第34話 真実、または悪夢

 不満症候群フラストレーションシンドローム

 それが私の先輩である石井和久を筆頭としたもの達が陥った病の名称であった。

 大きな不満、圧迫により脳内の神経が変性。

 その結果、不満や抑圧していた欲望が優先的に動作に直結。

 暴行、強姦、殺人など重犯罪を起こしやすい。

 この病気はMRIなどの頭部画像診断機器で前頭葉部に顕著な障害(識者はその形から「天使の羽」と呼称するようになった)を検出、診断が可能となった。

 さらにこの病状に対する研究が進み、この「天使の羽」が認められる患者に特異的なタンパク質が血中に現れることも判明。

 迅速血液検査で判断がかなり容易になった。


 この不満症候群の原因の究明、診断の迅速化は進んだものの、根本的な治療がなかなか進まなかった。

 この発作ともいえる暴力的な衝動は向精神薬などの薬物治療で一時的には抑えられるものの、再発を繰り返すことが分かっていた。

 ただし、この暴力的な発作を起こし、その行動が完遂された者、すなわち犯罪者として捕らえられた者の脳にから「天使の羽」は消えていることが分かっている。

 だからといって、犯罪に走らせての治療など、言語道断である。

 そして、この対処に事件当初に起っていたメタバース内での犯罪が再検討するように提言した者が現れた。


 誰でもない、それが私、須佐野丈瑠である。

 この時点で我が国の量子コンピューターは5代目に当たる「天照あまてらす」が稼働していた。

 私はさらにそれを発展させた第7世代量子コンピューター「月読つくよみ」を開発した。

 処理速度も同時多重演算処理も「天照」の優に10倍を超える。

 このくらいにならないと私のプランを実行できなかったからだ。


 この不満症候群の治療法は至ってシンプルなものである。

 要はその不満を解消すればいい。

 こんなことは誰もが解っていた。

 その根拠が実際に犯罪を犯した者の「天使の羽」の消失だ。

 ではどうやってその不満、銃犯罪を犯すような不満を解消できるか。

 この解答は不満症候群の発生初期の事案そのものだった。

 つまり仮想空間バーチャルリアリティーでの不満の解消である。


 既にこの手法は他の国で行われてはいた。

 そして一定の効果は報告されていた。

 だが、仮にメタバースという、既に資産として認められてる領域での不満解消は、結局この病の初期で起こったデーターの損傷という対価が付き纏う。

 そこでメタバースから切り離した仮想現実による不満解消が行われた。

 しかしこれは結果だけを言えば失敗であった。


 メタバースという世界は、その現実感リアリティーもさることながら、「他人」という人格がそこにあった。

 つまりその「他人」を害することによる達成感を味わうことが出来るのである。

 例え現実世界での犠牲者はいないとしても…。

 だが、完全に切り離された仮想空間は、ある意味その中では何をしても問題がない。

 問題はそれを患者が認識してしまってることにあった。

 簡単に言えば「嘘くさい」のである。

 私の提言した不満症候群対策要綱は、大規模不満解消仮想空間装置の開発とそこに超高速演算により生み出される疑似人格をほぼ人間並みに作る「他人」を生み出すことにある。

 そして、現段階のメタバース以上に現実的な仮想空間を作り上げる。

 そして、この計画の核となるのが、患者である被験者の記憶を封印し、よりその欲望を曝け出し、この仮想空間により現実を見させる、「嘘くさ」くない世界を創出することにある。


 計画自体はシンプルなのだが、これを実現するための環境、のちに「鏡の世界」と呼称することになる仮想空間を作り出す大規模不満解消仮想空間装置はその段階で我が国隋一の「天照」でもその処理速度では対応できなかった。

 量子コンピューター「月読」の完成により、その後の計画はスムーズに進んだ。

 最終チェックを含めたこの装置の実際の駆動に私が被験者として体験することになった。


 この装置の大きさは厚生労働省高度医療研究所の一角の4階建てのビル1戸分程度。

 その一室に被験者が入るカプセルが用意されている。

 ここに唯一栄養補給用の点滴をつけられ、さらに下半身に特殊な下着をつけて入る。

 下着については排便と体液の放出を処理するためである。

 治療にどれほどかかるかは、その症状によるため、操作員がモニタリングしつつ判断することになる。

 基本的に現実世界より10倍程度のスピードで仮想現実を生活する計算ではある。

 ただこれが人間の脳に対してどれ程の負荷になるかは、試して調整することになるだろう。


 そういう状況下で、私はこの装置の作る仮想空間に入ったのだ。

 被験者の趣味嗜好がどれ程多岐にわたるかは何度もシミュレーションされ、ほぼすべての事象を組み込まれてはいたが、事前の被験者の趣味嗜好を探る方法は今後の課題になった。

 そう、アンジェラ・インフォムが私にとって心を惹かれるのは当たり前だった。

 私が唯一愛した女性をベースにより私好みに作られているのだから…。


 最初の漂流は設定どおりだった。

 そして記憶が封印された記憶喪失が出来上がる。

 自分が誰か分からないという状況は、かなりのストレスを与える。

 その為、自分が置かれた状況を正確に把握しづらくなり、仮にその世界に疑問点があっても「嘘くさ」さはかなり払拭できることを計算されていた。

 そしてその不安がより過激な行動を取りやすくさせるはずだったのだが…。


 アンジェラとのファーストコンタクトはシナリオになかった。

 彼女は一体何種類の言語を話したんだ?

 アンジェラは高度な疑似人格を与えられたAIではある。

 だが、被験者の私は最初から日本人で登録がされてる。

 だから、日本語だけで話せばいいはずなのだ。

 さらに、その不自然な格好。

 全裸にシーツを被っているだけ。

 何故そんな恰好になっている?

 欲望の具現化がこの計画の核になる。

 その為、女性にある程度露出の高い、セクシーな格好、今回の場合なら半袖のTシャツに太腿が露出したショートパンツであったはずだ。

 初期設定であるため、浜辺にふさわしい衣装が用意されていたはずだった。


 ありえなかった。

 自分の欲望に忠実になり、理性で止めることは出来なかった私の衝動。

 それほどまでにアンジェラは美しく、艶めいていた。

 この衝動が酷いものが、不満症候群となるという実感を持った。

 だからこそ、その衝動の結果の精の放出が、記憶の封印を解除するきっかけになったわけだ。

 欲望の権化である不満症候群の患者であれば、最初の出会いでその欲望を噴出させていることだろう。


 この装置の最大の特色である欲望による被験者への対応である。

 欲望が性衝動だけではない。

 「他人」を傷つけ、壊し、殺す。

 または人工物に対する破壊衝動。

 そして「他人」の苦痛などの苦悶の表情を見たいという優越感の充足。

 この場合は、単純に殺すのではない。

 その都度の拷問などによる表情の変化すら期待しているわけだ。


 私の中にはどうやらそういった「他人」への暴力性はなかったらしい。

 アンジェラに対しての保護欲がそれを証明している。

 逆に言えば、それすらも人の持つ欲望なのだろう。

 さらに「他人」からの礼賛というものも含まれるかもしれない。

 私の場合、幸運にもまだ不満症候群を患ってはいなかった。

 アンジェラとの行為のみで問題はなかったようだが、この世界の設定ではさらなる要求にもこたえられるようには配置されている。

 それがこの島の管理を行っているというAI達である。

 遠野伊織・祈里姉妹、天津伊奈帆、イオ・アマガサキ。

 彼女たちもまた欲望の対象として設定された存在である。

 一人だけではなく、多人数を欲する者もいるだろう。

 また、アンジェラを殺した後、さらなる犠牲者を望む者もいるかもしれない。

 その為の予備という事だ。


 アンジェラが殺される想像をしてしまい、言いようのない気持ち悪さを感じた。

 この仮想空間内にも関わらず、私は本当にアンジェラ・インフォムを愛してしまったようだ。


 アンジェラ・インフォムという名前は当然、作られた名だ。

 アンジェラ―angel、天使を意味する。

 インフォムはinformationと淫魔(インフォマニア)をかけたものである。

 他の4人の名前がIから始まるのもインフォメーションの頭文字からネーミングされているという訳だ。

 そう、明らかにこのシステムにはバグがある。

 私は全裸で横に寝るアンジェラの寝顔を見ながら、そのベースになった女性の名を思い出した。


 石井真子。

 先輩の妻であり、私が唯一愛した人だ。






 二重の意味で愛おしい顔をしたアンジェラのまぶたが動いた。


「おはよう、アンジェラ。」


 私は優しくアンジェラに囁いた。

 その声に私の顔を見て、急に顔を赤くしてかたわらに会ったシーツで自分の身体を隠した。


「お、おはよう、カズ。な、なんか、照れくさい……。」


 そう言って自分の髪の毛をいじる。

 その表情は非常に可愛い仕草だった。

 自分の中に溢れる愛情が、しかし、今の私には苦痛だった。


「体の調子は大丈夫?ごめんね、昨日は自分の感情を押し付けて、強引にしてしまって。痛みはないかい?」


 私の言葉に首を横に振る。


「だ、大丈夫、大丈夫だよ、カズ。そ、それは確かに強引で、ちょっと慌てたけど、少し痛かったけど…、温かくて、すごく幸せだったから。」

「よかった、本当に良かった。私が自分の欲望を押し付けてしまったんじゃないかと思って、ちょっと後悔してたんだ。もっと、初めてなんだから優しくするべきだったよ。ごめん。」


 俺は赤い染みの付いたシーツを巻き付けているアンジェラに、頭を下げた。

 アンジェラのその姿にまた下半身が反応しそうだ。


「えっ、私って、えっ?」


 ああ、気付いたね、私の言葉遣いが変わってることに…。


「それで聞きたいことがあるんだ、アンジェラ、いいかい?」

「あ、うん、なあに?」


 私はどうしようもない愛おしさを抑えて、アンジェラに聞いた。


「アンジェラ、君はいったい何者なんだ?」

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