骸と魔女
D・マルディーニ
骸と魔女
魔の森
第1話 千年の目覚め
どくん、と心臓が跳ねた。
全身の脈が急激に拍動し、肺が激しく酸素を求め――
「けほっ、けほっ、けほっ!」
大きくむせた。
人間や魔物の解剖学に精通しているアドにも、いま自分に起きている現象が理解できなかった。内蔵が捻じ曲がり、全身に激痛が走る。とにかく魔術で回復を……と魔力を集めようとしたところで、「魔力を使うと死ぬんだった」と思い出してどっと冷や汗が出る。
「大丈夫ですか?」
気がつけば、三つ編みの少女が覗き込んでいた。
「……誰?」
「動かないほうがいいです」
体を動かそうとするアドを、少女が両手で押しとどめた。
ふわりと舞う少女の髪の毛は、光に照らされると青みを帯びていた。
汗ばむ少女の首筋に見え隠れするのは、『24』という数字だ。入墨か焼印か、謎の『24』。それが何を意味しているのか、アドにはよくわからない。
「あなたの体に、〝鬼薔薇〟の蔓が巻きついています」
涙でにじむ目を動かし、アドは自分の体を見下ろした。
少女の言う通り、訳のわからない植物が全身に巻きついている。おまけに背中にはごつごつとした感触があって、大木に磔にされているのだとようやく気づいた。
「……え?」
ぐるぐる巻きになった経緯がわからない。
ここは、どこだ。
家にいたはずなのに、どうして森にいる?
それも、木々が鬱蒼と生い茂る仄暗い樹海。多種多様な植物が踏み場もないほど茂っており、迷って来られるほど生半可な森でもなさそうだった。
「動くと、怪我しちゃいます」
全身を締めつける謎の植物は、青く禍々しい花弁を広げ、人の指ほどもある棘を突き出していた。よく見れば、穴の開いたローブに血が滲んでいる。
「わたしが切るので、じっとしててください」
少女が腰からナイフを引き抜き、慣れた手つきで植物を切断し始めた。
ぶちん、ぶちん、と繊維を断ち切る振動が、蔓を通して伝わってくる。
少女の足元でじっと見上げてくるのは、隻眼の黒猫だ。
どうやら右眼を潰してしまっているらしい。
縦に長い裂傷はずいぶんと古く、歴戦の戦士の風格を漂わせていた。
アドもつられて黒猫の視線を追いかけると、
「…………」
頂上が見えぬほど高い大木の枝に、一枚岩の〝石の家〟が乗っかっていた。
「……ボクの家だ」
経年劣化に耐えうる〝石の家〟。
――そうか。ボクは目覚めたのか、1000年ぶりに。
*
1000年の眠りについたことは覚えている。
でも、なんで1000年も眠ったんだっけ?
アドが覚えているのは、1000年眠るために、経年劣化に耐えうる〝石の家〟を用意した事実だけ。ここが何年後の世界かわからないが、まわりが森林化していることから、膨大な時間は無事に経過したようだ。
「ここは、どこ?」
アドが磔にされていた大木から坂道を下った先に、透き通った水の流れる小川があった。どこを見渡しても、陽の光も通さぬほど木々が密集している。
「ヴォルヴル大森林です」
「ゔぉるぶ……なんて?」
聞き慣れない地名に思わず聞き返す。
「ヴォルヴル大森林。〝魔の森〟です」
「〝魔の森〟……。確かに、魔素が豊富だね、ここは。
アドは地面から生える薄紫の結晶を眺める。
秘境に行かないと見つからないような
「ねえ、アドくん。どうしてあんなところに――」
『出してあげない』
『出してあげない』
少女の質問は、無邪気な子供の声で掻き消された。
目を凝らしてみると、緑色の光体が五つ飛び回っている。
「また、緑の妖精か。イタズラにしては度が過ぎる」
隻眼の黒猫が吐き捨てるように言う。
「どういうこと?」
思わずアドが聞くと、黒猫のジルが顎をしゃくった。
「あの妖精どもが、吾輩たちを森に閉じ込めているのだ。森のどの方角に進んでも、最終的にこの小川に戻ってきてしまう。もう丸一日、リアラとこの森を彷徨っている。いいかげん吾輩も、この森を燃やしたくなってきた」
「ダ、ダメですよ、ジルくん。この森のおかげで、見つからずに済んでるのに」
リアラと呼ばれた少女が、わたわたと手を振っている。
見つからずに済む、とは一体誰から? とアドは一瞬思うが、面倒事はご免だった。不用意に巻き込まれぬよう、深堀りしないのが互いのためだ。
『森の病を治して』
『森の病を治して』
森の中を泳ぐように飛び回り、緑の妖精が口々にそう言った。
「またそれか……。吾輩は医者じゃないと何度言ったらわかるのだ」
『森を助けて』
『森を助けて』
「緑の妖精さん、教えてください。わたしたちは何をすればいいですか?」
リアラが妖精に問いかけるが、
『森の病を治して』
緑の妖精はその一点張りだった。
「森の病って?」
アドが聞くと、「さあ」とリアラが首を傾げた。
『病が来る』
『ここに来る』
『待ってて』
『みんなに伝染る。待ってて』
何だか要領を得ない。説明が下手すぎる。
「妖精さん、こればっかりなんです。待っててと言われても、病が来ると知ったら逃げますよ、そりゃ。なのにこの小川に戻されてしまって……」
リアラの言葉尻が徐々にしぼんでいった。
「うーん。困ったもんだね」
すこし、情報を集めるか。
アドはその場にしゃがみ込むと、土をめくって魔晄結晶を採取した。
「洗ってくる」
苔むした巨石をずるずると降りて川のほとりに近づいていく。川の水は透き通っており、水草の間を泳ぐ虹色の魚が見えた。まずは魔晄結晶を洗って純度を確かめたかった。結晶内の魔素量でどの程度の魔術が発動できるのか。
アドは魔晄結晶を水に浸そうとし、その手をぴたりと止めた。
水面に映る自分の顔が面白かったからだ。
1000年も眠っていたのに、目の下に大きなくまがある。頬はげっそりと痩せこけ、髪の毛は雑草みたいにぼさぼさ。実に不健康な見た目をしているが、かれこれ数年以上こんな感じだ。いま患っている病のせいではない。病?
ずきん、と頭が痛んだ。
――アド、私の命をあげる。あなたは生きて。
アドは1000年眠っていた理由をだんだんと思い出してきた。
病。
長いローブの袖から覗く自分の腕に目線を落とす。ぐるぐるに巻かれた包帯の隙間から、影のように真っ黒な手の甲が露出していた。
醜く不快な腕だ。
アドは嫌気がさして、乱暴に包帯を巻き直した。ローブの袖をぐっと引っ張り、目に入らぬように腕を隠す。この腕がアドのすべてを狂わせた。体も十五歳のまま成長しなくなった。残り滓の魔力で、何とか病の進行を抑えている。
――三ヶ月。それがアドの余命だと宣告された。
だから未来へ来たのだ。
1000年後に、「治療法が見つかる」という預言を信じて。
「〝森の病〟か……。アンタも病気なんだな」
治してあげたい、とアドは素直に思った。
本来、妖精という存在は恥ずかしがり屋で姿を現すことはない。だけどこうして姿を見せているのは、それだけ妖精たちが必死になっている証拠だ。姿を見られてもいいから助けを請い、この森をどうにかして守りたいと。
その勇気は、称賛に値する。
「出てこい、ゴーストリッチ」
アドは魔晄結晶の魔素を媒介にして、地面に七つの魔法陣を描いた。
禁忌の術式――死霊術だ。
暗黒の輝きから七つの頭蓋骨が浮かび上がり、霊魂の黒い炎をまとってアドの周囲を飛び回る。この禍々しい魔術は、リアラには見せられない。
「森を抜ける道を探してくれ。あと〝森の病〟についても調べてほしい」
カカカカと下顎骨を鳴らして、ゴーストリッチが四方へ飛び去る。
*
本当にどの方角に進んでもこの小川に戻されるらしい。
この小川に来たのは三度目だ。
病気に侵されたこの体では、森の移動は死ぬほどこたえる。脚が小刻みに痙攣して、もう力が入らない。呼吸をするだけで、肺に刺すような痛みが走る。
本当にこの病から生き延びることができるのか。
「おい、アド坊。アド坊」
草むらの陰から、頭蓋骨がひそひそと声をかけてくる。
ゴーストリッチのダグラスだ。
「ダメだ、アド坊。この森は抜けられない。どうしてもここに戻ってくる」
「ダグラスさん、アンタもか。〝森の病〟はどうだった?」
「見りゃわかる。もうじき来るぜ、ここに」
「――え?」
アドが驚きの声をあげたのと、リアラの悲鳴が響き渡るのは、ほとんど同時だった。
「わたしは美味しくないですよ!」
その張り詰めた声に、アドは思わず振り返る。視線の先で、リアラが尻餅をついて怯えている姿が見えた。彼女に襲いかかろうと狙いを定めているのは、狼の魔物――フォレストウルフだ。
「まずいぞ、リアラ。囲まれてる」
ジルの言葉を証明するように、新たに出現するフォレストウルフ。
合計八体。
獲物を逃がすまいと木々の陰からにじり寄ってくる。
毛並みは漆黒。
人の二倍はあろうかという体躯を誇り、その筋肉は獰猛な力を物語っている。あんなので踏み潰されたら、人など熟れた果実も同然だ。
アドもこの魔物のことを知っているが――それこそ骨の数から筋肉の層まで――ひとつだけ奇怪な点があった。
それは背中だ。
フォレストウルフの背中には、夥しいほどのキノコが生い茂っていた。獣の脚が地面を踏みしめるたび、背中のキノコも大きく揺れ動く。まるで生きた森そのものが、その巨体に宿っているかのようだった。
『森の病を治して』
『森の病を治して』
「なるほど、キノコか……」
とジルが苦しげに呟いた。
「〝森の病〟とは言い得て妙だ。うむ、これはまさしく病」
「なにか知ってるの?」
気味の悪いキノコについてアドが尋ねると、
「知ってるもなにも! この森で一番出会っちゃいけない魔物ですよ!」
「寄生してるんです! ジルくん助けて!」
狼の背中に生えたキノコは、それぞれが不気味な目玉を持っていた。
生気を帯びた瞳が怪しく光り、見るものを圧倒する。
「まったく、猫使いの荒い娘だ」
腰砕けのリアラを庇うように、隻眼の黒猫が一歩前へ踊り出た。
「――とは言ったものの、この数は捌ききれんだろうな。どうやらここまでらしい。吾輩が
「そんな……! ジルくんはどうするんです……!」
「吾輩は〝黒騎士のジル〟。騎士は姫を守るものだ」
「嫌です……! そんなお別れみたいなこと言わないでください……!」
「聞き分けの悪い娘だ。お前にはやるべきことがあるだろう?」
「でも、でも――」
「この八体だけだよね」
アドは砂汚れをぱんぱんと払い、リアラを守るジルの前に立った。
「おい、小僧。一体、何の真似だ?」
「ボクが倒すよ」
「そんなヒョロヒョロの体で何ができる?」
「アンタたちになら、ボクの正体を見せてもいい。嫌われても仕方ないけど、もし許されるのであれば嫌わないでほしい」
アドは泥にまみれた魔晄結晶を袖でぬぐい、爪の先でコンコンと弾いた。音が響かないのは、魔素が凝縮されている証拠だ。
「小僧、何する気だ?」
「五体はいけると思うんだよね」
「何を、言っている?」
「助けてくれてありがとうってこと」
アドは背中を向けて走り出した。
『グルルル』
「やっぱり、ついてきた」
ちらりと確認すると、上下に弾むフォレストウルフの姿が見える。
逃げる獲物に反応する習性を利用した。
「待て、小僧! あやつ、死ぬ気か!」
ウルフたちは一斉にリアラの横を素通りし、アドの背中をまっすぐ追いかけてくる。さすがに速い。一気に距離を詰められる。
目前に、
ローブがびしょ濡れになるのも構わず、アドはざぶんと足を踏み入れた。
冷たさが襲い、骨まで沁みる。
すぐに腕を突っ込み、水の中で魔晄結晶を左右に揺らす。糸を引くように泥が流され、綺麗な結晶が露わになった。
獣の唸り声が、川岸から聞こえた。
水の滴る魔晄結晶を目の前に掲げ、木漏れ日に当てて透かし見る。やはり高純度。濁りがなく、魔素が濃い。五体と言わず、八体いけるかもしれない。
『グルル!!』
川岸から水しぶきを上げ、フォレストウルフが迫り来る。
魔晄結晶を突き出したアドは、それを媒介にして魔術を発動する。
小川に満ちる、黒き閃光。
アドの頭蓋骨を噛み砕こうと大口を開けたフォレストウルフが、アドの目と鼻の先で盛大に転倒した。いや、何者かに引きずり込まれた。火山のように水塊が爆ぜ、木々から小鳥たちが飛び去っていく。
猛獣の脚を掴んでいるのは、地面から生えた骨の腕だった。
やがて川底の地面が盛り上がり、巨大な人骨が水面から姿を現した。
頭蓋骨の眼窩、肋骨の隙間から、滝のように水が流れ落ちる。骨盤の下部まで顕わになったとき、墓場に眠る遺骨特有の、鼻の曲がる腐臭が広がった。
「スケルトン!?」
リアラが悲鳴を上げる。
彼女の顔に、不安と恐怖の入り混じった複雑な表情が広がる。
「大丈夫。ボクの友達だ」
アドは言った。
「ボクは死霊術師。ネクロマンサーのアドだ」
「ネクロ……マンサー……?」
「五体いけるって言ったのは、お友達を五体、この世に呼べるって意味だ。でも、この魔晄結晶は純度が高いから、八体いけるよ」
暗黒の魔法陣から黒き光が満ちる。
「な、なんですか、その黒い魔法陣は……!」
「死霊術を見るのは初めて?」
言ったそばから地面が揺れ、不気味な音が森に鳴り響く。
白い骸骨の手が、地中から勢いよく突き上げられ、腐葉土を紙細工のように引き裂いた。
骨が大地に咲き誇り、死者の群れが現世に蘇る。
親愛なる人骨、計八体。
骨の兵士が立ち上がる様子に、リアラの瞳に戸惑いが浮かんだ。
「彼らはかつての傭兵たちだ。喧嘩をするのが好きでね」
カカカカとスケルトンが笑い、そして弾丸のように跳躍した。
「フォレストウルフなら、いい喧嘩相手になると思うんだ」
スケルトンの拳が、フォレストウルフの横腹に減り込んだ。
瞬く間に、骨と毛が交じり合うほどの激しい打撃音が鳴り響く。
続けて、底に響くような振動が森中を襲った。
弾き飛ばされたフォレストウルフが大樹に激突したのだ。
そのまま地に伏せて、舌をだらりと垂らし、ぴくりとも動きを見せない。
八体のフォレストウルフが絶命するのに、時間はかからなかった。
骨密度を再現できなかったせいか、スケルトンたちの腕は、自分の攻撃で粉々に砕け散っていた。反動が大き過ぎる。何がおかしいのか、スケルトンたちは自らの欠損を見て、カカカカと笑い合っている。
「な、な、なんてことをしたんですか!」
どういうわけか、リアラの顔が青ざめていた。
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