5 「葵巻」の記憶が六条御息所として甦る?(改)

 目の前の女性は、憐れみを含んだ表情を私に向けている。

 言葉には出さないけれど、歪め、細められた目が雄弁に物語る。

 ──また、御方さまは混乱していらっしゃるようだ──と。

 私は、視線を下ろし自身の身に付けているものを確認する。

 目の前の女性同様、私自身も上等な絹を何枚も重ねて着ているようだ。


「……っ!?」


 そう、私も目の前の女性と同じような十二単を着ている。

 寝ている間に誰かに着替えさせられた?

 いや、そんなことあるはずがない。

 いくらなんでも途中で気付くはずだ。


 私は、几帳の布をバッと勢いよくはねのけると外に視線を向ける。

 最初から狂っていると思われているなら、変な動きをしても「またか」と思われる程度で済むだろう。

 そのまま几帳の外に出る。

 几帳の外に転がり出ても室内は薄暗い。廊下──確か、子縁こえんと呼ばれている縁側のような場所だ──と部屋の境には、すべて御簾みすが下ろされているためだ。

 そのまま、御簾に向けて這うように進む。

 十二単とはなんと重たいのだろう。


 目の前の女性は、腰に裳と呼ばれる布をさらに重ね着しているので、私よりさらに重いはずだ。

 私の方が、簡略な衣装を着ているからといって、私が目の前の女性よりも身分が低いわけではない。

 シナリオを書くにあたって時代考証もある程度調べたからわかる。

 簡略な装いをしている方が貴人なのである。つまりは、目の前の女性が侍女ということだろう。

 侍女──確かこの時代は“女房”と呼ぶはずだ。

 

 いや、待て。

 私はなぜこんなふうに冷静に分析し、この状況を素直に受け入れようとしているのか。

 どう考えても現実としてあり得ない状況ではないか。乙女ゲームのオープニングならまだしも。

 私は、目の前の御簾を勢いよく捲りあげる。


「御方さま! 端近でなんということを!」


 侍女が悲鳴をあげる。

 もし、ここが平安時代なら貴族女性としてはあり得ない、気が狂った行動に見えたに違いない。

 御簾を捲ってみたのは、外にカメラや撮影スタッフがいないか念のため確認したかったためだ。

 しかし、御簾の外に広がっているのは閑静な庭園だけだった。


 頭に浮かぶのは異世界への転移。

 それも、これではまるで……『源氏物語』の世界!


「御方さま……また加持祈祷かじきとうをお願いした方がよろしいのでは? 僧をお呼びいたしましょうか?」


 侍女が震えた声で問う。


 葵祭での騒動、源氏の北の方の夢――それってまるで、まるで……葵祭での車争い以来、生霊となって葵の上に取り憑いたときの六条御息所ではないの?!


「憑依……!? 私……六条御息所に、憑依している?」


「憑依……? いえ、それはあちらの方々が勝手に噂しているだけに過ぎません。まさか御方さまがそのようなことはなさらないとわたくしは信じております……」


 私の独り言を違う意味に取ったらしい女房が反論する。

 私は、“石山ゆかり”が六条御息所に憑依したのではないか、という意味の言葉を呟いたのだが。


「いえ、そうではなくて……葵の上への憑依ではなく……」

「……?」

 

 先ほどから私の目の前で心配そうに声を掛けてくれている女性がきょとんと首を傾げる。


 私は、六条御息所に憑依してしまったのだろうか?

 そして、六条御息所の魂はいったいどこに?

 ――もしや、今まさに葵の上のもとに行っていて、魂はお留守……体だけが残っている状態に私の魂が入ってしまったのだろうか?


 ――って、またも冷静に分析してしまったけれど、『源氏物語』の中に入り込んで、しかも登場人物の六条御息所に憑依するなんてことが現実に起こり得るのだろうか?

 

「私は……六条御息所?」

「ええ、確かに六条にお住いの御息所様ですから、そうお呼びになられる方が多うございますが……」

「――っ!? やはり、そうなの……そうなのね……」


 目の前の女房は、今さら何をわかりきったことをといった表情を浮かべている。


「……やはり、まだお加減がよろしくないのですね。祈祷は急ぎ頼むことにいたしましょう。わたくしはすぐに僧の手配をして参ります。具合がよろしくないのでしたら、横になられてください。どうか、楽になさってお待ちくださいませ」


 それだけ告げると、女房は御簾の外へと出て行った。

 女房の話を整理すると、今はおそらく葵祭の直後。巻で言うなら「葵巻」。六条御息所が生霊になり始めた頃なのだろう。


 この頃の六条御息所は体調が思わしくなく祈祷にも出かけたと書かれていた。

 精神的に混乱、混濁している日も多く、それゆえ、女房も私の態度を不審に思わなかったに違いない。

 おそらく、いつものように取り乱していると思ったのだろう。


 ただ、女房の態度が腑に落ちるからといって、こんなことが起きるなんてことはなかなか受け入れられないのだが――本当に、ここは『源氏物語』の「葵巻」なのか。


 私は、シナリオを書くために読み込んだ「葵巻」を思い出そうと記憶をめぐらせた。

 その瞬間だった――。私の憑依した六条御息所の脳と、私の魂の回路がつながったのか。葵祭の日の出来事がまるで自ら体験した記憶のように鮮やかに甦った。


   ◆


 源氏の大将殿のお父上である帝はご譲位されて、院となられた。

 帝の代替わりに伴い、賀茂の斎院さいいんも伊勢の斎宮さいぐうも代わられる。賀茂の斎院には、弘徽殿后こきでんのきさきのお産みになられた三の宮様が立たれることとなった。そして、伊勢の新しい斎宮に選ばれたのは、わたくしと亡き東宮の間に生まれた姫宮である。


 ここ最近は、源氏の君の訪れもすっかり間遠になっていた。

 「北の方様がご懐妊されたため以前のように気安く出歩くこともできないからだそうですよ」などと口さがない女房たちから噂は聞こえてくる。

 いや、しかしそれだけが理由ではないだろう。

 以前から、わたくしのことをあの方はさほど大事にしようなどとは思っていらっしゃらないのだ。

 その証拠に、父院さえもわたしくの軽い扱いについて注意なされたのだという。

「御息所は、亡くなられた東宮がことのほか大切な方と思われてご寵愛されていた方である。それを軽々しく普通の女性と同じように扱っているそうだね。それは気の毒なことであると思う。私は、新斎宮のことも自分の姫宮と同列に思っているのだよ。いずれにせよ、あの方をおろそかしない方がよかろう。気の向くままにこうした好色めいたことをするのは、世間から非難を受けることにもなりかねない」

 そんなふうに、わたくしとの仲が噂になって、院のお耳にまで届いているのかと思うと、いたたまれなくなる。世の中に、わたくしが粗略に扱われていることを知らぬ人はいないのだと思うと、なんとも決まりが悪いのだ。

 新斎宮はまだ13歳。幼くお一人で伊勢に向かわせるのが気がかりなことを口実に、一緒に伊勢に下向してしまおうかしらと思うのだった。


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