5-5 光

 綾乃よりも先に、スズメの声で起こされる。


 身体を起こし、寝相で退かされたらしい毛布をつまみ上げた。


 汗はそんなにかいていない。


 隅に置いておいた水のペットボトルを手繰り寄せ、足を崩したまま口につける。


「理人おはよう」

「おはよう」

「珍しいじゃない、先に起きているなんて」

「体内時計が整ったのかもしれない。規則正しい生活をした成果が出ているのかもね」


 カマキリはいなくなっていた。


 ドアの隙間越しに綾乃の足がある。


 違和感を覚えて、右腕で両目をこする。


「よくこんな場所で寝られるわよね。私だったら一晩で音を上げるわ。特に昨晩はすごく暑かったんじゃない? 水を見ても平気になったみたいだし、冷たいシャワーでも浴びてきなさいよ」


 呆れた調子の綾乃が、ドアを廊下側に引いた。


 僕は動けなかった。


 眼前の光景に圧倒されて、言葉が出てこなかったのである。


「人の顔をじろじろ見るなって、いつも言っているでしょうが」


 視線をそらした綾乃が、面映ゆそうに唇を尖らせる。


 すると眉間に険を寄せた綾乃は、いつものように、偉そうに腕を組んで仁王立ちをした。


「イグアナじゃなくて、トカゲか別の爬虫類に見えたとかじゃないでしょうね」


 背中まで伸びた、濡れ羽色の黒髪が揺れる。


 デニム生地のショートパンツからは、形のいい肌色の脚が伸びている。


「だから見るなって言ってんの。金取るぞ……ってちょっと、なんで泣いてんのよ」


 慌てた綾乃が、組んでいた腕を解いて物置の中に入ってくる。


 僕の視線の高さに合わせるようにしゃがんだ。


 長いまつ毛の付いた目を泳がせている。らしくもなく狼狽しているらしい。


「変な夢でも見た?」


 疑問を呈した綾乃が、口元に手を持って行って思案顔になる。


「あんたの場合は悪夢を見て泣くってよりも、怯えて震えあがるって感じの方がリアルっぽいわよね……幼児退行とかあり得るのかしら……やっぱり私だけじゃあ、理人を救うのには限界があるか……こうなったら野となれ山となれよ。いい具合に状況を誤魔化しながら、専門医がいる医療機関に連れて行くしか」


 ぶつぶつ呟きながら考え込んでいる綾乃の右頬に、僕は右手の指先を伸ばした。


 柔らかい皮膚に触れた途端、綾乃の肩が跳ねる。


「やっと会えた」

「寝ぼけてんの? ずっと一緒に生活してたでしょうが」


 かぶりを振る。


「そうじゃないよ、そうじゃないんだ」


 涙が止まらない。


 顎の先まで垂れたそれを拭いもせずに、もう片方の手も綾乃の顔に添える。


「本当に綾乃は、紗那ちゃんと瓜二つなんだね」


 人間に見える。


 手も足も、人らしく柔肌で覆われている。


 蟲もいない。


 玄関先の小窓から朝日の明かりが差し込んでいる。廊下に舞うほこりが、星屑のようにキラキラと輝いていた。


 僕の知らない世界が、物置の外側に広がっている。


「知らなかったんだ。こんなにも、目に映るもの全てが綺麗だったなんて」


 まばゆい朝日が綾乃を照らし出している。


 わずかに頬を上気させた綾乃の顔が可愛らしくて、とても新鮮で、僕は僕でこの世界で生きている実感を求めていて、彼女に断りもせずに、僕はその細い身体を抱き寄せていた。


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