第37話 扉

 小型クルーザーを操縦するための船舶免許は現実世界でも取得しているが、この世界ではあまり必要がない。

 ある意味オートパイロットだからなのだが、その目的地、「天使の舞い降りる島」が目標設定のリストに載っているのを見ても、もう驚かなかった。


「10分もあれば君の目的地に着くよ、アンジェラ。」

「本当なら、あなたと海水浴がてらに行きたかったよ、タケル。水着なんか着てね。」


 アンジェラが寂しげな笑みを浮かべた。

 事ここに至っても、私はこの女性を失いたくない、そう思ってしまう。

 せめてもう数日でも、一緒にいられないものだろうか。

 例えばこのクルーザーを目的地から外れた区域に行かせて、海釣りを楽しむのもいいかもしれない。


「タケル、私もあなたともっと一緒にいたい。この数日のように一緒に遊んで食事して、夜、一緒のベッドで…。」


 そう言いながら顔を私から背けた。

 私はその華奢な肩をそっと抱いた。


「愛してる。」


 耳元に囁く。


「私も…、タケル、愛してる。」


 すでにその目的地は視界に入ってきていた。

 だが、ただの岩礁のはずが、明らかに人口のモノが立っていた。

 何だろう?石碑?


「本当に時間があれば、あの部屋にキャリーバッグは現れなかった。きっと、あの扉もしばらくすると消えてしまうと思うの。」

「あれは扉、なのか?」

「そう。「空の先の世界」の入り口。」


 クルーザーが止まったようだ。

 これ以上は水深が浅くて近寄れないようだ。


「一緒に来てほしい、タケル。何故私がこの場所に来たのか。私が本当は何者なのか、教えてあげられると思う。」


 そう言うと、アンジェラがクルーザーから飛び降りた。

 俺も慌ててキャリーバッグを持って、船から降りた。

 海面は腰のあたりまで来ていた。

 私は島を目指して、海の中を進んだ。

 キャリーバッグはこの島に流れ着いた時同様、完全防水で海に浮いていた。

 その小さな島に上陸すると、目の前に一枚の扉があった。


 そう、扉だけがそこにある。おかしな光景だ。

 私は周りを見渡しアンジェラを探した。

 何処にもいない。急速に自分の血が冷えて来るのがわかった。


「アンジェラ!アンジェラ!何処に行ったんだ、アンジェラ!」


 俺は声の出せる限界の声を出していた。


「あなたの上にいるわ、タケル。」


 そのアンジェラの声のした方向に目を向けた。

 確かに、私の上にいた。空を飛んでいた。

 6枚の羽で…。

 背中から開かれた一対の羽が一番大きく、そして足首と、耳の上部からそれぞれ一対の羽が現れていた。

 その場所が、以前のアンジェラの痣の個所であることは間違いなかった。

 天使の羽は3対6枚。

 そんなことを聞いたことがあった。


「君は……、天使なのか?」


 私の疑問には答えず、そのまま私のいるところに降りてきた。

 そのまま私に抱き着くようにして、唇を重ねてくる。

 私はその口づけが今までとは違い、甘いものではなく、酷く苦く感じた。

 それがなぜかも漠然とわかってしまっていた。

 これが最後、だから。


「私はやってはいけないことをしてしまった。そのせいでタケルの大事な人を奪ってしまった。償うなんてことはできないことも分かっているわ。それでも、私は、アンジェラ・インフォムはあなたを、須佐野丈瑠を永遠に愛しています。」


 私は胸に迫る思いをぶちまけたかった。


「私も君を愛している。だが、どういうことだ。私の大事な人を奪う?君は我々人類に対して何をした?」


 もう、彼女が人間ではないことははっきりしていた。

 いくらここが仮想世界でも、こんな姿を、アンジェラの天使の姿を見ることは無いはずだ。

 そして、強大な力を持つ者でなければ、この「月読」によって作られた「鏡の世界」に干渉など出来るわけがない。

 今、私と天使のアンジェラは扉の前にいる。


「アンジェラ、この扉はどうやったら開くんだ?」


 先の私の質問に答えようとしないアンジェラに、目に前にある扉について尋ねた。


「丈瑠。貴方がこの島に漂着してからずっと持っている鍵。それでこの扉を開けることが出来るの。」

「私はそんな鍵なんて…。」

「持っているわ、そのキャリーバッグの中に。」


 言われて私の横に転がっているキャリーバッグを開ける。

 その中に、確かに数字の掛かれたアクリルの札がついた鍵があった。

 思い出した。

 この島に漂着してすぐに見た鍵。

 1059。

 まるでホテルのようなルームナンバーに苦笑したのを思い出した。

 今ならわかる、このくだらない番号。

 1059てんごく


「これが、なんで私の手元に最初からあったんだ?君が、元いた世界に戻れるというのなら私が初めてこの地に来た時から、私に持たされたことに意味があるのか?」

「そう、意味はある。丈瑠、あなたが私の審判者だから。」

「審判者?私が、君の、か?」

「あなたしかいないの。私がした事とこの島でのあなたと一緒にいたこと。その結果が、この扉。この扉を開けることが出来るのは私ではないの。貴方が唯一信頼していた石井和久の命を奪い、最愛の女性、石井真子をあなたたち人類が不満症候群と呼ぶ状態にさせてしまった張本人は私。この私を許すことが出来るかという判断を、あなたは「神」から託された。」


 アンジェラの言葉が私の、俺の心を突き刺した。


「君は一体何を知っているんだ!そもそも、石井真子が不満症候群を患っていたことを何故知っている?」


 そう、「内幸町総合病院機能停止事件」を引き起こしたのは、石井先輩ではなかった。

 その妻で、あの病院のシステムを知り尽くしていた妻の石井真子が張本人だった。

 先輩はそれを止めようとして、高濃度酸素で充満していた中央管理制御室に入り、あの爆発に巻き込まれたんだ。

 真子はその爆発で最愛の人を自分の手で殺してしまったことを自覚した。

 そのまま意識を失い、今でも私の不満症候群対策研究班管理下のこの「鏡の世界」を構築している研究棟の地下で治療を続けている。

 私が被験者となっているこのシステムが正常に作動していると判断されれば、続いて彼女が二人目の被験者となる予定であった。

 頭部の「天使の羽」が消えるかどうかという重要な実験となるだろう。


「何が人類に起ったか。これから説明します。そして、何故人類にその不満症候群が拡がっていくことになったのかを。」


 私の前に舞い降りてきたアンジェラが、悲し気で悔やんでいるような瞳を私に向けながら話し始めた。

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