避難誘導

 宮崎春香は混乱していた。


「慌てないで! 落ち着いて行動してください!」


 大きな声で、如何にも自分は冷静だと言わんばかりの指示を出すのが滑稽に思えてくる。

 春香は都内に勤めている女性警察官である。昔よりも大分増えたとはいえ、警察内部ではまだまだ少数派の立場だ。現在は交通課勤務であり、速度違反や駐車違反などを取り締まっている。二十代という若さもあって、犯罪者だけでなく同僚や市民にも嘗められないよう気を引き締める毎日を送っていた。

 そんな自分達が大勢駆り出され、避難誘導をしなければならないほどに現場――――都内の一画は大混乱に陥っていた。


「きゃあああっ!?」


「おい! 押すな!」


 春香の大声さえ掻き消さんばかりの、悲鳴や罵声があちこちから聞こえてくる。そして悲鳴の発生源である大勢の、何百にも及ぶ市民はその殆どが取り乱し、我先に逃げようとしていた。人混みは一定方向に向かって進んでいるが、しかし動きは無秩序。流れに乗れず転んだり、突き飛ばされたりする人も少なくない。

 この辺りの地域は渋谷や新宿ほど開発されてないとはいえ、曲がりなりにも東京である。交通の便の良さから様々な施設……マンション、商業施設、企業ビル……が建ち並ぶ程度には都会だ。春香が立つ道路も、左右に歩道がありつつ、四車線も通る大きな一般道である。

 此処に通う人々が一切に逃げていると思えば、この大混乱も必然だろう。道路を走る車もお世辞にも安全運転とは言い難い動きをしている。対向車線に出て逆走する車も見られた。反対車線に車が殆どいないから事故になっていないものの、危険極まりない。道路には大勢の警察官がいるのに、その違法行為を止めたり誤魔化そうとしたりする者は殆ど見られなかった。

 こうした混乱は、避難の進捗を遅らせるだけ。此処にいる人々が列を成してくれれば、車は安全運転を心掛ければ、それだけで数倍は効率良く避難が進むのに、我先へと逃げ出すからこそ前に行けなくなる。

 更にこの混乱は、市民だけのものではない。


「(一体、私達は何と対処しているの……?)」


 警察側も、十分な情報を持っている訳ではなかった。

 事の発端は市民からの通報。どうやらとある自然公園に、巨大な生命体が現れた。そしてそれが人を襲っている……らしい。通報を受けた警察官は最初大きなクマかイノシシでも出たのかと思ったが、通報者は怪獣のような何かと主張しているようだ。

 いきなり怪獣が現れたと言われても、春香含めて大多数の警察官にはとてもじゃないが信じられない。しかし通報者は一人ではなく、何人もいるとなれば虚偽として無視する訳にもいかない。ましてや市街地がパニック状態なのは他の通報からも明らか。何もしない、という選択肢はあり得なかった。

 具体的な情報がないまま警察官達は現場に急行。現実味がないまま、SF映画のエキストラを眺めているような気分で避難誘導を行っていた。

 せめて写真なり映像なりあれば怪獣の事を信じる気も起きるが、そういった『物証』は一つもない。誰もがスマホ片手でカメラマンになれる、このご時世にも拘らず。こうした不自然さが一層通報の不信さ、違和感を掻き立てる。

 それでも町のあちこちから煙や爆発音が聞こえれば、少なくとも有事だとは思えるのだが……


「(人の悲鳴以外、ろくに聞こえないし)」


 数少ない情報によれば、巨大生物はクラゲのような姿で、足を含めた大きさは七十メートル近くにもなるらしい。周りのビルや道幅と比べても、決して見劣りしない大きさだ。

 相手が生き物であるなら、無闇にぶつかってそれらを壊しまくる事はしないだろう。普通の人間が、道端の電柱や塀に体当たりしながら歩かないのと同じように。また映画や特撮番組と違い、現実の生物なら口からビームを吐く事もあるまい。だが車を踏み付け、破壊するぐらいの事は考えられる。ビルなどの建物にしても、ちょっかいを出して破壊する事は起こり得るだろう。そうでなくとも人間用に整えられた道は、数十メートル級の生物にとっては狭苦しいに違いない。

 巨体故に多かれ少なかれ、動くだけで破壊を伴うのが道理。その破壊音が聞こえてこない時点で、どうにも通報が信用出来ない。色々な不運が重なった結果生じた、ただのパニックなのでは……

 春香の中に強い懸念、或いは願望が脳裏を過る。

 しかし甘えた考えはすぐに否定される事となった。


【さ、佐原よ……れ……】


 無線機から声が聞こえてくる。

 佐原というのは、春香と同じく避難誘導を行っている警察官だ。名前ぐらいは聞いた事がある、程度の関係であり、あまり詳しい人柄は知らない。

 しかも通信状態が悪いのか、無線機から聞こえてきたのは誰宛に伝えたものか分からない言葉。これで相手の意図を察するのは困難であるが、しかし僅かに聞こえた声は、必死なものに感じられた。応答がないのに、延々と言葉を続けるのがその印象を更に強める。

 それどころか、途中から破裂音……恐らく拳銃の発砲音まで聞こえてきた。

 普通、警察官は滅多な事では銃を使わない。適正な使用だったかどうかの判断は勿論、当たりどころ次第で簡単に人を殺せるのが銃なのだ。普通の人間は、相手が死ぬかも知れない攻撃を繰り出すなんて出来ない。余程の出来事、それこそクマやイノシシに襲われた状況でもなければ即座に使用するとは考え難い。

 何があったのか。あくまで避難誘導を優先しつつ、春香は無線機に耳を方向け――――


【ひ、ひ。ひ、ひぃいぃぎゃああああが、ご】


 悲鳴。

 否、そう呼ぶのも生温い叫びが、通信機から響く。間近で聞いていた春香は、一気に血の気が引いていくのを感じた。

 叫びは途中で途絶えたが、倒れるような音は聞こえた。どうやら無線機は壊されていないらしい。咀嚼音だとか、打撃音もない。ただ叫びだけが聞こえ、途絶えた。

 一体何が起きた? ますます混乱する春香に、答えはハッキリとした形で告げられた。

 音もなく、此処にが現れるという形で。


「か、怪獣だぁ!? 怪獣が出たぞ!」


 誰かが上げた雄叫びを聞き、春香は思わず避難誘導の手を止め、声がした方へと振り向く。

 そこには、確かに『怪獣』がいた。

 茶碗の底から足を生やしたような、クラゲに似たシンプルな形をした半透明な生物。事前に聞いていた通りの、事前に聞いていた大きさの、不可思議な存在がそこにいたのだ。

 怪獣は音もなく、空を飛んでいる。

 空気を切り裂くような甲高い音も、羽ばたく音も、布が波打つような音さえもない。地上で風が起きている様子もなく、一体どんな原理で空を飛んでいるのか、物理学など門外漢な春香には想像すら出来なかった。

 一つ言える事があるとすれば、それの飛行速度は一見ゆっくりに見えて、全力疾走する人間よりも遥かに速いという点だろう。


【■■■■■■■】


 それは鳴いた。赤子の泣き声のような、なのに何処か落ち着く不思議な声で。

 同時に、身体の下から伸びている無数の触手を伸ばす。人間達を襲うために。

 触手の動きは俊敏で、次々と逃げる市民を襲う。触手に触れられた人々は、ただそれだけでバタバタと倒れていく。そして一度倒れた者は、二度と起き上がらない。

 倒れた人を助けようと駆け寄る人は、改めて振るわれた触手に触られてしまう。その人達も次々と倒れ、やはり起き上がらない。追い付かれそうになって近くにあった空き缶や瓶で応戦する者もいたが、まるで効果はなく、触手は容赦なく人々に触れていく。

 逃げても戦っても襲われる。ならばと多くの人々が、建物の中に逃げ込むのを選んだ。

 悪い選択ではない。頑強なコンクリートで出来た建物は、台風などの自然災害に対する緊急の避難場所にもなる。怪獣相手に何処まで通じるかは分からないが、人間が一メートル級のコンクリートを破壊するのが困難なように、怪獣も数十メートル級のビルを壊すのは一苦労な筈だ。


【■■■■■■■■■■■】


 しかし人間のそんな常識は、怪獣には通用しない。

 怪獣が伸ばした触手は、のだから。

 最初は目を疑った。だが春香の現実逃避を粉砕するように、怪獣は次々と触手をビルへ伸ばし、そして難なくすり抜けていく。ビルの中から聞こえる悲鳴が、すり抜けた先で触手が問題なく動いている事を示していた。

 どうやらあの怪獣は、建物をすり抜ける事が出来るらしい。

 道理で暴れ回る音がしない訳だ。建物をすり抜けていくのであれば、何かを壊すなんてあり得ない。道を覆うように伸びている電線も、一本たりとも切る事なく進めるだろう。加えて人に触れていた触手も、思い返せばすり抜けていたように見える。

 ……なんて、納得出来る訳がない。


「な、なんなのよ、あれ……!?」


 訳が分からない。いくら怪獣が常識の通じないものの総称だとしても、物をすり抜けるのは生物どころか物質としておかしい。

 あれではまるで、幽霊ではないか。


「きゃああああああああ!?」


「助けてぇ!」


 唖然とするあまり立ち尽くす春香の横を、次々と市民が駆け抜ける。少しでもスピードを出そうとしてか腕を振り回すように動かし、周りにいる人も物も突き飛ばす。

 警察官である春香も例外にはならない。ガタイの大きな男に突き飛ばされ、転んでしまう。

 公務執行妨害? 暴行罪? 色々な罪状が頭を過るが、そんな事を問い詰める暇なんてない。今も怪獣は人間よりも速く、障害物なんて関係なく市民を追っているのだ。

 逃げなくては、自分が襲われる。


「あ……」


 そう思った時、気付いてしまう。

 小さな子供が一人、怪獣の近くにいる事に。

 パッと見、子供は小学校中学年の女子。周りに親の姿はない。逃げるでもなくその場に立ち尽くし、わんわんと泣いている。

 怪獣は、その子のほぼ真上まで来ている。触手の先を向け、明らかに狙いを付けていた。

 泣いている場合じゃない。早く逃げなさい。家族はどうしたの……様々な言葉が春香の喉元を駆け上る。しかしそれを発するよりも前に、春香の身体は驚くほど単純な行動を起こす。

 危機に晒されている子供の下に駆け寄り、助けようとする事だ。


「(ああ、馬鹿な事してるなぁ)」


 頭の片隅にいる、何処か他人事のように見る自分の意思。確かにこれは自殺行為だ。触れればどうなるかも分からない触手が幾つも振り回される、その領域に突っ込もうというのだから。

 おまけに少女がいるのは、開けた四車線道路の歩道側。身を隠す物陰はなく、ひっそり近付く事さえ儘ならない。駆け寄る春香の姿を、怪獣はきっと認識しているだろう。

 そもそも、春香と少女の間はあまりにも離れている。

 警察官として日々鍛錬している春香の走力でも、触手が触れる前に女の子を助け出す事は叶わない。分かりきっていた展開だった。

 泣いていた女の子に怪獣の触手が触れた瞬間、女の子はぱたりと倒れる。距離があったためどうにもならなかったと、片隅にいる他人事な春香は思う。しかしそれでも唇を、血が滲むほど強く噛んでしまう。

 だが悔しさに悶えている暇はない。

 間に合わなかった。泣き声が止み、ぴたりとも動かない身体が無事とは思えない。それでも此処まで来て、今更踵を返すなんて真似は警察官として出来ない。


「くっ……!」


 そのまま、春香は怪獣少女の下に向かう。

 更に、腰から拳銃を引き抜く。

 『動物』相手だからと持たされた武器。本来慎重に考えねばならない使用を、春香は寸分躊躇わずに決断。銃口を怪獣へと向ける。

 春香の射撃の腕は中の上程度。だが相手の大きさが何十メートルもあれば、早々外すものではない。

 春香は引き金を引いた。一発二発三発と、立て続けに。

 警察官が持つ小さな拳銃の威力は、フィクションだと小馬鹿にされがちだ。しかし現実には十分な殺傷能力を有する。少数の例であるが、市街地に現れたイノシシを拳銃で駆除した事例もあるのだ。いくら数十メートルの巨大生物相手でも、小さくないダメージを与えられる筈である。

 ……当たれば、の話だが。


「(そりゃ、すり抜けるわよね……!)」


 弾道なんて、目視では確認出来ない。しかし命中音が聞こえなかった事から、そう判断する。

 ビルや人間をすり抜ける身体なのだ。まさか銃弾だけが例外な訳もない。威嚇にすらならず、むしろ自身の存在をアピールしただけ。

 無駄な事をしたと後悔するも、それでも身体は止まらない。一縷の望みを賭け、死力を尽くして走る。

 幸いな事に、怪獣は春香の事など(目が見当たらないので本当にそうかは分からないが)見向きもしなかった。お陰でどうにか、少女の下まで辿り着く。


「ぐっ……!」


 春香はすぐに少女の身体を抱き上げる。本来なら無事を確かめる声掛け、怪我の有無の確認などが必要だが、今回そんな暇はない。

 ほぼ真上に陣取る怪獣の触手の一本が、今になって春香に狙いを定めているのだ。


「っ!」


 咄嗟に、地面を蹴ってその場から飛び退く。

 少女と共に地面を転がる。春香は丈夫な制服に身を包んでいるが、それでも打ち身や擦り傷が出来そうな激しさだ。

 しかしこれぐらいの勢いがなければ、狩りをする猛禽が如く鋭さの触手を躱す事は不可能だろう。触手は春香の髪を掠めるも、どうにか直撃は避けた。

 されどまだ安堵は出来ない。こんなのは苦し紛れの避け方だ。


「うぐっ……!」


 事実、身体の痛みと体勢の悪さから、春香はすぐに立ち上がれない。

 対する怪獣は、数多ある触手のうちの一本が外れただけ。なんて事もないように、次の触手を春香の方へと差し向ける。

 今度は躱せそうにない。

 最早これまでか。それでも最後まで足掻いてやると、また地面を蹴ってでも動こうとした――――

 直後、無数の発砲音が響いた。


「撃て! 兎に角撃ちまくれ!」


 同時に聞こえてきたのは、勇ましい掛け声。

 振り向けば、そこには十以上もの数の警察官がいた。

 恐らく、今まで付近の避難誘導を行っていた警察官達だ。周辺の人々を誘導し終わったのか、或いは怪獣の足止めを試みるためか。理由はなんであれ増援が駆け付けてくれたらしい。

 集まった警察官は次々と発泡。西部劇でも見ているのかと思えるほどの連射で、拳銃から吹き出した煙が霧のように辺りに立ち込める。尤も怪獣の身体は弾丸をすり抜けるので、まるで効いていない様子だが。

 しかしそれでも気は引いたらしい。怪獣は春香に向けていた触手を、警察官達の方へと動かす。

 警察官達も触手の動きに気付き、慌てて退避する。距離が離れていたお陰で回避出来ているが、触れればどうなるかも分からない攻撃だ。安心なんて出来ず、今も必死に後退している。

 そんな彼等の命懸けの奮闘のお陰で、逃げ出すチャンスが生まれた。


「こっちだ! 早く!」


 建物の脇道から、一人の警察官が春香を呼ぶ。

 春香は子供を抱えたまま、その脇道へと駆け込んだ。触手は建物をすり抜けるため全く安心は出来ないが、それでも相手と直接対峙していないだけで心は休まる。

 少女を警察官に渡した春香は、その場にへたり込む。だが安心している場合ではない。触手に触れられ、倒れたこの子が無事とは限らないのだ。


「しょ、少女一名を、保護、しました! ですが、既にあの生物の、触手に触れていて……!」


「何っ」


 春香の報告を聞き、警察官はすぐに少女の容態を調べる。脈を測り、呼吸を聞き、体温などを確かめた。


「……大丈夫だ! 意識はないが、生きてはいる!」


 その言葉が聞けて、ようやく春香は胸を撫で下ろした。

 いや、ここでもまだ安心するのは早い。怪獣の姿は見えないが、奴は壁をすり抜けるのだ。物陰に隠れたところで安心するのは早い。

 少女を連れて、走る。

 怪獣は追ってこない。代わりとばかりに聞こえてくるのは、警察官の雄叫びや悲鳴、それと無意味な銃声。彼等は今も奮闘し、少しでも市民を助けようとしている。

 出来るだけ遠くに、少しでも安全な場所に。この小さな命を守るため、そして仲間達の命懸けの行動に報いるためにも春香は駆ける。

 そのための行動が、無駄である筈がない。現に少女は生きているのだ。まだ生きているのだから、最後まで全力を尽くすべきだと春香は思っている。

 だがその心が揺らぐ。

 助け出した少女の、半開きの瞳。

 そこになんの光もない事が、春香の不安を煽る。ゆっくりとだが瞬きをし、微かに動く唇が、仲間の言葉が真実であると物語っているにも拘らず。

 頭の中を満たす不安。しかしその不安を振り払うように、春香は力強く首を横に振る。こんなのは素人の、根拠なき考えに過ぎない。確かに人命救助をする事もあるため人並み以上には健康に対して詳しいが、それにしても専門家には及ばない。


「(後の事は、お医者さんに任せるしかないわ)」


 自分は、自分に出来る事を全力でやるだけ。

 改めて気持ちを引き締めて、春香は少女と共にこの場から離れるのだった。

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