第3話 パラダイムシフト

 アルバートの地下工房に続く扉が、乱暴に引っぺがされた。歪んだ鉄板は荒野に投げ捨てられ、侵入者を容易く通す。


 手すりにも頼らず飛び降り、受け身を取って着地したのは、黒いマントを羽織った人物だった。頭はハットと鳥のような仮面で隠され、性別も年齢も定かではない。それが合計で三人。


 地下工房に降り立った彼らは扉を蹴り開け、素早く中に転がり込んだ。軽く屈んだ、即座に疾駆や跳躍に移れる姿勢で素早く部屋を見渡す。敵影なし。


「クリア。すぐに魔力の出所を探せ。近くで駐屯している騎士団レギオンがいつ来るともわからん。手分けするぞ、アルバート博士は見つけ次第拘束しろ。抵抗するならば手足を砕いても構わん」

「「了解」」


 三人は素早く次の行動に移す。ひとりが入ってすぐの部屋を調査し、残りのふたりは別の部屋を次々に開いていく。書斎、食糧庫、実験動物保管庫、薬品庫……。ひとつひとつ虱潰しに扉を開けた彼らが最奥の部屋にたどり着くまで、十分とかからなかった。示し合わせて勢いよく扉を蹴り開け、驚きの言葉を漏らす。


 稲妻を放って回転する床と天井の魔術方陣。それらを繋ぐ鋼の柱。白銀色の光を放つそれらの前でふたり、這いつくばっている者たちがいた。


「……なんだ、これは」

「人がふたり……アルバートと、もうひとりは誰だ?」


 部屋に突入したふたりの黒服は、方陣の前に這いつくばるふたりへ近寄った。うつ伏せで倒れている方を蹴って仰向けにする。それは銅色の髪をした少年で、青銅色の瞳は濁り切っている。念のため脈を計るが、すでに死亡していた。四つん這いの方はアルバート。こちらも死んでいる。


 どちらも、ついさっきまでは生きていたと見える。一歩遅かったようだ。黒服は互いに顔を見合わせ、首を振る。この部屋に、生きている人間はいないようだ。


「隊長、いかがなされますか」

「ありのまま報告する以外ないだろう。念のため、死体は回収する。そっちの少年もだ」

「この部屋は……」

「部屋を丸ごと持ち帰るわけにもいくまい。十五分以内に調査を終え、帰投する」

「はっ」


 カッカッカララ。ふたりが死体をその場に下ろすと、小石の転がるような音がした。最初の部屋を調べ終えたひとりが、部屋に入って来ていたのだ。この惨状に驚きを隠せないのか、新しく入ってきた黒服が入口で硬直している。小刻みに震えるそいつに、隊長が語りかけた。


「いいところに来た。調査を手伝え。すぐに終わらせてここを発つ」

「あ、あ……」


 新しく入ってきたひとりは足と肩を震わせている。隊長は嘆息すると、部下に近づき仮面の目の前で手を打ち鳴らした。相手の肩がビクッと跳ねた。


「聞こえなかったのか? 新人でもあるまいに、死体を前に怯えるな。来い、仕事を済ませる」

「は、はい。申し訳、ありません……」


 震えながら頭を下げた三人目は、下げた視線の先に転がる物体を目にした。複雑な紋様が刻まれた、ポーンのチェス駒が倒れている。先ほどの音の正体はこれか。


 三人目がポーンを拾い上げているうちに、死体をその場に置いたふたりが最も目を引く鉄柱に近寄る。一見、一分の隙間もないただの柱のように見えるが、床と天井に設置された魔術方陣と魔力をやりとりしているらしい。大黒柱のように太いそれの表面に、バチバチと魔力の稲妻が走っている。


 調べようにも、開きそうな仕掛けが見当たらない。ふたりが鉄柱の周囲を歩き回っていると、突然鉄柱の底部がフシューッ、と音を立てた。ふたりが素早く飛び下がり、身構える前で鉄柱は天井へと吸い込まれていく。


 鉄柱が飲み込まれ切った直後、地下工房全体が激しく震動し始めた。


「なんだ……!?」

「事前の懸念通りだ。死体を回収して撤収する。急げ!」


 隊長の号令を聞き、部下ふたりはそれぞれ死体を担いで元来た道を戻り始めた。地下工房全体が騒がしくなる。震動が徐々に大きくなり、たちまち立っていられないほどになった。銅色の髪の少年を背負った三人目が転倒する。隊長はその首根っこをつかんで引きずり、羽織っていたマントを翼に変化させて飛んだ。


 ほぼ直角に急上昇して、地下工房から三人は脱出する。同時に、地面を突き破って、鋼の巨腕が姿を現した。


 地面に手を突いたそれは、下手な建築物よりも何倍も大きい。大地を砕き、窮屈そうに這い出してきた本体などは、もはやそれ自体が巨大な城のようだ。


 三人はその様相に見覚えがある。それは国境を徘徊し続ける巨大な人形。ペルジェスの国防において、騎士団レギオンと並ぶ最大戦力。この国で最も巨大な魔術人形!


「これは……アルバートの城砦人形だと!?」

「そんなバカな、アルバートは既に死んでいます! 動くわけがない!」


 アルバートの死体を抱えて飛行する黒服の叫びは、より巨大な咆哮によってかき消された。


 滝のように全身から砂と土を落としながら身じろぎをする鋼の巨人。月光を浴びて輝くそれこそ、当代最強の人形遣いと呼ばれた魔術師、“城主”アルバートが誇る城砦人形。天を覆うそれの前では、人間など指人形にも等しい。


 城砦人形は飛行する三人には目もくれず、遠くを真っ直ぐに見つめる。口に当たる部分を開き、何かを射出した。星明りに照らされたそれは、あの魔術方陣の部屋にあった鋼鉄の柱である。


 隊長は追え、と命令しかかったが、叶わなかった。城砦人形の全身に細かな穴がいくつも開き、そこから露出した砲口が全方位に魔力光線をまき散らし始めたからだ。隊長の命令は変化した。


「退避! 散開し、指定ポイントにて合流する!」

「はっ」

「は、はいっ!」


 隊長は首根っこをつかんでいたひとりを投げ落とし、自身は高度を稼いで初撃をかわした。銅色の髪の少年を抱いた小柄な黒服は両腕に力を籠めると、マントに魔力を流して翼に変える。


 三人の黒服は三者三様に複雑な軌道を描きながら城砦人形の砲撃を次々にかわしながら逃げの一手を打つ。ほとんど暴走状態なのか、城砦人形は四方八方に狙いも何もなく光線をひたすらに撃ち続けた。地面にも何発か命中し、地上を爆発で染め上げる。巨体の周囲だけ、昼間のように明るくなった。


 黒服の隊長は右に左に翼を傾け、時には錐揉み回転をしながら毒づく。


「“城主”アルバート、これが貴様の遺言代わりというわけか。最後まで従ってさえいれば、この技量に賞賛の百や二百、容易く贈ってやったものを!」


 振り返ると、城砦人形は再度咆哮した。体の各所が爆発し、巨体がみるみるうちに瓦解していく。これで工房にあるもの全ては無に帰すだろう。証拠のひとつも残さない徹底ぶり。かつてペルジェス最強と謳われた人形遣いを侮り過ぎた。


 城人形の叫び声、そして崩落の音。それらは遥か北の王都にまで響き渡り、眠りを微かに妨げた。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 翌日、王立魔術学院校門前。朝早くに図書館へ行こうと訪れたキャニアンが最初に見たものは、人だかりであった。


 制服を着た者も、そうでない者も、大勢集まってざわついている。何があったのかと近づくと、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「へ~い、イータ、オレン! なんかあったの?」

「キャニアン。なんかって……知らねーの?」

「何が?」


 目を丸くして問い返すと、ふたりの人形遣いはジトッとキャニアンを見つめてきた。オレンジがこれ見よがしに溜め息を吐く。


「昨夜、魔術学院が攻撃されたのですよ。国境付近の荒野で起こった戦闘の余波だそうです。あれが見えますか?」


 パイプオルガンの少女が空を指差す。天を突く荘厳な造りの学術棟のど真ん中に、大穴が空けられていた。手でひさしをつくったキャニアンは、がくんと下顎を落とす。


「えっ!? めっちゃ穴空いてんじゃん!」

「そうだよ。昨日の夜中にすげー音したんだけど、聞いてなかったのか?」

「あはは……吾輩、その時はぐっすり寝ちゃっててぇ~……」

「それでいーのかよ、名探偵」

「裁断省にしろ騎士団レギオンにしろ、あんな音を聞き逃すとは思えませんが」

「べ、勉強! 勉強してて疲れてたの!」


 ふたりに手を振って弁解したキャニアンは、改めて王都を見上げる。魔術学院が直接攻撃されるだなんて前代未聞だ。しかも国境付近で起こった戦闘の余波ときた。


「国境って、かなり距離あったよね」

「歩きなら一、二か月かかる距離だな。そんな距離から攻撃って、どんな魔術使ったんだ?」

「王城はてんてこ舞いでしょうね。実際、レミハ先生は事件が起こったあとすぐ確認に向かったと聞いています」

「なーんだ、じゃあ平気じゃん」

「……前から思ってたけど、こいつノーテンキすぎじゃねー……?」

「それで正極隊せいこくたいが務まるのでしょうか」


 クラスメイトふたりから同時に呆れられるが、キャニアンは平然と言い放つ。


「だって、レミハ先生だよ? 我らが騎士団レギオン第三師団長にかかれば、大体のことはなんとかなるって」

「まあ、それについては私たちも心配していませんが」

「でしょでしょ? それにさ~! もうひとり帰ってきたんだし、問題ないよ!」

「ああ、“幻酔妃げんすいひ”?」


 イータの指摘を受けて、とびっきりの悪戯を思いついたような顔が固まった。


「……あれ、なんでわかったの?」

「お前がそーやって言うから」

「毎年恒例です。しかし、かのお方が来たのなら、本当に問題ないでしょうね。国境を警備している騎士団レギオンが見逃すはずもありませんし。……お待ちなさい、キャニアン、どこへ?」

「中入る!」


 くるりと背中を向けたキャニアンは、しれっとした顔で告げる。オレンジは思わず身を乗り出して、キャニアンが羽織った外套の裾を握りしめた。周囲の目を気にしながら、声を潜めて叱りつける。


「いけません! 今日は魔術学院は封鎖されているのですよ。勝手に入れば叱責では済まない可能性もあります!」

「そんなこと言って~、気になるからこんなところで野次馬してるくせにぃ~」

「いえ、私は正式な発表を待っているのであって……ああっ!?」


 キャニアンが外套を剥いで放ると、オレンジを乗せた移動式パイプオルガンが宙に浮いた。空中で広がった外套の裏地から伸びたいくつもの糸が、オレンジのパイプオルガンを持ち主ごと引っ張り上げたのだ。


 落ちないようにと必死で椅子にしがみつくオレンジを余所に、キャニアンは軽薄な仕草でイータを指差す。


「イータも行くでしょ?」

「しゃーねー、付き合うかー」

「ちょ、ちょっとイータ!」

「こっそり覗くだけだって。なんか戦ってる風でもねーし、見学するぐらい平気だろ。魔獣だの魔術師だのが突っ込んできたんならもっとうるさくなるだろーしな」

「平気ではありません! なんのために封鎖されてると……聞いているんですか!? ねえ!」


 喚くオレンジを連れて、イータとキャニアンはそそくさと振り返る野次馬たちの列を離れる。自称名探偵を名乗る少女は、軽やかな足取りで侵入経路を模索し始めた。


⁂   ⁂   ⁂   ⁂   ⁂


 悪い夢を見た気がして跳ね起きた時、最初に感じたのは暖かな日の光と、消毒液の匂いだった。


 全身汗びっしょりで、開きっぱなしの口から絶えず呼吸が入れ替わる。ここはどこだろう。そう考えると、頭が割れるように痛んだ。僕は、どうしてここに?


 記憶が随分と混濁している。全てが支離滅裂な夢のようだ。目を閉じ、頭痛を堪えながら、ひとつひとつ記憶を手繰っていく。


「確か……ええと、おとう……いや、師匠のところに行って、それで……」


 荒野に埋まった鉄板、陰鬱な地下工房、光り輝く魔術方陣。それらの光景は思い出せたが、そこが限界だった。今いるのは見たところ保健室のようだが、なぜそんなところにいるのだろう。アルバート師匠の工房は地下深く。日差しが入るはずもない。


 頭痛がきつくなり、脳に釘と斧を同時に打ち込まれたようになる。たまらず記憶から手を引いて、両目を開いた。すると、視界を肌色のふくらみがふたつ占拠していることに気づく。


「……? これは…………んっ!?」


 ふたつのふくらみを両手でつかむと、頭に白い稲妻が走った。指に伝わる柔らかな弾力と手のぬくもりが同時に感じられる。頭痛と混ざり合った未知の感覚が、意識を完全に覚醒させた。


「えっ、は……? えっ!? 待って、声……!?」


 喉に触れる。今更ながら、可愛らしい声が自分の喉から出ていることに気が付いた。いや、それ以前に、なぜか全裸だ。下腹部をまさぐってみても、下着の類をつけていない。加えて、股座またぐらにあるはずの感覚が無かった。代わりに、あの白い稲妻が再び脳を焼く。


「ぁあっ!? あ、はぁ……っ、な、なに、この感覚……僕の体、どうなって……!」


 急いでベッドから降りて周囲を見渡す。薬棚の隣に姿見があった。飛びつくようにそこへ行くと、見目麗しい裸体の少女が、そこに映っていた。


 少しふっくらとした可愛らしい顔が絶句している。癖のある鳶色の髪に、水色とブラウンのオッドアイ。背はやや低く、歳若いが、胸や腰回りの発育は悪くない。真っ赤になった童顔を小さな両手が包み込んだ。自分と全く同じ動きだ。


「だ、だ、だ……誰っ!? これ、何!? どういうこと!?」


 驚愕のあまり叫ぶと、鏡の少女の口も動いた。ぱくぱくと口を動かしている点まで同じだ。体にぺたぺたと触る。髪を掻きあげる。鏡像が同じ動きをトレースした。紛れもなく、自分の姿だ。見知らぬ少女の体になっている。


 愕然と立ちすくんでいると、不意に病室のドアが開かれる。そちらを振り向くと、ゆったりしたドレスのような鎧を身にまとう美しい女性が、険しい顔をして佇んでいた。ヴァイオリンの弓を剣のように握りしめている。見覚えのある人だ。しかし、名前が出てこない。なぜだろう、長い付き合いの人の気がするのに。


 完全に動転して口をパクパクさせる少女に、女性はゆっくりと間合いを詰めながら口を開いた。


「目覚めたようですね。お元気そうで何よりです。さて……こんな状況で言うのもなんですが、大切なことなので先に聞かせてくださいね。あなたのお名前は?」

「名前……」


 オウム返しに呟いて、ギクリとした。自分の名前がとっさに出てこない。いや、違う。。どちらを名乗るか逡巡する。


(待って、何を悩んでるの!? 僕の名前なんてひとつしかないだろ!)


 女の子の体になっておかしくなってしまったのか。頬を両手でパチンと叩くと、はっきりとした声で叫んだ。


「ぴ、ピネロ……僕は、ピネロ・ガビです!」

「……はい?」


 女性が剣呑な表情で首を傾げた。優しげな顔立ちに似合わない殺気がピネロに吹き付ける。ピネロは心臓を吐き出しそうな思いをしながら、ようやく目の前に立つ女性の名前を思い出した。むしろ、なんで忘れていたのだろう。二年間、教鞭を執ってくれた人の名を。


 騎士団レギオン第三師団長、聖楽徒レミハ。国家最強クラスの魔術師のひとり。その彼女が、明らかに敵意を向けてきている。ヴァイオリンの弓が放つ魔力の輝きが、ピネロをひやりとさせた。


 レミハは眉をしかめてしばらく考えた末に、咳払いをする。


「失礼、そういうこともあるでしょうね。では、どこからおいでになったのか、教えていただけますか?」

「どこから、って……」


 質問の意図がわからず、当惑する。混乱しきっていて、思考がまとまらない。ここはどこで、どこまでが現実で、何がどうなってこうなっている? ちらりと姿見を見やっても、そこにいるのは銅色の髪をした少年ではなく、鳶色の髪の美少女だ。姿見が見えない何かに切り裂かれ、バラバラになって崩れた。


 ピネロの全身が激しく粟立つ。


「伝わっていないようですので、もう一度お聞きします。あなたはどこから来たのですか? 所属は? なんの目的で、ここへ?」

「ま、待ってください! 僕は……え、ええっと、僕、は……」


 何を言えばいいのかさえわからず目を泳がせるピネロに向かって、レミハはヴァイオリンの弓を振るった。部屋中に仕掛けられていた目に見えないほど細い糸がピネロの両手首を縛って宙に吊り上げ、全裸の柔肌を次々と縛り上げる。爪先が床を離れ、ピネロは虚空に磔にされた。


「あ……っ!」

「もう一度、お聞きしますね。あなたはどこから来たのですか? できれば素直に、はきはきと答えてください。生まれたままの姿の少女に手を上げるのは、私としても本意ではありませんので」


 いつもの間延びした声ではない、鋭い切っ先のような言葉だ。首を絞めつける細い糸が、これ以上ないほどに危機を伝えてくる。逃げないと。ピネロは本能的な恐怖に従って、全身に魔力を循環させた。


「おやめなさい! ハッ!」


 魔術の気配を察したレミハが腹を凹ませて声を発した。輝く声の砲弾が縛り付けられたピネロの体を打ち据え、糸ごと背後の壁に叩きつける。カーテン越しに窓硝子が砕け散り、ピネロは体中に激しい衝撃を受けて苦悶した。


 意識が飛びかけるが、なんとか堪える。ピネロの肌に銀色の光が走り、たわんだ糸の下に刃を生み出して切り裂いた。自由になったピネロは砕けた窓から外へ飛び出す。かなり高い。落下するピネロの肌に冷たい風が打ち付ける。


 ピネロは落下しながら、とっさに魔力で紡いだ糸を両腕から伸ばし、学院の壁に突き刺した。勢いをつけて、窓へと飛び蹴りを繰り出す。一瞬のうちに白銀の装甲に包まれた両足は窓硝子を突き破った。


 レミハが壊れた壁に駆け寄った時に見えたのは、窓から階下に消える鳶色の髪。一瞬見せた魔術は、両目にしかと焼き付いている。


「魔力を鉱物に変換コンバートする魔術ですか……。……逃がしません!」


 レミハもまた宙に身を躍らせ、何もない空中を蹴って少女が消えた窓に突入。それと同時に、飛び込んだ部屋の扉が勢いよく閉じられた。レミハは魔力の光を帯びた声の砲弾で閉じた扉を突き破る。廊下に飛び出して左右に目を向けるが、無人。


 レミハはマントを翻し、ヴァイオリンの弓を脇に挟んで両手の平に魔力を溜めた。あの少女を逃がすわけにはいかない。昨夜、鉄柱にくるまれて魔術学院に撃ち込まれた、謎の少女。教え子の名を名乗り、逃げようとしている。


(銀色の魔力光、魔力を鉱物に変える魔術は、確かにピネロくんが得意としていた魔術ですが……見た目も声も、明らかに違う)


 腑に落ちない点はいくつかある。追い詰めてよいのかと理性が問う。しかし、国家防衛を担う身として、怪しきには剣を突きつけ、警戒すべし。疑いの全てが晴れるまでは。彼女は今の時点で怪しむに足る。


 勢いよく籠手に包まれた手を叩く。音が広がり、それを追いかける魔力が周囲の物体に付着していく。音を媒介にした探知の魔術。行き止まりめがけて輝いていく廊下の先で、何もないはずの場所に魔力が付着した。頭から布を被った人のような形、その輪郭を描き出す。


(“隠密ヒドゥン”……それもピネロくんが常用する魔術のひとつですが、それぐらいなら虫にだって扱えます!)


 レミハは低く屈み、姿を消した。彼女の立っていた床が爆ぜ飛び、暴風が起こる。それを遥か後方に置き去り、レミハはヴァイオリンの弓を振り下ろした。魔力の光粒に塗れた見えない布に向かって。


 “隠密”の魔術を纏ったピネロが壁に背中をくっつけて弓を避けた。身隠しの魔術は弓が振り下ろされた余波で吹き飛ばされ、裸の少女を白日の下に晒す。弓を振り切ったレミハは瞬時に弓の向きを変え、自分の真横に移動したピネロの足首を刈り取ろうとする。


 とっさにジャンプして回避したピネロは無意識に腰をまさぐる。だが、そこにいつもつけているポーチはない。ピネロ自慢の人形のもとを詰めていたポーチが。


(しかもいつも近くに置いていた人形がない! これじゃあ、“ツー・ナイツ・ディフェンス”が使えない……!)

「くっ!」


 魔力の糸を伸ばして離れた床に突き刺し、自分を引っ張らせてレミハの連撃から逃れた。床をごろごろと転がり、手近な教室に飛び込んでドアを閉じる。これで再び視線が切られた。


「淑女が裸で走り回るのは感心しませんね。はしたない!」


 叫びながらレミハは扉の前に移動し、ヴァイオリンの弓を突きさす。ドアは放射状に波打つように爆ぜて木屑と化した。奥の窓は既に破られ、風を招き入れている。逃すわけにはいかない。レミハはすぐに窓から飛び出した。


 レミハがいなくなってから数秒後、ピネロは隠れていた机の下から這い出して、再発動していた“隠密ヒドゥン”を解いた。


(やりすごせた……かな)


 しかし、いつ戻ってくるともわからない。ピネロは扉の消し飛んだ教室から顔を出して、無人であることを確認。廊下に駆け出した。


 膨らんだ乳房が好き放題に揺れて痛い。なんとか腕で押さえながら、ぺたぺたと足音を立てて遁走する。全身を濡らす冷や汗が体温を奪って、とても寒かった。この温感、疲労感。そして硝子を踏んで傷ついた足裏の痛み。どれも夢とは思えない。


「はあっ、はあっ! もうっ……本当に、どうなってるんだ……!?」


 いっぱいっぱいに詰まった脳から、疑問があふれ出した。それらを落ち着かせるべく、自分の記憶を確かめる。


 ピネロ・ガビ。そう、自分はピネロだ。騎士団レギオン志望の魔術学院生で、人形遣い。アルバート師匠の弟子で、今はレミハ先生に師事している。ジーナと一緒に暮らしていて、騎士団入りを志望するのは彼女を守るため。操る人形は、天稟てんぴんのある四種の魔術を駆使して作った“ツー・ナイツ・ディフェンス”シリーズ。


(大丈夫、大丈夫。僕はピネロだ。間違いない、思い出せる)


 重要なことはちゃんと思い出せたが、あまり冷静にはなれない。現状もそうだが、何よりどうしてここにいるのかがわからないのだ。


 アルバートの工房を見つけたことは覚えている。そのあとの記憶は、眠っている間に見た悪夢に混ざってしまって判然としない。その悪夢さえ、何か長い夢を見た、程度のことしか思い出せなかった。


 ピネロは自分の手を見下ろす。汗ばんでいるが、白くて小さくてすべすべとした、女の子の手だ。


(この体は一体なに? それにさっき空から見えたのはペルジェス王都の景色。ここは恐らく魔術学院なの? アルバート師匠の地下工房は国境付近にあったはずなのに、どうやってここまで……)


 わからない、何もかも。何ひとつ答えを出せないまま、背を焼くような焦燥に駆られて階段を飛び降りる。踊り場の壁を蹴って階下に到達すると同時に、人の気配。そちらへ振り向くと、見覚えのある三人組がこちらに背を向けて歩いていた。


 人のいない、静かな廊下に響き渡ったぺちんという音に、三人が同時に振り返る。上手く学院に忍び込んだキャニアン、イータ、オレンジは、前触れなく現れた全裸の少女を見て驚愕の表情を浮かべた。イータなどは鼻を手で覆って。


「なっ……あ、あなた、その恰好はなんですか!? 破廉恥な!」

「ま、待ってオレン! 僕だよ、ピネロだよ!」

「「はあっ!?」」


 オレンジとイータが同時に声を上げる。キャニアンはともかく、いつも冷静沈着なオレンジらしからぬ声音だ。イータはうつむき気味に顔を逸らしている。手と髪の隙間から覗く顔は真っ赤だった。


 ピネロは口をぱくぱくさせて、次の言葉に探した。学友たちは驚きのあまり凍り付いている。なんとか説得できれば、なんとかできるかもしれない。混乱の冷めやらぬ頭で要領を得ないことを考えながら、必死で口を動かす。


「あ、ええと、あの……僕にもよくわからないけど、気が付いたら、こうなってて、その……」


 しどろもどろになりながら、どうにか言葉を押し出そうとする。しばしぽかんと瞬きしていたが、いち早く驚愕から復帰したオレンジは眼鏡を押し上げた。


 表面上、冷静になった彼女は、長い長い息を吐いて鍵盤に両手を置く。背中を支えるいくつものパイプから魔力の光が蒸気のように吹き出し、揺らめいた。彼女が魔術を使う合図だ。ピネロは後ずさった。


「お、オレン?」

「信じられませんね」


 キャニアンとイータの視線が知的な少女に向けられる。オレンジは指先に魔力を宿らせながら、努めていつもの調子を装いながら詰問した。オレンジは激しい動揺を理性で抑え込み、素早く思考を走らせる。


 突如現れたピネロを名乗る少女。その肌はしっとりとしていて、赤らんでいる。胸の大きさ、腰のくびれ、股間を隠す手の位置。どれをとっても、男性ではありえない。何より髪も瞳の色もまるで違う。ピネロの髪は銅色で、瞳は青銅色。それが、この少女は鳶色の髪に右目が茶、左目が空色のオッドアイ。


 深呼吸して鳶色の髪をした少女を観察してから、オレンジは淡々と早口でまくし立てた。


「結論から申し上げますとあなたはピネロではありません。根拠はもちろんその容姿です。あなたが何者かは存じ上げませんが、それだけは確かなのです」

「えっ? あ……。……はっ! ま、待ってオレン! 僕は本当にピネロだ! アルバート師匠の魔術か何かで、こんな……」


 怒鳴り声のようなパイプオルガンの音が、気圧されながらも言い募るピネロを制した。オレンジは額に汗を浮かべ、前のめりになりながら、さらに口上の速度を上げる。己の困惑を全て否定するかのように。


「それこそ決してあり得ません! 魔術を学ぶ者であれば誰もが知っていることですが、他者に直接影響を及ぼす魔術は凄まじく難易度が高い。そうした魔術は代々王族に伝わるという魂魄魔術のみといわれており、それ以外で魔術を成立させた者は今までいないはずです。そして王族の魂魄魔術は、人形に魂を封じるもののみであるはず。そうですね、キャニアン?」

「えっ? あ、ああ、うん、そうね。“被罰人形プリズナー”と“英霊人形エインヘリアル”だけ……の、はず」


 若干展開についていけないのか、キャニアンの言葉も歯切れが悪い。しかし、オレンジは構わなかった。


「ですが、あなたはとても人形には見えません。遠目に見ても、生きた人間そのままです。加えて人相、髪の色、目の色も身長も違う。肉体丸ごと人間を作り替える魔術? あり得ません。他者に直接影響を及ぼし、かつ別人に作り替える魔術など、基礎理論の時点で不可能とわかる代物ですよ!? それができれば、この国の医療はとっくに不老不死に指をかけています魔力の物質変換で作ることができるのは鉱物等、外的要因によってのみ変質する物質のみ。生き物を作ることは絶対に出来ません。性質の悪い悪戯はやめて、本名と身分を名乗りなさい。これは警告です!」


 ピネロは、ぴしゃりと頬を打たれたような感覚を味わった。論理的な否定を矢継ぎ早に浴びせられ、反論が出てこない。全てオレンジのいう通りだ。魔術で生き物は作れない。なんとなくそれっぽい質感の物体ならば、できないこともないが……この指先の感覚、胸の奥から伝わる鼓動、流れる汗の塩辛さは、紛れもなく人間のそれだ。


(じゃあ、それなら……この体は? 僕の元の体は? 今の僕は……なんだ?)


 ショックを受けて立ち竦んでいると、キャニアンがオレンジの腕をつかんだ。


「ちょ、ちょっと落ち着いてよオレン! らしくないよ、冷静に!」

「私は冷静です! あなたこそ、もしや彼女を気にかけているのですか? この破廉恥で不審な少女を!」

「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」

「いいですか、キャニアン。人を裁きの場に引き立てる食に就くというのであれば、この状況をよく見なさい。昨夜の学院への攻撃、先ほどかすかに上階から戦闘の音が聞こえました。上階から来た彼女は不審過ぎる」

「それは……そう、だね。う、うん……」


 キャニアンは困ったように目を泳がせる。オレンジは鍵盤から指を離さず、凍り付いたピネロを見据えたまま、追い打ちをかけた。


「しっかりなさい、名探偵! 我々がここで彼女を見逃せば、最悪外観誘致の罪に問われる可能性もある! あなたは法を守る立場になるのでしょう? ならば今やるべきは彼女を拘束し、然るべき場で弁明と取り調べの場を設けることではないのですか?」

「いや……そんなことしなくてもいーんじゃね……」


 ぼたぼたと指の隙間から血の雫を落としながら、イータが口を挟む。彼に絡みついたピネロに向かって蛇骨人形が首を伸ばした。


「もっと手っ取り早い方法……“ツー・ナイツ・ディフェンス”を出してもらえばいい。あれはピネロにしか使えないし、作れない……。裸でも、人形遣いなら人形ぐらい近くに連れてる。肌身離さずに……だろ?」

「…………!!」


 ピネロの顔からサッと血の気が引いた。イータの言う通り、ピネロは普段から自身の人形を最低一体は侍らせ、“隠密ヒドゥン”で隠している。だが、今はそれが無い。サブウェポンとして持ち歩いている人形の素体もだ。自宅に予備はあるが、この場でそれを言って信じてもらえるだろうか。


(人形そのものは無理でも、この場でそれっぽいものを作る……? 薄っぺらいガワだけになるけど、甲冑ぐらいならなんとか……でも、それで納得してくれるかな。特にオレン、さっきみたいに理詰めで全否定されたりは……)


 逡巡、懸念、付きまとう混乱。それらに雁字搦めにされ、ピネロは動けなくなってしまう。そして、オレンジとイータの判断は、ピネロの決断よりも遥かに早かった。


「捕らえます! 行きますよイータ!」

「だりーけど、ま、しゃーねーか。悪く思うなよ、自称ピネロのかわい子ちゃん!」


 パイプオルガンが重々しい音を奏でた次の瞬間、台座の下やパイプから大量の水が噴き出してきて、逃げる間もないピネロを捕らえ、箱型になって閉じ込める。


 ピネロの口からゴボボッ、と気泡があふれた。息ができない!


 出遅れたキャニアンは唖然としてしまう。何が起こっているのか、理解できないわけではない。だがあまりにも突然すぎる。


 オレンジはパイプオルガン型の魔術人形を奏でながら、早口で言い訳を告げるようにして言った。


「あなたに恨みはありませんが、我々もこの国の臣民。ゆえに法典に反することはできません。あなたが無実かどうかは、然るべき者が決めるでしょう。ご安心を、殺しはしませんから。イータ、彼女の魔力を奪ってください。いつまで鼻血を出しているんですか、この変態!」

「お、怒るなよ。しょーがねーだろ、男なんだから……ほら、食え」


 イータが指を鳴らして命じると、蛇骨人形は首を真横に九十度ひねって、ピネロを捕まえた水の箱に食らいついた。喉奥に備えられた砲口が水ごとピネロの体から魔力を吸い上げようとする。


 宙に浮いた水の中、浮くことも沈むこともできないピネロは、苦しみながら酸欠の頭を回した。このままでは、蛇骨人形に魔力を食われ、水の檻の中で溺れる羽目になる。水から泳いで脱出はできない。水の表面に張り巡らされ、形を整えている魔力の糸に絡めとられるのがオチだ。


 しかし、このふたりの魔術は既に、過去の授業で攻略済みである。ピネロは奪われそうな魔力を可能な限り右手に集め、水の箱を作る糸をつかんだそれらを枠に目目の細かいネットを何重にも作り上げ、魔力で作った鋼で隙間を埋める。


 蛇骨人形の喉奥の砲口に蓋がされ、水の吸入が止まった。イータが異変に気づく前に、ピネロは全身を輝かせ、顎の隙間から魔力で作った三日月型の刃を放った。


 水を成型する糸が断ち切られ、刃が床と天井に亀裂を入れる。ばしゃっ、と飛び散った水はオレンジの操作を離れて飛沫と化した。呼吸が戻ってくる。


「ぷはっ!」

「水に編みこんだ糸を……初見で気づいた? イータ、急いで!」

「やってる……いや、もしかして、喉になんか詰まったか……? それにこの脱出の仕方……」


 背中から床に叩きつけられたピネロは、すぐに起き上がって背後の窓に向かって走った。オレンジの旋律が廊下を震わせる。


「待ちなさい!」


 オレンジのパイプオルガンが再び怒涛を解き放つ。ピネロは追いつかれる寸前で、手甲を生み出した拳で窓を割って飛び出した。追い縋ってきた水は龍の姿を取って、垂直に落ちるピネロに襲い掛かってくる。ピネロは“隠密ヒドゥン”を使って姿を隠し、魔力で編んだ糸を放り投げた。糸は龍の口を縫い付ける。


 構わず体当たりをしてくる龍の鼻面を交叉した両腕で受け止め、衝撃を利用してピネロは斜め下に向かって飛んだ。この距離と角度なら、学院の敷地を出られる。


 誰にも姿を見られないまま落下しながら、ピネロは顔から雫が飛び散るのを感じた。オレンが魔力で作った水だろう。そう考えたが、視界がにじむ。目が痛む。


「ううっ……なんなんだ、なんなんだよぉ……っ!」


 可愛らしい涙声が溶けていく。遠くで首を引っ込める水の龍に、ピネロは手を伸ばしながら街の中へと落ちていった。

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