6-1 幻想考察

 リビングで朝食を食べながら考える。


 嫌悪感を覚えた対象や空間中に蟲が蔓延っていた傍らで、どうして僕には綾乃がイグアナに見えていたのだろう。


 爬虫類ではないが、綾乃以外にも人外に近い顔貌を持った人間は他にもいた。


 人外の程度というか、人間の顔から逸脱している度合いはまちまちであったが、綾乃に関してはぶっちぎりで人外だったと言える。


 頭のてっぺんから、足の先まで、完全にイグアナだった。


 もし僕が『四條綾乃』という女性そのものに恐れを抱いていたのなら、イグアナではなく、ジョロウグモのような、おぞましい蟲の姿に見えていた方が、合理的であったはずだ。


 事実として、初対面のときには、非常に怖い体験をさせられた。


 恫喝した末に股間を握りつぶそうとした女性と密室で二人きりでいるなんて、あれが最初で最後であって欲しい。


 蟲と言えば、それに近い顔貌を持った女性となら、何度も遭遇したことがある。そもそも歌舞伎町とは、そういった人種が蔓延る地域なのだと教わっていた。今思えばあれは全て嘘で、僕をやり込める方便だったのだろう。異形の姿は、全て幻想だったのである。


 最近遭遇したケースで言えば、歌舞伎町のピンサロで勤務していた女性の患者だ。


 客に顔を殴られたから診て欲しい、という主訴であった。


 綾乃ほど人間からかけ離れているというわけではなく、眼球が緑色の複眼と化し、その上に、針金のような触覚が二本生えているくらいの外見であったのを覚えている。


 蟲やイグアナ以外にも、家畜や愛玩動物のような顔つきをした人間を診察した経験もある。だがそのいずれも、個性の範疇と捉えられるくらいの程度だった。


 四條綾乃の見てくれだけが、著しく人外に特化していたのだ。


「嫌なものが蟲に見えたのは、蟲が嫌悪感の象徴だったからなんでしょう? 私がイグアナに見えたのも、理人の無意識の中で、私が何らかの象徴として強く捉えられてしまったからこそなんじゃないの」

「どういう象徴だったんだろう」

「賢くて優れている人間とか」


 綾乃がこれ見よがしに、肩にかかった黒髪を右手で払いのける。


「そういうことだったのか」

「間に受けるな」


 はにかんだ綾乃が、茶碗の上に箸を置く。


「あんた、そういう所あるわよね。まあいいわ。私の推論を補強してくれるようなイベントが過去にあって、その状況とも理屈が一致したから納得に至った、またそういう意図でさっきの返事があったんだって捉えておくことにするけど」

「確かにそうなんだけど、綾乃って結構理屈くさいよね」

「飯抜きにするぞ」


 それは困る。


 手を合わせて頭を下げる。


「でも確かに、今まで人外に見えていた人の共通項に『美しさ』があったのは、事実かもしれない。人外に見える人の多くは、キャバクラや風俗店で勤務している人ばかりだったし、中にはモデルさんや女優さんもいた」

「外見も一つのトリガーだったのかもしれないわね。蟲の幻影が嫌悪感から始まっていたのであれば、美しい人を見て、なにがしかの感情が働いたからこそ、人外に見えていたって推論を立てた方が、筋は通っている」


 美人を前にして沸き立つ感情。


 性欲?


「ちなみに人外っぽく見えた男っていたの?」

「たまにだけれど、いたよ。若い社長さんとか、やっぱり芸能関係の人とか」


 僕はヘテロのはずだから、男に欲情することはない。たぶん。


 よって性欲は無関係である。


「今までの話を聴取している限りでしかないけれど、内面の美しさだとか、生き生きと輝いている人だとか、っていう条件も該当しそうね」

「それがなんで、人外に見えることに繋がったんだろう」


 きゅうりの浅漬けを箸で摘まんだ綾乃が、怪訝そうにそれを口に放り込む。


「あんたほど鈍感だと、気付けないのもやむを得ないか」


 酷い言われようだ。


「理人を貶しているつもりは一ミリもないから、そこだけは理解して」


 茶碗を置いた綾乃が、神妙な顔で居住まいを正す。


「原因なんて、そんなの決まっているじゃない。美しいもの、生き生き輝いているもの、胸がすくような青空から大海原に至るまで、それらにすら嫌悪感を覚えていたからでしょう。理人は潜在的に、この世界が嫌いだったのよ」

「嫌いって言ったって、蟲なんて、診療所とかを除けばほとんどの場所にいたんだよ。初めて行った国立の喫茶店だってそうだった。知っている場所の中から選り好みするならまだしも、知らない場所を嫌うなんて不可能だよ」

「嫌悪感の程度の問題よ。それに嫌悪感っていうのは、嫌な予感や雰囲気の他に、診療所みたいな自分のフィールドから遠ざかるといった、不安感としても現れるものでしょう」


 国立に行ったときは、不安感が強かった。


 裕也さんの顔を、蟲で埋めてしまうほどに。


「蟲のような顔に見えていた人もいれば、獣らしい顔を持った人もいた。蟲が多く生息している場所もあれば、そうでもない場所もあった。程度の差はあれど、常軌を逸した存在や状況として、理人の脳は世界への認識を捻じ曲げていた。そりゃそうよ。軟禁されていた上に、診療所っていう小さな世界を神聖視していたきらいがあったっていうんだから、外で活躍している人間が化物に見えるっていうのは一理あるでしょう。よしんば理人が、無意識下に外の世界への憧憬があったのであれば、なおさら、外の世界で輝いているらしい人間や、自分に自信がありそうな人間に対して密かに嫉妬していたっていうのは、あり得ない話ではないんじゃないかしら」

「僕が綾乃に強い嫉妬心があったっていうのは、無理筋じゃないのか。それだったら、紗那ちゃんの姿だってイグアナに見えているべきだ」


 一目惚れするほどの美貌の持ち主なのだから、人間に見えていたこと自体が矛盾点である。紗那ちゃんと綾乃は双子なのだから、片方だけが二足歩行をするイグアナだと認識していた点にも齟齬がある。


「論点は顔貌だけじゃない。繰り返しになるけれど、対象はきっと『美しいもの、生き生きと輝いているもの』なのよ。紗那は既に息を引き取っていた。どれだけ美しかろうが、所詮死体は腐食の運命にある有機物の塊でしょう。そう分類すれば条件外に成り得る」


 綾乃が空になった食器を重ねて、キッチンの方へと運んでいく。


 死体は美しいものでない。生き生きもしていない。


 だが蟲も湧いてこなかった。


 モルグに蟲が湧かないのは、診療所に似た空間であったが故なのだろうが、大前提として僕は死体に苦手意識を持っている。他の死体を捌いていたときにも、生きた蟲が腹の中から顔を出したことがあった。しかし紗那ちゃんの身体には、蟲が一匹もいなかった。


 紗那ちゃんの美しさが、死体への嫌悪感を相殺したとでも言うのか。


 綾乃は美人である上に生き生きとしている。自信家らしい印象すらある。それに加えて医師の卵であり、代理とはいえアイドルもしている身だ。明らかな人外だと錯覚するだけの条件は揃っている。


 でも、何故イグアナだったんだ。


 実物なんて見たこともない。


 綾乃が、初めて肉眼で捉えたイグアナだ。


 キッチンから出てきた綾乃が、ソファに放り出されていたトートバッグを引っ手繰って、玄関に向かう。


「私もう出るから、あとはお願いね。今は近藤組の誰かに見つかるべきじゃないし、病み上がりなんだから、散歩とかはまだお勧めしない。テレビを見たりとか、和室にあるパソコンとかで遊んだりしてて。悪いんだけどお昼は出前を取ってもらえると助かるわ。これ置いて行くから」


 ソファの前にあるローテーブルの上に、綾乃が五千円と出前のチラシを置く。


「羽振りがいいね」

「隠すことでもないから言うけど、裕也さんから今回の件に関して、幾分かの報酬を前払いでもらっているの。報酬というよりも、理人が身の振り方を考えられるだけのお金だと思うけど」

「いくらもらったの?」

「聞かない方がいいし、今の理人にあんな大金を渡すのは私も気が引ける」


 幾分かではなかったのかよ。


「無駄遣いするつもりもないけれど、理人に渡すとしたら、理人がもう少し世の中を知って、これからの人生をどうするか決めてからよ。よく分からないことにお金を使われたもんなら、裕也さんだってがっかりするだろうし、私の目覚めも悪くなる」


 そういうことで、と去り際に言葉を置いた綾乃は、颯爽と部屋から出ていってしまった。


 手持ち無沙汰になってしまった。


 ソファに腰かけて、テレビを眺めるだけの怠惰な午前を過ごすのも悪くないが、ヤクを抜いた身体を本調子に戻すためには、運動をするのが望ましい。


 和室の隅にあった掃除機を携えた僕は、二階から家の掃除を開始した。


 言いつけ通り、階段を上がって右手にある綾乃と紗那ちゃんの部屋には立ち入らないようにする。左手にはもう一部屋あった。ドアを開けて中に入る。ベッドと大量の書籍が山積みになったデスクがあった。


 英語の書籍が大半を占めている。数少ない日本語で記された書籍を、本の山から一つだけ取り上げる。黒い背表紙には『腫瘍循環器診療ガイドライン』と白文字が打たれていた。


 勲矢さんの部屋だった。


 禁じられた領域に、足を踏み入れてしまった。


 足がすくむ。


 よくよく思い返してみると、勲矢さんの部屋に入るなとは言われていない。


 立ち入ったついでに、掃除機だけかけておこう。


 勲矢さんが失踪してから二週間近くは経過しているはずだが、床にはゴミ一つ落ちていなかった。


 書籍も山積みにはなっているが、埃は被っていない。ベッドシーツも洗い立てのように清潔で、皺も伸ばされている。綾乃が掃除をしているらしかった。


 一階の掃除もして、洗い物なり窓拭きなりをしている内に昼前になっていた。


 ソファに座って出前のチラシを眺めてみる。最寄りのイタリアンレストランのものだ。


 ハンバーグから丼ものまでラインナップされている。事欠かないとはこのことである。


 どれも高い。一品頼むだけで一五〇〇円はする。送料は四二〇円だ。


 僕は五千円を握りしめて玄関へ向かった。裕也さんから教えてもらったことがある。悩んだときには、コンビニで済ませるのが安牌であると。


 前々から行ってみたかった場所の一つであった。


 好奇心は猫をも殺すというが、それはリスク管理の問題だと僕は考える。


 すぐに戻ってくれば平気だろう。


 それに、この目で青空を眺めてみたかった。


 浴室で干されていたワイシャツに着替えた僕は、新しい世界への期待と、わずかばかりの不安と共に玄関のドアを開けた。


「空って本当に青いんだなあ」


 白い雲がゆっくり右から左へと流れていく。


 本日は快晴である。


 爽快すぎる青さが目に沁みる。


 不快感があった。


 違うな。


 空の青さを、生まれたときから知っている人たちが羨ましかった。


 こんな青さが現実にあると知っていたのなら、外の世界へ飛び出したくなっていたに違いない。もっと早く知りたかった。


 過去の喪失感は二度と修復出来やしない。そういった意味での不快感である。


 鼻から息を吸って、お腹に空気が溜まるのを感じて、鼻から息を抜く。


 コンビニの場所は、綾乃とスーパーへ行ったときに把握した。大通りに出て、反対側の車線の所にある。徒歩で五分ほどだ。子供ですらおつかいに行ける距離である。


 実際問題これは、自分のお昼ごはんを五千円でなんとかしなさいという、生まれて初めてのおつかいである。


 コンビニへはすぐに到着した。自動ドアを通って、さっそく中に入る。


 軽快なチャイムが鳴った。レジから、いらっしゃいませと声がかかる。


 笑顔で会釈をしてみる。不思議な顔をされた。


 後ろから別の客が入ってくる。邪魔くさそうに僕の横を通ると、自ら商品が並ぶ棚へと足を運んでいた。そういうシステムらしい。いらっしゃいませなんて言うから、店内を案内してくれるのかと思った。


 帰ろうかな。


 恥ずかしくなってきた。


 これは新しい世界を知るための冒険だ。そう簡単に諦めるべきではない。


 顔の火照りを手のひらで煽ぎながら、真正面のおにぎり陳列コーナーへと向かう。焼鮭と昆布のおにぎりを手に取って、店舗奥にある飲み物コーナーへと移動した。


 前面がガラス張りになった冷蔵庫が並んでいた。


 コーラの入ったペットボトルが目に入る。


 裕也さんがよく飲んでいたものだ。


 分かってはいるんだ、早く助けにいかなければならないことくらい。


 我が身の回復に時間を要したとはいえ、日数を費やし過ぎた。


 裕也さん救出に際して好機を計るべきなのは勿論だが、近藤組が悠長に折檻をしているはずがない。衰弱死にしろ殺害にしろ、着実にその日は近づいてきている。


 綾乃が帰ってきたら相談をしよう。僕の身体が調子を取り戻した今こそ、攻勢に出るべきであると。


 冷蔵庫から、コーラのペットボトルを取り出す。


 レジで商品を出すと、入店時に声をかけてくれた店員が対応してくれた。


 店員が目を合わせずに商品のバーコードを読み取っていく。袋に入れてもらう。一万円と引き換えにもらった約九千円の釣銭をポケットにつっこんだ僕は、袋を受け取ってコンビニの出入り口へ足を向けた。


 出入口左手に本が並んでいる。一冊くらい買って帰ろうかとも考えたが、却下した。


 無駄遣いはすべきでない。情報が欲しいなら、家にあるパソコンを使った方がお金も掛からない。


 それなら、娯楽として読めばいいのでは。


 却下したはずの案が頭の中で再浮上する。


 コンビニの自動ドアが開く。


 足音が近づいてくるまで、僕は見向きもしなかった。


 顔を上げると、スーツを来たオールバックの男がいた。ポマードで固めているのか、白髪混じりの頭がてらてらと輝いている。


 あたかも友人に声をかけるかのように、男は僕に向かって手を挙げた。


「あのときの少年は、立派に成長したんだね」


 頭から一気に血の気が引いて行く。身を固くした僕は慌てて顔をそむけた。


 周囲には他に誰もいない。僕に言っているのか。


 誰だ。


 近藤組の関係者?


 しくじった。とっとと四條家に戻るべきだった。


 店員に助けは求められない。巻き込めるはずがない。


 戦って勝てるだろうか。


 無理に決まっている。武器になる物もない上に、僕には格闘技の心得がない。逃げられもしない。逃走経路となる入り口側の通路も、男の身体で塞がれてしまっている。


 やはり人違いではないのか。この男が気を違えた不審者なだけではないのか。僕以外の誰にでも声を掛けている変人なだけではないのか。


 本当に、近藤組の関係者なのだろうか。


 その筋の人間であれば、挨拶をする前に問答無用で僕を拉致しているはずだ。挨拶の内容も、まるで意味不明である。


 男の目尻に刻まれた小皺に見覚えがある。年齢を重ねた男の目尻の皺なんて皆似たようなもんだ。マスクをしていれば見分けの難易度も上昇する。だが声にも聞き覚えがあった。こうも二項以上が該当すると、僕の覚えがやはり正しいのではと疑い始める。


 思い当たる人物が一人だけいた。


 まさか。


 恐る恐る首を回して相手の様子を伺う。


 いない。


 足早にコンビニから出た男が、駐車場に停めていた白いバンに乗りこうもとしている所であった。車窓にはスモークが掛かっている。運転席のドアが閉まると、姿が見えなくなってしまった。


 おにぎりの入った袋をその場に置き捨て、急いで店の外へと駆け出す。


 なんということだ。


 行かせてはならない。


 あの人は。


「待ってください! 紗那ちゃんのお父さんですよね!?」


 重たいエンジン音を立てながら、バンは公道へと走って行ってしまう。遠ざかって見えなくなるまで、僕はその場から一歩も動き出せなかったのだった。

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