セイシュンの色が青色じゃなきゃいけないって、誰が決めたんだろう。
『決勝四種目め、クイックステップ』
結局間に合ったのは決勝最後のクイックステップだけだったけれど。
〝もう一度踊れる〟――その事実だけで胸がいっぱいになっていた。
夏目が菜々子から奪い取ったミュールをつま先に引っかけとんとんとフロアを叩く。
ダンス用のシューズはヒールが折れてしまったので苦肉の策だったが、ダンサーである菜々子は普段の靴にもこだわりがあるらしく、競技用ではなくても動きやすかった。
振り返ると裸足にひんむかれて鬼の形相を浮かべる菜々子と目があった。
露骨なため息を一つつき、しっしと手を振って〝さっさと行け〟と。
だんだんとわかってきたが、これは菜々子なりのコミュニケーションだ。
夏目にフロア中央までエスコートされると、いよいよ人魚姫の気分になってくる。
突如消えた義足のカップルが戻ってきたことで会場中がどよめいていたが今度はうまく無視できた。
夏目が長身をいいことに周囲を睨みおろし(といってもこれは夏目の平常運転だ)、ほとんどのカップルが逃げて行ってしまい、フロアのど真ん中を明け渡してくれた。
おかしくってくすくすと笑ってから、深呼吸をして向かい合う。
正直、不安がないと言ったら嘘になる。
今日踊った三曲のうち二曲は大失敗しているし、優勝してオナーダンスを踊る気満々だった夏目はクイックステップにだけ簡単な振りつけをつけていた。
しかし一度も合わせていないので夏目の歩幅もタイミングもわからないうえ、振りつけ最大の見せ場では義足で深く踏み込まなければならないというとどめつき――。
不安がピークに達する直前、既視感のある曲が聞こえてきた。
弾けるように顔をあげたがびっくりしすぎて言葉にならず、酸素に喘ぐ魚みたいに口をぱくつかせて夏目の顔を覗き込む。
色素の薄い灰色の瞳が、少しだけ和らいでマリを映した。
シャルウィダンスの曲だった。
背後を振り返れば槙島が自慢げに親指を立てている。
そういえば槙島がテトラポットを立ち去るとき、夏目から何やら指示をされていた。
もしかして、あれはこの曲をリクエストしろって話だった?
そんな、まさか――。
「踊りたかったんだろ、これ」
何、それ。
後頭部にかかった声に背筋がぴりぴりとした。
改めて夏目のほうへと向き直るが、普段通りのポーカーフェイスからは真相は読み取れなかった。
「べっつに」
口とは裏腹に曲を聴くと頬が緩みそうになってしまい、こんな簡単なことで機嫌が直ったと思われたくなくて拗ねた態度を取り繕う。
ごまかすように一歩、大きく踏みだした。
夏目が反応し、マリとまったく同じ歩幅で身を引いた。
びっくりして窺うようにもう一歩二歩と押しだしてみるが、夏目はぴたりと合わせてくる。
次は夏目の番。
義足では難しい
スロー・アウェイ・オーバー・スウェイ。
動き通しのダンスの中でこの一瞬だけは静止して、義足で深く踏み込んだ。
右足は後ろへ思いっきりスライド。
対する夏目は鏡のように、右足を後ろに引き右肩を下げると、その腕でマリの肩甲骨を抱きあげて――まるでマリを見せびらかすように大きく仰け反らせる。
高い位置から灰色の瞳が伏し目がちにこちらを見おろしていた。
膝が抜けそう、みぞおち吊りそう。
それでも、このテンポの速い曲の中でたっぷり一小節、静止する――誰もが見惚れて、写真を撮りたくなってしまうような瞬間を作る。
拍手が沸き起こったのが耳に届いた。
それくらい冷静に、しかし昂揚して踊れていた。
夏目による支配でも、自分を見失っているわけでもないダンス。
四つある上半身の
この四点から伝わってくる情報をやりとりして、お互いのタイミングを計っている。
一緒に、踊れている。
夏目の腕の中にいる間だけは、マリは誰よりも自由だった。
頭の中でぱちぱちと刺激が弾けてくらくらする。
まるで口いっぱいにホッピングシャワーを含んだときのような、痛くて幸福で爽快な、中毒性のある刺激。
ああ、やっぱり好きだなあ。
この一分十五秒が、たまらなく。
終わりたくない。
初めてそんなことを思っていた。
ラストダンスになってからこんなことを思うなんて自分でも信じられなかったけれど。
セイシュンの色が青色じゃなきゃいけないって、誰が決めたんだろう。
限りなく黒に近い灰色のセイシュンだって、塵芥に火がつけば粉塵爆発を起こすんだって、見せつけたくなる。
だからどうか、海の魔女。
天邪鬼な神様にかわって、この時間を終わらせないで。
対価はいくらでも払うから。
だからどうか、コールタールの海に沈めて、閉じ込めて。
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