第2話 森の主と吸血姫
「炎以外の攻撃は禁忌ですよ、マイコニドは!」
一瞬、何を言っているのかわからず、思考が固まった。
「マイコニド?」
「キノコの魔物です! 狼の背中に寄生してる!」
初めて聞く魔物だった。
さすがに1000年も経てば、新種の魔物がいてもおかしくないか。
「はぁはぁ……マイコニドは衝撃を受けると……はぁはぁ……胞子を撒き散らすんです……」
その場にうずくまったリアラは、なぜか頬を赤らめて、太ももをもじもじと擦り合わせている。
「その胞子には催淫成分と……はぁはぁ……麻痺成分が含まれてます……はぁはぁ……」
リアラが恍惚の表情を浮かべ、服の胸元をぎゅっと握り締めた。
甘いにおいを感じ、アドは慌ててローブの袖で顔を覆う。
木と木の間を、薄桃色の粉末が漂っていた。おそらくこの粉が、マイコニドの胞子だろう。最も濃度の高い場所は、リアラの周辺だった。
「その催淫成分は動物を誘き寄せ……はぁはぁ……麻痺成分は動きを封じ込め……はぁはぁ……時間をかけて寄生します……」
リアラの唇の端から、糸を引いて、唾液が垂れ落ちていく。
「わたしも体が……はぁはぁ……熱くて熱くて……」
胞子の催淫成分に誘き寄せられたのか、どこに潜んでいたのかと思うほど多種多様な生物が、フォレストウルフの死体に集まってきている。
特に数が多いのは、死肉を貪る黒紫蝶だ。毒々しい紫の翅が、狼の腹を埋め尽くしている。
「吾輩は黒騎士のジル……マタタビ以外には屈しない……」
ジルはそう言いながらもフォレストウルフの死体に頬擦りをし、尻尾を丸めて寄り添うように横たわる。
「ジルくん気を確かに……はぁはぁ……キノコが生えちゃいますよ……」
「もうすこし待っていろ……リアラ……今に胞子を燃やしてやるぞ……」
もうすこし待っていろ。
それをうわ言のように繰り返すが、ジルは一向に動こうとしない。今の心地いいぬるま湯のような状況から脱却するのは、なかなか容易ではないようだ。
そのときだった。
大木の陰から、ぬらりと現れた。巨大な怪物が。
森の息遣いが一瞬で止まり、空気が凍りついた。
フォレストウルフと同じ狼型の化物。だが、その巨体はまるで別次元の存在だ。人間よりも大きいはずであるフォレストウルフが、小犬か何かと見間違えるほどだった。
保有している魔力も尋常ではなく、漏れ出る魔力が濃密すぎて、アドはびっしりと鳥肌を立てた。
「はぁはぁ……エンシェントウルフ……!!」
リアラがとろけた顔から、焦りの顔へ変貌していく。
その怪物の毛並みは美しい白。
頭に二本の角が生えており、猛々しくも神々しい。
「なんだコイツ。でかすぎる」
「森の主ですよ……!」
森の主?
魔物を観察するアドの視線が停止する。
森の主の眼球は脂のように白濁し、意思らしきものが感じられなかった。
背中を埋め尽くしているのは、夥しいキノコ。
森の主ともあろう者が、マイコニドに寄生されている。
その周囲をぶんぶんと舞っているのは、大量の羽虫だ。米粒大の羽虫もいれば、頭蓋骨くらいの羽虫もいる。森を蹂躙する翅の音が無性に耳障りだった。
『来た!』
『森の病!』
『助けてあげて!』
『お友だち!』
『お友だち!』
緑の妖精が荒れ狂ったように飛び回る。
「まさか森の主まで……!」
「逃げろリアラ……!」
仰向けになってお腹を露わにしたまま、黒猫が言った。
なんて格好だ。
「体が痺れて……はぁはぁ……力が……」
痙攣でもするように、リアラの脚がびくびくと震える。
激しい息遣いに合わせて、首筋の数字が伸び縮みする。
「仕方あるまい……すこし熱いぞリアラ」
黒猫も震える足で、やっとのこと立ち上がる。
「黒き騎士が命ずる……!」
二本の脚で立つジルは、腕をどっしりと組んでいた。
「顕現せよ……!」
カッと口を開く。
可愛らしく並んでいる猫の牙とは対照的に、口腔内に出現した魔法陣は禍々しく邪悪だった。しかもそれだけではない。魔法陣の前方にもう一つ大きな魔法陣が展開され、続けてその前方にさらに大きな魔法陣が展開された。
魔法陣の三重展開だ。
魔力が渦を巻いて、暴風が吹き荒れる。
「〈竜の息吹〉――!」
猫の口から、火球が放たれた。
燃え盛る火の球は森の主へ一直線に飛んでいき、魔法陣を通り過ぎるたびに、その輝きと大きさを倍化させていく。紫電を撒き散らす三つ目の魔法陣を通り過ぎたとき、煌々と輝く火球が森の主の大きさと同等になっていた。
空を切り裂き、彼我の距離を一気に詰めて激突。
高輝度の火球が森の主を呑み込む瞬間、灼熱に輝く爆炎が周囲へ広がった。肌を焼くほどの風が森の中を駆け抜け、炭化した黒い木片が雨のように降り注ぐ。
森の主が赤々と燃え上がるが――
すぐに爆炎が掻き消された。
高質量の黒煙が霧散したとき、そこには焦げひとつない狼が佇んでいた。
輝きを失った、白濁した瞳が、じっとジルを捉える。
「やはり効かぬか……! 奴の毛は火に耐性がある……!」
ジルが苦々しく言う。
火以外の攻撃が禁忌のマイコニド。
火に耐性のあるエンシェントウルフ。
この組み合わせは最悪じゃないか。
「小僧、リアラを連れて逃げろ! 奴には敵わん!」
もう遅かった。
「ひっ……」
人よりも大きな鼻が、少女の体を押していた。
リアラは身をこわばらせ、じっと息を潜める。あれだけ体が大きいと、鼻息も突風に近い。後ろに仰け反ったリアラは、髪の毛をばたばたはためかせる。
森の主が口を開ける。牙の隙間から、唾液が滴り落ちた。
もう諦めているのか、ぎゅっと目を閉じるリアラ。
森の主がリアラの頭を丸ごと咥え込んだとき、アドの腕にはすでに三つの魔晄結晶が抱えられていた。
「土へ還れ」
森に散らばる八体のスケルトンが、足元の魔法陣に沈み込んでいく。
「そして、覚醒めろ」
今度は森の主の口内に魔法陣が出現した。
森の主ががちりと噛み締めたのは、リアラの頭ではなく、魔法陣から召喚された豪華な棺桶だった。剣のような牙が棺桶の上下に食い込み、ぎちぎちと音を立てているが、森の主はそれを噛み潰すことができない。
ぎい、と異質な音が聞こえた。
森の主の口腔内で、棺桶の蓋が開かれていく。
棺桶の中から何かが伸びる。
骨の腕だ。
骨の腕がにゅっと伸び、唾液まみれの少女を掴んで、アドのところへ放り投げた。アドは両手でリアラを抱きとめようとするが、普通に力負けして下敷きになる。
「最悪。呼び出す場所を考えて。臭すぎる」
棺桶から姿を現した骸骨が、骨に付着した唾液に身じろぎしながら、森の主の口内でそう言った。骸骨なのに、不機嫌な表情が透けて見えるようだった。
「しゃべる……スケルトン……?」
アドの胸の上で、唾液まみれの少女が聞いてくる。
「彼女はスケルトンじゃないよ」
狼の歯列から飛び降りた骸骨は、振り向きざまに狼の頬を蹴り飛ばした。
家屋ほどの巨体を誇る森の主が、体を傾げて横倒れし、腐葉土の煙をもうもうと立ち上がらせる。当然、薄桃色の胞子も大量に舞い上がった。
催淫? 麻痺? どうでもいい。
胞子が魔物を呼び寄せるのであれば、そのすべてを骸にすればいいだけだ。
「ねえ、骨が脆い。何とかして」
彼女の大腿骨に亀裂が入っている。粉々に砕けるのも時間の問題だ。
「はいはい」
彼女の注文に返事したものの、もう魔晄結晶がどこにもない。
『ああ……!! ああ……!!』
『お友だち!!』
『大丈夫!? 痛い!?』
『ああ……!! ああ……!!』
横倒れした森の主の鼻先に、緑の妖精が一斉に集まった。
妖精たちの様子がおかしい。
森の主の白濁した瞳が、緑の光体をじっと見つめている。少しだけ、森の主に意思のようなものが感じられた。今この瞬間だけ、正気に戻ったのか。緑の妖精たちに向かって、親愛を表現するように鼻をひくひくと動かしている。
『……わかったよ、お友だち』
緑の妖精たちは消沈した声を漏らし、それからアドのもとへ飛んできた。
『ねえ、人間』
『お友だちが、もう殺してって……』
『苦しいって……』
『お願い。お友だちを、楽にして』
「……いいの?」
緑の妖精一匹一匹に目を向けて、アドは念を押すように聞いた。
『……うん。いいよ』
『……これでいい』
「わかった」
いいわけ、ないよね。
それくらい、アドにだってわかる。
でもその判断が、最善なんだよね?
なら、できるだけ楽に。
『ウォォォォン――!』
立ち上がった森の主が、木々を揺らすほどの咆哮をあげた。
もう森の主に、意思らしきものは感じられない。感じられないのに、アドはその叫びが、ものすごく悲しく感じた。きっとこれは、お別れの遠吠えだ。
「リアラ、魔晄結晶持ってる?」
え? とリアラの目が丸まった。
「ポーチに……いくつか……」
リアラの腰には革のポーチが括られていた。
「くれる?」
「取って、ください」
リアラがびくんと跳ねるのに構わず、アドは彼女の腰に腕を回し、ポーチのボタンを手探りで外した。中身をがさごそと漁ると、指の先に固い感触があり、爪で手繰り寄せて引っ張り出す。
木の実くらいの大きさだが、魔素が凝縮された一級品だった。
恍惚としている少女を眺めながら、どうしてこんな高価なものを持ち歩いているのか不思議に思うが、その疑問を押しやってアドは立ち上がった。
「ぶべっ」
足元で崩れるリアラ。
一級の魔晄結晶を媒介にして、アドが魔法陣を編み上げる。
「血と肉を受け取れ、ウィンター」
強烈な魔力の煌めき。
化物じみた森の主が、鼻頭にしわを寄せ、骸骨に向かって駆け出した。一気に目前まで駆け迫り、ずらりと並ぶ牙で噛み砕こうとしたとき――
「おすわり」
受肉した女性の手が、狼の鼻に触れ、地面に叩きつけていた。
大地震が森を襲う。
先ほどまで骸骨が立っていた場所は、隕石が墜落したかのように地面が抉れ、大樹の根が剥き出しになっていた。窪みの中心には、地面に縫いつけられ絶命している森の主と、その鼻を押さえる金髪・金眼の吸血鬼がいた。
「一体なにが……」
「まさか倒したのか、一撃で」
リアラもジルも唖然と窪みを見つめている。
吸血鬼が不機嫌そうに振り返ると、襟足で揃った髪の毛がふわりと舞った。
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