最期の嘘

原田なぎさ

最期の嘘

 夏の終わりの入道雲はあっという間に黒く陰り、街の景色を雨に変えた。

 横浜の菓子メーカーで秋のプロモーションの打ち合わせを終え、ぼくらは夕暮れ時の上りの私鉄に揺られていた。

「やみそうにありませんね」

 並んで立った宮ケ瀬恵美が、車窓の外を見つめている。

 電車は多摩川に架かる橋を渡っていた。鈍色の濁流が、みるみるうちに川幅を広げていく。

 渋谷駅から勤務先のウェブデザイン会社が入ったビルまで徒歩十五分。二人ともずぶ濡れになるだろう。

 鞄には、あの封筒が未開封のまま入っている。濡れたら多分、開けない。

「直帰にしよう」

「大丈夫ですか?」

「社歴九年にもなると、緩急のつけ方を心得る」

「じゃあ、わたしは先輩のアドバイスに従います」

 ポニーテールを揺らしながら、恵美は笑った。入社三年目だが、スーツ姿は就活の女子大生のようにも見える。

 お互いスマホで勤怠アプリを立ち上げて、ステイタスを「十七時帰社」から「ノーリターン」に変更した。

 三軒茶屋で電車を降りる。雨足はさらに激しさを増していた。ぼくの家は駅前の商店街を抜けた先、恵美は軌道線に乗り換えて、三つ先が最寄り駅だ。


「雨宿りしていきましょう」

 彼女の言葉に黙ってうなずく。駅直結の複合ビル。二十六階にある展望ロビーのカフェは空いていた。

「よく来るの?」

「休みの日にときどきです」

 アイスカフェオレをストローでかき混ぜながら、恵美が答える。

「景色を眺めてぼんやりするか、読書してます。ここ展望だけなら無料なんですよ」

「若い子は休みの日、買い物かデートに行くものだと思ってた」

「うちのお給料知ってますよね? 都会の一人暮らしは節約しないとやっていけません。それから、出歩く相手がいない理由、この前お伝えしませんでしたっけ?」

 一週間前、やはり二人で客先を訪ねた帰り、「気づいていると思いますけど、前田先輩を異性として意識しています」と打ち明けられた。不意打ちだった。

「でも、奥さんのことを思い出にできるまで、気長に待ちます。もう二年以上もこんな感じですから、大丈夫。のんきなんですよ、わたし」

 視線を合わせず、小さく笑い、恵美は会社のエントランスに消えていった。

 その後も態度は変わらない。せわしなく、不器用に仕事をし、職場のみんなに気を配る。

 はっきりと「気づいている」わけではなかった。陽だまりのように暖かい彼女の好意は、自分だけに向けられているとは思えなかった。

 なにより三年前、恵美の前で、ぼくは醜態をさらしている。

 あの夏、半年前から闘病していた妻の茜が死んだのだ。


 七日間の忌引き休暇が明け、席で溜まったメールを処理していた。

「先輩、これどうぞ」

 ふいに隣の席から白いレースのハンカチを差し出される。

 まだ入社五か月目だった恵美が、指導役のぼくを見つめていた。

 そこで初めて、自分が泣いていることに気づかされる。

 断る配慮もできず、そのままハンカチを受け取った。

 慈しむように一瞬はにかみ、恵美はくるりと椅子を回して、自分のパソコンに視線を戻した。まるで、ぼくに不都合なことはなに一つ見なかったかのように。

 それからも、恵美は後輩としての距離を保ち、やみくもな慰めも、過剰な同情もせず、ごく当たり前に接してくれた。

 しみるように嬉しかった。


 茜は高校時代の同級生だ。当時から目を引く美少女だったのに、曲がったことが大嫌いで、同性からも異性からも浮いていた。

 ぼくらが通っていたのは県立の進学校だ。

 生徒会の役員は実りが薄く、雑事を抱える。だから誰もすすんで手を挙げない。

 二年生の担任が、生徒会の顧問だった。「初夏の選挙に誰も出ない」と嘆いていた。一本釣りされたのが、帰宅部だったぼくと茜だ。

「正副会長やってくれ。どっちがどっちでも構わない。大丈夫、選挙は信任投票だ。前田も谷口も、成績は問題ないだろう。アオハルに一つぐらい思い出つくれ。お前ら、ろくに話したこともないだろうけど、価値観がよく似ているぞ」

 放課後に呼び出され、説得された。茜がすかさず問いただす。

「前田くんと価値観が似ているって、先生、どうして言えるんですか?」

「怒りの矛先が同じだからだ」

「怒り? わたし、前田くんが怒っているのを見たことがありません」

「あからさまには俺もない」

「ずいぶんと無責任ですね」

「谷口は怒りを素直に表す。対する前田はそれを押し殺すんだ。けれど、したたかに抵抗する。二人とも矛先は、不正や不正義みたいな何か。お前らいいぞ。いかにも『若者』って感じがする。俺はそういうのが大好きなんだ」


 ああ、あの件を知っているのか、とすぐにわかった。

 一年生の秋、ぼくは英語の答案用紙を白紙で出した。それまでほぼ毎回満点だったから、職員室で少し話題になったらしい。

 夏休み明け、若い英語の男性教師が、取り巻きの女子生徒数人に設問を漏らしていると噂がたった。真偽ははっきりしなかったが、その数人は結果的に高得点を取っていた。そういう不正が許せなかった。

 二学期の英語の成績は、十段階で「二」に落ちた。誇らしかった。

 母はぼくに無関心で、父はあらゆる気力を失っていた。だから親には何も言われない。

 中学生の頃、父が勤める食品会社で大規模な不正経理が発覚した。経理課長だった父は、責任を押しつけられて更迭された。

 父にどっぷり依存していた母は、よるべを失い、趣味だった菓子作りにのめり込んだ。あの頃、家にはいつも大量のクッキーやスポンジケーキが放置されていた。


 茜の家庭も壊れていたと知ったのは、つきあってしばらく経ってからのことだった。

 茜の父は弁護士だ。

 ある日、小学校から帰宅した茜は、居間で泣き崩れている母を見る。外に女をつくり、妻子を捨てて、父親は家を出ていった。

 相手は法律の専門家だ。母親は諦めて、離婚届に判を押す。引き換えに、相場より多めの慰謝料と養育費を受け取った。


 初夏の選挙でぼくらはそろって信任された。旧姓谷口茜が生徒会長、ぼくは副会長だ。

 その年の冬、ぼくと茜はつきあい始める。

 放課後、ほかの役員が引き上げて、生徒会室に二人になった。

 どちらからともなくキスをした。お互いに初めてだった。

「あのさ、前田くん」

「ごめん。こういのはちゃんと告白してからすべきだよな」

「ううん、それはいいの。言葉にしてないだけで、わたしもあなたも考えていることは同じでしょ?」

「谷口さんの気持ちまで正確にはわからないよ」

「じゃあ単に人恋しく、性的なことにも興味があって、キスをしたと思ってるんだ?」

「そうでないことを願っている」

「ねえ、前田くん、わたしはあなたが大好きだよ」

「よかった。ぼくも谷口さんを大好きだ」

「長いつきあいになりそうだから、一つだけ、ルールを決めておきたいんだ」

「浮気ならするつもりはないよ」

 そこで茜は苦笑した。ぼくのネクタイをきゅっと絞め、「お父さんも同じことを言っていた」と囁いた。その意味を理解するのはもう少し後のことだ。

「お互いに、嘘をつくのは絶対やめよう」

「浮気しないじゃなくて?」

「心変わりは仕方ない。でもその時には取り繕わないでほしいんだ。嘘は相手を傷つける。心をえぐる。『浮気した』って打ち明けてくれたほうが、何倍もすがすがしい」

「しないよ、浮気なんて」

「わかってる。多分あなたは浮気はしない。むしろわたしのほうが可能性がある」

 胸元の白いスカーフを揺らしながら茜が笑った。

「谷口さんは浮気性なのか。ぼくはつきあう相手を間違えたのかもしれない」

「ほらね? 人はたやすく嘘に傷つく。相手が大事であればあるほど傷つくの。だから、わたしは死ぬまで嘘はつかないし、嘘をつかれたくない」

「重たいね」

「じゃ、おつきあいをやめておく?」

「やめないよ。ただ、ちょっと恥じているんだ」

「なにを?」

「『揺るぎのない正しさ』って、存在しないと思っていた。本当はそういうなにかを求めているのに、『中二病的妄想だ』と斜に構えている自分もいる。みんな嘘をつく。ずるい者が果実を得る。誰も心の底から信じちゃいけない。誠実そうなふりをして、世界の中心には自分がいる。そんなふうに考えていた」

「その思い込みのほうが、はるかに『中二病的妄想』に感じられるんだけど」

「そうだね。だから谷口さんの話を聞いて恥ずかしいと感じたんだ。約束するよ。ぼくは谷口さんに嘘をつかない」

「契約成立だね。改めて末永くよろしくね、悦史くん」

「こちらこそ、いつまでも一緒にいよう、茜さん」

 お互いに「くん」と「さん」付けだけど、初めて下の名前で呼び合って、再び触れるようなキスをした。


 展望ロビーの窓の向こう、地上百二十メートルから見下ろす街は、夏の雨にくすんでいる。夜の闇に包まれることにあらがうように、白や黄色、赤いランプがあちこちに灯っていた。

 恵美は黙ってその風景を眺めている。小さな顎から白い首へとつながるラインが美しい。

 しばらく前から、自分の中に芽生えた想いを自覚していた。だからこそ、五歳下で就活生のようだと自分自身に思い込ませる努力をしてきた。


 茜と結婚したのは二十五歳の時だった。

 現役で別々の大学に進学し、二十歳を待って同棲した。三軒茶屋を選んだのは、通学の便がよく、夜遅くまで店がやっていたからだ。マンションは今と変わらない。その時点で築二十年の1LDK。管理費込みで十三万円の家賃は折半した。

 ぼくは学習塾とウェブサイト制作会社、茜はアパレル店とパチンコ屋でバイトした。

 入学金以外、お互い親には頼らずに、学費も自らまかなった。

 生活は苦しかったが、嘘のない、「揺るぎのない正しさ」を感じられたあの日々は、心の底から幸せだった。

 ぼくも茜も一度も浮気をしていない。


 同じ苗字になって三年目の初春だった。残業で帰宅時間が十時を過ぎた。茜はリビングのソファーに横になり、力なく「お帰りなさい」と僕に告げた。

「カレーあるけど、食べる?」

 体を起こそうとした茜を制し、「大丈夫、自分でやるから。それより、具合悪いの?」と尋ねた。

「だるいだけ。温め直す前にちょっとお手洗い行ってくる」と立ち上がる。

 ここしばらく、茜は真夜中にもベッドを抜け出し、トイレに行くことがあった。そのたびに「水分の摂りすぎかなあ」と恥ずかしそうに首を傾げ、「ごめんね、起こしちゃって」と隣で眠るぼくに詫びた。

「仕事、忙しいの?」

 トイレから戻ってきた茜に声をかける。

「年度末だからそれなりに。でも、悦史くんみたいな残業はない」

 茜は専門商社の人事労務部で働いている。普段の帰りはほぼ定時だ。

「無理するなよ」

「してないよ。わたしたち、嘘はつかないって約束したじゃない」

 コンロの鍋を温めながら、茜は笑った。二十代半ばを過ぎてもその美しさは変わらない。凛とした振る舞いはそのままに、性格はやや丸みを帯びた。

 茜といることそのものに、ぼくは深く満たされる。

 それで、油断してしまったのだろう。

 茜の言葉を聞き流し、体調を深掘りするのを怠った。


 桜の花が散り始める頃、茜は近所の内科を受診する。半月後、紹介された大学病院の婦人科で、卵巣がんと診断された。すでに子宮や卵管だけでなく、リンパ節にも転移していた。

「腫瘍が膨らみ、膀胱を圧迫していたのが頻尿の原因です」と医師が説明する。

 短く息を吐いた後、「先生、治療期間と費用の概算を教えて下さい」と茜は言った。そして付け足す。「もう子どもは授かれないということですよね?」


 それからの半年間を、よく思い出せない。

 まるで記憶にモザイク処理が施されたように曖昧だ。

 時系列を無視した断片だけがよみがえる。

 

 シーツの上に抜け落ちた黒髪を、茜がコロコロで集めている。

 病床で半身を起こした茜が、ぼくの剥いた林檎を食べている。

 白い腹にできた傷を、「ミミズみたい」と茜がさすっている。

 粉ミルクのCMが流れるテレビを、茜が静かに見つめている。


 不思議なことに、すべての場面で茜は笑っていた。

 息を引き取るその瞬間まで、笑顔をたやさなかった。


「悦史くん、わたし、謝らなきゃならないね」

 その夜、ベッドに横たわりながら、茜は言った。

 しばらく前からモルヒネの投与が始まっていた。激痛からの解放は、快復の見込みがないことを意味していた。

 いつものように会社帰りに見舞いに訪れ、ベッドサイドで茜の左手を握り締める。サイズを間違えたかと思うほど、薬指の結婚指輪はぶかぶかだった。

「なにを謝りたいの?」

「生徒会室で、キスしたこと」

「あれはお互いさまだと思うけど」

「ううん。あと唇まで一センチのところで、悦史くんはためらった」

「そうだったっけ?」

「そうだよ。だから、わたしが一センチ、顔を寄せたんだ」

「初めて聞いた」

「初めて言ったからね」

「そんなにぼくとキスしたいと思ってくれたんだ」

「うん。悦史くんを大好きだった。――これはあの時にも口にしたね」

「ぼくも茜を大好きだった」

「ごめんね」

「相思相愛なのに、なぜ謝らなきゃならないのさ?」

「こんなことに巻き込んじゃった」

「いいよ。結果論だもん。ちっとも迷惑だなんて感じていない」

「悦史くんをパパにしてあげられなかった」

「お互い、親ガチャには外れただろ。僕にはのロールモデルがない。いまさらだけど告白するよ。になることにおびえていた」

「それが避妊していた理由なの?」

「半分はそう」

「もう半分は?」

「茜もになるのが怖いんじゃないかと思っていた」

「ビンゴだ。わたしたち、だてに十年も一緒にいたわけじゃないね」

 茜はおかしそうに微笑んだ。

 ぼくは椅子に座ったまま、茜の上半身をそっと抱く。その体は空気のように軽かった。

「いま、コイツ死ぬな、と思ったでしょ」

「思ってないよ」

「最期まで、わたしたちのルールは守ろうよ」

「『嘘をつくのは絶対やめよう』」

「うん」

「思ったよ。茜は死ぬんだな、って」

「よろしい」

「よろしくないだろ。残されるぼくはどうすりゃいいんだ」

 茜はひょい、とぼくの肩に顎を載せ、ゆっくり両手を背中に回した。

 そのまましばらく口を開かない。やがて「ふぅ」と息を吐き、耳元で囁いた。

「再婚してね」

 どう答えるのが正解なのか、わからなかった。困惑し、ぼくは茜を抱く手に力を込める。

「再婚してね、絶対だよ」

 茜が同じ言葉を繰り返す。

「悦史くんはまだ二十八歳だ。あと半世紀は生きていく。わたしと同じであなたはとっても面倒臭い人だから、誰かの支えが必要だよ」

「そんなに面倒臭いかな」

「自覚しているだろうから、答えてあげない。それからね、必ずパパになりなさい」

「なんだそれ?」

「わたしたちは思春期を終わらせないまま逃げ出した。だから乗り越えるべき親を乗り越えられていないんだ。悦史くんの中二病が治っていないのはそれが理由。わたしも完治してない。そんな二人が子どももつくらず一緒にいたから、なんとなく『揺るぎのない正しさ』を暮らしの中に落とし込めた。でもね、それはこの先、半世紀も続けられないよ」

 茜はそこで小さく二回、咳をした。「水飲むか?」とぼくは尋ねる。「平気」と答え、言葉を続けた。

「パパになりなさい。正しさなんて、まるで通用しない小さな子どもと向き合って、自分と親を重ねてみなさい。大丈夫。お義父さんともお義母さんともあなたは違う。悦史くんは投げ出さない。きっと素敵なパパになれる。わたしたちをずっと生きづらくしてきた中二病から快復できる」

「そうなのかな」

「わたしは死ぬまで嘘はつかない」

 十年前、生徒会室で言った台詞を、茜は再び繰り返した。一字一句違わない。

 にもかかわらず、「死ぬまで」の重みだけが、こんなにも増している。


 茜はぼくから両手をほどき、ゆっくりとベッドに横たわった。

 笑っていた。その顔を、心の底から綺麗だな、と感じる。

「長いこと、ありがとうね、悦史くん」

 瞳を閉じて、小さく囁き、その後は何も喋らなかった。

 翌朝、茜は息を引き取った。まるで眠るような最期だった。

 その死を待っていたかのように、茜の目じりから、左右に一筋ずつ、涙がこぼれた。白い頬を伝う小さな雫が、朝日にきらきら輝いている。

 そこでこらえきれなくなり、茜を強く抱き締めて、声を上げ、ぼくは泣いた。


「前田先輩」

 恵美がぼくを呼んでいる。

「やみましたよ。雨」

 そうだね。

「お疲れのようですから、そろそろ帰りましょうか?」

 職場で涙を流してしまった指導役を、恵美は二年以上も待ってくれた。

 あの告白は、茜の三回目の命日の翌日だった。恵美なりのけじめをつけて、勇気を奮ってくれたのだろう。実はちっとも不意打ちなんかじゃない。

「どうかしましたか?」

 伝票を握った恵美が、ぼくの顔をのぞき込む。

 この子は律儀だ。

 二人で飲食するたびに、何度ぼくが持つと言っても、「お互い安月給ですから、割り勘にして下さい」と譲らなかった。

 ぼくが無理やり支払うと、決まって翌日、「おやつ食べませんか?」とスイーツを持ってきた。時にはむしろそっちの方が高そうで、恵美に奢ることを諦めた。

 融通の利かない不器用さは、茜とよく似ている。

 黒目がちの大きな瞳に小さな鼻、厚めの唇。整った顔立ちなのに、あまり異性にモテないところも、そっくりだ。

 茜を亡くして以来、この子に何度も癒された。

 そろそろそれを認めよう。

 まだ早い、許されないと思っていたから、好意に対するアンテナの、感度をずっと下げてきた。


「再婚してね」と茜は言った。

 その真意を、ずっと考え続けている。


 一週間前、墓前で茜の母に会った。夏の陽に焼けた墓石に水をかけ、三色の菊の花を供えていた。

「悦史さん、もう命日に来なくても大丈夫よ」

 義母だった人がそう言った。以前と変わらず、話相手と視線を合わせない。

「自分が来なくて大丈夫になったら、来ません。今年はまだそうじゃありませんでした」

「相変わらずね。本当に似た者同士。茜は幸せだったわね」

「ぼくは幸せでしたが、茜の本音はわかりません」

 彼女は薄く笑い、封筒を差し出した。

「なんですか?」

「三年前、うちに届いていたのよ、茜から」

 茜の字で、表に実家の住所と「谷口茜様」、裏には「前田茜拝」と書かれている。

 消印は死の前日の日中だった。

 病院の一階にはコンビニが入っていた。あそこには郵便ポストがあった。あの日、茜は動くことができたのだろうか。あるいは看護師にでも投函を頼んだのか。

「未開封ですね」

「だって、わたし宛じゃないでしょ? なにより、わたしには開ける資格がない」

「資格?」

「夫を若い女にとられた後、わたしは妻だけでなく、母であることも放棄した。あの男の血が半分混じった茜のことが、うとましかった」

「それでもちゃんと食事をつくり、洗濯し、子育てをしたじゃないですか」

「そんなのは育児と呼べない。わたしは茜の気持ちに寄り添うことをしなかった。傷つきやすい思春期を、満身創痍で過ごさせた。高校であなたと出会うまで、あの子は深い孤独の中を生きてきた」

 じっと墓石を見つめている。汗のにじんだ横顔は、茜に似ていた。気づかないまま他人から義母になり、また他人に戻ってしまった。

「だから、わたしにそれは開けられない。あの子の最期の言葉を知る資格がない。……でもね」

「はい」

「知りたいという気持ちもあった。あの子の体が焼かれた時、お腹がずっとうずいたの。母親失格なのに、茜は確かにわたしの一部だった、わたしの中から産まれたんだって、そう感じた」

「茜はお義母さんの娘です」

「ありがとう。ごめんなさい」

 義母だった人が泣いている。

 開封を三年もためらったあなたこそ、面倒臭い人じゃないですか。娘さんと瓜二つです。

「悦史さんに託します。内容は教えてくれなくても構わない。あなたが自分の気持ちを整理して、前に進める内容であることを、祈っています」

 やっぱり二人は母と娘だ。求めることまで同じじゃないか。

 ぼくは深く頭を下げた。鞄の底に封筒を入れて、墓苑を出る。

 ミンミンゼミの合唱に、ヒグラシの声が重なった。

 茜が死んで、三回目の夏が終わろうとしている。


「はい、カフェオレ代です。六百五十円、ちょうどあります」

 展望ロビーから地上に戻るエレベーターの乗客は、ぼくと恵美だけだった。

 無駄な抵抗はせず、右手で硬貨を受け取った。

 背の低い恵美が、上目づかいにぼくを見る。「雨宿りでしたけど、先輩と過ごせたのでよかったです。ゲリラ豪雨に感謝しなきゃ」

「それ、怒られる言い方だ」

「怒られるのは先輩の方です。わたしといるのにずっとほかのことを考えてました」

「妻のことを思っていたのがわかったの?」

「先輩のことなら大抵はわかります。指導役だし、片想いとはいえ、好きな人ですから」

 下手くそな牽制球を、恵美は真っすぐ打ち返す。

 もう駄目だ、と観念した。

 これ以上、曖昧な態度を続けることは、自分にとっても嘘になる。それは茜がいちばん嫌ったものだ。「パパ」になれるかどうかはわからない。けれど、そっちに向かい、小さく一歩、ぼくは踏み出す。


「この後、なにか予定入っている?」

 エレベーターが終点の二階で止まる。はずむように外に飛び出す恵美に、背後から声をかけた。

「予定なんてありません。もう全然ありません!」

 振り向いて、早口にそう答える。

「夜ご飯、食べようか」

「喜んで」

「一つ頼みがあるんだけれど」

「なんでもどうぞ」

「次からまた割り勘に戻すから、今夜だけ、奢らせてくれないかな」

 瞳を大きく見開いて、それからかすかに小首を傾げ、下唇をちょっと噛み、「わかりました」と恵美は答えた。ぼくは胸をなで下ろす。

「先輩、近くにいいお店があるんです。創作イタリアンの居酒屋です。いつか一緒に行きたいな、と思っていて、グルメサイトで検索したら、星三つ半でした」

「じゃあ、そこにしよう」

「はい! 席空いているか、電話で聞いてきますね」

 スマホを握り、出入り口へと向かっていった。電波の調子が悪いらしい。ビルの中低層には小劇場や小売店が入っている。遠ざかる恵美の背中を視線で追った。

 鞄から封筒を引っ張り出す。丁寧に、けれどもためらうことなく、開封した。

 三枚の白い便箋が入っていた。


 懺悔として、自分宛にこの手紙を書いておきます。

 この「懺悔」って言葉遣いが、がんよりも致命的な中二病だと自覚してます。

 どっちも最期まで治りませんでした。

 もうわたしは長くありません。

 今日か明日。残された時間はそれぐらいだと思います。

 積極治療が打ち切られ、緩和ケアに進んだ時点で、死ぬことは覚悟しました。

 怖くて怖くて、夜はずっとベッドで震えてました。

 だからこそ、悦史くんの前では常に笑顔でいようと努めたのです。

 あの人は、きっとわたしに同情する。苦しんで、一緒に涙を流す。

 わたしがいなくなった後、たくさん生きていかなければならないのに、わたしの死に巻き込んではいけない。

 そう考えました。

 一生懸命、笑顔を作りながら、もう一つ、思ったことがあります。

 ああ、わたしは約束を守れていない。この笑顔は嘘じゃないか、と。

 安らかに慰められる誘惑に、何度も負けそうになりました。

 忘れられたくない。

 たった一つの大事な居場所の悦史くんを、たとえ死んでもほかの誰かに渡したくない。

 でも結局、わたしはその誘惑に打ち勝てました。

 屁理屈をこねてみたんです。

 「死ぬまで嘘はつかない」

 高校時代、悦史くんに言いました。

 いまのわたしはすでに死んだも同然です。

 「死ぬまで」嘘をつかないのならば、「死んだ後」は嘘をついてもいいじゃないか。

 そう考えることにしたのです。

 最期の最期で、持論を曲げるのは悔しいけれど、「揺るぎのない正しさ」のために、必要な嘘はきっとあると思えます。

 今夜、わたしは一つ大きな嘘をつく。

 一ミリも本音じゃないけれど、あの人には絶対に必要だから。

 わたしは上手に笑えるだろうか。息絶えるまで、涙をこらえていられるかな。

 悦史くんが嘘に気づかないことを祈りながら、約束を守れなかったわたしの懺悔を終わりにします。

 さようなら、悦史くん。

 あなたのことが大好きでした。


「先輩、空いてました! 予約しちゃいましたけど、よかったですよね?」

 恵美が息をはずませ駆けてくる。

「もちろん。ありがとう」

「お待たせしてすいません。――うん? なんですか、それ?」

「小劇場のフライヤー。待っている間に渡された」

「封筒型のチラシですか。お洒落ですね!」

「そうだね」

「どんなお芝居なんですか?」

「さあ。読んでないからわからない」

 ふうん、と言った恵美の前で、封筒ごと便箋を四つに割いた。

 焼けるような胸の痛みに必死で耐える。

 紙片を両手でくるっと丸め、近くのごみ箱に投げ捨てた。

「本当に興味がないんですね」

「申し訳ないから、受け取らなければよかったよ」

「その通りです」


 なあ、茜。君は見事に嘘をついた。

 だからぼくは、嘘だと気づかず騙され続けることにする。


「お腹ペコペコです。前田先輩、行きましょう」

 恵美が右手を差し出した。


 ゆっくりと、ぼくはその手を握り締める。

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