6-3 笑っていたいよなあ、ずっと

 新宿駅で東京メトロ丸の内線に乗り換える。迷路のような駅構内を歩き回って、ようやく丸の内線のホームへたどり着く。三つ隣駅の四谷三丁目で下車して地上へ出ると、日は沈んでいた。


 出口は大きな交差点に面している。そこから離れるように、大通り沿いに歩いていく。


 僕の知る四ツ谷の街並みは害虫だらけで、一望するに値しない景色だった。


 蟲のいない夜の四ツ谷は新鮮だ。遠くの街へと初めて訪問したような目新しさがある。


 俯いて顔に影を作りながら人通りにまぎれる。客入りの良い小さな中華料理店の角を左に曲がると、景色が一変して住宅街に入った。


 四ツ谷の駅近くは土地代が馬鹿にならない。


 これから会いに行く人物が、かつて僕にそう教えてくれた。


 一車線の道路を歩く。武家屋敷然とした桐妻屋根が遠くに現れた。暗がりのせいで、大きな影のようにも見える。あれが四代目近藤組組長、稲葉義之の自宅である。


 二本の柱に、桐妻屋根がかかった棟門の前に立つ。錫で装飾された両開きの戸は閉じられている。


 脇にあったこげ茶色のインターホンを押すと、ビープ音の後に、小平さんからの応答があった。


「どうして来ちゃったんですか先生」


 綾乃と顔を見合わせる。


「オヤジから通せと下知がありました。そこで待っていて下さい」


 数十秒もすると、見知らぬ丸刈りの若手が戸を開けにきた。会釈もなく、とっとと歩けと顎で示される。


 綾乃が文句を言いたげな顔をしている。唇をきつく締めると、黙って僕の後ろに付いてきた。


 玄関の引き戸をスライドする。


 ガードマン代わりに、数人の強面が中でたむろしていた。


 一人が式台に座って、土間に足を投げ出している。


 瞼には銀のピアスが二つ。見覚えのある顔だ。数か月前に診察をした覚えがある。


 廊下を塞ぐように立った黒シャツの男が、柱を二回ノックして僕らの注意を引く。


「ついて来い。オヤジが呼んでいる」


 靴を脱いで連行された廊下の奥には、墨汁で虎と龍が描かれた襖があった。


 この先にあるのは、以前に組長さんと会話をした座敷間だ。


 空気がピリついているのを感じる。


 異常事態でもなければ、玄関先にガードマンなんて配置されないはず。小平さんがインターホンに出た点も気がかりだ。近習としてあてがわれた訳でもあるまい。小間使い的に扱われているのだろうか。


 先行していた組員が襖を四回ノックする。大声で名前を告げ、僕らを連行してきた旨を報告する。その場に膝をつくと、音を立てないよう静かに襖を開けた。


 座敷間の最奥に立っていた組長さんの顔が、いやらしく歪んだのが目に入った。


「よりによって、このタイミングで顔を出すたぁ……神様の悪戯ってのは起こりうるもんだなあと、感心しちまったところだぜ」


 白黒の鯨幕が壁中に張られている。透明のビニールシートがその上を覆っていた。


 案内をしてくれた組員が、乱暴に僕の背中を押す。


 くしゃりと、何かが潰れる音がした。


 怖気にせっつかれて足元を見やる。ビニールシートがよれている。


「丁度いい。聞いてみてぇんだ。こんな血生臭ぇ一大イベントは滅多に催されるもんじゃねえ。興味本位だな。てめぇ理人、これを目の当たりにして、どう思ったんだ」


 両側の壁際には、黒ネクタイをしたスーツ姿の幹部たちが並んでいる。


 喪服だ。


 五人ずつ左右に分かれて、道を成すように正座をしている。杯を交わしたり辞令を下したりする際にも、立場や業績に順じた席次で整列させられるが、今日は幹部しか並んでいない。


 部屋の中央には、腕一本分の長さの刃先が付いたチェーンソーが鎮座していた。


 回転のこぎり。


「説明はいらねぇよな。てめぇが描いた絵図は欠陥だらけだったってオチだ。失敗すれば誰かしらがケツを拭かにゃなんねえ。そのお鉢が回ってきちまった誰かさんってのは、もちろんコイツしかいねえだろ。なあ裕也。おめぇ、今日限りで浮世とお別れらしいぜ?」


 白装束を着た裕也さんが、組長とチェーンソーの間で膝をついている。荒縄で手首と足首を後ろで縛られているらしい。俯いていた顔を持ち上げる。


 暴行された直後なのだろう。傷だらけになった顔中からは、固まり切っていない赤い血が流れていた。


「なんで来ちまったんだよ理人。おい四條のクソガキ! これはどういう」

「喋んじゃねえ裕也ァ! てめぇどういう道理でベラ回してやがる!」


 組長さんが裕也さんの脇腹を蹴り上げる。潰された蛙みたいな声がこぼたれた。


 身体ごと弾かれた裕也さんが横転する。畳に衝突したその頭を、組長さんが白い足袋を履いた足で踏みつける。


「ただでさえ暴排のせいでシノギが減ってるのによぉ、うちのドル箱をみすみす逃がした咎人のくせして、俺の許可なく文言垂れるたぁどういう了見なんだてめぇ」


 口の中を切ったらしい裕也さんの唇から、血が流れている。


「俺にガン付けるだけの気合いはあるのか、ゴミ蟲みてぇな目してやがってよ」


 敵愾心をむき出しにした裕也さんが、頭上にいる組長さんを睥睨する。縛られた手足をよじって脱出を試みているが、荒縄が擦れるばかりで身動きが取れないらしい。


 足首の皮膚からも血が滲んでいる。頑丈に拘束されているのか、足先が青黒く変色していた。


「組長さん待って下さい。裕也さんは悪くないんです。僕は僕の意志で外に出たんです。裕也さんが責められる所以はないでしょう。前にお話しをした通りです。後生ですから、その足をどけてあげて下さい。足蹴にされるべきは、僕のはずです」


 言下に綾乃が僕の肩をつかんでくる。


 掣肘のつもりだったのだろうが、飛び出してしまった言葉は飲み込めない。


 己を犠牲にする他に、裕也さんを助け出す方便が思い浮かばなかった。


「でも俺も前にこう伝えたよな。おめぇの管理は裕也の仕事だ。四代目近藤組の代紋を背負った、重要任務だったんだぜ。それをこいつは怠った。代紋のために忠を尽くすのは、俺ら極道にとって金科玉条の不文律だよなあ。重大な裏切り行為だと捉えられても仕方がねえ。お守すら出来ねえガードマンなんざ、唐変木にすら劣る。無能な木偶だ」

「裕也さんは、ずっと僕を守ってくれていました。いつだって傍にいて親身になってくれたんです。務めを果たしていたじゃないですか! 外に出ようと決めたのは僕自身なんだから、見せしめ目的で罰を受ける人間が必要なら、それは僕の役目でしょう!?」

「てめぇ、勘違いをしてないか?」


 背筋が凍った。


 目玉のない左側の眼窩が、僕を覗いている。


 深く窪んだ暗闇の奥から、得体の知れない生物が僕を観察しているような怖気があった。


「どういう理屈があってこの俺が、てめぇのお願いとやらを受け入れねえといけねぇんだ。俺は四代目近藤組の首長で、俺の仕事は、代紋の麾下に入った荒くれどもを管理することだ。褒めもすれば叱りもする。花を持って歓迎することもあれば、羅刹天の如く一刀を振り上げ、粛清も行うこともある。だがその一切は、代紋への契りと義理が沙汰を下し、また一切は、得難い安逸と安寧のために下される。貴様の出る幕じゃねえ。おい小平、そいつのスイッチを入れろ」


 部屋の片隅で萎縮していた小平さんが、背中に手を突っ込まれたような悲鳴をあげた。


「ちんたらすんじゃねえ!」

「は、はいィ!」


 背筋をピンと伸ばした小平さんが中央に駆け寄って、ハンドル部分が赤いチェーンソーの前で中腰になる。左手と右足でチェーンソーを抑えてグリップを引き抜くと、エンジンの始動音が広間に弾けた。


 眼球を血走らせた裕也さんが、身体をよじらせながら大きな唸りをあげる。


 右脇にいた若い幹部二人が立ち上がる。罵声を浴びせながら、裕也さんの巨体を押さえつけた。


「おめぇがやれよ小平。元を辿れば、おめぇの告げ口から始まったんだ。その忠心を俺ぁ買うぜ。他の幹部どもが居るこの場で、そいつを表明してくれや」

「あ、あう」

「そうか、やってくれるか。そうだよな。てめぇは俺の部下で、選りすぐりの精鋭だ。俺の部下に玉なしはいらねえ。安心しろよ。俺が直々にこいつの頭を抑えておいてやる。あと何人か、こいつの首から下を抑えてやれ。大熊みてえな馬鹿力で暴れようとするから、小平が芋引いてやがる」


 左側に居た幹部のうち二人が加勢して、裕也さんの肩と腰に体重をかける。苦悶の表情を浮かべた裕也さんの身体は、完全に抑制されてしまった。


「理人よぉ、俺ぁおめぇに感謝してたんだぜ。シラガの野郎の跡目を継いで、近藤組にも貢献してくれた。大きな収入源だった。ニュースにおめぇの名前と似顔絵さえ載らなきゃ、頭一つ下げてくれるだけで、お咎め無しで職場に復帰させるつもりだったんだ。それはもう叶わねえ。近藤組は裕也の頭一つの犠牲をもって、おめぇとの縁を切る。俺らとおめぇとの間にはなんの縁もなくて、おめぇが勝手にあのマンションで診療を行っていた。そういう筋書きだ。これまでの功績に免じて殺しはしねえ。こう見えて、手塩をかけて育てて子供くらいには、お前を大切にしていたからな。そのくらいの情けはくれてやる」

「腐れヤクザの話に、誰が耳を傾けるっていうのよ」

「しゃしゃるなよ四條のクソガキ。そもそも論だが、てめぇはこの場に居るべき存在じゃねえだろ。どういう義があって騒動にクチバシ突っ込んでんだ」


 下唇を噛んだ綾乃が引き下がる。


「そういや、てめぇの父親と姉さんにはよく働いてもらったなぁ。いいぜ。数往復くらいなら問答してやってやらんでもない」

「姉さんですって? あの子は近藤組の仕事に数回しか関わっていなかったはずでしょう」


 けけ、と組長さんが下品な笑みを浮かべる。


「ンな訳ねぇだろ。四條紗那が闇営業でズブズブになって、スキャンダル一歩手前で諸々もみ消してやったのが、この俺だぞ。その見返りに、あの女には身体を張ってもらったんだ。芸能の女体は金にも交渉材料にもなる。そうだ思い出した。頭が回らない女なだけあって扱いやすかったっけなあ。エグい依頼を押し付けても、張子の虎みたいに頷いてよ。へらへらして股を開いてやがった。魂を分け合った双子だっていうのに、そんなことも教えてもらってねえのかよ。逆に気を遣われたのかもしれんが、実に不憫だな」

「あんた、よくも」

「キレんなって。ガキってのは威勢だけ良くて厭になる。そんなゴミみてぇな情報収集能力しかねえから、俺が面白がって、お前を理人の所に流してやったことにすら勘づかねえ。まさか結託するとは考えもしなかったが、粋な計らいだったろう。さぞかし滾ったんじゃねえのか? ええ? なんせ、大事な姉貴の死体を弄繰り回した相手だからなあ」


 身体を戦慄かせた綾乃が前に出る。


 転瞬、綾乃の身体が廊下側に吹っ飛ばされてしまう。案内役の男に襟首を掴まれて、後ろに放り出されたらしい。


 足首を強打したのか、綾乃が立ち上がらない。手と膝を床につきながら反駁する。


「許さない、私はお前を絶対に許さない!」

「その手の悪感情は嫌いじゃないぞ俺ぁ。ところでおめぇさん、勲矢の行方を知らねえか」

「知っていたとしても教えるわけないでしょう! この畜生が! ぶっ殺してやる!」

「はははははっ! てめぇは、自分の大事な姉貴を殺した父親をかばうってのか! そりゃ道化の所業だろ!」

「なん──」

「勲矢が使っていたブローカーの一人がよ、不自然な薬品購入があったって言うんだ。聞けばその薬品購入があった翌々日に、理人のところに死体を担ぎこんでやがるときた。薬の委細まではまだ把握してねえが、てめぇの姉貴を勲矢が毒殺した末にエンバーミングを行ったんだろうなぁ」

「そんな適当にでっち上げた話、誰が信じるってのよ」

「別に俺の話を信じくれなんて頭を下げた覚えはねえな。だがよ、勲矢には、金の成る木だった四條紗那を殺した容疑がかかっている。『大事な娘の遺体を綺麗に仕上げたいから、モルグを使わせてくれ。犯人捜しはそのあとだ』なんて堂々とハッタリかまして来やがってよ。裏切りを見抜けなかったのは俺の手落ちだ。誰の死体を捌く予定だったのか、事前に聞いておくべきだったな。奴にはきっちり落とし前つけてもらわねぇと、こっちの怒りの虫も収まらねえのよ。それにあいつは俺の小指エンコを……それはいいか。小平の腕が疲れちまう」


 中腰のままチェーンソーを低く構えた小平さんは、顔を強張らせて裕也さんを見下ろしていた。


 顔からはすっかり血の気が引いている。気が動転しているのか、手元のスロットルとブレーキレバーを握ったり離したりするたびに、刃先が回転と停止を繰り返していた。


「待たせついでになって悪いんだが小平、こいつに辞世の句くらい詠ませてやりたくてな。裕也てめぇ、最後に言っておきたいことはあるか? 辞世の句って呼ぶくらいだ、風流な感じで詠めよ」


 体力の限界でもあったのだろう。裕也さんが大人しくなっている。まなじりから涙をこぼれ落とし、ぐったりと畳の上で横たわっていた。


 組長さんに踵で揺さぶられた裕也さんが、神妙に瞳を閉じる。ぎりりと、奥歯の擦れる音が聞こえた。


 こんなの認められるものか。


 でも、死刑執行を中止させるだけの文言が、僕には思い浮かばない。


 裕也さんの腫れた瞼が、重たく持ち上がる。


「オヤジ、組員の皆様方、今生大変お世話になりました。至らぬ身によるこの仕儀、自分の首をもって深くお詫び申し上げます。四代目近藤組組長であらせられる稲葉義武殿に、最期までお世話して頂いたと、冥府で待つ父に・・伝えます」

「おう、シラガの野郎に・・・・・・・よく伝えておけ。俺もすぐに行くから、酒でも用意して待ってろってな」




 訳が分からなかった。


 なんで。


 どうしてここで、シラガ先生の名前が出てくるんだよ。




「小平、やれ」


 チェーンソーの音がひときわ大きくなる。


 ふらついた小平さんが、裕也さんのもとへと前進を開始する。


 駄目だ。そんなのは絶対に駄目だ。


 中段に腰を落として爪先に力を入れる。僕は全力で前方へ猪突猛進した。


 小平さんに体当たりをしてやる。突き飛ばしてやる。


 三歩すら前へ進めなかった。


 身体が宙に浮く。背後にいた組員に首根っこを捕まれていた。強烈な痛みが首筋にほとばしる。負けじと腕を後ろに伸ばす。組員の手首をつかむ。遮二無二暴れてもほどけない。鉄鎖で拘束されているみたいだった。暴れるほどに首が絞めつけられていく。


「離せ、離せよ! こんなの間違ってますって! 殺すなら僕を殺して下さいよ!」


 掴まれている首を支えにして、両足で組員を蹴り飛ばす。効果がない。すかさず床に叩きつけられる。組み伏せられた。口の中で血の味が広がっていく。後頚部を手で把持されたまま、背中にのし掛かかられてしまう。


「ふざけんな! 僕はこんなの許さないし認めない! こんなことあってたまるか!」

「それはてめぇの物差しで測って出した感想だろ。黙って見てろ。これが俺らの世界だ」


 正面を見据える。


 顔を強張らせた裕也さんと視線が交差した。


「理人ぉッ!」


 人殺しの機械が、すぐ近くでがなりを上げている。


「シラガ先生からお前を守れって頼まれてたんだ! お前は俺たちの光だからってよ! この首一つで約束が守れんなら、シラガ先生にも顔向けできらあ!」


 上ずった悲鳴をあげている小平さんが、高速回転するチェーンソーを裕也さんの首筋に近づけていく。


 止まれ。止まってくれ。


「約束ついでに、これだけは伝えておかなきゃなんねえ。言ったよな。タクシーに乗せる前に、話しておきたいことがあるってよ」


 遺言をのこすような真似はやめてくれ。悪い予感を現実にしないでくれ。


 血は繋がっていなくても、僕にとっては唯一の家族だったんだ。それを奪わないでくれ。


 にっ、と歯を出した裕也さんが叫ぶ。


「お前は俺の弟だ! 弟分じゃなくて、ほんまもんの兄弟なんだ!」


 脳死しかけた意識に発破をかけるべく、腹から怒声をひねり出す。


「冗談言ってる場合じゃないですって! 全然笑えないですって!」

「血の繋がった弟を救えるなら、兄貴冥利に尽きるってもんだろ! そうだろ!?」

「訳わかんないですってば! 組長さん、裕也さんを殺さないで下さい! やめて下さいお願いします! もうやめて下さいよ、やめてよ!」

「やかましいぞ二人とも! 小平さっさと殺れ! 一緒にぶっ殺されてぇのか!」


 過呼吸気味に息を荒くした小平さんが、情けない声を漏らして泣いている。首筋を伝った涙がワイシャツの襟を濡らす。悲痛な面影とは裏腹に、前後に小さく揺れながら摺り足で肉薄していく。チェーンソーを大きく振りかぶると、エンジンを噴かせた刃先を猛烈に回転させた。


 裕也さんは最後の最後まで笑っていた。


 涙で濡れたその瞳の中には、光が宿っていた。


「お前は生きろ! 目を見開き続けるんだ! お前はまだ知らないだろうが、この世界は美しいんだ!」


 チェーンソーが振り下ろされる。


 小平さんの裂帛が耳をつんざいた。


「死ねええええええええええええええええええええええッ!」


 刃先が裕也さんの首筋に食い込んでいく。


 僕は、その一部始終を見ているしか出来なくて。




 ────。



 ────。




 ──何秒間、裕也さんの断末魔を聞き続けていたのだろう。


 ごとんと物が落ちる衝撃があった。


 裕也さんの頭が、完全に畳に落ちきった音だ。


 エンジンが止まる。小平さんがチェーンソーを手落とす。尻もちをついて、ねじれた悲鳴をあげながら後退していく。


 胸元まで真っ赤に染まった組長さんが、血まみれになった裕也さんの頭をサッカーボールのように足の底で転がした。


「これにて仕舞いだ! 裕也の馘首をもって、一件落着とする!」


 切り離された胴体から血液が流れている。ポンプを踏んだように、時折勢いよく頸動脈から噴き出していた。


 視界のピントが定まらない。脳が現実を拒否している。


 裕也さんの首がない。


 動いてくれない。


 血が止まらない。


 前方に腕を伸ばす。届かない。裕也さんが遠い。


 死んでしまった、消されてしまった。


 唯一の生きた家族だった裕也さんが、殺されてしまった。


 僕の頭の中で、何かが切れてしまった。


 喉が枯れるほど叫んだ。


 言葉が凶器になればよかった。


 周囲を取り巻く全てを批判した。


 許せなかった。悲しくて辛くて殺してやりたくて、救いたくて、代わりに死にたかった。


 押し潰された害虫のように、地面に這いつくばらさられて、悔恨の念を垂れ流すだけで精一杯な自分が情けなくて、悔しくて。


 無様だった。


 それが僕だった。


 叫び尽くした末にむせ込む。喀痰に血が混ざっていた。喉を傷つけたのだろう。鋭い疼痛が熱の入った頭に理性を引き込む。僕は額を力いっぱい畳に叩きつけた。


 僕はまだ、伝えたいことを伝えられていない。


 裕也さんの首は落ちているが、まだ完全に生体機能は失われていないはず。心肺機能が停止してから脳死へ向かうまでは約三分だ。首を離断してから、まだわずか三十秒。


 届くかもしれない。


 今ならまだ。


「裕也さん!」


 右拳を畳に叩きつける。


「僕、青空を見ました! 世界は壊れていなかった! 世界は美しかったんです! でも、でもっ、でも僕は! 本当は裕也さんと一緒に、あの青空を見たかったんだ!」


 裕也さんは最初から、実の弟として僕の面倒をみてくれていたのだろう。


 ああ困った。


 涙で視界が滲んでしまって、裕也さんの姿がちゃんと見えやしない。


 僕は兄不孝者の弟だ。恩義を返す前に死なれてしまった。


 びちゃびちゃと泥を踏むような音が、眼前にやってくる。


 血液で汚れた組長さんの足背が、視界の上の方に映った。


「そういやおめぇ、ヤク抜けてんのか」


 薬。


「餌やってねえもんな」


 綾乃の推測は、正鵠を射ていたらしい。


 僕を飼い殺しにするために、この人は僕の食事に薬を混ぜ続けていたのだ。


「十年以上盛られてたってのに、案外すぐに抜けるもんなんだなあ。丈夫な奴だ。大したもんだよ。その身体なら、不幸のどん底からでも這い上がれるかもなあ。……なんだよ四條の。この期に及んで睨みで俺を刺すたぁ、見上げた胆力だ。犯されてぇのかメスガキ」

「理人に麻薬を盛っていたのね。なんの薬だったのか教えなさい」

「阿呆が。部外者にそれを話す道理はねえよ。いいからもう帰れ。今日の俺は機嫌が悪い。ストレスで頭も痛ぇし、エンコを切った両手の古傷も疼いて仕方がねえ」

「十何年も飲ませ続けていたら、いずれかの臓器に、かなりの負担がかかっているに決まってる。薬剤名さえ分かれば、まだ発覚していない副作用の検討材料にも」

「だからよぉ! どうしてそれを! この俺が! 部外者たるてめぇらに! 教えてやれってんだよ! ぁア!?」


 顔半分を裕也さんの血液で染め上げ、鬼の形相と化した組長さんが息巻いている。


「ケジメとはいえ部下を失ったんだ。気分で動けんなら、てめぇらの首根っこつかんで、脊髄引き抜きてえくらいキレてんだこっちは。あんまりナメた口を利いてんじゃねえぞ」


 真っ赤な足袋が、瑞々しい音を立てて遠ざかる。


「おめぇらはもう部外者なんだよ。おい、早く二人を玄関までお連れしろ。客がお帰りだ」


 服の襟と背中をつかまれる。無理やり立たされて足がもつれる。構わず玄関の方へと連れ出された。


 立ち尽くしたままの小平さんが、虚ろな視線を僕らに寄越している。


 啞然と。


 幽鬼が視界に入ったかのように。


 柱の死角にいたせいで、視界に入っていなかったらしい綾乃の顔を一目し、こう呟いた。


「へへ、へへへへ、へ、も、もしかして、僕を迎えにきてくれたの?」


 釣り上がった口角から、血の混じったよだれが垂れている。


 壊れている。


 小平さんにその質問の意味を質すよりも早く、僕の身体が廊下の方へと引っ張られてしまう。


 襖が閉まるまで、小平さんは愉快そうに口唇を緩ませたままだった。


 ぎしぎしと、フローリングを軋ませながら歩く。


 綾乃が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。


 疲れ切った顔をしているのはお互い様なのだろう。


 実の父親が姉を殺した。それを知った綾乃の心労は計り知れない。


 見覚えのある組員から、玄関口で濡れタオルを渡される。


「これで顔を拭いて下せぇ。せんせ──お客人」


 瞼には銀のピアスが二つ。


 過去に診療したことのある組員だった。


 上顔面にタオルを当てがう。世界が暗闇で覆われる。ぬるま湯で濡れていた。


 やわらかくて、あたたかい。


 裕也さんは、もういない。


 理性が闇に落ちかける。


 タオルの中は、血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。



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