5


 冷蔵庫の中に、ルニはいた。ルニはいてしまった。


 ルニは眠るように丸まりながら、確かに冷蔵庫の奥の方にいた。穴の中に隠れる仕草を見せつけるように、ルニはそこにいた。


 いや、ルニはあった。


 冷蔵庫を開けると人肌のような温もりの空気があった。


 開放されたというのに、ルニは何か反応を見せることはなかった。僕が呟いてしまったルニの名前に反応することもなく、そうして動きを見せることもなかった。


 冷蔵庫は温もりに包まれていた。もしくは暑さと言い換えてしまっていい温度感がそこにはあった。日に晒されていないはずなのに、それでも冷蔵庫の中はそれと同等と感じるほどに暑かった。


 僕はつんつんと探るように、ルニに触れた。


 猫の体温が残っている。猫の体温が残っている。


 でも、残っているだけだった。それはルニの体温ではなかった。


 ルニを冷蔵庫から引きずり出して、そうしてまたつんつんと触れてみる。


 ルニは何も答えない。何も返してこない。


 いつも触られると嫌だと示すような部分に触れてみても、ルニは何も答えては来ない。


 ──ルニー? ルニちゃーん?


 間延びしながら、葵がルニを呼ぶ声が聞こえてくる。


 焦燥感、焦燥感。


 ルニ、と何度か声をかけてみた。


 それでも反応はない。


 反応がなくて、僕はどうすればいいのかわからなかった。


 僕は、変に温かいルニの身体を抱えてどうするべきなのか迷う。猫の脈のとり方を考えて、そうしてまた触れてみるけれど、僕にはルニの鼓動を確かめることはできなかった。


 しっぽに触れてみた。それでも何も動くことはない。まるで人形のように、ルニは僕にされるがままである。


 ……いやだ、いやだ、いやだ。


 気のせいであってくれ、気のせいであってくれ。気のせいであってくれないとどうしようもない。どうしようもないから思考が働かない。いやだ。生きていてほしい。


 葵の声が近づいてくる。葵の声が近づいてくる。


 僕は、ルニを冷蔵庫に──。





「ねえ」


 葵はベランダから顔をのぞかせた。焦燥感を孕ませた表情をしている。僕はその顔を見て、どこか変に冷静になっている自分の内面が気持ち悪く感じた。


「どうした?」


「ルニがね、いないの。どこにも」


 何も知らないと思っている葵は情報を伝えてくる。


 でも僕は、何も聞かずとも彼女の現状を、ルニの現状を把握してしまっている。


 ルニは今、冷蔵庫の中にいる……、ある。


「こっちには来てない?」


「いや、こっちには来てない」


 平然を装いながら、いや、平然としながら僕は彼女の言葉に答えた。


「僕も一緒に探そうか」


「お願いしていい?」


「うん、もちろん」


 彼女は不安そうな中で笑顔を僕に返しながら、そうしてベランダから消えていく。


 僕はそれを見送って、これからやるべきことは何かを、頭の中で考えた。





 猫は、ルニは、もう死んでいる。生きていた身体からは力を感じない。生き物らしい反応もルニからは見られない。


 ルニは物になってしまった。だから、ルニがいた、という表現は異なっていて、ルニがある、という言葉が正しくなる。


 頭は冷静になっている。頭はどこまでも冷静で仕方がない。変に冷静になっている気持ちがどうしようもない。自分が狂っているのではないか、そう考えてしまうのは無理のない話だと思えてしまう。それでも、耳元に罪悪を催促するような鼓動の音はいつまでも止まらないのだけど。


 僕はルニが死んでいるのを知っている。ルニを間接的に殺してしまった、ということが頭の中に反芻する。


『エアコンないのに、大丈夫かな』


『……やっぱり、帰らない?』


『大丈夫、だよね』


『ルニがね、いないの。どこにも』


 リフレインする、葵のルニを心配する声。


 罪悪感をなぞっている暇はない。そんな暇はない。現状、僕はどうするべきなのだろう。そればかりが頭の中をなぞってくる。


 葵に正直に知らせることが一番だとは思う。先ほどの振舞をなかったことにして、今気づいてしまったという言い訳は成り立つ気がする。だから、そうしてしまうのがいい。


 それでも、ひたすらに過るのは、葵が悲しむ表情。そして、自分が彼女に行った、適当な宥めるだけの言葉の数々。


 僕は何て言った? 彼女の心配をよそに、自分の快楽だけを優先して、適当な言葉しか吐けなかった。詳細に記憶を思い出すことはできなかった。だって、それはあまりにも意志のない言葉だったから。


 彼女が、ルニの死を知ってしまえば、悲しむに決まっている。それを彼女に告げるのは、僕がそれを告げるのは、道理が通っていない。いや、道理とかの問題ではない。そもそも、この状況は僕の悪でしかない。それを彼女に告白することはできない。告白したくない。


 猫は死の間際、なにかを悟るように消えることがある、と何かの本で読んだような気がする。


 そうか、と思った。


 彼女に死を悟られないようにするなら、それを隠せばいいだけの話なのだ。


 僕は、そうして行動をした。


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