6 超訳『源氏物語』・六条御息所として思い出す「葵巻」の車争い

 そうこうしているうちに、賀茂の祭の日がやってきた。

 今年は新帝も弘徽殿后もことに可愛がっていらっしゃる姫宮が新斎院としてお立ちになるということで、御禊ごけいの日の供奉ぐぶの行列には、特に容貌の優れた方々ばかりが選ばれている。帝からの特別な仰せがあり、源氏の大将殿も行列に供奉されるそうだ。

 いつになく豪華な行列が見られると、祭の当日は人々が数多あまた押し寄せ、一条大路は大混雑をきわめていた。

 かくいうわたくしも目立たない網代車を選んで、女房たちと朝からこっそり一条大路へと出かけ、源氏の君の行列を待っていたのだ。

 このように朝早くから皆が物見車や桟敷で場所取りをして待っていたというのに、日もすっかり高くなってからのんびりとやって来た一行がいた。

 しかも、後から来たというのに、車副くるまぞいの供の者たちが「どけ、そこをどいて場所を空けてくれ」と他の車をどかせて、自分たちの主人の車を入れる場所を作っている。

 そんなことができるのは、権勢を誇る一部の貴族しかいない。今なら、左大臣家か右大臣家か……。わたくしは車の中で息をひそめていた。

 しかし、いよいよその者たちは、わたくしの乗る車の前にもやって来て、同じように「どけ、どけ」と声を上げながら車に触れると、無理やり力任せに押しのけようとしたのだ。


「おやめください! これは決してそのようにどかせてよい車ではないのです」


 わたくしの供の者たちは、がんと強い口調で車の前に立ちはだかった。

 しかし、酒に酔った若い者たちの乱暴は止まらない。人目を忍んでいるようでいて、網代車の御簾の下からわずかに見える袖口や裳裾の風情や色合いから、こちらの素性を察したのだろう。


「ふん。源氏の大将殿のご威光にすがろうというのだろうが、そちらはたかが通い所のひとつにすぎないであろう。その程度の車にそんなことを言わせはしない。こちらは、源氏の大将殿のご正室、左大臣家の車なのだからな」


 ああ、とわたくしは車の中でため息を吐いた。

 日頃、物思いに乱れる心の慰めにもなろうかとそっと人目を忍んで見物にやって来たというのに。よりによって、北の方様の車とかち合ったうえに、伴の者からも「その程度」などとひどく見下されてしまうだなんて。

 しかも、この騒ぎで周りの者たちにもこちらの素性は知られてしまったに違いない。なんという屈辱だろう。なんとみっともないこと。

 それが無念でならない。


 車がギシギシと激しく揺れる。

 伴の男たちが揺らしているのだ。

 どこからか、何か木材が折れる音も聞こえてきた。


「ひぃっ……!」


 私の横に控えている女房も、いよいよ恐怖に耐えきれなくなったようだ。扇で口元を隠したまま、小さな悲鳴を上げる。


「おい、いくらなんでもそこまでは……手荒なことはするな」


 左大臣家の年長の供人が年若い者を諫める声も聞こえてはくるが、酒に酔った者たちをそれぐらいでとどめることなどできるはずもない。

 源氏の君の従者たちも左大臣家の供に加わっているようだが、皆、見て見ぬふりをしている。こちらの味方についてくれる者など一人もいなかった。

 そして、あっという間に、わたくしの車は後方へと押しやられてしまったのだ。


「……しじが折れてしまったではないか。これでは、車を停めることもできない」

「ほかの車にもたせかけるしかないか……」


 これは、わたくしの供の者たちの声だ。

 なんとも体裁の悪いこと。車を牽くながえの部分を、ほかの車にもたせかけなければならないなんて。


「もういいわ、帰りましょう」

「いえ、申し訳ございません。車がぎっしりと立ちこめていて抜け出すすき間すらないのでございます。もうしばらくお待ちください」


 御簾の向こうから、供の者が申し訳なさそうに詫びる。

 こんな見世物になった状態で帰ることすら許されないないなんて──。生き地獄のよう。

 心の内は情けなさでいっぱいで、でもどうすることもできなくて途方に暮れていると、どこからか「行列がお見えだ」という声が聞こえてくる。

 そんな声を聞けば、これほどの目にあったというのに、「つれないあの方のお姿を一目でも見てみたい」などと心待ちにしてしまうのも、わたくしの心の弱さなのだろうか。

 そのうち行列がやって来て、中には晴れ晴れしい姿の光源氏と供の者たちもいる。

 しかし、わたくしがいるここはぎっしりと車が立ち並んださらに奥。

 こちらからも君のお姿をよく見ることができないし、当然、あの方はわたくしがここにいることに気付きもしないでつれなく通り過ぎて行く。

 ああ、なんと情けないこと。

 なまじ晴れがましいお姿をちらと見てしまっただけに、心は千々に乱れるばかりだった。


 一方、左大臣家の車は行列からもよく見える。それは当然のことだ。他の車をどけて、一番よい場所を占有してしまったのだから。

 左大臣家の車の前まで来ると、あの方は威儀を正し、真面目な顔をして通り過ぎる。源氏の君の供の者たちもうやうやしく敬意を表して通り過ぎて行くのだ。

 わたくしとは大違い。これが正室の威光。

 しょせん愛妾に過ぎないわたくしとは立場が違うのだ。

 一方、わたくしはほかの車に押しやられて、この場に来ていることにすら気付かれず遠くからこっそりと見つめるしかできない。みじめな気持ちでいっぱいだった。

 正妻に比べ吹けば飛ぶようなおのれのはかない立場を思い知らされたようで、自然と涙がこぼれてしまう。

 こんなふうに涙をこぼす姿を見たら人はさらにはしたないと揶揄することだろう。

 それでも──こんなつらい思いをしても、あの方の姿を一目見ることができてよかった。情けないことだけれど、目にもまばゆく一際目立つあの方の晴れがましいお姿を見に来なかったら、わたくしはきっと後悔しただろうとも思う。


 影を映しただけで流れ去ってしまう御手洗川みたらしがわのように、つれなくさっと一瞬で通り過ぎたあの方。お姿をこんな遠くからちらりと拝することしかできないなんて、わが身のつらさがいっそう感じられること。

 なんとみじめなわたくし。

 こんなみじめな思いをしているのはつれないあのお方のせい。

 

 ──それなのに、あのいつにもまして美しい君のお姿を見られなかったらさぞかし残念だったと思うなんて、なんと矛盾した心なのか。


   ◆


 いつの間にか、私の頬をとめどなく涙が伝っていた。

 まるで、自分の気持ちのように感じられた胸の痛み。

 これは、六条御息所が葵祭の日に感じた痛みだ。


 みじめだと涙を流しながら、それでも影からそっと姿を見ていたいだなんて……。

 屈辱と相反する執念のごとき想い──既に、このとき思いは乱れ、魂は二つの矛盾に引き裂かれていたのかもしれない。

 プライドをいたく傷つけられた六条御息所は、それ以来、魂が体からあくがれ出るようになった。――生霊になってしまったのだ。


 そのときだった、頭の中で誰かの声が響いたのは。


「あの……どなたかいらっしゃいますか? わたくしの体に、どなたか別の方の魂が入っていらっしゃるのでしょうか?」

「えっ、まさか……六条御息所さま――!? 六条御息所さまの魂がお体に戻られた!?」

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