第5話 不可能、行動、蠢動

 時は少し遡って、魔術学院大図書館。金書庫から出てきたソラは、入口で待ち構えていたキャニアンを見て少し驚いた。いつもの軽薄で明るい笑顔は消え、急いた気持ちと真剣さで固めた瞳で見つめてくる。


 ぴしっ、と人差し指を突きつけて、キャニアンは言った。


「やっと出てきた。姫みーっけ」

「あなたが私を訪ねてくるなんて珍しいわね。この国もいよいよ終わりかしら」

「それ、姫が言っていいセリフじゃないでしょ」

「内密にして、名探偵さん。……それで、何の用? あなたからは嫌われているとばかり思っていたけれど」

「嫌いじゃなくて苦手なだけだよ。ちょっと聞きたいことがあってさ。……男の子を女の子にする魔術、知ってる?」

「……はあ?」


 ソラは思いっきり眉間に皺を寄せた。“何を言っているんだこいつ”と言いたげな目つきで睨まれ、キャニアンは質問が悪かったかと後悔した。訂正する前に、ソラがこめかみを押さえて首を振る。


「一体何を言っているの……。ないわよ、そんなの。そんなことする必要もないし、そもそも不可能よ。魔術における基礎中の基礎、生体魔術不全の法則の説明。はいどうぞ」

「他の生物に直接魔力を付与できない。持ち主の異なる魔力は反発し合い、術式そのものを乱して無効化してしまう」

「よくできました」


 ソラは聞き分けのない子供に、形だけの説教をするような投げやりな態度で言う。


「性別を変えるとなれば、魔力を他人に付与しなければならないわけだけど、付与された時点で魔力は反発し、術式は乱され、魔術は成立しなくなる。もしこれを解決できるなら、医療現場は魔術だけで成り立つし、包帯を巻く必要も、メスで体を切り開く必要すらなくなるわけだけど」

「だよねえ……。けどこう、なんか金書庫にそういうのあったりしない? 実は成功例ありますみたいな」

「無いわよ、失敗例なら山ほどあるけど。嘔吐したいなら見せてあげるわ」

「え、遠慮しておくよ……」


 小馬鹿にしたようなニヒルな笑みを見せるソラ。キャニアンはキャニアンで恥ずかしそうに咳払いをする。これで、ピネロが魔術で肉体を作り替えられたという線はなくなったわけだ。


「じゃ、じゃあ、王族秘伝の魔術があるじゃない、“被罰人形プリズナー”と“英霊人形エインヘリアル”。あれの要領で、女の子の体に男の子の魂を入れるとかは?」

「……あなた、本当にどうしたの? 世迷いごとに付き合う暇はないのだけれど」

「こっちも時間ないの! 説明なら後でするから、お願い! 今は真面目に!」


 両手を合わせ、頭まで下げるキャニアンの意図を測りかね、ソラは悩んだ。自称名探偵の少女は、はしゃぐことはあっても悪ふざけまではしない。それを知っているソラは、釈然としないながらも頭に詰めた知識の索引を探る。


「一応、試そうとしたことはあったそうよ。死者の魂を“英霊人形エインヘリアル”にする技術が確立してから、損壊の激しい死体から抜き出した魂に、別の新しい肉体を与えるという。敢え無く失敗したらしいけど」

「じゃあ、魂を別の肉体に移すのは無しか。でも、人形には入れられてるよね。あれは?」

「“被罰人形プリズナー”? 設計自体はそこらの魔術人形とそう変わらないわ。人の魂を入れないと動かないだけで」


 ソラは法的にかなりグレーなことをしている自覚は持ちつつ、明後日の方向に目を逸らす。父やジェスターに知れたら、何と苦言を呈されるかわかったものではない。


 しかしキャニアンはまだ満足しないらしかった。彼女は近くを横切る“被罰人形プリズナー”を一瞥して、声を潜める。


「最後にこれだけ。……“被罰人形プリズナー”に、心ってある?」

「この図書館で働く個体を見て、そう思うならそうかもしれないわね」

「無いなら無いってはっきり言ってよ」

「ちっ。……無いわよ」

「理由は?」


 ソラはいい加減うんざりしてきた。どうしてこう、キャニアンは当たり前のことについて根掘り葉掘り聞いてくるのか。しかもしっかり答えねば納得しないときた。


「“被罰人形プリズナー”も“英霊人形エインヘリアル”も、人形になった時点で元の人間の記憶も心も意思も失われるわ。喋ることはあるけど、あれもあらかじめ刻まれた言葉を、体内の機構を使って発しているに過ぎないの」

「人形になった時点で記憶は失われる……?」

「まあ、一日ぐらいは元の人格と記憶を維持しているけれど。さて、そろそろなんでこんなことを聞くのか、教えてくれる?」

「その前にもうひとつだけ。昨日、ピネロがどこに行ったのか……知ってる?」

「ピネロ? アルバート先生に会いに行ったって言ったはずだけど」

「じゃあ、先生の居場所は?」

「さあ、そこまでは。……さっきからなんなの? というか今更だけど、今日は学院全域立ち入り禁止でしょう。見つかって叱責で済むならいい方よ」


 ソラの忠告を、キャニアンは無視した。否、難しい顔で何かを考えているせいで、耳に入っていないらしい。やがて彼女は深刻そうな表情をすると、サッと会釈する。


「ありがとう姫、捜査協力に感謝するよ。じゃあ吾輩はこれで! ちょっと急がなくちゃいけないから、また!」


 そう言って、キャニアンは弾かれたように出口へ向かって走り出した。飛ぶような勢いがソラの癇に障る。ソラは黒灰色の魔力をまとった爪先で軽く足元を蹴った。すると足元の影が瞬時に伸びて床から剥がれ、何本にも枝分かれしてキャニアンに絡みつき、彼女を叩き伏せる。


「きゃっ!?」


 顔面から床に倒れ込むキャニアン。まっすぐに伸びた影はキャニアンの方向に向かって縮み、ソラを近くまで連れてきた。


「聞くだけ聞いてどこに行くつもり? 今度は私が聞く番よ」

「ま、待って姫、お願い! イータが危ないかもしれないの!」

「なら順を追って説明しなさい。暴れるより、私を論理で納得させた方が遥かに早く済むわ」


 切羽詰まった様子でじたばたするキャニアンを冷ややかな目で見下ろし、ソラは冷たく言い放った。


「それで、ピネロがどうしたの?」


 その夜、イータの家が爆発した。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 翌朝。レミハはズタズタに壊された街並みを前に、奥歯を食いしばっていた。


 周囲はひどい有様だ。石畳には煤の痕。家は風穴が空いているだけならマシな方で、中には完全に焼失してしまったものさえ存在する。身軽そうな法衣の者たちが、瓦礫から怪我人を引っ張り出し、担架に乗せて見送られている。病院行きならまだ希望がある。霊安室に直行しないならば、まだ。


 カタカタと音を立て、オレンジがレミハの背後にやってきた。彼女は言い辛そうに何度か口を開き、散々迷ってからようやく報告をした。


「先生……イータは、だめでした」

「……そう、ですか」


 レミハは静かに、それだけ返した。


 死は、珍しくない。国境に行けば、それはいつでもすぐそばにいて、昼夜を問わず虎視眈々とこちらを狙ってくる。肥大し、凶暴化した魔獣たち。群れを成して餌を探す虫。大地の全てを覆い隠し、食らいつくし、消し飛ばさんとする肉塊。更地が蘇るより早く、彼方より攻め込んでくる他国の軍勢。


 騎士団レギオンは、そんな敵を相手取る。結果、死んだレミハの同期は、もはや手が六つあっても数えきれない。先達や後輩を含めれば、人数はさらに膨れ上がる。そうした修羅場で生き残り、大成したレミハは、後に続く者たちが死なぬようにと教鞭を執った。


 だが、教え子がひとり、死んだ。まだ鎧すら身にまとわぬうちに。レミハは目を閉じて空を仰いだ。うんざりするほど晴れ渡った、爽やかな青を。


「彼は……何か言い残しましたか?」


 オレンジが首を振ったのが、音だけでわかった。イータの家は跡形もない。何もかも焼けてしまった。彼の人形は胴体部分を粉々にされた状態で発見されている。何者かと戦って、敗死したのだろう。


 レミハは拳を握り締める。演奏のため、短く整えた爪が掌を食い破るほどに深く、強く。


 事件は昨日の深夜。王都を駆けずり回って鳶色の髪の少女を探していたレミハの耳は、遠くで起こった爆発の音をキャッチした。


 一回ではなく、爆発は断続的に何度も続く。それに応じて火災や人々の悲鳴も聞こえてきた。明らかに尋常ならざる事態である。しばらくして、そこから少し離れた場所でも爆発が連鎖的に起こった。


 何者かが戦っている。それも複数人が激しく。全速力でそこへ向かい、たどり着いたとき、既に戦いは終わっていた。人形を砕かれたイータは全身を斬り刻まれて虫の息となっており、戦っていたと思しき相手はいなくなっていた。


 比較的家が近く、騒ぎを聞きつけてやってきたオレンジにイータを任せ、レミハは魔術を用いて周囲を索敵。巻き込まれた怪我人を全て探し出し、遅れてやってきた裁断省警邏隊の協力も得て、今に至る。


(これはあなたの過失よレミハ。ただそれだけが真実)


 レミハは歯を食いしばって、己に言い聞かせた。全身を斬り刻まれたイータを見て思いつくのは、あのピネロを名乗る鳶色の髪の少女だ。彼女も魔力を固めて刃を作り、レミハの拘束を脱して逃れてみせた。


 否、あの少女が犯人と決まったわけではない。刃など、魔術が無くても作り出せる。しかし、無関係と考えるのは楽観が過ぎよう。あの少女は昨日、イータとも出会っているのだから。


 彼女を逃がしたために、この事態を招いた。真実がどうであれ、今はそう考えて動く。あの時少女を逃した不手際が、己の生徒が殺したと。真実は仮説が否定されたあとで求めればよい。今はこれ以上死傷者が出るのを防ぐ。どんな手を使っても!


 レミハは決然とした面持ちで振り返り、オレンジの隣を横切った。


「先生、どちらへ?」

「王城に行きます。いいですか、オレンジさん」


 振り返ったレミハの顔からは、柔和さなど欠片も感じなかった。彼女は激情に燃える瞳でオレンジを見つめ、指示を下す。数万人規模の騎士を率いる者の貫禄がそこにあった。


「人形科特待生クラスの生徒全員を集め、魔術学院大図書館で待機していてください。指示があるまで外には出ないように。食料と毛布の心配はしなくて大丈夫ですが、心配なら持てるだけ持っていって構いません。シフト表を作り、館内を常時警戒。常に三人以上のグループで動き、不審物や不審人物はその場で制圧するように。いいですね?」


 オレンジは怯えながらも頷いた。


 市街地が戦場になり、死傷者まで出た。もはや家も安全ではない。ならば、戦う力を持った学生たちは集まって、自衛させるべきだ。イータを殺した者の実力は不明だが、戦闘痕から見てイータはひとりで戦い、死んだ。魔術学院の学業を修め、レミハが直々に騎士団レギオンに入っても死ぬことはないと判断した生徒が。


 泣き腫らした目をこすりながら、強いて己を律し動き出すオレンジを背後に残したレミハは、暴風のような速度で走りながら歯ぎしりをする。


 後から後から噴き出す自責の念、後悔、確かめようのない判断の正誤。全てを置き去りにして、レミハは王城へと駆けた。


 国境付近での異変。魔術学院への砲撃と謎の少女。市街地で起こった被害の大きな戦闘と多数の死傷者。王都で何か大きな異変が起こっている。もはや一刻の猶予もならない。国防を担う者の名に懸けて、異変の全てを詳らかにせねば。騎士の名を返上し、悔いて詫びながら自決するのは一番最後だ。


 レミハは石畳を放射状に砕き、王都の中央にそびえる城をめがけて跳躍した。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 ペルジェス王城、回廊。多数の人形が展示された通路に、からんころんと乾いた音が木霊する。足音の主は、妖艶な騎士正装をまとった女性だ。底の高い履物を引っかけ、腰布と最低限の装甲を身に着けた衣服、そして髪をまとめる針状の飾りが特に目を引く。


 煙管を吹かしながら歩く彼女の横顔は、あからさまに不機嫌そうだ。無理もないだろう。王都警備の任という名の休息期間中なのに、王都が妙に騒がしい。騎士団レギオンとして仕事が増える。


 桃色、すみれ色、バラ色と三色に遷移する煙を吐いては散らし、周囲に渦巻かせながら歩いていた足が不意に立ち止まる。彼女の前に、モノトーンの衣装をまとった道化師が立っていた。


 道化師は鳩の羽を螺旋状に編んだような妙な帽子を外し、恭しく一礼してみせる。


「お帰りなさいませ、マイラ師団長。此度の国境警備は如何でしたかな?」

「日報集は既に提出したはずでありんす。それよりも宮廷道化師ジェスターブダペスト、この体たらくは如何なることか、説明しなんし」


 紫のアイシャドウを入れた目でギロリと睨まれ、ジェスター・ブダペストは頭を上げた。道化師は国家最強の魔術師、そのひとりを前にして臆することなく、胸元から四つ折りの紙を取り出し、開く。


「つい二日前のことです。深夜、南西の国境付近にて、大規模な戦闘が発生。詳細は現在調査中です。同時刻、魔術学院が砲撃されました。撃ち込まれた物は鉄柱のような形状をしており、中には少女がひとり収められていたそうな」

「……少女?」

「ええ。その少女は学院で保護され、昨日の朝に目を覚ましました。が、担当であったレミハ師団長を振り切って逃走。市街に逃げ込み、行方をくらませたと。昨日の深夜、市街地で大規模な魔術戦の勃発。死者八名、重軽傷者四十八名。戦闘に参加したと思しき学院生が一名死亡しました。その他の参加者は不明です」


 淡々とした語り口を聞き、騎士団レギオン第七師団長“幻酔妃”マイラは艶やかな顔を苦々しく歪めた。天井を仰いで、愚痴をこぼす。


「朝に凱旋して早々、なぜそのような話を聞かねばなりんせんのか……」

「心中、お察しいたします」

「で、レミハは何処いずこに?」

「謁見の間にございます。我らが“指王”に直訴をなさっており、相談中です。“幻酔隊”がこのタイミングで帰還したのは、ある種僥倖とも言えましょう」


 そう来るか。マイラは道化師から手渡された文書に目を通す。


 改めて見ても、三日のうちに色々起き過ぎだ。一か月前まで北東の警備にあたっていて、今朝ようやく王都に戻ってきたばかりのマイラには、寝耳に水である。


 レミハとは知らぬ仲ではない。自分の率いる小隊を放り出し、国境と魔術学院を短期間で行き来する変人だが、それをしてもなお務めを果たすだけの技量と責任感を持つ。そのレミハがいながらこの事態。そもそも、彼女の仕事は国境警備であって、王都の警護と治安維持は裁断省さいだんしょう警邏隊けいらたいの仕事ではあるが。


「はぁ……帰ってきて早々、なぜこのような……。厄日でありんすな」

「まったくです。近年は魔術犯罪も増加傾向にあり、法典を顧みられることも少なくなりました。嘆かわしい、不届き者の末路など、幼少より教え込まれるはずですが」

「おかげで、わっちも長旅から戻って早々、部下を駆り出せねばなりんせん。心苦しいことこの上なし」


 文句を言いつつ、文書を畳んで突き返す。王城に来たのは、王に国境からの帰還の報告をするためだ。鍛錬や雑務をこなしつつ羽を伸ばす。そのはずだったが、この騒ぎ。確実に街を砕いた下手人を引っ立てろと言われるだろう。


 レミハが率いる隊は国境警備に従事しており、代わりにマイラが隊を率いてここにいる。間者スパイ対応の第一人者と謳われた、“幻酔妃”が。これを使わぬ手はあるまい。


「ふう。それにしても、王都の警備がザル過ぎるのではありんせんか? それとも、この程度の事態を収拾できぬ愚昧者ぐまいものの集まりだとでも?」

「前触れのない、突発的な戦闘でしたから。彼らも急いだのです」

「急いだ結果、罪人をひとりも捕まえられぬというのであれば、全員木偶人形以下でありんす」

「事実とは言え、手厳しい」


 道化師はハットのつばを目深に下ろした。その陰から自虐的な笑みが覗く。


「しかし、いずれにしてもまずは平穏を取り戻さねば、おちおち檄も飛ばせますまい。レミハ師団長の隊が到着するには時間もかかりますし、マイラ師団長にはぜひ彼女と協同し、事に当たっていただければと」

「“英霊人形エインヘリアル”は?」

「出動済みでございます」

「では、わっちは謁見が終わるまで、時間を潰しんす。ぬしの節穴を埋めねばなりんせんしな」

「……と、言いますと?」


 問い返してくる道化師を余所に、マイラは回廊脇の展示台に近づいた。魔術師ではないが、腕のいい人形師が作った観賞用のドールがケースに入れられており、造花を摘もうとしたまま静止している。マイラはケースの裏に手を入れ、透明な何かを取り出した。埃を払うように息を吹きかけると、“隠密ヒドゥン”が解けた。隠れていたのは黒い鳥のぬいぐるみだ。


 明らかに人目を避けるように隠されていたそれを見て、ブダペストの顔色が変わった。マイラはぬいぐるみの背中を割いて、中に煙を吹き入れる。しばらく無言で、中身の輝く綿を見つめてから、言った。


「魔術が仕掛けられたぬいぐるみ……こんなものを放置しているとは、ぬしの腕も落ちたものでありんす」

「……いやはや。どうやら、私はあと少しで首を切られるところだったようで」


 宮廷道化師の目が据わる。頬に汗を伝わせたまま、彼は真剣な眼差しを向けた。ペルジェスの宮廷道化師も、また優れた魔術師。その真の役割は、仕える王の最後の砦。宮殿に仕掛けられた魔術具にも気づけぬのならば、その名折れ。


「マイラ師団長、物探しをレクチャーして頂いても?」

「苦しうない」


 マイラがぬいぐるみを背後に放り投げる。回廊全体にわだかまっていた煙の中を舞うそれは、虚空に収束した煙が編み上げた球体に閉じ込められた。ふよふよと浮かぶ煙球を引き連れて歩くマイラの後ろにブダペストが続く。


 乾いた足音を立てながら、マイラは嘆息する。生家に顔を出している暇があるだろうか。可愛い名探偵気取りの妹分のことが気がかりだった。


 もっとも、早くこの慌ただしい事態を済ませれば良いだけのことなのだが。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 夕暮れ。ジーナは大きなぬいぐるみと一緒に頭から毛布をかぶり、ベッドの上で膝を抱えていた。


 朝も昼も何も食べていない。なのに、腹は一向に空く気配がない。それでよかった。独りの食卓など、彼女は望んでいなかった。愛する人のいない食卓など。


「ピネロ、ピネロ……!」


 ジーナは幼馴染の名を呼びながら、ボガートと名付けたぬいぐるみに顔をうずめる。それはかつてピネロが、サプライズで用意してくれたプレゼント。ジーナが寂しく無いように、自分がいなくても守ってくれる人がいるようにと与えてくれたもの。


 人形遣いの適正がないジーナでも、ボガートは動かせる。それでもそうしないのは、ピネロの代わりなど欲しくはなかったからだ。代わりを用意するぐらいなら、ずっと一緒に居てほしい。彼は唯一残った、故郷の名残なのだから。


「帰って来てよ……お願い、私を独りにしないでよぉ……!」


 涙が止まらず、ジーナはしゃくりあげる。開きっぱなしの窓から差し込む風も、なんの慰めになりはしなかった。




 ジーナとピネロは、ペルジェス南西の国境付近で生まれ育った。ジーナの父は騎士団レギオンの一員で、優秀な魔術師で、中隊ひとつを率いる出世頭でもあった。


 国境に詰めてなかなか帰ってくることはなかったが、ジーナの母は父の武勇伝を騙って聞かせた。父はたまに帰ってくると、それ以上に多くの英雄や魔術の話をしてくれた。そんなとき、ジーナの傍には決まってピネロがいたのである。


 仔細は知らないが、ピネロの母は体が弱く、滅多に外には出てこない。ピネロはそんな母のために、ジーナの両親から聞いた話や、父から教えられた魔術を学んでは披露していたという。必然、ジーナと過ごす時間も増える。そもそも他に子供がいないこともあり、ピネロとジーナはいつも一緒だった。


 ジーナはいろんなことをしてピネロと遊んだ。人形遣いの父が作った玩具で、時にはふたりで魔術の鍛錬をして。国境を歩く城砦人形を見に行って騎士団レギオンの騎士たちに怒られたり、夜にこっそり星を見ながらおやつを食べたり。


 今でもはっきり思い出せる。あの時は、近所の鍛冶屋のおじさんにからかわれても動じなかったし、臆面もなくキスしたりもした。じゃれあって、はしゃぎ回って、ふたりで同じ夢を語らった。


「ねえ、ジーナ。僕、将来ジーナの父さんみたいな騎士になるんだ。それで最強の騎士になって、ジーナや母さんたちを守るの!」

「ピネロには無理だよ。最強の騎士には、私がなるの!」

「ジーナこそ無理だよ! 人形遣い、向いてないもん」

「別に人形遣いだけが魔術師じゃないよ。人形遣いになれなくっても、他にいっぱい使える魔術があるかもってお父さんが言ってた!」


 いつも通り、そうやってわいわい言い争った。どんな魔術を使いたいか、どんな魔術なら使えるだろうか。魔術の適正はひとりひとつというわけではない。子供の夢はたくさん広がり、そしてひとつの約束に収束した。


「なら、どっちが強くなれるか競争しよう! 僕、絶対に負けないから!」

「うん!」


 そう言って、指切りをした。小さな村で、ともに魔術を練習して。そのまま大人になって、夢をかなえるのだろうと、なんの疑いも持たなかった。あの日までは。


 晴れた日なのに、近くで雷がたくさん落ちたような音。火の海に追われるようにして集落に戻ってきた大人たち。その中に混じった父は、ジーナとピネロを抱き上げて、家に押し込もうとした。本能的に危機を察したピネロは、その腕から抜け出して別の方向へ駆け出した。


「待ってピネロ、どこに行くの!?」

「母さんを守りに行く! 置いていけないよ!」

「だ、だめ……ピネロ、ピネロ!」


 必死の叫びは届かなかった。父は泣きじゃくるジーナを地下に押し込むと、険しい表情で言った。


「いいか、ジーナ。私がいいというまで、決して外に出てきちゃだめだぞ!」

「お父さん、お母さんとピネロは!?」

「ふたりをすぐに連れてくる。ここで待っているんだ!」


 父は一刻の猶予も惜しいと言わんばかりに地下室を閉じ、家を飛び出していった。地を揺らす衝撃。悲鳴、雄叫び、崩壊の音。真上に地獄があるようだった。何が起こっているのかわからないまま、ジーナは暗い地下室のうちにうずくまり、耳を塞いですべてが終わるのを待った。


 いくら待っても、誰も地下室には来なかった。ピネロも、ピネロの母も、ジーナの両親も。外が静かになっても、誰も扉を開かなかった。不安、恐怖、孤独がジーナの胸に、じわじわと重圧をかける。本人も知らぬうちに、ジーナは泣き出していた。


「お父さん、お母さん、ピネロ……!」


 何度も何度も、繰り返し呼ぶ。返事はない。誰の声も聞こえない。父にもう大丈夫だと言ってほしかった。母に寝かしつけてほしかった。ピネロの顔を見たかった。


 やがて、地下室の扉が開かれる。入ってきたのは、青いクリスタルのような甲冑を着た人影だ。


 いつも父が着ている鎧とは違ったが、気にしている余裕はなかった。人影はぎこちない動きで一歩一歩、ジーナに近づいてきた。顔面をすっぽりと覆う兜から聞こえてくるのは、くぐもっていたが紛れもなく父の声。


「ジーナ、ジー……ナ……! 無事か、ジーナ……!」

「お父さん!」


 ジーナは立ちあがると、甲冑に抱きついた。クリスタルのような鎧はひんやりとつめたくて、人肌の温度は感じない。父は関節を軋ませながらジーナを抱いた。


 耳元で、掠れた安堵の声がした。


「ジーナ……無事でよかった……」

「お父さん、お父さんも無事でよかったよぉ……! ねえ、お母さんは? ピネロは? 一緒じゃないの?」

「おかー……さん、ピネロ……一緒じゃ、な……すまな……い……ッ」

「……お父さん?」


 声がどんどん不明瞭になり、おかしくなっていく。ジーナは不思議に思って、父の顔を見た。兜に包まれて、表情が見えない。ジーナは兜を両手でつかみ、外した。


「…………!?」


 その下にあったものを見て、ジーナは息を呑んだ。そこにあったのは、紛れもなく父の顔。目に瞳は無く、肌は鉱物のように透き通っていて、もはや生命の気配など

なくなった父の厳めしい死に顔があった。


「おとう、さん……? お父さん? お父さん!?」

「すまない、ジーナ……おとー、さんは……死んで……。すまない……でも、これで、お前は……生きて……」


 言葉からだんだん抑揚がなくなっていく。父が父でなくなっていく。その実感が、ジーナを心胆寒からしめた。やがて父だった人形はジーナを離し、兜をかぶり直して地下室を出ていく。ジーナは慌ててそれを追いかけた。


 父がどこか遠くへ行って、いなくなってしまう。その確信が、凍り付いたジーナを衝き動かした。


「待ってお父さん! 待ってよぉ!」


 父を追って外に出ると、慣れ親しんだ家は無かった。床と壁の残骸が残り、集落もほぼ更地と化していた。父だったものは、頭から炎のように揺らめいて消失した。後には何も残らず、初めからなにもいなかったかのようだった。


 人の姿もほとんどなく、大量の血痕や、部品が転がっている大地を、ただ落陽が照らしていただけであった。


「……うそ」


 ジーナはひとりぼっちで、その場にへたり込んだ。そうして、日が落ちて、夜に別の騎士団レギオンがやって来るまで、ずっとそのままだった。


 後から聞いた話によれば、父はペルジェスの王と契約を交わしていたそうだ。死後、己の魂を捧げる代わりに、家族の一生を保証するという契約を。召し上げられた魂は、永遠に王族が操る人形として使役され、王都を守り続ける。その人形の名を、“英霊人形エインヘリアル”と言った。


 ジーナの父は、物言わぬ人形と化したのだ。王族に都合よく操られる、人形に。それを知った時の嫌悪感は、思い出すたびジーナの喉とはらわたを締め付けるほどだった。自分の夢は、憧れは、死ぬことも許されぬ奴隷の道へと続いていた。その真実が、ジーナを今でも苦しめている。


 だというのに、故郷の滅亡から数年後、再会したピネロは未だ、ジーナと交わした誓いを忘れてなどいなかった。




 記憶と苦悲くひの沼に沈んだジーナの意識を引き上げたのは、足を尖ったもので突く感触。顔を上げると、足元に一通の手紙が落ちていた。焦げ付いたような、真っ黒な手紙。ジーナは、のろのろとそれに手を伸ばす。


 青色の封蝋を外して中を確認すると、彼女は立ちあがる。体にまとっていた毛布がベッドに滑り落ちた。


「行こう、ボガート。ピネロを……助けなくちゃ」


 魔力を流すと、テディベアはジーナを抱きしめたまま立ちあがり、虚空に溶けるように姿を消した。

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