そして太陽光と色合いが違う以上一部の波長の光は吸収している)。受けた光エネルギーは、吸収される過程で熱になる。発熱しない訳がない。

 だというのに、オカルティアはそのあり得ない状態を悠然と示す。


「(紫外線センサーも反応なし)」


 使えない赤外線カメラを投げ捨て、紫外線センサーを取り出す。ガイガーカウンターや鏡を用いても、やはりオカルティアは映らない。

 赤外線と紫外線は、人間の見える範囲で言うと両端に位置する領域だ。つまりこの二つで捉えられないからには、その姿は可視光によるものの筈である。ガイガーカウンターは放射線、鏡は反射した光。それらを使っても、オカルティアの姿は映らない。


「(なんだ? コイツは、一体なんであれば見える? どうして人間の目に見える?)」


 三彦の顔に引き攣った笑みが浮かぶ。冷や汗が流れ、心臓がバクバクと高鳴り始める。

 『見る』とは、科学だ。だから見えるものは科学的に解明出来るし、出来なければおかしい。

 その科学が、まるで通じない。


「(なんなんだコイツは。どうして何も映らない? いや、どうして人間には見える? どうして、どうしてどうしてどうして)」


 頭の中で同じ考えがぐるぐる巡る。高価で高性能なカメラ達をゴミのように投げ捨て、次々と変えていくが一枚も撮れない。

 人類の叡智が、自身の経験が、何一つ上手くいかない。

 誰にも撮影出来ない訳だ。納得するのと共に、三彦は情熱が込み上がるのを感じる。誰にも、どんな道具でも、科学でも捉えられなかった相手を俺が捕まえてやる……カメラ狂いと言われたこの男にとって、撮影出来ない事は一種の『挑戦状』に思えた。

 なんとしても撮影してやる。その心意気は、しかし半透明な怪物は汲んではくれず。

 ふと気付いた時、オカルティアは三彦の方をいた。


「――――あっ」


 今になって気付く。そして手遅れである事にも。

 クラゲのような姿をしているオカルティアに、目も顔もない。自我があるかも怪しい。

 だというのに、三彦はハッキリとオカルティアが自分を見ていると感じた。

 感覚が正しい事は、オカルティアがこちらに近付いてきている事が証明する。これまで風任せと思うほど不規則な動きだったのに、今のオカルティアは真っ直ぐ三彦に向けて進んでいるのだ。

 おまけにその速さは、明らかに人間の全力疾走を上回る。

 いや、全力疾走どころか車よりも速いかも知れない。近くのビルに逃げ込んだところで、そのビルをすり抜けるからこそオカルティア。立て籠もる事は出来ない。

 どう考えても逃げる術がない。


「……ふ、くくっ」


 その事実を理解しながら、それでも三彦は笑う。

 恐怖を感じない訳ではない。自分の間抜けさ、失態を受け入れられない訳でもない。

 笑っているのは、これで出来るから。

 三彦がいる場所は、周りのビルの屋上などに彼が設置した十五台のカメラにより撮影されている。カメラは通常の撮影用だけでなく、赤外線や望遠など、様々な機能を備えたものを用意した。

 無論、これらのカメラがオカルティアの姿を映す事はあるまい。それで撮影出来るなら、三彦が取り出した数々のカメラのどれかがとっくに写しているだろう。映るのは道路に立つ三彦だけ。

 だからこそ映し出される筈だ。三彦がオカルティアに襲われ、

 この瞬間を捉えれば、それは世界で初めてオカルティアを撮影した映像となる。カメラの映像は後日、弟子の手によりマスコミへと送られる手筈だ。世界を席巻し、歴史に名を残せるかも知れない。

 冥土の土産としては上物だ。少なくとも三彦にとっては。

 とはいえ、それは最後の手段である。


「来い……来い、来い!」


 長年の相棒であるカメラを構えながら、三彦はオカルティアを撮影する。パシャリパシャリとシャッターを切り、写真を撮っていく。

 恐らく、何も映っていない。

 だがそれでも写真を撮らずにはいられない。カメラは、撮影は、彼にとって心から求める行いなのだ。

 迫るオカルティアは、長い触手を三彦へと伸ばす。己の目に焼き付けるように、三彦は触手をじっと見つめ、撮影し続ける。

 その触手が、自分の身体をすり抜ける貫く瞬間まで。

 触手に貫かれた瞬間訪れる、意識の薄れ。そして決定的瞬間を撮影したという確信から、三彦は笑みを浮かべる。


「(あと、は、マスコミ、連中に、ま、かせ……)」


 最後に考えたのは、自分の意思を継いでくれる者達。

 その思考さえもなくなるや、パタリと、道路の真ん中に倒れ込む。

 息はしている。心臓は動き、血液は身体を巡る。身体的欠損は何処にもない。

 けれども二度と、三彦が意識を取り戻す事はなかった。

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