6-4 涙の水面

 綾乃と一緒に大通りまで連行される。近くを通りかかったタクシーに詰め込まれた。


 タオルをくれた組員が運転手に新宿までと告げると、ウィンカーを右に出した車が前へ動き始める。車窓から見えなくなるまで、組員は深々と頭を下げたままだった。


 新宿に到着する。


 無遠慮な喧噪が、僕の神経を逆撫でた。


 うるさい。空気を読んで欲しい。一刻も早く静かな場所へ退避したい。タクシーを乗り継いで南阿佐ヶ谷へと向かう。電車に乗る気力はなかった。


 南阿佐ヶ谷駅前で降ろしてもらって、二人で欝々と帰路を歩む。人通りが少なくて幸いした。楽しそうな人を見るだけで気が立って、狂ってしまいそうだった。


 四條家の門をくぐる。身体を引きずって玄関まで行く。綾乃が鍵を開ける。中に入って靴を脱いだ僕は、リビングのソファに座り込んだ。


 もう一歩も動きたくない。


 綾乃が静かに階段を上がっていく。すぐに降りてくると、浴室へと消えていった。


 シャワーの音を耳にして、だらりと力を抜く。


 帰還はした。


 代わりに、僕はまた一つ大切なものを失った。


 翻弄されてばかりだ。傷ついてばかりだ。


 得られた自由に対して、代償があまりにも不釣り合いに過ぎる。


 裕也さんが下らない雑談を引っさげて馬鹿笑いをしながら、下品な冗句を投げかけてくれる日々は、もう手に戻らない。


 こんな世界好きになれる訳がなかった。頑張れる訳がない。


 もう考えるのをやめてしまおうか。


 考えるなと頭に言い聞かせても、裕也さんとの思い出が脳裏に浮かび上がってくる。


 白痴と化して天井を見上げ、意識を風化させられたら、どれだけ楽だろう。空気と同化して、空に流されてしまいたいくらいだ。


 心が死んでいく。


 腐った魚と化してソファに身体を放り出している内に、三十分も経過してしまっていた。


 綾乃がまだ戻らない。


 耳を立てる。シャワーの音はまだ流れていた。


 長すぎやしないか。不審がった僕は、脱衣場へと足を運ぶことにした。


 リビングから出て、階段下の物置前を通り過ぎる。その左手にあるドアをそっと開いて、脱ぎっぱなしの服が視界に入らないように、頭の先だけを脱衣場の中に入れる。


 鼻をすする音がした。


 針が刺さったような痛みが胸に走る。


 ずっと泣いていたらしい。


「綾乃」


 スモークのかかった浴室ドアごしに、肌色の物体が動いた。タイル床にしゃがんだままのそれが、上半身だけ右往左往させている。


 浴槽に浸かったらしい水音が、廊下にまで響く。


「なによ変態」


 鼻声だった。


 僕は壁に背中を預ける形で廊下に座り込んで、脱衣場のドアの隙間から声をかける。


「リビングに戻ってこないから、不安になった」

「長風呂していただけよ」


 綾乃がシャワーの栓を閉める。湯船に浸かったのだろう。溢れた湯のタイルを叩く音が聞こえた。


「用事はそれだけ?」

「それだけなら、廊下に座り込んだりしないよ。綾乃からは見えないだろうけど」


 僕はつまるところ、『泣かないで』と綾乃を慰めたかったらしい。


 今の今までリビングで生きた屍のように脱力し、耐えがたい喪失感に絶望していた自分を話題にすることなく、優しく綾乃の涙を掬い上げたかったのである。


 綾乃は長風呂をしていた。彼女本人がそう告げたのだ。


 追及は無粋である。


 僕だけが苦しんでいるのではない。


 これからの話をしよう。


 せめて綾乃をもう泣かせないために、為すべきことを為そう。僕らが無力だったなんて、そんな分かりきっていることを、さめざめと泣きながら語ったところで、心痛が増すばかりだ。


 まだやらなくてはならないことがある。


 泣き喚き足りないのなら、全てが済んだあとで続きをしよう。


 怒りを恨みに、恨みを行動力に。


 耐えがたい胸の痛みを自覚しているからこそ、僕らは休むことなく、前へと進んでいけるのではないだろうか。


「勲矢さんから真相を聞き出そう。もうそれしかない。分かっているとは思うけれど」


 ちゃぷん、と浴室ドアの向こうで水が揺れる。


「シラガ先生と勲矢さんに交流があったのなら、僕の出生についても知るところがあるかもしれない」

「慰めているつもり?」

「かもね」

「私の行動目的は変わらない。あの組長が嘘をついている可能性だってある。私は私の目と耳で見聞きした内容以外は信じない。でもね」


 脱衣場にある洗面台の蛇口から水滴が落ちる。短く跳ねる音がした。


「流石にしんどいわ」


 細くなった声は震えていた。


「紗那を助けるために医者を目指して、たまにアイドルの仕事を手伝ったりしてさ。自分には力があるんだって自惚れていたのかもしれない。今回みたいな事件に巻き込まれても、解決してやれるんだって誤解してた。そんなことはなかったのよ。全然だった。力のない私は、本当に力を持っている人たちに、都合よく使われていただけだった。紗那の代役を務めたのだって、私の力じゃなくて、都合よく紗那の代わりがいたってだけだったんだって、とうとう気づいちゃった」

「綾乃は僕を救ってくれたじゃないか」

「さてね。あれは裕也さんの頑張りがあってこそ、みたいなものでしょう」


 やさぐれている。


「うちの父さんね、昔から紗那に付きっ切りだったのよ。言ったでしょ、精神遅滞だったって。そういうのっぴきならない事情で、私は結構放置されてたんだ。放任主義的教育ともいうのかな。でも納得していた部分もあった。むしろ私が頑張って支えないとって気合いを入れていたし、父さんに構ってもらえないのなら、私が紗那を支えて、その結果として褒めてもらおうって、子供ながらに気を遣ってた。親の顔色を窺ってたのよ私。私は紗那のスペアでしかなかった。アイドル業の代理をしろって勧めてきたのも、父さんだった」

「それは」

「残酷な父親でしょう」


 綾乃が憫笑する。


「私自身にもっと力があって、魅力的だったら違ったのかなっていう見方も否定は出来ない。その点で言えば、私には力がなかった。そんな私が父さんと向き合って、一体どんな罵声を浴びせてやればいいのかなって考えたら、頭ん中がこんがらがっちゃって」

「一回くらい殴っておけば良いんじゃないのか」

「理人にしては攻撃的な提案ね。それ採用しちゃおうかしら」

「綾乃に似てきたのかもしれない」

「おめでとう。引きこもり陰キャの脱皮に協力できて、大変光栄だわ」


 陰キャの意味は分からないが、恐らく褒められていない。


「そうね、一回くらいぶん殴ってやりたいっていうのは賛成よ。真相はどうあれ、あの横っ面を張り倒してやるんだから」


 声に力がみなぎっている。


「元気ちょっとは出てきたかな」

「おかげ様でね。心が重たくなりすぎて、シャワーから出られなくなるところだった」

「それは一大事だ。てっきり、泣いていたんじゃないかって心配したよ」

「私が? 泣いてるわけがないじゃない。女の武器っていうのは、最後まで出し惜しみするものなのよ」


 決して長い期間を過ごしてきた仲ではないが、濃密なひと時を共にした間柄として、いくつか綾乃について知れたことがある。


 綾乃は、強がりだ。


 実は泣き虫だ。


 優しいから、弱っている人の前でくたびれた姿を見せない人だ。


 人に晒す涙は最後まで取っておく、そういう気高い女性だ。


「でも、あんがと」


 僕が尊敬している人のひとりだ。


「そろそろ上がるわ。そっち使ってもいいかしら」

「先にリビング戻ってるよ」


 水くらい用意しておいてあげよう。


 腰を上げて脱衣所に背を向ける。


「理人、あのさ」

「ん?」

「紗那のこと、まだ好き?」


 写真の入った胸ポケットが重たくなった気がした。


「かつて体験のしたことがない強烈な感情が生まれた、という過去は事実かもね」

「理屈くさ。尋ね方間違えたわ」


 綾乃が湯船から上がったようだ。


 水が浴室にあふれる音が流れてくる。


「私の顔を見て恋愛感情を抱くみたいな、そういう気持ちの混線とかなかったのかなって、ふと思っただけ」


 脱衣場の手前から、電気のついていない廊下の奥を眺める。


 階段下にある物置は閉め切られている。あそこを仮宿にする日は二度と来ないはずだが、懐かしくもある。綾乃の介護がなければ今頃どうなっていただろう。


 苦悶した挙句に狂い死んでいた、そんな未来もあったのかもしれない。


 心の底から感謝はしている。


「たぶん、ないね」

「あっそ」

「綾乃は綾乃だ。紗那ちゃんとは違う。もっと見たいとか触れたいとか、そういう一時的な欲求をぶつけるような相手じゃなくて、一緒に居たいと想えるくらいには、尊敬しているし信頼している相手だ」


 誰かに心象を伝えた経験はないのだが、伝わっただろうか。


「それはどうも」


 味気のない返事だった。


 今なら分かる。


 これは、綾乃なりの照れ隠しなのである。 


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