あやまる
ゆきちゃんの家は、四年前と変わっていた。前に来たときは古い二階建てのアパートで、部屋も狭かった。たしか築三十年と言っていたそのアパートは外壁も薄汚かったし、ドアの立て付けも悪くて、玄関の扉を開けるとき、変な音がした。
けれどゆきちゃんは、不便で思い通りにならないところがいいのだと言っていた。その部屋を、とても気に入っているようにみえた。
六畳くらいの畳の部屋には、透明なローテーブルと一メートルもなさそうな冷蔵庫、窓辺に衣装ケースが置いてあった。西側に、小さな出窓があるのが特徴的だった。
「家、変わったんだね」
「うん。私の前の家おぼえてる? 引っ越したんだ、最近」
ゆきちゃんの新居は十階建てのマンションで、綺麗なエントランスで、オートロックで、なんというか、隙のない、頑丈な部屋だと思った。
「みよりちゃんって、いくつになったの」
エレベーターの中でゆきちゃんがたずねてくる。行き先は、八階だった。
「二十二歳になったよ」
「もうすっかり大人だね」
ゆきちゃんはそう言うけれど、彼女と話していると、幼いころの自分に戻ったような気になる。父とゆきちゃんと三人で会っていたとき、私はゆきちゃんに甘えたくてしかたがなかった。ゆきちゃんがお母さんになればいいと毎日考えていた。
八階に到着すると、金色のドアノブがついたゆきちゃんの部屋があった。重厚な扉を開けると廊下があって、玄関といちばん近い部屋がダイニングキッチンになっていた。中に入るなり持っていた荷物を置いて、ゆきちゃんが冷房をつける。
「すごく広い部屋だね」
大理石の大きなダイニングテーブル、それとセットになっているチェアが二つ。カウンターで区切られているキッチンには、私より少し背が高い冷蔵庫が置かれていた。
「あと三つも部屋があるんだよね」
見る? と聞かれて首を横に振った。このダイニングだけで、いまのゆきちゃんは私が知っているゆきちゃんとはちがうということがわかった。これ以上この家を知ってしまうのが怖かった。
つるつるしているダイニングテーブルに、なんとなく指を沿わせる。なんの突っかかりもなく、私の人差し指はテーブル上でなめらかに動いた。それは私がよく想像したひみつの感触と似ていた。ゆきちゃんは、買ったものを冷蔵庫にしまっている。
「よかったらなにか食べていく? 簡単なものしかないけど」
麦茶をこんと目の前に置いて、ゆきちゃんが言う。そのセリフも四年前と同じだった。知りたくないのに、まだ帰りたくはない。矛盾した気持をかかえながら、私はゆきちゃんの提案にうなずいた。
地上から高い場所にあるこの部屋からは、外の音が全然聞こえない。とんとんとん、とゆきちゃんが包丁で野菜を切る音だけがこの場にあった。
「みよりちゃんには謝らないといけないって、ずっと思ってたんだよ。いまさらなに言ってるんだって思われるかもしれないけど」
唐突に、ゆきちゃんがそんなことを口にする。万能ねぎが小気味よく小口切りされていく。ゆきちゃんの手首には目立つほくろがあった。いつできたんだろう。昔からあったのだろうか。そのほくろを、私ははじめて目にした気がする。
「謝る?」
「だって、ひどい話でしょ。父親の……その相手に子どもを会わせるなんてさ。到底ゆるされないことをしたよね」
ひどい話。たしかに一般的にはそうなのかもしれない。けれど私はゆきちゃんと会うのが楽しみだった。ゆきちゃんも、私と会う時間を楽しみにしてくれていたのだと思っていた。ゆきちゃんという存在が、私を救ってくれた。母だけじゃないこと、いつか私を迎えに来てくれると期待できること。それは幼少期を過ごす希望になった。
「私は謝られるようなことされてないと思う。ゆきちゃんのことが好きだったから、会えてよかったっていまでも思ってる」
ゆきちゃんから、謝罪の言葉なんて聞きたくなかった。まるで彼女が過去を清算したがっているみたいだ。このきれいな部屋みたいに、全部片づけようとしている。謝られたら、私にはゆるすかゆるさないかの選択肢しかない。どちらを選んでも、父とゆきちゃんと私の時間がなくなってしまう気がした。秋人みたいに、なかったことにしないでほしかった。
あの三人の時間は、私にとって必要なものだった。私はゆきちゃんに母親になってもらいたかった。そして私自身も、ゆきちゃんになりたかった。そうすれば、私はなにもかもが大丈夫になると思っていた。
「そんなこと言ってもらう資格ないよ、私には」
包丁の音が止まる。しんと部屋の中が静まり返った。ゆきちゃんの声は、いままで聞いたことがないくらい暗かった。母を思い出した。泣いて縋る直前の、ふるえる声。
「資格とか関係ないよ。ただ私がそう思ってるだけ」
ゆきちゃんの背中に声をかける。私にとって、あの時間ができあがった理由はなんでもよかった。
とんとんとん。ゆきちゃんが、万能ねぎを再び切りはじめる。
「私はゆきちゃんに会えてよかったよ」
もう一度伝えてみたけれど返事はなかった。しん、とすべての音を吸収してしまう部屋だと思った。こんなに近くにいるのに、私の声はゆきちゃんに届かない。
ずっと会いたいと思っていたのに、これなら離れていたほうがよかった。離れたままならきっと、いつまでもゆきちゃんとつながっていられた。楽しかった思い出だけをかかえて、大切にしまって、ときどき眺めているだけだったなら、なにも変わらなかった。美しいままだった。
ゆきちゃんはそれからなにも話してくれなかった。私は椅子に座って、ただゆきちゃんの背中をみつめた。冷房はあっという間に効いたから、汗はすぐに引いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます