「納涼祭スタンダードの優勝者が決定いたしました」
「納涼祭スタンダードの優勝者が決定いたしました」
フロアを囲んでいる参加者が息を飲んだ。
中央では主催者である名士のおじさんがスポットライトを浴びてぐるりと周囲を見渡している。
妙に色っぽいドレスを着た女性が進みでて主催者の隣に並ぶと、差しだされた用紙を一瞥して、宣言する。
「決勝進出七組のうち、優勝は――
歓声があがるが知らない名前だった。
すぐ近くにいた男女が満面の笑みで優雅なお辞儀を披露して、幸せそうな顔でフロア中央まで歩いていく。
「みなさま、どうぞ大きな拍手でお迎えください。内藤組には例年通り、クイックステップのオナーダンスを踊っていただきます」
ドラマーが軽快にリズムを刻み始める。
例年通りの〝シング・シング・シング〟。
会場が一瞬で熱気に包まれると、男性が観客のほうを振り返って手を叩き始める。
会場中から手拍子が生まれ、大きなフロアが一つになった。
優勝者がスピンをしながら移動して、フロアのふちをなぞるように一周していく。
その間ずっと、マリは息ができないでいた。
おそらく優勝者の名前が呼ばれた瞬間から止まっていた。
息を吐いてしまったら何かよくないものが溢れてしまいそうで、顎に皺がよるくらい唇を嚙みしめていた。
目を覆いそうになる手が持ちあがらないように必死にドレスの裾を掴んでいると、震える手の甲にこつんと何かが触れた。
冷たい何かだった。
見なくてもそれが何かははっきりとわかった。
つい先ほどまで握りあっていた夏目の手が、ほんの一センチほどの接点で触れている。
わざとだろうか?
体温と一緒に強がっている心が夏目のほうに吸い寄せられて、ぽろっと塩水が目から零れて頬を滑った。
シング・シング・シングの急かすようなリズムがマリの気持ちを悪いほうへと高ぶらせるので、目頭の熱を逃がすように薄く浅く息を吐く。
一度でも声をだせば抑え込めなくなるのはわかっていた。
だから誰にも声をかけられたくなかった。
空気になりたくて俯いていると、溢れた塩水が銀色の甲を伝っていった。
「このあと名前呼ばれるけどその顔ででれんの?」
デリカシーのかけらもない声が降ってきた。
配慮とは無縁の夏目がこういうときにかける言葉を持っていないことは百も承知なので、それならばせめて、気づかないふりをしていて欲しかった。
「これは違うっ、海水が目に入っただけだもん」
うわずった声をあげた途端、かろうじて維持していた涙腺が決壊する。
大粒の涙がとめどなく溢れて視界がにじみ、フロアできらめくスポットライトとか、優勝者がはためかせるサテン地のドレスとか、そういったものが余計に眩しく見えてしまう。
「どこにそれだけの海水を溜め込んでおけるんだお前は」
「人魚だから溜められるの。頬の下とかにっ」
「おーおー人魚っていうのはとんでもない生き物だな」
夏目の腕が持ちあがった。
マリの手の甲に触れていないほうの手だ。
持ちあげないようにこらえているマリのかわりに、大きくて骨張った手がマリの顔をすっぽりと覆い隠してわしゃわしゃと擦った。
「わっ、なにをするっ」
「身体に悪そうだから絞りだしてやろうかと」
「からかってるでしょ、それ……」
視界が覆い隠されてほんのりと石膏の匂いがする薄闇に飲みこまれると、マリの中で何かが弾けた。
嗚咽が込みあげてきて息の仕方もでたらめだったけれど、夏目の匂いを吸い込みたくてもがいているうちに喘いでいた呼吸も落ち着いてくる。
負けたときの言葉はたくさん用意していた。
だって昨日までは予選敗退でお給料をもらって、その足でスマートフォンを修理しに行くつもりだったから。
〝残念だったね、本気だったんだけどなあ〟というのはもちろん上辺の言葉で、本心では本気でもなければ負けて当然だと思っていた。
マリは夏目と違って上辺の言葉が吐けるのだから、負けたとしても穏便に報酬がもらえるような言葉を告げてお別れするつもりだった。
けれど予定していた言葉に取ってかわって大粒の涙が溢れると、全ての台詞をすっ飛ばして、言うはずのなかった言葉が飛びだした。
「勝てると、思ってたっ……」
「うん」
絶対に馬鹿にされると思っていたのに、夏目が吐いたのは肯定の言葉だった。
それは花火をした夜と同じ、平板だけれどもちゃんと聞いてくれる声で。
つい口が滑っていく。
「下手くそなのは百も承知で、夏目さんとは月とスッポンで、足を引っ張ってるのもわかってたのに。たけど一緒に〝流れ星〟を見たとき、なんでかなあっ、勝てると、思っちゃって」
「うん」
あんなに嫌いだった一分十五秒がすでに恋しくなっている。
せっかく夏目がちゃんと踊ってくれたのに。
夏目は横暴で、自分本位で、配慮も忖度もない暴君で、そういうところは大嫌いだけれど。
でも……踊る姿は誰よりも綺麗で、くらくらするんだってもっと見せびらかしたかった。
あの灰色の瞳が見ている、一見すれば眉をひそめそうな、それでいて本当は美しい〝世界〟を理解して、投影するための射影機になりたかった。
なんで逃げだしてしまったのだろうという後悔と、この期に及んでもまだちゃんと踊りきっていたら勝てたのではという思いが消えない。
そうか、わたし一番になりたかったんだ。
そして……夏目さんを一番にしたかったんだ。
そんな単純なことに今さら気づいた。
悔しいけれど認めてやる。
初めて夏目さんと踊った日からその踊りが好きで、だからそれを穢す自分が嫌いで。
要するにこの涙は全部自分のせいなのだと結論づいただけで、心臓にちくりと痛みを覚えたときだった。
「じゃあもう一回だな」
涙が急に引っ込んで顔をあげた。
しかし夏目の手が邪魔をして指しか見えない。
どこをどう要約してその結論にたどり着いたのかは謎だったが、その一言は疼痛緩和に絶大な効果を示す一撃で。
あまりの効果に無配慮の王たる夏目が言ったとは到底思えず、聞き間違いかと思った。
聞き間違いでもいいと思った。
今なら意地を張らずに素直になれそうだったので、気分屋たちの熱が冷めないうちに言い切った。
「絶対、もう一回」
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