6-2 馬鹿は早死にする

 大学から帰宅した綾乃に、勲矢さんとコンビニで遭遇した旨を告げた。


「注意した矢先に、超重要人物と接触するなんて、まったく」


 ソファに腰をかけた綾乃が、頭痛を和らげるかのように、両手で前髪をかきあげる。


 軽率であった。反省はしている。


「父さんのその言い分だと、随分と昔から理人とは面識があったみたいだけれど」

「ないない。紗那ちゃんの身体に処置をしたときだって、先方はあたかも初対面のように振る舞って、再会の素振りすらなかったよ」

「久しぶりなんて挨拶をしたら、話がこじれるからでしょうね。近藤組と縁を切るつもりだったのなら、余分なイベントは発生させずに、穏便に場を去りたいものよ。その目論見も外れてしまったようだけれどね。私があの診療所に特攻して、理人を取っ捕まえたりしなければ、理人もここまで深く紗那を調べたりはしていなかったでしょうから」

「さっきも言ったけど、立派になったって褒めてくれた」

「どの立場から物を言っているのかしら、あの人」


 幼少期以来の再会だとしたら、親戚の叔父さんさながら『大きくなったね』と純然に僕の成長を誉めてくれた以外に、どう受け取れというのか。


 この数日間で、僕が一山を乗り越えたことを見抜かれた訳でもあるまい。


 そんな真似が可能だというのなら、それはもう慧眼どころではなくエスパーである。


 綾乃がソファに転がっていたテレビのリモコンを拾う。電源をつける。ニュース番組が丁度始まったところだった。


 僕は冷凍庫から、サランラップで包まれた白米を取り出した。方形に固められたそれをキッチン奥にある電子レンジに突っ込んで、温めボタンを押す。モーター音を背中にリビングへ戻ると、綾乃が素っ頓狂な声をあげた。


「理人ヤバい、ヤバいって! これ見てよ!」


 僕の知る四條綾乃は、理知的な女性である。


 そんな彼女が、『ヤバい』などという語彙力に欠けた単語を、興奮しながら連発しているあたり、相当に只事でない事件が発生しているのだろう。


 綾乃がいるソファへ近寄る。


 テレビには、見慣れた建物が流れていた。


「これ、診療所が入っているマンションよね?」


 右上のテロップには、『近藤組幹部・違法診療の疑いで家宅捜索』と表示されていた。


 男性のニュースキャスターが、淡々と原稿を読み上げる。


「『歌舞伎町に拠点を置く指定暴力団・四代目近藤組が、無免許の医師役を雇い入れ、何年にも渡って違法診療を行っているという通報があり、一部証拠を得た警察は、関係者の自宅を捜索しました。通報を行ったのは元関係者とされておりますが、詳細については公開されておりません』」


 瞬きも忘れてニュースに聞き入る。


「『また違法診療を行っていた自称医師、氏名は明らかになっておりませんが、通称リヒトと呼ばれる若い男が指名手配されており──』」


 画面いっぱいに、僕の似顔絵が映し出される。


 これっぽっちも似ていない。妙に鼻が高く、痩せこけて描写されている。


 関係者から特徴を聞いて回って作成した似顔絵のようだが、他に参考となる写真が見つからなかったのだろう。思い出せる限りの直近で写真撮影はしていない。僕自身があまり撮影を好んでいなかったのが、功を奏したらしい。


 見方を変えれば、これが皆から見た僕の印象だったというわけだ。


 なんて病的なのだろう。


 水とカフェインだけで、徹夜を連日で貫いたような酷い顔つきである。


 患者から心配されるのも当然だった。優しくもされるだろう。誰しも口にしないだけで、ジャンキーだと疑われていたのかもしれない。


 自己評価的には似ても似つかない。とはいえ、まったくの別人らしいという訳でもない。


 勘づけてしまう人には、勘づけてしまう。


「少なくとも今日は、外出は避けましょう。警察に捕まるのは言うまでもないけど、近藤組の連中に見つかるのだけは勘弁願いたいわ。紗那と父さんの行方を捜したくても、こんな状況で連中に捕まったら、命の保証すら危ういもの」


 映像が切り替わって、次のニュースが流れ始める。見知らぬ土地でひき逃げ事件があったらしい。心底どうでもいい。


「僕は犯罪者なのか」


 腰を浮かせた綾乃がソファの上で膝を立てて、身体を背もたれ側に向ける。


「理人は意図して罪を犯したわけではないのだから、情状酌量の余地は充分あるんじゃない? というか理人は被害者でしょうよ、被害者」

「僕や綾乃がそう認識していても、今のニュースを見た人たちは、僕が犯罪者なんだって受け取るはずだよ」

「今はね。誤解があるなら弁解をし続ければいい。時間はかかるでしょうけれど」


 時間はかけるべきではない。身の潔白を証明するなら、早いに越したことはないだろう。


 騒動が長引けば、誰かしらが責任を取らされる。現状において選ばれる可能性が高いのは、裕也さんに他ならない。


 騒動の皺寄せを食らった近藤組の事務所内は、今頃ごった返しているに違いない。組員たちが睡眠の時間も惜しんで、口々に僕への愚痴を吐きながら、証拠隠滅作業に徹しているはずである。


 ざまあみろなんて野次を飛ばせるほど、僕はまだ全てを割り切れていないらしい。


「元を辿れば、僕が上手く逃げ出していればこんな騒ぎにもならなかっただろうし、近藤組にも裕也さんにも面倒をかけなかったというのは、一つの見方なのかもしれない」


 愁眉を寄せた綾乃が、面倒臭そうにする。


「なんでそんなにクソ真面目なのよ。一瞬でも復讐を考えていた奴の言葉とは思えない」

「恨んでないと言ったら嘘だけれど、それでも育ててくれたのは事実だから」

「呪われてんじゃないのあんた」


 呪われてる、とは。


「せっかく逃げ出して、多少なりとも恨みもあるってのに、まだあんな奴らの味方面しているなんて、『呪われてる』以外にどう日本語で表現しろっていうのよ。それともなに、近藤組に恋でもしてんの?」

「からかわないでよ。経緯や形がどうあれ、僕を育ててくれた恩義があるのは間違いのないことなんだから」

「だからなによ」

「これが僕の身から出た錆だと言うなら、一端でも僕がその責任を負うべきだとも思うんだ。四ツ谷に住んでいる組長さんに直接会いに行けば、話を聞いてくれるかもしれない」


 綾乃が不満そうに口をへの字に曲げる。


「私、自殺をしに行くような奴を助けたのかしら。本気でそれほざいてんなら、怒るわよ」

「交渉のしようによっては、裕也さんの身柄も解放してくれるかもしれない」

「あのねえ」


 ソファの上に立った綾乃が、階段を下りる要領でフローリングの上に立つ。


 僕の眼前まで詰め寄ると、胸ぐらをつかんできた。


「理人を保護した私の苦労を無駄にすんな。いま近藤組に戻ったところで、難癖付けられた末に過剰な責任を取らされるに決まっているでしょうが。責任って意味わかる? あっちの界隈だと、人柱ってふりがなが振られるもんなのよ」

「重々承知はしているけれども、それでも公に報道された今なら、近藤組も下手には動けないはずだよ。過去に警察が組の運営に介入したこともあったけど、とにかく火を消すことに必死になるから、全てにおいて動きが慎重になるんだ」

「あんたがその火だっつってんの。消されるって自覚があるなら、変に駄々をこねるな」

「僕は消されない」

「自信満々に言うじゃない。根拠はあるんでしょうね」

「これ以上の騒ぎを起こすのは、近藤組にとっても不利益なんだ。今の近藤組には専門的に死体を処理できる人間がいない。僕の死体処理に失敗して表沙汰にでもなったら、もっと面倒な問題を抱えるはめになる。あの人たちは、そんなリスクを絶対に抱えない」

「もっともらしい内容で言い訳すんな。死ななくても、死にたくなるくらい痛めつけられるかもしれないじゃん」

「だからって、裕也さんをこのままにはしておけないだろう」


 僕の胸元から手を離した綾乃が、かったるそうにソファの背もたれに腰を落とす。


「あーはいはい、それが本音ね。大事な兄貴分のためだったら、火の中でも飛びこむってわけね。生きて帰れば勇者かもしれないけど、死んだら単なる超マヌケよそれ」

「今ならなんとかなるかも、っていう話をしているんだってば」

「私はなんともならないって言ってんの。あのさ。私に大金を振り込んでいる時点で、あの人はとっくに腹括ってんのよ。たった数回しか会ってない人間に大事な弟分を任せて、あまつさえ身代金を渡してきてんの。火が付くどころか、あの人の人生は既に炎上中なの」


 裕也さんと別れてから一週間以上が経過している。ケジメを付けさせるには充分すぎる時間だった。


「あの人がもう燃え尽きていたとして、燃えカスでも残っていればまだマシね」

「それでも行きたいんだ。裕也さんは、唯一の家族みたいなもんだから」

頭痛にうなされるかのように、綾乃が右手で額を押さえる。

「死にたいなら止めない。ただし私はあんたを軽蔑する。危険を被ってまであんたを救ったことも後悔をする。それでもくたばりたいっていうのなら、行けばいい」

「ごめん綾乃」

「即答かよ」


 脊髄反射である。


 躊躇なんてしていられなかった。


 機を見誤れば、大切な人の命を奪いかねない。


 報道で近藤組の面々が撹乱させられている今だからこそ、大胆に行動を起こしたかった。


 両手を組んで背中を丸めた綾乃が、祈るように拳を眉間にくっつける。


「救えない。どいつもこいつも」


 綾乃の訴えも頷けるが、兄貴分の命を天秤にはかけられない。


「もう何を言っても無駄ね。行けばいいじゃない。あの人を救うつもりなら、時間とも勝負をしなければならないのは明らかでしょ。私も父親と姉の身を追って、あの診療所に突撃した身だもの。『唯一の家族』なんて単語を出すくらい思い悩んでいるのなら、どんな言葉を紡いだところで理人の胸には届かないのでしょうね。だから、さっさと出てけ馬鹿」


 特攻するなら一人で実行に移さねばならない。僕自身の無事すら危ぶまれるのだから、綾乃を巻き込めるはずもなかった。大切な人が、これ以上傷つくのは見ていられない。


 僕にとっての綾乃はもう、ただの知り合いではない。


 今生の別れにならないことを願っている。綾乃とはまた会いたい。ヤクが身体から抜けきった直後から抱えていた感情だった。


 近藤組に追われていた僕を、浮浪者と化す寸前で救ってくれた命の恩人であり、薬物中毒者だった僕の面倒を看てくれた救い手でもある。


 信頼している。紗那ちゃんとはまた別の印象が、綾乃に対して芽生えていた。


 罪も過去も清算したら、また四條家を訪れよう。


 深々と頭を下げる。


 激励はなかった。


 別れに時間をかけると離れづらくなる。僕は返事を待たずに玄関へと向かった。


 土間に降りて革靴を履く。


 玄関のドアを開ける前にリビングの様子を窺う。


 最後に一言くらいかけていこう。


「助けてくれてありがとう。今まで知り合った女性の中で、綾乃と過ごした時間が、一番居心地が良かった。また生きて会えたら、この恩は必ず返すよ」


 静かにドアを開ける。僕は闇夜の中へと身体を滑り込ませた。


 玄関を背中にして、星一つない夜空を見上げる。


 日が落ちていても夏の夜は蒸し暑い。空気が首回りに絡みついてくるようだ。


 ワイシャツの胸元を指先でつまみ、空気を扇ぎながら公道に出る。


 歩くだけで汗が滲んだ。


 四條家が見えなくなるくらいの所で、僕は後ろを振り返った。


 誰もいなかった。綾乃が追いかけてくるはずがない。


 自惚れるなよ。彼女と僕は協力者ではあったが、僕と死線を潜り抜けるほどの利点は彼女にはない。人情で危険を冒そうとするほど、綾乃は愚かでもないだろう。


 行こう。


 電車に乗れば数十分で四ツ谷駅に到着するはずだ。一応コンビニでマスクを入手しておこう。似ていない顔絵だったとはいえ、僕の顔は全国ネットで晒されてしまっている。


 勲矢さんと遭遇したコンビニに向かって進む。店のすぐ手前にある交差点の信号が赤になっている。周囲に人はいない。通行人の足音に気を払いながら、青になるのを待つ。


 ポケットに手を突っ込む。


 昼飯を買ったあとに得た五千円のお釣りが、そこには。


「あれ」


 ない。


 なかった。


 昼間にコンビニから帰宅してから、レシートと一緒にどこかへ置いてきたらしい。


 横断歩道を渡りきる。立ち尽くす。信号が赤に変わる。僕は両手で頭を抱えた。


 僕は頭痛持ちではないし悩んだ経験もないが、痛々しい状況に陥っているのは確かである。痛恨の一撃。僕は背中をのけぞらせて、過去の行いを悔やんだ。


 南阿佐ヶ谷から四ツ谷まで歩いていける訳がない。タクシーですら三十分くらいかかったのだから、土地勘があるとかないとか、そういう次元の話ですらなかった。


 詰んだ。終わった。


 綾乃が隣にいたら、『ばっかじゃないのあんた』と嫌味を言われていたに違いない。


 死活問題である。


 とりあえず歩いてみよう。逍遥しながら頭をひねってみよう。賢しい代替案が浮かぶかもしれない。十分くらい交差点の横断歩道をぐるぐると回って、時間を潰してみよう。


 魔法陣を描いているみたいだった。


 不審者そのものだった。


 通報される前に移動することにした。


 脳みそを絞りながら駅の方へ赴く。人口密度が高そうな駅周辺へ移動するのは憚られるが、他に行くべき場所もない。電車に乗る方法を模索せねばならない。自販機の下に小銭が落ちていれば電車に乗れるかもしれないが、望みは薄い。無賃乗車はどうだろう。どうだろうじゃない。倫理的にやるべきではない。倫理を問えるような身分なのかは議論を呼ぶところではあるが。


 脳内で云々と移動方法を検討している内に、南阿佐ヶ谷駅へ到着してしまう。


 名案は降ってこなかった。


 重たい足取りで、改札前まで身体を運ぶ。


 そこで待ち構えていた人影を見て、僕は思わず苦笑いをした。


「ばっかじゃないのあんた、一円も持たないでどうやって現地に行くつもりだったのよ」


 綾乃が、駅の出入り口のど真ん中で立っていた。


 僕がコンビニ前の交差点で懊悩している内に、最短ルートで先回りされたらしい。


「しかも去り際にあんな死亡フラグ立てて、いい年こいて恥ずかしいと思わないの?」

「死亡フラグってなに」

「愚問だった。あんたにそういう単語が通じないことを失念してた」


 二度と会えないかもって、去り際に恥ずかしい言葉を置いて行った自覚ならある。


 それはともかく。


「怒らないで聞いて欲しいんだけど、もしかして綾乃は、僕にお金を届けに来てくれたり、したのかなあ、とか」


 そっぽを向かれた。


「そうなんだけど、そうじゃないっていうか」

「分かるように説明してよ綾乃」

「私には、あんたの考えていることが分からないんだっての。せっかく脱走できたっていうのに、戻るなんてさ」

「ちゃんと生きて帰ってくる努力はする。出戻りでタマ取られるなんてヘマはしない」


 両手で顔を覆った綾乃に、うんざりとばかりに深い溜息をつかれた。


「溜息ばっかりついてるから、私の幸せが逃げていっちゃいそう」

「僕のせいか」

「そうね、大体あんたのせいよ」


 わざとらしく、大きな音で舌打ちをされた。


「私もついていく」


 気持ちは嬉しいが、頷けるわけがないだろう。


「馬鹿なことを言わないでくれよ。どんな目に遭うか分からないのに、連れていけるはずがないじゃないか。綾乃が傷つくかもしれないなんて、僕は嫌だ」

「自分の身くらい自分で守る。なに急に彼氏ヅラしてんのよ。そりゃあ、言われて悪い気はしないけどさ」


 小声でもにょもにょと文句を垂れている。聞き取れなかった。


「つーか、あんたに馬鹿とか言われると腹が立つわね。次に言ったら蹴っ飛ばすから」


 理不尽だった。


「冷静になって考えてみれば、父さんはあんたに接触をしてきたんだから、ここで諦めて距離をとる方が筋違いってものよ。きっと父さんの手の届く場所に、紗那の身体があるはずでしょう。それにね、あんたに死なれたら私が嫌な気分になる。死地に赴くあんたを止められなかった私自身を、私は許せなくなる」


 つまりなんだ。


 さっきは口論してしまったけれども。


「綾乃は、僕のことを心配してくれていたんだ」


 睨まれた。


 僕の解釈に異議を申し立てたいらしい。


「私の話、聞いてた?」

「うん。綾乃はやっぱり優しいよ。誰かを思いやれる良い人だ。僕は綾乃のそういう所が好きなのかもしれない。追って来てくれて嬉しかった。綾乃を刃傷沙汰に巻き込むのは嫌だけれど、本音を言えば、傍にいてくれたら心強いし、これからも宜しくしてもらいたい」


 綾乃は素直じゃない部分があるから、褒められ慣れていないのかもれない。


 眉をひそめた綾乃が、バツが悪そうに僕に背を向ける。


「こいつ、メンヘラをたらし込む才能がありそう」

「綾乃はちょくちょく僕の知らない単語を使うね」

「知らなくていい」


 胸倉をつかまれる。ぐいと券売機の方へと引っ張られた。


 この子はなにかと人様の胸倉をつかむ癖がある。これで何度目だろう。


「せめて手にしてよ!」

「贅沢を抜かすな理人のくせに」


 それから綾乃は、四ツ谷に到着するまで口を利いてくれなかったが、どういう訳か、機嫌が良さそうに顔をほころばせていたのだった。

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