第26話 遠野伊織
目が覚めた時に、柔らかな何かが唇に触れているのがわかった。
目を開けると、そこには人とは思えないほど整った顔があった。
アンジェラが俺の顔にくっつくほど近くに寄せていた。
いや、一部は接触していた。
アンジェラの柔らかく瑞々しい唇が俺の唇に完全に接していたのだ。
目をつぶっていたアンジェラの瞼が開き、その色素の薄い空色の瞳が俺を見た。
目と目があった。
すると微かにほほ笑み、重ねた唇が俺の唇を開かせるように動く。
そして開いた俺の口にねっとりとしたアンジェラの舌が潜り込んできた。
あまりの甘い感触に全身がとろけそうになるのを懸命にこらえ、俺はアンジェラの両肩に手を伸ばして、強引に俺から体を引き離した。
アンジェラは昨日の眠りに落ちた時と同じ格好、つまり下着姿でベッドに座って俺を見下ろしている。
今引き離された舌が唇を一度舐めるように動き、俺に微笑を向けた。
「おはよう、カズ。いい夢は見れた?」
夢は見た。
確かに見たんだが、その内容は
「ああ、大丈夫だが…。アンジェラはいつから起きてた?」
「うーん、10分くらい前かな?」
ブラの中身が暴力的に俺の視界を占めている。
本当に俺の奥さんなら、これを自由にしてたってことか、俺が?
何たる果報者!
「昨日の記憶はあるか、アンジェラ。」
「う~ん、おいしい飲み物を飲んだ記憶はあるんだけど…。そのあとカズの横でいい気持ちになって、なんだかすごく幸せな感じで……。気づいたらこのベッドの上でカズに抱きしめられてた。」
「ふえ!」
変な声を出してしまった。
でも、アンジェラを抱きしめていた?
全くその感触はないんだが…。
昨夜、あの管理AI遠野伊織と話した後、あどけなく眠るアンジェラを見つめていた。
そのまま寝落ちした気がする。
本当に妻なら、きっと肉体を交われば、思い出せることもあるんじゃないかという想い。
それとは逆に、全くの別人で、さらにそういう経験のない女性であった時のリスク。
頭が混乱していたのは事実だが。
「うふ、嘘だよ、カズ!そうだったらよかったっていう私の願望。」
俺の慌てた様子が楽しくてしょうがないらしい。
自分で顔が赤くなるのを感じた。
いっそう、このまま襲ってしまおうか?
そんなよこしまな考えが俺の頭をよぎった。
と言っても、そこまでの度胸は俺にはない。
ヘタレもいいとこだ。
「早く服を着ろ、アンジェラ。朝飯食ったら紹介したい人がいる。」
俺は視線を逸らして、少しぶっきらぼうに告げた。
「紹介したい人?私たち以外に誰かいるの?」
アンジェラが俺の言葉に少し驚いたようだ。
それも当たり前か。
昨日寝てから今起きるまでの間に他の人間が現れたと言ったら、大抵の人は驚くはずだ。
「これは非常に重大な話だからな。まずはしっかりと飯を食おう。」
ちょっと不機嫌そうな顔をしたが、アンジェラはクローゼットからジーンズと涼しげな青と白のチェック柄の太ももまで丈のあるキャミソールワンピを着てくれた。
そのまま二人で階下のダイニングに移動する。
俺はまず冷凍庫を開いた。
昨日釣ってきて冷凍した魚を取り出す。
それを軽く油で炒めて、とれたての野菜と一緒にパンにのせた。
マスタードとオリーブオイルを混ぜた調味料をかけて、その上にパンを置く。
それを食べやすいように切り分けた。
コーンスープの素があったので、湯を沸かし溶かす。
俺はコーヒー、アンジェラには粉末のジュースの元を水で溶かし、簡単なオレンジジュースを作った。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」
簡単な朝食ではあるがおいしそうにアンジェラは食べてくれた。
きっと、反対側の宿泊地はここよりも待遇がいいのだろう。
昨日の伊織の雰囲気からそんなことを夢想した。
そんな俺に、かなり疑念の籠った視線を向けてきた人物がいた。
アンジェラが、朝食を食べ終わってコーヒーを飲んでいた俺に視線を送ってくる。
「ねえ、カズ。変にうれしそうな顔してるけど、紹介したい人って、女性?」
さあてと、管理AI様は女性と言い切ってしまっていいのだろうか?
「なんか隠してるよね、私に。昨日、私が寝てから何かあったんだよね?秘密にしなきゃいけないことが。」
何故俺はアンジェラに
秘密にしているわけではない。
ただ、実物を見せなければ、おそらくアンジェラには理解できない。
そう思っただけだ。
「私やっぱりこの服も、可愛い下着も全部脱いでその人に会う!」
訳の分からんことを言い始めた。
俺が服を着てほしいと言ったから、それと逆のことをして、俺に何らかの譲歩を迫るつもりか?
いや、違うな、この感情の表れは。
俺があわせたい人というのが女性で、これから自分が放っておかれることに危惧を抱いているというところか?
いや、単純に嫉妬と考えた方が納得はできる、かな。
「変なことを言うな、アンジェラ。これから会う人は俺たちにとって有益な人だ。ここの生活がより快適になる。それは間違いないんだよ。」
そういう俺に、さらに猜疑心を込めた目で睨んできた。
俺は仕方なく席を立ちあがって、アンジェラの傍らに歩み寄る。
そしてアンジェラのあごに人差し指をひっかけるようにして上を向かせ、そっと唇を重ねた。
最初は驚いたように目を見開いた。
だがすぐにうっとりするように目を細めた。
俺はその表情を確かめ唇を離した。
「あっ。」
小さくアンジェラの口元から声が漏れた。
少し目元が赤みを帯びている。
「な、わかってくれ。会えば俺の言っている意味が分かるよ。」
「うん。」
頷いたが、すぐに睨むように俺に視線を向ける。
「いつも、こんな事で誤魔化されないんだから。」
少し恨めしそうに言う。
つまり今回はうまく誤魔化されたという訳か。
俺は立ち上がりアンジェラの前の食器と俺の使った食器を流しに入れ、簡単に洗う。
こちらを椅子に座ってみているアンジェラに向き直る。
「よし、じゃあ行こうか。」
俺はそう言っていまだ立とうとしないアンジェラに手を差し出した。
その俺の手をしばし見つめたアンジェラは、いったん視線をそらした。
それでも俺はその姿勢を続けていると、しぶしぶという雰囲気で俺の手に自分の手を置いた。
俺はその手を握り軽く引っ張ると、アンジェラもその力に逆らうことなく椅子から立ち上がった。
二人で二階に上がり、昨日の部屋が隠れている壁の前に立つ。
「カズ?誰かに合わせるんじゃないの?こんなところに何が…、って、まさか……、まさかお化け?お化けに会わせようとしてんの!」
そう言うアンジェラの腰が引くように体重が俺の握っている手にかかった。
まさかそんな発想が出てくるとは思わなかったが、手を握っておいてよかった、と俺は内心思っていた。
ここで逃げられたら、また多大な労力を使うところだった。
アンジェラを左手で捕まえたまま、かすかに点滅を繰り返している場所に右手をかざした。
昨夜同様、モーター音が大きくなるとドアが開かれた。
この扉のオープンがさらにアンジェラに恐怖を起こさせたようで、俺の掴んでいる手を払おうとした。
「大丈夫だよ、アンジェラ。」
俺はすぐにアンジェラの手を引き抱き寄せた。
アンジェラもすぐに俺にしがみつくように抱き着いてきた。
「夫婦仲のいいことですね、石井様。おはようございます。」
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