第36話 天使が舞い降りる島

 私はアンジェラがシャワーを使い、着替えた後に続いて、体を洗って身支度を整えた。

 鏡を見ながら、うっすらと伸びている髭を剃った。


「自分で作っておいてなんだが、よくできているものだ。だが、記憶を封印してみて、粗も分かったが…。」


 不必要なもの、使用済みのタオルや、ベッドの乱れが帰ってくると綺麗になってる、というのは不自然ではある。

 ただ、このシステムの目的を考えた時にそのことを修正すべきかは微妙だった。

 その違和感により治療中の患者の効果を無にしてしまうかどうか。

 現時点で健康体の自分と、患者の感じ方の違いは実際の運用時の細かいモニタリングが必要だ。


 私はジーンズに黒のTシャツで、アンジェラの待つリビングに入った。

 アンジェラは昨日の化粧を完全に落とし、出会った時の素顔になっていた。

 少し泣いていたのかもしれない。まぶたのあたりが少し赤い。

 白いTシャツにデニム地のショートパンツ姿でも、アンジェラの美しさは際立っていた。

 リビングのテーブルには紅茶の香りが漂っていた。


「このお茶は私がこの部屋に来た時にはもうあったよ。私が淹れたわけじゃない。」


 アンジェラが私の視線に気づいてそう言った。

 よくできたAIである。

 こちらの必要なものを必要な時に提供してくれるわけだ。


 私はアンジェラの前の席に座り、その紅茶を飲むアンジェラを見つめた。

 軽いため息をつきながら、アンジェラがカップをテーブルに置いた。


「カズ…、いえ、丈瑠たけるだっけ?もう、記憶が戻った、っていう事ね。」

「ああ、そうだ。記憶が完全に戻ったよ。そして、この状況がどういう事かも理解した。」

「あなたが作ったと言ってたけど、あなたは創造主か神様なのかしら?」


 その口調は、先程とは違う、私の知ってるアンジェラという女性とも違う印象だった。


「君も記憶が戻ったのか?」

「いえ、それはないわ。ただ、私の目的が明確に思い出されただけ……。」


 その表情は寂しげであった。


「元いた世界に帰る、という事だったよね。」

「よく覚えているわね、カズ。あ、いや…。」

「カズでいいよ。私も君にはそう呼んでもらいたい。」

「いいのかしら、その名前はあなたの先輩の名前で、私はその人の奥さん、何でしょう?」

「君のモデルの女性はそういう呼び方を先輩にしていた。すごく幸せそうに、ね。」


 そのいい方が悪かったのかもしれない。


「あなたの顔、凄く寂しそう。タケル、でいいのね?」

「ありがとう、アンジェラ。」


 アンジェラのその優しさに、私は救われたような想いだ。


「それでね、私がいた世界、そこの住人は「空の先に世界」という呼び名をしているけど、そこから私は罪人としてこちらに追放されたの。そして私がしたことを心から悔いて、自分のした事の重大さに気がつけば、その世界に帰れる。そう説かれたの。」

「もしかするとその「空の先の世界」には、羽のある人々が住んでいる、という事なのか?夢の中で君を蔑んだという。」


 カップを握りしめたまま、アンジェラはうつむいたままであった。


「わからない。私にはその「空の先の世界」がどういう世界かわからないの。知らないのか、忘れているのか。」


 私は目の前の紅茶の香りを嗅ぐ。

 そして、ゆっくりとその薄い茶色の液体を口に含み、飲み込む。

 香りは私を少し落ち着かせた。


「この世界は非常に特殊な空間だ。そう簡単に侵入はできないはずなんだが…。」


 このシステムを支える量子コンピューター「月読つくよみ」は国家機密だ。

 外部へのネット環境とは接続していない。

 いわゆるスタンドアローンの状態である。

 だが、だからと言ってセキュリティが緩い訳がない。

 厳重な出入り時のチェックはもちろん、その職員の権限を細分化して、情報への接触を極力少なくしてきた。

 この研究所内を自由に行き来できるのは私だけである。

 無能な上司などは、会議室までしか入ることが出来ないようにしてある。

 ああいったエリート意識だけ高い無能は、高度な職能を有する者をねたみ、マイナスの効果しか示さないことは、今までの経験で熟知していた。


 端的に言って、私以外の人物が、このシステムの核である偽人格を備えたAIに接触することはできないはずだった。

 だが、その例外ともいえる状況が目の前にいた。

 何が起これば、こういう事態が発生するのだろうか?


「整理したい。アンジェラ、君の今の状態についてなんだが…。」


 顔を上げたその女性に、あのアンジェラの無邪気な表情は全く見当たらなかった。

 顔は変わってない。

 まとう顔が変わったのだ。

 だが、私のアンジェラを思う気持ちには、何の変化もない。

 本当に自分にとって必要な存在になってしまったのかもしれない。


「私も、自分が何者か知りたい。貴方の言うように、私はあなたに作られた人ではないかもしれない。もしかしたらそのことが、あなたから私への興味を奪ってしまってるのかもしれない。それでも!」


 力強い眼差しを私に向けた。


「私は、私の心は、タケル、あなたを求めてるの!あなたを愛してる。その気持ちに偽りはないの!」


 肩で息するように強い言葉で俺に言った。


「ありがとう。私も同じだ。君が好きだ。君とこのままこの世界で二人だけで暮らすのもいいのかもしれない、と思うくらいに。でも、君はその「空の先の世界」に戻りたいのだろう?」

「わからないの、タケル。私には自分が何をするべきなのかわからないの……。でも、道が、示されてしまった…。」


 道が示された?


「それはどこだ!何処に行くんだ!」

「でも、そこに行くには、カズが持っていたキャリーバッグが必要なの……。」


 キャリーバッグ?

 だがあれはロッジに置いてきたはずだ。

 今、ここにない。


「では、取りに…。」

「そこにあるわ。」


 この世界は仮想現実。

 確かに望めばある程度の融通が利く世界かもしれない。

 だが、俺が望んでいないのに…。

 リビングの入り口に、私と漂着した時のキャリーバッグがあった。






「はい、確かに石井様の言われる場所には、干潮時に出現する島があります。」


 この「ホテル インペリアル・エデン」の管理AIである遠野祈里が、アンジェラの指し示した地域に島、というにはかなり小さな岩礁があることを認めた。

 だが、その検索には思ったより時間がかかっていた。

 それは、本来には干潮時だろうが津波が起きる前兆だろうが、土地が顔を表す場所ではない。

 そこの水深はそれなりに深く取ってある。

 それはこの島の周りをクルージングできるようにしたためであり、浅瀬があったりしたら、いくら自動的に動くクルーザーでも船底をぶつけて座礁する危険があるためだ。

 最初からそう設計した仮想空間なら、当然その区域に船舶を接近させるようなことはしない。


 この世界の設計は、この私が全責任を持って担っている。

 こんなことはあり得ないのだ。

 であるからこそ、ないはずの島がこの大掛かりなプロジェクトに組み込まれていることに、AI遠野祈里が困惑し、データーを何万回と精査し、その整合性の調整に時間がかかったのである。

 ディスプレイに映る祈里が別のディスプレイを指さした。

 そこにはこの島の地図が映し出されている。

 そのアンジェラの言うところにマークがついていた。


「私共はこの場所を、「天使が舞い降りる島」と呼んでおります。」


 私の設計にない島。そこに名称までつけられている。

 アンジェラの心を送り込んできた者たちは、この世界の地理にまで干渉してきてるという事だ。

 だが、完全にこの世界をその支配下に置いているようではなさそうだ。

 被験者である私の状態はこのシステム越しにモニタリングされているはずだった。

 何らかの異常を検知すれば、強制的に覚醒、救出が行われているはずであった。

 その安全装置すら動かないようにされているという事なら、もう手も足も出ない。


「アンジェラ、そこに君の帰る場所、「空の先の世界」への道があるのか?」

「はい、間違いなく。タケルも一緒に来ていただけますか?」


 アンジェラが私をタケルと呼んだことに、祈里が不審な顔をしている。

 それはそうだろう。

 私は石井和久、妻である女性はアンジェラ・インフォム。

 そう登録がされているのだから。


「祈里、クルーザーを用意してくれ。その島まで行ってみる。」


 俺の言葉に対して反応が遅れている。

 少しづつ、この世界が壊れ始めている感じだ。


「はい、承知しました、博士。」


 既に私に対する呼び方が変わり、暫定的にサンプリングされていた聞き覚えのある部下の女性の声に変わっていた。

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