未確認生物

 東京都某所。ビルが建ち並ぶそれなりの都心に、今や人の姿はない。

 時間帯は昼間。太陽が燦々と空で輝き、暖かな日差しが地上を照らす。春の明るさは都市を心地良い陽気で包んでいるが、それを満喫する人の姿はない。

 何しろそびえるビル群の中を、巨大な『未確認生物』が浮遊しているのだから。

 昨日、都内のとある公園から現れた巨大な生命体は今も都市部にいた。避難誘導と『救助』が終わり無人となった町を、生物はふわふわと飛び回る。いや、漂うという方が正確か。何処かに向かう素振りもなく、まるで風に流されるかのように右へ左へ、不規則に動いていた。逆さにした茶碗のような身体は縁がひらひらと動き、長い触手状の腕も力なく揺れ動く。正に水中を漂うクラゲの如し。

 ただしクラゲは、コンクリートで出来たビルをすり抜けるなんて事はしないが。

 一つだけではなく、二つも三つもすり抜けていく。ビルをすり抜けても、未確認生物は苦しむ様子も苦労する素振りもない。幾つも幾つも抜けていき、けれども時折来た道を戻るように漂う。


「いやー、不思議な生き物ねぇ」


 その様子を、夏目美奈子は遠くから眺めていた。

 美奈子は所謂科学者である。専門は生物学、特に海洋生物学に詳しい。三十代という若さ、それと見目の麗しさもあって、海洋生物学の世界ではそれなりに有名だ。尤も一般人には殆ど知られていないが。

 美奈子がいるのはとあるビルの屋上。開けたその場所は、未確認生物からざっと数百メートルは離れた位置にある。人間からすればかなりの距離だが、相手は胴体だけでも二十メートルはある存在。高々自身の体長の数十倍程度の距離など、行こうと思えばすぐに横断出来るだろう。


「せ、先生。あまりはしゃぐと、その……」


 連れてきた助手(まだ若い男子大学生だ。強制して連れてきた訳ではなく向こうから志願してきた)は、この状況を不安に思っているのだろう。弱々しい声で美奈子を戒めてくる。

 しかし美奈子は気にせず、むしろ不敵に笑うばかり。


「この距離での話し声が聞こえるなら、とうの昔に勘付かれているわよ。警戒を怠らないのは良いけど、気にし過ぎても成果は出せないわ」


「そ、それは、そうかもですけど……」


「あと、あんまり遠くからじゃ詳しい事は分からない。情報の共有を絞るのもマイナスね。多少はどーんっと構えなきゃ駄目よ」


 成果を得るため、多少のリスクは仕方ない。それは助手も分かっているようで、反論自体は途絶えた。

 とはいえ気持ちが納得していないのは、不服そうな顔を見れば誰にでも分かる。

 そして助手が不服に思うのも無理ないと、美奈子も思う。

 何しろ相手は一昨日から、少なくとも数百人の人間を襲い……触れただけで『昏睡』状態に陥らせた存在なのだから。今も被害者は目覚めておらず、原因も分かっていない。

 だからこそ政府は急ぎ生命体の謎を解き明かし、可能ならば『撃退』するべく、美奈子含めた優秀な科学者数名を現地に送り込んだのだ。つまり美奈子は調査隊の一人という事である。

 勿論単身で、なんて無謀な真似はしていない。このビルの屋上には美奈子と助手以外に、大勢の自衛隊員が待機している。もしも未確認生物が美奈子達の下に向ってくれば、彼等が避難を助けてくれるだろう。

 ……逃げ切れるとは限らないが。

 なんにせよ科学者達は誇りと使命感を持って、この現場に来ている。必ずやこの奇妙な生命体の正体を突き止めようと、決意を固めていた。美奈子も例外ではない。


「確かに、遠くから見ても分からないかもですけど……そもそも、観察したところで何か分かるんですか。あんなものが」


 ただし助手は、そんなのは無理だと決め付けているようだが。


「あら。なんでそう思う訳?」


「なんでって、だってアレ、建物をすり抜けるんですよ!? それにカメラにも映らないし……」


 助手は解明が無理な理由を、感情の強さからか少々拙い言い方で述べていく。

 彼の言う通りではある。

 出現から丸二日が経ち、国も情報をある程度集め、精査する事が出来ている。そしてその情報は、現地調査をする科学者達にも伝えられた。

 まず、未確認生物は物を

 逃げ延びた市民や警察官の証言によれば、建物どころか弾丸、人間さえもすり抜けているらしい。まさかと誰もが思ったが、現に建物をすいすいと素通りしている。現在進行系、今美奈子達の目の前でも起きている現象だ。

 そしてカメラなど、映像機器にも映らない。スマホどころか専門的な撮影機材でも姿は捉えられず、故に今まで『記録』は文章でしか記されていない有り様。肉眼で確認するまで、美奈子もその姿を知らなかったし、全ての情報が集まる政治家達もろくに姿を把握していない。

 ものをすり抜け、カメラに映らない。そんな存在を示す言葉があるとすれば、一つだけ。


「ま、まるで、幽霊じゃないですか! オカルトです! 非科学的です!」


 助手が言うように、幽霊という言葉だ。

 しかし美奈子は助手の意見を、肩を竦めて聞き流す。


「非科学的ねぇ。何が、非科学的なのかしら」


「何もかもですよ! 建物をすり抜けるなんてあり得ないですし、見えているのにカメラに映らないなんて……か、科学では解明出来ない何かとしか……」


 必死に、或いは怖がるように。助手は訴える。

 ある意味、彼の言い分は一般人の気持ちを代弁しているのかも知れない。どうして建物をすり抜けるのか? 何故カメラに映らないのか? その答えを今の人類は持ち合わせていかい。

 まるで幽霊みたいな存在だ。故に『非科学的』で、科学者が敵う相手ではない。助手はそう感じているのだろう。


「……君、科学者向いてないわよ?」


 だからこそ美奈子はバッサリと、その考えを切り捨てるのだが。


「うぐっ!? む、向いてないって……」


「非科学的って言うのはね、相手の理屈が科学に沿ってない時に使う言葉よ。詐欺師とか陰謀論に対するもの。大体、あなたは科学をなんだと思ってんのよ」


「な、何と言われても……」


「科学ってのはね、そこで起きている現象を解明する事。現実に起きたものに非科学はない。ただ知らないだけであり、そこにルールを見い出す行程の全てが科学なのよ」


 建物をすり抜ける、カメラに映らない。どれも事実だ。事実であればそこには何かしらの規則性ルールがある。

 この規則性を解き明かす行程を科学と呼ぶ。幽霊が非科学的なのではない。幽霊がいると主張する、その根拠が非科学的なのだ。また古来の人類が雷を神の怒りオカルトと思ったように、今でこそ科学的説明の付く事象が、過去には神秘だった例などいくらでもある。先人達が規則性を発見したからこそ、人類は雷を避けるのに必要なのはお守りではなく、自分より高いものがある場所だと知っているのだ。

 そして規則性を導き出す方法は多岐に渡る。物理学、化学、量子力学……美奈子が専門とする生物学もその一つ。


「私達は生物学的に、あの存在のルールを見付けてやりましょう」


 美奈子からすれば、未知の塊であろう未確認生物を『科学』する事は、楽しくて仕方なかった。


「せ、生物学的って言いますけど……そもそもあれは生物なんですか?」


 しかし助手も中々頑固だ。美奈子の考えを、根幹から否定してくる。

 おまけにこの否定、確かに美奈子はハッキリとは反論出来ない。


「確かに。今の人類が考えている生物には当て嵌まりそうにないわね」


 生物の定義は三つある。

 一つは自己増殖能力。自分のコピーを残す能力がある事だ。

 二つ目の定義は、代謝能力。外界から物質やエネルギーを取り込み、化学反応を起こす。これにより身体を作り、活動のためのエネルギーを生み出す。

 そして三つ目が外界との境界を持つ事。簡単に言えば膜に包まれた細胞を持つ事である。

 これらの定義に当て嵌まらないものは、一般的には生物と見做さない。例えばどれだけ高性能でもロボットを生物として扱わないのは、自己増殖能力を持たないため。また水や空気も生き物とは扱わない。外界との境界を持たないそれらは、『個』を持たないのだから。

 さて。改めて未確認生物について考えてみる。

 建物をすり抜ける、という事は……少なくともその身体は、膜には覆われていないだろう。つまり第三の定義を満たしていない。ならば生物ではない、というのが科学的な意見に思える。第一と第二の定義を満たすかは分からないが、物質との相互干渉がなければ化学反応は起こせない。恐らく第二の定義も満たしていないだろう。

 三つある条件のうち、二つに当て嵌まらない。ならばあれは生物ではないとするのが『科学的』な意見だ。

 しかし、事はそう単純ではない。


「でも、そもそも生物の定義ってなんなのかしら?」


「え? それは……えっと……?」


「簡単に言えば、人間が今まで発見した生物の共通特徴を挙げただけ。つまり既知の生物だけを対象にしているの」


 人間は、自分達が発見した生き物しか知らない。

 この当たり前の事実故に、人間が生物と定める存在は。つまり何処か遠い星にいる、金属生命体や珪素生命体などは対象外という事だ。

 人類の知らない『生命』が現れれば、こんな定義は簡単に揺らぐ。あれが生物かどうかなんて考えは、未知の前ではなんの意味もないのだ。

 むしろ生物学者としては、あれがどんな生き物であるか、という観点で考えるべきだろう。


「常識と異なるからって、考える事を放棄するのは論外。まずは生き物である前提で、少し考えてみましょ」


「それは、そうかも、ですけど……でも、何から考えれば……」


「変に特別扱いしないでいいのよ。観察した通り、確認出来た事から事実を推察すれば良い」


 そう言いながら、美奈子は未確認生物をじっと観察する。

 ……注意深く観察したところで、未確認生物の行動は、やはりふわふわ漂っているだけとしか表現出来ない。

 だからこそ、言える事もある。


「まず、あれに知性はあると思う?」


「……偏見を抜きに考えられたかは分かりませんが、あるようには見えません。ただ漂っているだけな感じがします」


「ええ、私もそう思う」


 仮に、少しでも知能があれば……もう少し行動にバリエーションがあるだろう。例えば触手を無意味に動かすだの、身体を不規則に動かすだの。

 しかし未確認生物は、美奈子が観察する限り知的な行動を見せていない。ただ漂い、流されるがままビルを通り抜けていくだけ。

 また、何かを探し回る素振りもない。

 知性、というのは推し量るのが難しい。そもそも「賢い」とは何か、自称賢い生物である人間でもよく分かっていないのだ。というより人間の言う賢さは、自分達を一番に置くための屁理屈なので当てにならない。瞬間的な記憶力ではチンパンジーの方が人類よりも遥かに上だが、この事実を知ってもチンパンジーの方が人間よりも賢いと思う者はまずいないだろう。あれこれと言い訳を述べて否定する筈だ。

 強いて知性について定義するなら、自我の有無だろうか。どんなに賢く見える行動をしても、それが本能や反射であれば人は知性だとは認めない。『自我』こそが知性であり、その上で賢いと人は思う。

 長々と頭の中で自説を述べた美奈子であるが、要約するにあの未確認生物に自我があるとは考え難いという事。


「知能がないとしたら、これまで見せた行動は全て本能や反射という事になるわね」


「行動?」


「人間を襲った事よ。仮に本能であれば、それはあの生物にとってなんらかの、生存上の利点があると考えるのが自然」


 何故生物には本能、或いは刺激に対する反射が備わっているのか。

 それは生存する上で有利だからだ。例えば熱いものに触れた時、思わず手を引っ込めるのは反射的行動だが、これは火傷など『怪我』が酷くなるのを避けるのに役立つ。

 他の例としては、昆虫は餌を食べる時、それが食べ物だと理解して食べている訳ではないのが挙げられる。昆虫は触角などで食べ物に触れると、そこに含まれる特定の化学物質に反応。誘引され、噛み付き、そして飲み込む。こうして彼等は親に教わらずとも、正しい餌を食べる事が出来るのだ。

 こういった本能的・反射的行動は、基本的に無駄なものはない。何故なら無駄な動きはエネルギーの浪費だからである。『自然界』において無駄なエネルギーを使う余裕なんてない。それに少しでも多くのエネルギーを繁殖に回した方が、より多くの子孫を残せるため繁栄出来る。

 建物をすり抜けるような未確認生物に、地球生命の常識が通じるかは分からない。だがこの未確認生物が『野生』の生き物ならば、人類にとって既知の生物と同じく、合理的で適応的なものが生き残り繁栄する筈だ。仮に自然のものではない、なんらかの生物兵器だとしても、行動は合理的な意味を持たせるに違いない。

 未確認生物に知能がなく、にも拘らず人間を襲ったのだとすれば……理由がある。正体がなんであれ、これは間違いない。


「一般的に、生物が他種を襲う理由は二つ。一つは追い払うため、もう一つは食べるため」


「……被害者の身体に欠損はありませんよね?」


「そうね。だから食べた訳じゃない。だとすると、攻撃の可能性が高い」


 しかしそうなると、何故人間を攻撃したのか?

 未確認生物の大きさは胴体部分だけで二十メートル、触手を含めれば七十メートル近い。人間などこの巨体を前にすれば虫けら、とまではいかないにしても、小動物のようなものだろう。

 群れる小動物がいたとして、積極的に攻撃を仕掛けるものだろうか? 自然の生物は無駄な闘争を避ける。戦いには多くのエネルギーを使うからだ。をわざわざ殺すような余裕は、自然界には存在しない。

 不自然な行動をしたのは何故なのか。未確認生物の正体が生物兵器で、何処かの国の攻撃司令でも受けているのか。はたまた人間が何かをやらかし、『敵意』を買ったのか。


「(そもそも、食べた訳じゃないってのが推測に過ぎない)」


 本当に、襲われた人間は何処にも欠損がないのか。襲われた者達は、誰もが昏睡状態に陥っているのだ。重要な身体的要素を失ったと考えるのが自然だろう。

 だが未確認生物の狩りの様子を観察する事は、出来れば避けたい。倫理的にも許されない行いだ。そもそも肉眼による観測では、十分な記録を残せない。

 ……意味がない、とまでは言わない。しかし目視による観察では、全てを知るのは困難だ。ほんの一瞬行った動きを見過ごす可能性だってある。加えて何時襲われるか分からない環境では、どれだけ取り繕っても冷静な判断なんて出来ない。また、過去に起きた事を検証する事も不可能である。

 安全な場所で、何度も見返す作業をしたい。そして何より、この珍妙な生命の存在を世界に証明するには、やはり『映像記録』が必要だ。

 されど原状、未確認生物の記録は出来ていない。少なくとも生物学の知識では、失敗の原因は説明出来ない状況である。


「(プロのカメラマンなら、どうにか出来るのかしら)」


 自分に出来ないのなら、専門家に頼る。それは他力本願ではなく、人類社会をここまで『発展』させた方法論だ。

 危険な未確認生物相手でも、その方法はきっと通用する。いや、科学者だけでは、この難局は打開出来ないかも知れない。

 無論、科学者も必要だろう。

 皆が力を合わせなければならない事態。その皆の中に、自分もいる。その意識を改めて心に抱いた美奈子は、カメラではなくスケッチブックを手に取る。

 自分の残した記録が、誰かの役に立つ事を願って……

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