第4話 黒い翼と蛇の喉

 大急ぎで人気のない路地裏に駆け込んだピネロは、背中を壁に預けてずるずるとへたり込んだ。心臓が不規則に鼓動し、気持ちが悪い。それは決して、疲労だけのせいではなかった。


「どうして……!」


 打ちひしがれたように呟き、自分の両手を見下ろす。ほっそりとしていて、柔らかそうな手だ。両腕にも筋肉があるようには思えない。体力もかなり落ちているだろう。実際、魔術学院からはそれほど離れられていないというのに、もう立てない。


 教師と学友に襲われたことが頭から離れない。かといって、恨むこともできない。単に、恨むだけの気力がないからかもしれないが。


 改めて、自分の体に触れてみる。汗にまみれているが、滑らかな肌。体のあちこちがやわらかく、なんだかやましい気持ちが胸の奥に湧いて出てくる。ピネロはそれに気づいて首を振ると、立ちあがって胸元に手を添えた。どのみち、このままでいるのはまずい。“隠密ヒドゥン”をかけて姿を隠しているとはいえ、だ。


 深呼吸して心を落ち着け、手のひらから魔力を放ち物質に変換する。胸元と腰回り、両足に薄い金属を巻き付けてどうにか隠す。ひとまず局部は隠すことができたが、それはそれで別の問題が発生した。


「ううっ、胸と下が変な感じ……」


 柔らかい乳房や股間に金属の触れる感触が、どうも落ち着かない。レミハ先生や騎士団レギオンの女性騎士は、皆こんな感覚を耐えているのだろうか。ピネロはもう一度首を振って、湧きかかった破廉恥なイメージを振り払った。そんなことを考えている場合ではない。


(魔力を浪費しすぎた……これ以上戦えば、代償を払う羽目になる……)


 ぐうう、と腹の虫が鳴いた。文字通りの裸一貫、食べ物も資金もない。魔術の基礎的技術はふたつ。魔力を物体に付与して働きかける付与アサインと魔力を別の物質に作り替える変換コンバート。その場で武器を作れるのが変換コンバートの魅力だが、固形物を作るとかなりの魔力を持っていかれる。


 ピネロに限って言えば、魔力消費を最低限に抑えられる。とはいえ、オレンジたちから逃れる際、刃を作った分がかなり響いている。全身鎧を作らず、金属帯を最低限まとった格好なのも、あの時に魔力を使い過ぎたせいだ。


 倦怠感に包まれながら、学友たちとの戦いを思い出す。ついこの間まで気兼ねなく仲良くしていたのに、攻撃されるだなんて。それがかなり、ショックだった。


(なんとか……しないといけないのに。こんな体じゃあ、信じてもらえない……)

(僕が僕である証拠、“ツー・ナイツ・ディフェンス”……か)


 イータの発言が呼び起こされる。魔術仕掛けの人形には二種類ある。特定人物にしか使えない一点ものと、操り方さえわかれば誰でも扱えるもの。優秀な人形遣いは、自分専用の人形を作る。その性能は基本的に相伝の秘密であり、製法に至っては完全に秘されることが多い。


 ピネロの“ツー・ナイツ・ディフェンス”は、一点もののシリーズだ。製法を知るのはピネロと師匠のアルバートだけ。学友たちにも秘密だし、ジーナには至っては魔術の名も教えていない。そして製法の都合で、操れるのはピネロだけだ。


 それはつまり、“ツー・ナイツ・ディフェンス”の使用を実演すれば、まだ信じてもらえる可能性は残されているということでもある。普段持ち歩いている人形の素体や侍らせている人形は、恐らくアルバートの地下工房で失われたのだろう。だがそれが全てではない。自宅の地下工房に予備がある。


 ピネロは重い体をなんとか持ち上げる。やることは決まった。まずは自宅に戻って“ツー・ナイツ・ディフェンス”の予備を回収する。


(ん? ってことは、もしかしたらジーナとも鉢合わせる……? いや、今の時間帯は店にいるはずだし、ないか)


 同居人のことを思い出し、気持ちが落ち込む。こんな自分の姿を見て、ジーナはなんて言うだろう。レミハや学友たちと、同じような反応をされるかもしれない。そう考えると、少し恐ろしかった。


「でも、そうだよなぁ……。僕だって、訳が分からないし。師匠は僕に何をしたんだろう……?」


 他者を直接どうこうする魔術は、ほぼ不可能と言われている。第一に、相手の髪の毛一本、血の一滴、臓物の隅々までを把握せねばならない。第二に、術者と対象の魔力が反発して術を乱すのを抑えねばならない。それらを乗り越えて術を完全な形で成立させるのは、目に見えないほど細い糸を使って綱渡りをするよりも難しい。


 しかし、現にアルバートはやった。彼の地下工房に行ったのが夢でなければの話だが。彼にも話を聞かねばなるまい。だがまずは、ちゃんと自分がピネロであると証明しなければ。自分の置かれた状況を再確認し、頭を抱えた。


(レミハ先生やオレンの口振りから考えて、多分スパイ容疑だと思われたんだよなぁ……ってことは、このまま捕まって有罪判決を下されれば、僕は“被罰人形プリズナー”行きだ。そうなったら師匠を問い詰めるどころじゃない、本当にジーナのところにも帰れなくなる!)


 そうと決まれば、動かねば。レミハがこのまま自分を放置するとは考えづらい。国防を担う騎士、その筆頭の名に懸けて捕らえに来るだろう。見つかるよりも先に“ツー・ナイツ・ディフェンス”を取り戻し、己を証明する。


 ピネロは一歩踏み出して、その場に膝を突きそうになった。慣れない肉体の酷使に加えて、魔術の消費と精神的なダメージが祟ってきている。しばらく座って休みたいが、そうも言っていられない。なんとか立ち上がると、ピネロは路地裏の壁に手を突いてふらふらと家に向かって歩き始めた。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


「では、あなた方も彼女を逃がしてしまったと、そういうことですね」

「申し訳ありません、レミハ先生」


 魔術学院の外で、オレンジはレミハに謝罪した。両隣には、変わらずイータとキャニアンがいる。レミハと目を合わせられないふたりに代わって、オレンジは全てを話していた。ピネロと名乗る謎の少女とあったこと、交戦したが、彼女を逃がしてしまったこと。全て。


「逃がしてしまったことについて、あなた方を咎めたりはしませんよ。もとはと言えば私の手抜かりですし。むしろ怪我がなくて何よりでした。イータくんの出血が不安ですが……」

「彼は別に気にしなくてよいかと思います。我々の前で女性の裸に興奮してただけですから。ええ、我々の前で」

「イータの変態。最低」

「うるせー……」


 鼻に詰め物をして止血したイータは、覇気のない声で言い返した。レミハはそれらを受け流す。


「なお、封鎖中にも関わらず学院に侵入したことについては、今は不問としましょう。全員、今日は自宅で待機です。もし帰り道で他の人に会ったら、同じように伝えてください」


 それを聞いて、オレンジはホッと胸をなでおろす。が、その表情はすぐに凍り付く羽目になる。おずおずと挙手したキャニアンが口を挟んだからだ。


「あ、あの~、もし断ったりしたら……」

「はい?」


 笑顔で威圧され、キャニアンは震えあがった。喉笛に硬い糸を巻き付けられ、肉をくびり切られる寸前のような恐怖。イータとオレンジが僅かに距離を開く中、キャニアンは慌てて弁明を試みる。


「あ、あーいや、協力しないっていうか、追跡ではなくて別方面の調査で協力したいっていうか!」

「別方面とは?」

「いやほら、えーと、あの子、ピネロだって名乗ったじゃないですか。それに王都の外から飛んできて、魔術学院に突っ込んだんでしょ? だったら昨夜のうちに起こったことを調べれば、自然とあの子の正体もわかるんじゃないかな~みたいな」

「よく言うぜ、寝てたくせに」


 余計なことを呟くイータの足を踏んづける。幸いにも、レミハの突発的な殺気は引いた。


「心配には及びませんよ。郊外で起こった戦闘については、既に調査隊が派遣されているそうですし、学院内も裁断省正極隊せいこくたいが調査に入っています。あなたの出る幕ではありませんよ」

「い、いやでも吾輩だってその一員で……」

「まだ正式な隊員ではないでしょう? 裁断省正極隊は、この国で起きた事件を調査し、真相を解き明かす者たち。あなたがその捜査に協力し、成果を上げていることは私たちの誰もが知るところです。それでも、あなたはまだ子供です。それを自覚しなさい」


 正論だ。返す言葉もない。キャニアンは両手の指を合わせ、しゅんと俯いた。


「でも……ピネロが心配で、あの子のことも……」

「心配には及びません。そちらにも調査をするよう、私から要請してありますから」

「ううっ、けど先生! なにもせずに待ってるなんて、そんな……」

「キャニアンさん?」


 レミハが言い募るキャニアンを黙らせた。柔らかく、慈愛に満ちてはいるが、彼女は冷徹な態度をとる。


「あなたの出る幕ではありません。魔術学院を卒業するまでは、私の監督下にあることをお忘れなく。指示に従ってもらいます。自宅で待機なさい」

「……はい」


 それ以上何も言えなくなったキャニアンに、レミハは優しく微笑みかける。ハンチング越しに頭を撫でると、彼女は強いつむじ風を残して姿を消した。一流の騎士は、身体能力も凄まじい。


 溜息を吐いて項垂れるキャニアンを、オレンジが励ます。


「キャニアン、勘違いのないように言っておきますが、レミハ先生はあなたを慮ってくれているのです。私もあの少女に思うところはあります。しかし、先生の言う通り、我々の出る幕ではないのです」

「でも、でも……! 友達が巻き込まれてるんだよ!? 名探偵の勘が言ってるの、ピネロは今、何か大きな陰謀に巻き込まれたんだって!」

「まー、あれが本物にしろ偽物にしろ、本物ピネロが無事って保証はねーけどな」

「イータ、あなた……まさか、あの少女の裸をもう一度見たくて言っているのではないでしょうね?」

「ねーよ。いや、確かにぶっちゃけ好み……待てって、ジョーダン」


 オルガンと外套に触れるを聞いてイータは両手を挙げた。キャニアンは外套を羽織った肩から手を離すと、じろっとイータをにらんでから学院の方へ歩き出した。


「どこへ行くのです?」

「姫に会いに行く!」

「ソラに? なんでだよ、あのお姫様に何を聞くって?」

「決まってるでしょ」


 キャニアンはふたりを振り返り、人差し指を突き出した。


「オレンはああ言ったけど、まずはあの子がピネロで、何かの魔術でああなったって可能性もまだある! だからちゃんと確かめに行く!」

「魔術学院は立ち入り禁止で、我々は謹慎を言い渡された身なのですけど!? 次バレたら今度こそ大目玉ですよ!」

「じゃあオレンは家に居て! イータはピネロの家に行って。レミハ先生に見つからないでね。もし先にあの子を見つけたら捕まえて! 期日は明日ね。吾輩、朝イチで行くから!」

「無茶言ってんじゃねーよ……捕まえてどーすんだ?」

「当然、取り調べるんだよ! 違反は成果で清算するから!」


 オレンジとイータは顔を見合わせる。オレンジは頭痛を堪えるような顔で首を振り、イータは肩を竦めた。キャニアンは一度言い出すと聞き分けない。長い付き合いで、ふたりともそのことをわかっていた。止められないなら、るかるかだ。


「いーぜ、付き合ってやる。けど、レミハ先生には勝てないからな。先を越されたら俺は帰る。いざとなっても責めんなよ」

「私は協力しませんからね! どうなっても知りませんし庇いませんし、後でレミハ先生に報告させてもらいます!」

「うーす」


 わかっているんだかいないんだか判断のつかない返事をして、イータは市街地に向かって歩き始めた。キャニアンは走って図書館へ向かう。彼女の頭の中には、既に調査すべき手がかりが列挙されていた。


 あのピネロを名乗る少女はもちろんのこと、本物のピネロの居場所、そしてあの少女が本当にピネロだった場合のこと。手がかりはある。そのうちひとつは、もしかするといくつかの疑問を同時に解き明かせるかもしれない。


「ソラ……まずはあいつに話を聞かなきゃ。……はあ、気が重い」


 黒衣白髪の少女を思い返して肩を落とす。苦手な相手に、わざわざこちらから会いに行かねばならないとは。けれどそうも言っていられない。十年来、同じ教室でともに魔術を学んできた友人が、何かとんでもないことに巻き込まれている。そう感じたのは事実なのだから。




 その一部始終を、近くの家屋の上に潜んでいた男が見下ろす。黒いハット、黒い仮面、黒いマントをまとった男は、懐から取り出した黒い鳥のぬいぐるみに魔力を注ぐと、風に容易くさらわれるような声で囁いた。


「報告する。市内のターゲットに追手が出された。第三師団長レミハ、イータと呼ばれる蛇のような人形を連れた少年だ」

「追手の動向を監視し、報告せよ。ターゲットを発見し次第、捕獲。追手は可能なら殺せ」

「了解。隊長は今どちらに?」

「……若いのをあやしているところだ」

「心中お察しします。王都は久方ぶりでしょうし、昨日から働き詰めでしょう。休息をとられては?」

「心遣いは成果で返せ。それが一番の薬だ」

「了解」


 懐にぬいぐるみをしまった男は、マントを翼に変えて飛び立った。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 人目を避けながらなんとか自宅にたどり着いたピネロは、手のひらから伸ばした糸をベランダの手すりに巻きつけ、自分を引っ張り上げさせた。二階の窓の隙間から糸を潜り込ませたが、不用心にも鍵が開いている。これ幸いとそっと忍び込んでから、ようやく人心地ついた。


 踏み入ったのはジーナの部屋だ。やはり彼女は仕事に出ているようで、部屋には誰もいない。人目を忍ぶ必要がなくなり、金属帯を解く。それらは魔力の光となってピネロの肌に吸い込まれた。


 安堵が肩にのしかかり、その場にへたり込んでしまう。勝手に入ったことに、今更ながら罪悪感を覚えた。


「はぁ、はぁ……やっとついた。ジーナ、ごめん……」


 汗を腕でぬぐいながら立ち上がり、部屋を見渡す。そこかしこにぬいぐるみが飾られた可愛らしい部屋だ。それでいて、本棚には魔術の教本が詰まっている。ベッドには、かつてピネロが作ってプレゼントした大きなテディベアが寝かされていた。


「これ……大事にしてくれてたんだ」


 ぬいぐるみの表面を撫で、感慨に浸る。これも魔術人形で、魔力を流せば動いてくれる。複雑な命令はこなせないが、人形遣いの適性に乏しいジーナでも扱える手軽さが売りだ。彼女はこれにボガートと名を付けた。


 撫でているうちに、臓腑が重くなっていくような息苦しさを覚えた。ジーナがいなくて本当によかったと思う反面、急に心細くなる。皮肉なものだ。ともすれば彼女を置いていこうとしておきながら、自分の方が彼女がいなくて寂しくなるとは。


「……人形、持っていかないと」


 ぬいぐるみから手を放し、部屋を出る。素足で階段を下りながら、不安がピネロの周囲に渦巻いた。


 本当に、これで正しいのだろうか。“ツー・ナイツ・ディフェンス”を回収して、披露する。イータはそれでピネロを信じてくれると言った。だがその先は? 決まっている、事情を全て話して、何が起こったか調べて、元の体に戻る。出来るのか?


 オレンジの語ったことは正しい。しかし、この体にありえないはずのことが、実際起こってしまっている。アルバートは一体何をしたのだろう。男を女に、それも面影さえ残らない美少女にする魔術など、聞いたこともない。


 一歩階段を降りるごとに、鼓動が二度打つ。薄暗い階段の闇に、どこかの風景が映った。同じぐらい薄暗い部屋で蹲る白衣の人影。ぼんやりしていて、誰かわからない。そもそも、いつの記憶なのかさえ。


 地下室の扉を開けて、作業台の上に置いてあったチェス盤から駒を取った。白の駒は少ない。ポーンが三つ、ナイトとルーク、ビショップ、キングがひとつずつ欠けている。ポーンに指先が触れた時、異変に気付いた。


「……魔力が無い? そんな」


 他の駒を集め、ひとつひとつ精査する。この駒こそ、“ツー・ナイツ・ディフェンス”の要。人形を形作る心臓部分だ。燃費が恐ろしく悪い魔術であるため、核にはそれを補う工夫が為されていたのだが、それがなくなってしまっている。


「こ、これじゃあすぐには使えない……! どうして……これも、女の子になったせい……? ああもう!」


 愚痴を呟きながら、作業台のフルーツバスケットからバナナを取って、全ての房を口に押し込む。口腔で噛み潰した果肉を魔力に変換。左手でバナナを食べつつ、右手で駒を握りしめる。白銀色の光が指の隙間から迸った。


 作業をひとつ進めるごとに、体が少しずつ切り取られるような感覚に襲われる。この“工夫”は、魔力を消費するだけのものではない。果物での補給も限界がある。


 結局ストックしていた果物を全て食べ終え、ひとまず回収した白の駒全てに再度工夫を施し終えると、ピネロは作業台にもたれて膝をついた。胸がこすれて痛んだ。


「でも……とにかく、これでなんとか……! あとは、魔力が溜めれば……どれくらい時間、かかるかなあ……」


 胸の内で希望と絶望がせめぎ合う。魔力は魂から生み出され、魂は健康な肉体によって維持される。そして健康には食事と睡眠が必要だ。必然、魔力の回復には食事と睡眠が要ることになる。ピネロの場合、食事で手っ取り早く魔力は補給できる。だが、果物のストックは底を突いた。残った魔力はかなり少ない。


 魔力が回復し、“ツー・ナイツ・ディフェンス”をもう一度使うまでに、どれだけかかるだろう。それまで当面の食事と宿を確保しなければならないが……。


(ジーナが帰ってきたら、事情を説明して泊めてもらう? けどまたオレンたちみたいに信じてもらえなかったらと思うと……宿を探すしかないかなぁ)


 悶々と思い悩む。家に戻って予備さえ回収すれば全て解決する気でいた分、落胆が大きい。仕方なく立ちあがってから、ふと服とバッグが要ることに気づいた。


「そうだ、裸……なんだよなぁ……しかも、女の子の体で」


 げんなりとしつつ、クローゼットの替えの制服に袖を通すが、ぶかぶかだった。上着の袖からは指先しか出ないし、ズボンをも裾を引きずっている。体格まで随分変わってしまっていた。下着も大きくて、落ち着かない。そのくせ、胸の主張が強い。


 改めて肩を落としながら、元の体に戻るまでの辛抱だと言い聞かせてウェストポーチを腰に巻いた。チェス盤に残った駒を全てポーチに押し込んでから、ふとジーナの服を借りられないかと思い至る。


「い、いやいやいや、何を考えているんだ僕は……!」


 慌てて首を振って考えを打ち消す。いくら今が女の子の体だからと言って、それは無しだろう。だが、このままでは胸が服に擦れて……。


 くだらないこととはわかっていても、レミハやオレンジから言われたはしたないだの破廉恥だのの言葉が今になってピネロを責める。こちらも動転していたとはいえ、裸で駆けまわったことが恥ずかしくなってきた。今は制服を着ている分、余計に恥ずかしいというか。


(って、なんで僕がこんなことで悩まなくちゃいけないんだよ!)


 自分の頭を殴りつけると、足早に地下室から出る。とにかく人形と貯金は回収できた。あとは魔力の回復を待ち、イータたちの前で“ツー・ナイツ・ディフェンス”を使って、説得を試みる。


 羞恥を発散すべく、足音を立てながら階段を上がり切ったところで、ピネロは不意に足を止めた。上の階から、物音が聞こえた。


 ジーナが帰ってきたのか? そう思ったが、窓から見える日と影の位置から考えて、店を閉めるのはまだ先のはず。不審に思ったピネロは、二階に続く階段に足をかけた。ゆっくり、足音を殺して登っていく。ジーナの部屋の扉に耳をつけると、微かに話し声が聞こえてきた。


 聞き覚えのない、ざらざらとしたふたり分の声。何を話しているかは聞き取れないが、声色から片方は諭すように、もう片方は涙声のように思えた。


(……誰の声? ジーナはいないはず。それ以前に、なぜふたりもいる? いつ、どこから入ってきた? 何の話をしている?)


 詳しく聞き取ろうとして、扉に強く耳を押し付ける。するとピネロの足元で、ぎしっと木材が音を立てた。


 次の言葉は、はっきり聞こえた。ピネロの耳元で。


「誰」

「え……」


 背後に気配を感じて振り返ったピネロの体が、突き破った扉ごとジーナの部屋に叩き込まれた。鳩尾に鋭い膝蹴りを食らったのだ。呼吸困難になって喘ぐピネロは、上から覗いてくる者を見返す。黒いハット、黒い仮面、黒いマントを羽織った人物。


 部屋の中でピネロを待ち構えていた何者かは、片膝を突く。仮面の下の眼窩に瞳は見えない。ただ光を吸い込む黒だけがあった。


「ほう、これはこれは。喜べ、望外の幸運が転がり込んできたぞ。よもやターゲットが自分から来てくれるとは。手間が省ける」

「!!」


 ピネロは黒い誰かが伸ばしてきた手を振り払い、真横に転がった。両足と背筋をバネにして体を跳ね上げ、壁を蹴ってぬいぐるみが眠るベッドへ着地。すぐに頭を下げて、首を狩りにきた蹴り足をかわす。前触れなくピネロの目の前に現れたのは、先ほど膝蹴りをぶちかました方の黒服である。


 部屋の中で待ち構えていた方と比べて小柄なそいつは、空中で体をひねり突き刺すような二段目の蹴りを放った。ピネロはベッドの弾力を使い、窓際まで跳んで避ける。胸の付け根が揺れて痛いが、そうも言っていられなかった。


 獣じみた低い姿勢で身構え、ウェストポーチからチェス駒をひとつ取り出す。黒服の二人組はすぐには攻めてこず、小柄な方はぬいぐるみの枕元で片膝を突いている。背の高い方はゆらりと立ちあがると、顎を擦った。


「いい動きだ。自我のない人形には決してできまい。なるほど、流石は英雄、適正に乏しくとも見事な仕事ぶりだ。それだけに、余計な手間がかかっているが……」

「なに……? なんの話? お前たちは誰だ、ここで何をしている!?」

「ほう、流暢に喋るじゃないか。だが生憎と、質問するのは我々だ。共に来てもらおう」

「何者だって聞いてるんだ!」

「質問するのはこちらだと言った」


 ピネロは全身が逆立つような危機感を覚え、チェス駒を投げつけた。魔力の光を帯びて輝くそれは、ポーンの駒だ。


 脳をのこぎりで斬り刻まれるようなきつい頭痛を感じながらも、ピネロは無理をして魔術を行使する。


「“ツー・ナイツ・ディフェンス”、“尖兵ソルジャー”!」

「何……」


 カッ、と一瞬強まった閃光の中から現れた鎧姿の戦士が、驚く素振りを見せた黒服を殴り飛ばした。とっさに両腕を交叉して防いだ長身の黒服は、部屋の入口まで滑るように後退させられる。小柄な方が反応した。光と共にピネロの真上に出現し、天井を蹴って拳を振り下ろしてくる。


 ピネロを両手両足を突っ張って後ろに跳び、鍵の開いていた窓を背中で開いてベランダに躍り出た。小柄な黒服が後ろ足で蹴りつけてくるのを、宙返りして避けベランダの手すりに飛び乗る。仮面の下から忌々しそうな舌打ちがした。


 一方で長身の黒服は殴りかかってくる“尖兵”の連打をコンパクトな掌打で次々といなす。“尖兵”の足首を蹴って喉笛をつかみ、腹部に拳を叩き込んで人形の躯体を持ち上げ、背後へを放り投げる。階段に投げ込まれた“尖兵”は、階下へと転がり落ちた。


 閉じたブラウンの右目の裏に、階段下から見上げる光景が映る。ピネロは口元を歪め、冷や汗を流した。まさか体術で後れを取るとは。


「いい人形だ。魔術特性は“変換コンバート”。それも、等身大の人形を固形で生成し操るなど……並みの魔術師では作り出した時点で魔力を使い果たし、死にかねん。面白い、ひとつ聞きたいことが増えたな」

「教えるわけない……!」

「拷問などさせてくれるな。お前は貴重なサンプルなのだから」


 長身がそう告げると、小柄な黒服が下からピネロの顎に蹴りを入れようとする。体を丸めてベランダの手すりにつかまっていたピネロは後ろに倒れてかわし、空中で一回転して外に降り立った。小柄な黒服も手すりを飛び越えて追ってくる。そして空中で光に包まれて消え、ピネロの背後に現れ回し蹴りを仕掛けてきた。


 今までの攻防でそれを読んでいたピネロは、腕を立ててこれを防御。自分から蹴りと同じ方向に跳んで距離を取る。また背後に現れるのを見越して裏拳を振り上げるが、これは受け止められてしまった。


 ピネロは腕を捩じり上げられる事態を回避すべく、相手のひざ下を蹴って体勢を崩させ、さっきとは逆の手で裏拳を繰り出す。大きく真横に傾いた小柄な黒服はまたしても光に包まれ、少し離れたところに出現。難を逃れる。


 悠々とベランダに歩み出た長身の黒服は、手すりに体重をかけて攻防を眺めた。


「ふむ……慣れているな。しかも魔術まで使えるとは。これが“城主”アルバートの肉人形ホムンクルスか、実にいい性能をしている。これならば陛下もお気に召すだろう」


 長身の黒服はベランダからひらりと飛び降りた。


 鳶色の髪をした少女と小柄な黒服は、激しい格闘戦を展開している。奔放に暴れる乳房に邪魔され、動き辛そうに繰り出された少女の拳を、小柄な黒服が瞬間移動でかわし、目を閉じたままの右側から少女の脇めがけて手刀を突き出す。少女は右肩を引いてかわすと、深く踏み込んで左肩でタックルを仕掛けた。ガードを崩され、小柄な黒服が数歩をよろめく。


 一進一退の攻防だ。互いに手練れている。長身の黒服は、もう少しこの戦いを見守っていたい気分だった。


「だが、人気がないとはいえ、これ以上白昼堂々とは暴れられんな。続きは戻ってからとしよう」


 そう言って、黒いマントを押し広げる。真っ黒な軍服のベルトに括りつけられた数本の瓶の栓が内側から開かれ、黒い霧のような何かを吐き出し、黒服の前で渦を巻いた。


 魔術の準備を整えた彼の真横で、ピネロ宅の扉が外れ、黒服めがけて突撃してくる。不明瞭な黒の渦から鞭のようにしなる刃がいくつも伸びて、扉を細切れにしてしまった。その奥には何もない。訝る黒服の脳天に衝撃が走った。


「ぐお……ッ!」


 不可視の何かに頭部を打たれ、無理矢理中腰の姿勢を取らされる。しかし彼は地面が砕け、陥没するほどの衝撃に耐えた。黒い渦から放たれた霧が頭上を洗い、透明な布のような輪郭を描き出す。黒服は脳天を殴りつけた何かを腕で払いのけ、逆の手を勢いよく振り上げた。


 黒い斬撃が虚空を引き裂く。曲者を覆い隠していた魔術が裂かれ、鎧姿の戦士の姿があらわになった。先ほど黒服が階下に投げ落とした“尖兵ソルジャー”だ。


 折り曲げた左腕と肩口を切り裂かれた戦士は膝を抱えて空中で後転し、黒服から距離を取る。一方で黒服は、黒い霧を膨れ上がらせる。


「人形に遠隔で“隠密ヒドゥン”の魔術を!? それに高度に自律した自動制御。なるほど、これはいよいよ本腰を入れねばならんようだ!」


 黒い霧が渦を巻き、小屋ほどもある竜の似姿を作り出した。ピネロは喉笛や鳩尾めがけて突き出される手刀を打撃で逸らしながら顔を歪める。“尖兵”が見る景色はピネロの右目と共有されており、そちらの状況も把握しているのだ。


 小柄な方は瞬間移動をしながらの格闘戦。ただ激情に駆られているのか、攻撃は力強くも単調だ。ピネロの攻撃もいくらか命中していて、殴り合いならほぼ互角。だが長身の方は、オレンジと同じく流体を操る人形遣い。格闘では分が悪い。


 “尖兵”は即座に身を翻し、ピネロの援護へと走る。その後方で長身の黒服は突き出した両手を顎のように組み合わせた。


「“煤竜怨スーロン炸裂パオダ”!」


 竜の顔面が巨大化し、住宅地の狭いストリートを埋め尽くしながらピネロに噛みかかってきた。小柄な方は逡巡したようだが、追撃をやめて瞬間移動で戦線離脱。ピネロの救助に走った“尖兵”が先に飲み込まれてしまう。


 ピネロはとっさにウェストポーチに手を突っ込む。取り出したルークの駒を足元に叩きつけ、眩い閃光を放った。脳に走る痛みがさらにひどくなる。意識が飛びかけ、眼球が裏側から針で突き刺されているかのようだ。


 無理して絞り出した魔力をルークの駒に流し込み、意識をつなぎ留めながら叫ぶ。


「っ……あああああっ! “重兵フォートレス”!」

「遅い!」


 黒い霧の奥で黒服が叫んだ。ピネロの三倍近い身長の巨人が現れた時、黒い顎はすぐ近くにまで接近している。もう間に合わない。黒い霧はピネロを飲み込もうとする直前で、斜め上に引っ張られた。


 その場にいた三人がそろって驚愕する。大規模な龍を模した何かは、屋根の上に現れた巨大な蛇骨型の人形の喉へと吸い込まれてゆく。長身の黒服は腕を引き、竜の首を途中で引きちぎって奪われる部位を最小限で押さえた。


 ピネロは唖然として程近い屋根の上を見上げる。そこに立っていたのは蛇骨型の人形を侍らせた、目元を隠すほど長い前髪が特徴の少年だった。


 息を切らし、立っているのもやっとなほど体を揺らしながら、ピネロは少年の名を呼ぶ。


「イー……タ?」

「よ、さっきぶりだな、かわい子ちゃん。なーんか騒がしいと思ったら、ビンゴ引いたぜ。しかも、見るからにスパイって感じのやつがふたり。それも片っぽは俺と相性最悪ときた。ラッキー、とっ捕まえて引き渡したら、勲章でももらえねーかな」


 イータは右腕を軽く持ち上げ、そろえた指を長身の黒服に突きつけた。蛇骨型の人形は再び大口を開き、喉奥から迫り出した砲から漆黒の光線を吐き出す。長身の黒服は舌打ちすると、マントを翼に変えて飛翔。光線をかわしながら、姿を消した。小柄な方の姿はすでにない。


 後には黒い霧状の竜から解放された“尖兵ソルジャー”と難を逃れた“重兵フォートレス”、そしてピネロだけが残される。周囲に静けさが戻ってきた。


(たす、かった……?)

「う゛っ!!」


 気の緩みを待っていたかのように、激しい頭痛がピネロを苛んだ。耐えきれずに地に伏すと、“尖兵”と“重兵”の体が銀色の光となって凝集し、元のチェス駒に戻って石畳に転がる。


 頭を抱え、おびただしい汗を流しながら痙攣するピネロの下に、屋根から降りたイータが近寄ってくる。彼はピネロの肩に手を置いて強く揺すった。


「おい、おい! 大丈夫か? 死んだりしねーよな……?」

「い、イー、タ……う、ぅ……」


 なんとか顔を上げ、眉間に皺を寄せて霞む視界のピントを合わせる。いつもけだるげでいい加減な口調の少年は、本気で心配そうな顔をしていた。


 魔力を変換して生み出した固形物は、魔力に戻ってピネロの体に注ぎ込まれた。無意識の生命維持活動の賜物だ。おかげで頭どころか尾てい骨まで引き裂かれそうな苦痛は去った。


 痛みの残響を首を振って追い払ったピネロは身を起こし、不安げにイータを見つめる。真っ青な顔色に、うっすらと涙目。イータの顔がやや紅潮したが、ピネロに気にしている余裕はなかった。彼の二の腕をつかみ、訴える。


「イータ、その、信じて! こんな、女の子の恰好してるけど、僕は……」

「……わーってるよ」


 イータは顔を背けながらも頷いた。どういう表情をしていいのかわからないらしく、口や目元をぐにぐにと動かしながら、ぎこちなく笑う。


「俺、言っちまったもんな。“ツー・ナイツ・ディフェンス”を見せれば信じるって。何年もやりあってきた人形だ、見ればわかる。学院じゃ、わりーことしたな」

「…………」


 ばつが悪そうに言われたピネロはぽかんと口を開けた。数秒ほどで、涙があふれ出してきた。イータの胸に額を押し当てると、そのまま泣きじゃくってしまう。


 こうして泣いたのは、初めてのことだった。


「い……イータ、イータぁ……!」

「な、泣くんじゃねーよ。とりあえず逃げるぜ。レミハ先生に見つかってねーよな? バレたらゼッテー怒られちまうんだ、俺。ひとまず、うちに来い。なんでそんなことになってんのか、教えてくれ。キャニアンの奴も話聞きたがってるしよ」

「うん、うん……!」


 ピネロは何度も頷き、差し伸べられた手を取ってふらふらと立ち上がったが、体を支えきれずイータの胸に倒れ込む。イータは両目を忙しなく動かしながら、激しく逡巡したのち、仕方なくピネロを背負った。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 イータにおぶってもらいながら、ピネロはイータの家の敷居をまたいだ。


 人形遣いに限らず、魔術師は自分だけの工房を持つ。イータの場合はピネロの家から遠く離れた場所に立つ一軒家で、二階を取り払って天井を高くしていた。王都の外、田舎にいる親の元から離れ、学院に近い場所で一人暮らしをしているそうだ。


 ピネロはソファにぐったりと横たわった。イータの蛇骨人形は主人を離れ、曲がりくねった形の妙なモニュメントに絡みついている。本人はピネロの向かい側に座ると、キャンディを放り投げてきた。


「今はそれしかねーけど、食っとけ。魔力切れたんだろ」

「ありがとう……」

「あと、晩飯の量に文句言うなよ。お前みたいに食いしん坊じゃねーんだ、出せる数には限りがあるし、生憎そろそろ買い出しの必要がある」


 ピネロはありがたくキャンディを口に含んだ。少し酸っぱい。無理に魔力絞り出したせいで、魔力こそが有り余っているが精魂尽き果ててしまった体に染み渡る。


 自分もキャンディを口にしながら、イータはふたつのチェス駒を放り投げてくる。逃げる前に、わざわざ拾ってもらったのだ。


「ありえねーありえねーと思ってたけど、マジありえねーな、お前の“ツー・ナイツ・ディフェンス”。そのチェス駒で魔力補ってるわけじゃねーよな? だとしても意味わかんねーぞ……変換コンバートで人形を作るときは、魔力が少なくて済む気体って相場が決まってんのに」

「助けてもらっておいてなんだけど、教えられないよ……いや、ちょっとぐらい、教えてもいいけど」


 力無くそう言うと、イータは目を輝かせて身を乗り出してきた。


「マジか? 教えてくれ。誰も“ツー・ナイツ・ディフェンス”のことなんも知らねーんだ。なんでこいつら、全身魔力を固めた鋼鉄で作ってるのに、いつもお前は平然としてんだ? “尖兵ちっこいほう”一体作るだけで二、三人は死ぬぐらい魔力食うよな、フツー。いっつもなんか食ってっけど、それだけじゃ絶対まかなえねーよな? どうやってんだ? そんなヘロヘロでどーやって出した? 今すぐ死んだりしねーよな?」

「待って、ちょっと待って……今は、休ませて……」

「あ……わりー、つい。けど、その体のことぐらいは聞かせろよ」


 イータはバツが悪そうに頭を掻きながら、顎で話せと合図を出した。ピネロは重くなってきたまぶたをどうにか開いたまま、自身に起きた不可解な出来事を話す。イータは口を挟んでこそ来なかったものの、終始不機嫌そうな顔をしていた。


「アルバート先生だーぁ? あのジジー、ついにボケたか。けど、なんでお前をそんな風にすんだよ」

「知らないよ。僕が聞きたいぐらい」

「それもそーか。ま、なんにせよ、俺は信じるぜ。レミハ先生がほうぼう駆けずり回ってお前を探してっけど、一緒に説得してやる。オレンジはあれだが、まーキャニアンとかは信じるだろ」

「……うん」


 クッションを抱きかかえたピネロは、ほんのりと胸が温まるのを感じた。友人に信じてもらえることが、こんなに嬉しいことだとは。


 熱を持つ頬を埋めていると、イータが妙な視線を向けていることに気づく。見返すと、イータはそっぽを向いた。顔が少し赤い気がする。どうかしたのかと聞く前に、イータに先を越された。


「け、けど問題は、お前を襲ってたあの黒い連中だよな。心当たりねーのか?」

「それがさっぱり。なんでかジーナの部屋にいたんだ」

「ふーん……。ところで、服、着たんだな。自前のやつか?」

「……悪い?」


 少しムッとして睨み返す。そういえば、イータは自分の裸を見て鼻血を出していたんだった。よく見れば、鼻の穴には詰め物がされている。罵ってやるべきか?


 敵意を帯び始めたピネロの視線を察したイータは、忙しなく目を泳がせ、饒舌に弁解し始めた。


「わ、悪いっつーか、むしろよかったっつーか。あーもー、そんな目で見んなよ、お前も男だからわかるだろ?」


 もはや、言い訳にすらなっていない。反論もせず睨むピネロの反応をどうとったのか、イータの頬がぴくぴくと引きつる。


「……ちょ、なんだよその顔。もしかして、経験あるから平気とかそーゆー……? ジーナって言ったっけ? 同棲してるっていう女と……もう……?」

「~~~~~~~……っ!!」


 イータの言わんとしていることを察し、今度はピネロの顔が一瞬で真っ赤になった。抱きしめていたクッションをイータの鼻面に投げつける。仰け反り、ソファごとひっくり返ったイータの鼻からまた血が出た。


「ぶはぁっ!? なにすんだお前、また鼻血出たじゃねーかよぉー! あー! クッションに血ぃついた!」

「うるさいこの変態! 何を言い出すかと思えば……!」

「悪かったよ、もー言わねーって! ちょ、詰め物詰め物」


 転んだ衝撃で詰め物が外れたようで、イータは鼻を抑えながらきょろきょろとする。ピネロはしばらくイータをにらんでいたが、やがて背を向けた。


「とりあえず、今日のところはお前、うちで休んでけよな。明日んなったら、キャニアンの奴が来ると思うし。そしたら一緒にレミハ先生んとこ行こうぜ」

「うん。……ありがとう、イータ。君が信じてくれて、ほっとした」

「水臭ぇーな。こっちも話聞かずに襲っちまったから、おあいこだっての。あ、そーいえば、ひとつ聞いてもいーか?」

「……今度は何」

「お前さー、着けてんの? ほら、女子用の、胸の……」

「黙れ」


 明日回復したら、鼻血を止まらなくしてやる。そう決意しながら、ピネロは目を閉じる。イータは詰め物で鼻を塞ぎ直すと、簡素な厨房に向かっていった。


 何はともあれ、イータを味方につけることができた。これで少しは、この意味不明な事態にも解決の兆しが見えるだろう。そう思うと、襲ってきた睡魔も甘く安心できるようなものに感じる。


 かまどに放り込まれた火種が燃え上がる音を聞きながら、ピネロはうつらうつらと微睡み始めた。


 日も落ちた街、イータの工房に近い建物に、複数の黒い影が降り立ったことなど、知る由もなく。

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