心霊怪獣オカルティア

彼岸花

春の惨劇

 西暦二〇二四年四月某日。雲一つない空に太陽が爽やかに輝く午前中、佐原健人は近所の公園に来ていた。

 公園といっても、そこらに遊具や砂場があるだけの小さなものではない。散歩コースとして有名な、都内でも有数の広さを持つ自然公園だ。

 公園は人々が散歩する平原のような場所と、主にブナ類が茂る林が混ざり合った状態にある。より厳密に言うなら、ブナ林に人が歩くための芝生を通した、というのが正しいだろう。林には虫が多く大抵の人は近付きもしないが、夏になれば子供達がカブトムシなどの虫取りに向かう恰好のスポットだった。

 健人も小学生、或いは虫好きならば林に立ち寄っただろう。しかし彼は大人で、一般的な範疇の興味しか持ち合わせていない。林には近寄らず、草原のような歩道を歩く。

 目的は、健康のための散歩である。


「ふぅ……やっぱ、運動不足かぁ……?」


 大きな息を吐いて、道の端に寄りつつ健人は愚痴る。

 年に一度の健康診断。そこで彼は、運動不足を指摘された。

 もっと言うなら、肥満気味だとか、血液検査の結果が良くないとか、他にも色々な指摘を受けている。確かに今年でもう三十半ば。身体のあちこちが壊れ出す年齢だ。今までほどの無茶は出来ないし、何もしなければどんどん衰えていく。それを証明するように、かつて運動部の練習で引き締まっていた彼の腹は、今ではぽっこりと前に出していた。

 それでいてここ何年か仕事が忙しい。休日は一人暮らしの自宅でゴロゴロしながらネット巡りばかり。おまけに食生活も一人暮らしの男らしい、お世辞にも健康的なものではなかった。

 冷静に考えれば、健康診断の結果は至極当然のものである。

 そして現実に『危機』を告げられて、ようやく健人も自分の状況を理解した。「健やかに育ってほしい」という願いを込められた名前なのに、早死しては親に申し訳ない。故にまずは軽い運動を、近所の公園で行ったのだ。

 ……自分が思っていた以上に、体力がないのには驚かされたが。


「(そりゃあ平日に歩く距離なんて、家から駅まで、駅から職場までの三十分かそこらだしなぁ……)」


 悔しさすら感じてくるが、無茶はしない。それはこの散歩を始める前に健人が決めておいた事の一つ。疲れた身体を休ませる事にする。

 自然公園の中にもベンチはある。しかし今回健人の目に入ったものは、どれも誰かが座っていた。大きなベンチなら自分も座れるスペースがあったものの、知らない人と相席する気分ではない。

 幸い、ここ最近の天気は晴れ続き。服装も汚れて構わないものにしている。

 近くの木陰に入り、木を背もたれにして座り込む事とした。林の近くにいくと虫が多いので健人としては嫌だが、今はまだ四月。蚊やらなんやらはおらず、木陰はとても心地よい。

 腰を下ろした健人は軽く辺りを見回す。

 今日は土曜日というのもあって、多くの人々が公園を訪れていた。老夫婦がのんびり歩いていたり、走り回る子供を追い駆ける若い夫婦がいたり。自然豊かな公園だからか、家族連れが多い。

 結婚願望はあまり持ち合わせていない健人であるが、家族の幸せなやり取りを見ているのは好きだ。


「……ふぅ」


 和やかな雰囲気を感じ、日頃の疲れを吐き出すようなため息が漏れる。

 今まで散歩なんて面倒としか思わなかったが、やってみると意外と悪くない。公園は人が多くて賑やかではあるが、広さがあるため喧しくはないのも健人にとっては居心地が良かった。

 この感じであれば、三日坊主では終わらず散歩を続けられそうだ。

 ……次に散歩へ繰り出すとすれば来週なので、油断すればそこで終わりになりそうだが。運動が健康に良いのは知っていて、一念発起し、こうして気分の良さを味わっても、中々次のモチベーションが上がらない。だからこそ現代人の運動不足が叫ばれるのだろう。

 いっそ犬でも飼おうか、しかし独り暮らしでは世話が大変そうだ……等と終わらないための方法を考えつつも、疲れと春の陽気の所為かあまり頭が回らない。なんとなく顔を上げて考えを切り替えようとするも、ずっしりとした心地良い感覚には逆らえず――――


「んぐぁ!?」


 寝たのか、寝ていないのか。それが分からなくなるぐらいの『無意識』を挟んで、ようやく健人は眠気から覚める。

 慌てて辺りを見渡せば、すっかり暗くなっている……なんて事はなく、まだまだ昼間だ。しかしそれは外が明るい時間帯というだけで、十数分の居眠りもしていない証明とはならない。

 別段自然公園で居眠りしている大人なんて、多くはなくとも奇異という程でもない。健人自身、そういう人を見掛けても「疲れているのかな?」「良い陽気だから」と思うだけだろう。

 だがいざ自分がその立場に置かれると、物凄く恥ずかしい事をしている気がする。


「……帰るか」


 誰に言うでもなく、ぽつりと独りごちる。

 そうして彼は家に帰り、この失敗が決心する度に頭を過る所為で、散歩は三日坊主ではなく一日坊主で終わってしまった。

 ……、そうなっていただろう。

 世界は平穏だった。紛争や戦争、事故や殺人は起きていても、全体的には穏やかな時が流れていた。世界情勢は不穏でも、国内政治に文句はあっても、大多数の人々は平穏無事に暮らしを営む。それは明日になっても変わらない。

 誰もが信じていた。無意識に、心の奥底で願っていた。

 しかし平穏は、唐突に終わる。


「ん?」


 ベンチから腰を上げようとした時、健人はふと気付く。

 空に、違和感を覚えると。

 何がおかしいのか、言葉では説明出来ない。だから最初は気の所為だと思った。しかし視線を地上に戻すと、全員ではないが、何人かが空を見ている。見上げている者の表情は誰もが怪訝そうで、自分と同じ気持ちなのだと健人は確信した。

 何かがおかしい。何がおかしいかは分からないが、この場にいるのは好ましくない気がする。


「……………っ」


 息を飲み、健人はこの場から離れようと歩き出す。他の家族連れや、一人で散歩していた老人も此処から去ろうとする。

 だが、間に合わない。

 彼等が離れるよりも先に、見上げていた空が歪む。

 まるで水飴でも通して見たかのように、空の景色が歪んで見え始めた。自分の目がおかしくなったのか? 困惑から健人は歩く足が止まりそうになり、空をじっと見てしまう。

 故に彼は目撃する。

 歪んだ空が、それこそ水飴のように瞬間を。大きな、ざっと二十メートルはありそうな巨大な『水滴』が地上目掛けて落ちてくる。

 それでいて『水滴』は、ただ落ちるのではなく形を変え始めた。

 最初に足が生えた。いや、足のような、という表現の方が正しいだろう。それはイソギンチャクの触手のように細長く、凹凸等のないしなやかなものだったからだ。本数は六。長さは五十メートル、太さは二メートルぐらいあるか。先端は丸みを帯びていて、柔らかそうに見える。

 次に胴体が生まれた。クラゲのような茶碗型の、ただしクラゲと違って茶碗の内側ではなく底部分から触手を生やした形だ。開いた部分を上向きにした体勢は酷く不安定に見えるが、そいつ自体はなんともないかのように平然と空中を漂う。開いた部分の縁にはフリル状のヒダが無数に生え、海中でも漂うかの如く揺れ動く。

 少々奇怪な形ではあるが、姿としてはクラゲのようと言えばほぼほぼ相違なく伝えられる。どちらが前か、そもそも前後左右の概念があるのかも怪しい。

 それに水飴のような身体は色付きもせず、今も透き通ったまま。歪んでいるとはいえ、向こうの景色が見える。日の光を浴びているが、体表が輝いていないため光沢はないらしい。体内に内臓や消化管は見えず、お世辞にも高等な存在には思えない。また柔らかそうな雰囲気や、鋭い牙や眼差しもない(というより口や目も見当たらない)ため、獰猛な獣という印象もなかった。

 風船や気球のようにふわふわ浮かぶ姿にも敵意は感じられない。胴体部分の全長がざっと二十メートルはあり、非常に大きいので油断は出来ないが……あまり危険性はないように思える。むしろその大きさと不可思議な見た目、そして雄大な態度に、神秘性まで感じられた。

 例えるならば、ホエールウォッチングで出会ったクジラのよう、だろうか。


「な、なんだ、あれは……」


 健人の足が止まったのも、正直危険とは思えなかったから。周りには健人と同じく立ち止まり、『それ』を見ている人々が少なくない。

 勿論逃げる人も大勢いるのだが、同じぐらいの数の人が立ち止まっていた。距離を取りつつ、スマホを構えて撮影しようとしていた。

 確かに、こんな珍妙な存在(生物だろうか?)の写真なり映像なりを撮っておいて、SNSに上げればかなりバズりそうだ。健人はSNSについては見るばかりで投稿などせず、承認欲求も特にないが……周りに合わせるように、なんとなく撮影を試みてしまう。


「……あれ?」


 しかしその試みは上手くいかない。

 何故ならスマホのカメラを起動しても、『それ』は画面に映らないから。

 狙いを外しているのか? そう思い望遠機能を解除しても、全く画面に映らない。伸びている触手は地面近くにあるため、木などの標的に合わせて映そうとするが……やはり映らない。それどころか触手の向こう側にある筈の景色が、ハッキリと映っていた。

 スマホのカメラが壊れているのか? 健人が抱いたそんな疑問は、周りの人々の困惑した様子が否定する。どうやら壊れているのは自分のスマホだけではないらしい。

 何かがおかしい。

 段々気味が悪くなり、やはり離れようと考えを改めた――――が、遅かった。


【■■■■■■■■■■■■■】


 『それ』が動き出してしまう。

 奇妙な鳴き声だった。赤子の夜泣きにも似た激しさの、けれども美しさすら感じさせる声。聞き惚れて、健人も、周りにいる誰も、一歩と動けない。

 この隙を突くように、『それ』は触手を人々の下へと伸ばす。

 今までのゆったりとした動きは、果たして偽装だったのか。伸びる触手は獲物を狙う猛禽が如く速い。更に一本一本が独立した生き物であるかのように、的確に人間達を狙う。

 あまりにも唐突で、予想外の動き。誰も反応なんて出来ない。次々と人々に触手は襲い掛かる。

 そして

 いや、飲み込まれる、だろうか。触手は人間の身長よりも遥かに太いのだから。そして飲み込まれた人間は、一見して身体に欠損はなく、血も出ていないが……バタバタと倒れていく。

 ここまで見せ付けられれば、誰でも気付く。このままだと次に襲われるのは自分だと。


「あれ……これ、もしかして警察とか呼ぶやつ……?」


 それは健人も例外ではなかった。事態が自分達一般人の手に負えるものではないとようやく認識し、全速力で走らねばならないと意識する。

 生憎、動き回る触手は猶予を与えてくれなかったが。


「ぇあ?」


 断末魔と呼ぶには、些か間の抜けた声。健人自身そう思う声を出した彼は、しかしそれを自覚する事もない。

 そんな暇もなく、触手は健人を。瞬間、彼の意識も遠退いていき――――

 そのまま、健人が目を覚ます事はなかった。

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