5-4 苦悩のエクリチュール
薄暗い物置の中で、僕は目を覚ました。
「ううううう」
また一日が始まったらしい。
「蟲が来る、また蟲が来る」
今日も一日に耐え、この日を終えなければならないのか。
「お腹空いた、お腹が空いたよ、綾乃たすけて、綾乃早くして」
今日という一日は、まだ始まったばかりだ。
そう考えなければならない苦しみに、勝る苦悩はない。
幻影、幻聴、空腹、飢餓。
変えられない過去と、先の見えない未来を想うだけで死にたくなる。発作的にやってくる自殺への欲求と、簡単には死ねない現実への絶望感に、怯えるばかりの毎日だった。
悪夢はまだ醒めない。
「理人、朝よ」
物置のドアが開く。
真っ暗だった物置に大量の光が差し込んだ。眩しい。目が痛い。頭皮がチリチリする。肌は汗でベタベタだ。毛布に丸まって寝ていた僕は、光から逃れるように身体を縮ませた。
「しっかりして」
「いつまで耐えればいいんだ、いつになったら僕は楽になれるんだ」
「私の声をよく聞いて。鼻でゆっくり息をして。お腹に空気が溜まるのを感じて、ゆっくり吐いて。呼吸に意識を集中させて」
お腹に手を添えて息を吸う。汗臭い。犬小屋の臭いがする。へそが膨らんだのを感じてから、少しずつ息を吐く。息が震えている。肺が思うように空気を排出してくれない。
綾乃の手に支えられて身体を起こす。
「水を飲んで」
ペットポトルを渡される。受け取った僕は、それを排水溝に流し込むように傾ける。
上手く口に入らずに鼻から水を浴びた。口に流れたそれを飲み込む。舐める。ひざ元は水浸しである。失禁をした後のようだ。
「もう一度飲んで」
水を浴びる。飲む。ペットボトルが空になる。
介護だ。壊れた人間が介護を受けている。
壊れたんじゃない。他人に壊されたんだ。
「夏だっていうのに、毛布なんかに包まっていたらミイラになるわ。シャワーは浴びれそう?」
「風呂場は嫌だ。怖いんだ。心の病気なのかもしれない。変だよね。気遣わなくていいよ。変だってストレートになじってくれた方が、楽になる部分もあるかもしれない」
「紗那も同じようなこと言ってたから、変だとは思わない。そういう人もいるでしょう」
「紗那ちゃんが?」
「そこらへんの事情も、また今後教えてあげる」
身体が汗でべたついている。綺麗にはしたい。
「今日は濡れタオルで拭いて、シャワーはまた今度頑張るよ」
壁伝いに立ち上がる。
顔を上げて綾乃を見やる。
イグアナの顔だ。
昨日と比べて、多少はヤクが落ちていると願いたい。
こうして物置が僕の仮宿になってから、三日が経過した。
朝の六時になると綾乃に叩き起こされる。一緒に朝食を作らされる。食事を終えると部屋の掃除をさせられる。棚の隅から照明の裏側に至るまで全てを清拭し、身体を動かしつつ、家のあらゆる場所に触れさせられ、蟲が湧く余地がないことを理屈で認識する。
昼前になると、最寄りのスーパーへ出かける。
公道では害虫が黒い川を作っていた。
怯んだ僕は、玄関の内側に逃げようとした。
親カマキリと子供カマキリが、軒先から僕を眺めている。
綾乃に腕を引っ張られる。
僕はカマキリに見送られながら、害虫だらけの街中へと繰り出した。
深く息を吸って、息を吐く。
休憩をはさみながら、スーパーへと到着する。
自ら食材に触れてカゴに入れていく。そのたびに、食材の名前と個数を口ずさむ。
トマトの皮を食い破ったムカデが中から飛び出す。穴から見えた中身は腐っていた。
目を閉じる。トマトを投げ捨てたい欲求に駆られる。歯を食いしばる。
綾乃が僕の耳元で、トマトの特徴を細かく囁く。何度も深呼吸をしながら、綾乃の言葉に意識を傾ける。僕が持っているのは、赤くてつるりとしたトマト。赤くてヘタは緑色で、口に含めば甘酸っぱくて爽やかな香りが広がる。
瞼を持ち上げる。
僕は綺麗なトマトを握っていた。
帰宅した僕は、包丁でトマトを真っ二つにする。果汁が白いまな板の上に流れる。断面には黄色い種と、薄緑色の中身がある。蟲の卵や体液には見えなかった。
昼食を終える。胃は膨れたが満足には至れなかった。
掃除を再開して一時間ほど経ったところで、二人並んでソファで休憩をする。
「綾乃はどうして、僕に構ってくれるの?」
流し目で圧をかけられた。
「私って、そんな人でなしに見える? 弱っている人がいたら、手くらい差し伸べるわよ」
「そんなの、ただのお人好しじゃないか。紗那ちゃんの行方が関係しているとはいえ、僕を匿って得られるメリットなんてないよ」
「損得勘定で物を言えば、今の私は、超絶的に愚かな行為をしているのでしょうね」
「だったらなんで」
「きっちり理屈で動くような賢い女が、わざわざヤクザマンションに乗り込んで、闇医者の胸倉を掴んだり恫喝したりする?」
仰る通りで。
「綾乃は馬鹿なのか」
「えらく引っかかる返し方をするわね、今日のあんた」
馬鹿と命知らずは紙一重である。
「でも人間なんて結局最後は感情なのよ。私はそうだった。紗那から変なメッセージが送られてきて、父さんまで失踪して、酷い胸騒ぎがして、いてもたってもいられなかった。実は父さんからも『近藤組に関わるな』ってメッセージが届いていたんだけど、結局無視しちゃったのよね。それに加えて、下手に警察へ通報してマスコミに嗅ぎつかれても困るから、自分で動くしかなかった。悪い性分なのは自覚してる。それでも私はね、むかつく奴はその場で蹴り飛ばしたいし、友達が悪い奴に虐められていたら、代わりに百倍返しをしてやりたいのよ」
「僕を助けてくれたのは、近藤組が嫌いだからっていうのもあったのかな」
「全く無いとは言わない。それ以上に、必死に生きようと足掻いている奴を応援したかったし、見捨てられなかった」
「必死に生きようとしてるって、僕が?」
「私に『死にたくない』って主張していたじゃない。『生きたくもない』とも嘆いていたけれど。難しいわよね、そこらへんのニュアンス」
手元のペットボトルを開封しながら僕が言う。
「知ったように言うんだね」
「紗那がそうだったから。アイドルっていう自分の生き方を探し当てるまでは、今の理人みたいに、覇気のない目をしてたわ。生命体として活動はしているんだけど、人間としては生きてるんだか死んでるんだか、っていう濁った目」
右手に持ったペットボトルをあおって、水の喉に流し込む。
「アイドルになれた紗那ちゃんは、自分の居場所を見つけて幸せになれたんだ」
「どうでしょうね。あの子、精神遅滞があったせいで変な奴に騙されて、父さんも私も知らない所でアイドルの契約結んで、家に帰ってきたことがあったのよ。アイドルになろうとしてなったんじゃない。アイドルにさせられたの」
精神遅滞とは、知的機能に制限がかかっている病態を指している。
成人であっても、子供と同じレベルでしか物事が考えられない状態だ。
そのように小児科の教科書には載っていた。
言を弄せば、強引に契約を結ぶことも容易だろう。
「私たちがうんと小さい頃は、二人でおもちゃのマイクを使って、アイドルごっことかしていた時期もあったけれど、まさか紗那が、正真正銘のアイドルになるなんて考えもしなかったわ」
「綾乃もアイドルごっこなんてするんだ。あんまりそういうイメージなかったけど」
「うんと小さい頃って言ったでしょうが、なに想像してんの」
くるぶしを蹴られた。
「ソファを舞台代わりにして、『二人でユウメイジンになるんだ』って、一緒に歌ったり踊ったりしていたのが懐かしいわ。いつか二人でお花畑みたいな綺麗な舞台に立って、白いドレスを身に纏って、ファンとか報道陣とかいっぱい呼んで、皆をあっと言わせるようなライブをしようって、そんな子供っぽい夢物語で盛り上がったときもあったっけな」
綾乃の視線は、キッチンカウンターの上にある写真立てに注がれていた。
「そういった意味で、紗那が曲がりなりに夢を叶えたって言うのは間違いではないんだけれど、悪い連中に言い包められた結果だって考えると、手放しには喜べないわよね」
「悪い連中って、もしかして」
「近藤組ではなかったけれど、間接的に関わっていたみたいだから、近藤組がらみの仕事を貰ってきたこともあったみたい。忙しすぎて、鬱っぽくなっていたときもあったわ。あの子もお風呂が怖いって言ってた。心の病がそういうもんなんだって、そこで私は初めて知ったの。私はそんな紗那の力になりたくて、医者を目指したんだけど」
綾乃が空のペットボトルを、ローテーブルの上に放り投げる。
勢いあまって床に落下した。
「最初こそ近藤組に復讐するつもりだったのに、紗那を殺したのは近藤組じゃないって裕也さんに断言されちゃったし、やるせないわ」
復讐か。
僕は、手に持っていたペットボトルをくしゃりと潰した。
「やめておきなさい。理人には似合わない」
「何も言ってない」
「そんなおっかない顔してたら、言葉にされなくても察するわよ」
空いた方の手で自分の顔に触れる。指先にカマキリの子供が乗っかってきた。
潰さないように、ソファの背もたれに乗せてやる。
「今の僕には何もないんだ。仕事も失った。裕也さんにも会えなくなった。診療所にも帰れなくなった。それでもさ、復讐の方法は分からないけれどさ、その方法を考えている間だけは生きているって感じられるんだ」
足を組み替えた綾乃が言う。
「憎悪とか怨恨っていうのは、強烈な原動力になるもんなの。過去の偉い人も、『無気力をゆさぶって自己を確立したいのなら、敵を作りだせ』って格言を遺していたみたいだし」
「復讐なんて似合わないって言ったくせに」
「心が元気になるんだったら、ちょっとくらい復讐を夢見たっていいじゃない。でもそれを実行に移すかどうかは別でしょう。復讐が何も生まないなんてよく言うけど、大嘘よね。浮世に疲れ果てて、もう生きたくないとか弱音を吐いている奴を、どうにかして動かす程度のカンフル剤にはなる」
綾乃が声を柔らかくする。
「愚痴くらいには付き合うわ。これからのことは二人で考えましょ。今のあんたには私がいる。さっきも言ったけど、あんた、紗那の目にそっくりなのよ」
壁にかかっていたアナログ時計の短針が、午後の三時を指している。
僕らは掃除を再開した。
後回しにしていた浴室の清掃をしようと綾乃から提案される。不承不承に頷いた僕は、おっかなびっくり浴室のドアを開けて中に侵入する。蟲が一匹もいなくなっていた。その晩、僕は数日ぶりに水を浴びた。
そして寝て、起きて、動いて、食べて、苦しんで、食べて、動いて、また寝る。
綾乃と一緒にいる日がほとんどだったが、仕事で綾乃が外出している時間もあった。
一人は心細い。近藤組の誰かが僕を探しにくるかもしれない。警察とグルになった近藤組が、僕を殺しにくるんじゃないかと妄想する日もあった。
自殺をすべきか悩んで、包丁が収納されているキッチンの前をうろつく時もあった。暑苦しい物置の中で強烈な乾きに喘ぎながら、あの世について想像しながら寝る晩もあった。
大きな恐怖や不安を感じた際は、必ず大量の蟲が湧いた。
僕にとって蟲とは、嫌悪の象徴なのだろう。
これだけ長く診療所から離れた生活を強いられ、蟲と共生していれば、否が応にも自覚させられる。
近藤組への恩義や、患者を治療しなければならない義務感といった、『自分はこの場にいるべき存在なんだ』という理屈にすがりつき、変化を回避し、あの診療所に留まっているべきだと信仰し、怠惰な自分を肯定した結果として、外の世界は害悪なのだと錯覚を起こしたのだ。
自分が身を置いていた環境が平凡でなかったことは、とっくに理解が及んでいる。
平凡でない自分に優越感すら覚えていた。
生活する環境を提供してくれていた人に『力あるものは身を隠せ』と嘯かれ、自分本位な思い込みは更に加速した。
自分にとって安寧なる聖域は、正義の在処は、あの診療所だけだったのだ。
近藤組の手で闇に葬られ、最終的に僕に処理されていった人々は、こんな惨めな僕を見てどう思うだろう。
シラガ先生は、どんな感想を口にするだろう。
暑く湿度の高い物置の中で頭を掻きむしった僕は、地獄で這いつくばる亡者のようにうめき声をあげた。
苦しいよ先生、苦しいよ。
あの食事が食べたい。平和な生活が懐かしい。
物置で寝転がりながら、喉元に両手を添える。
僕は満たされない。僕は満たされたい。
心が乾いている。
死にたい。
でも死ぬのは怖い。
僕は邪念を振り切るように、首の動きだけで自分の手を払った。
助けて欲しい。
教えて欲しい。
想像を絶するほどの不幸が突然降りかかり、死を想像するに値する未来と遭遇した際に、その死を受け入れるために、これまで死んでいった皆々はどんなことをしてきたのか、どんなことを想ってきたのか、それを教えて欲しい。ほんのしばらくで構わないから、あの世から戻ってきて、僕の耳元で囁いて欲しい。
胸のポケットから、紗那ちゃんの写真が衣擦れしている音がする。
深呼吸をした。
震えた呼気が中途半端に止まった。呼吸のリズムが崩れて息苦しくなる。
蛇腹に切られたドアの隙間から、カマキリの子供が顔を出す。
その小さな鎌で、酷く劣悪な運命の鎖を断ち切って、僕を救い出して欲しい。
部屋の掃除をして随分と数は減ったが、まだこの家には大勢のカマキリが巣くっている。巨大な親カマキリも潜んでいる。あれだけの勢力で鎖に挑めば、鎖の一本くらい壊せそうなものだが。
子供カマキリが頷いてくれた。
幻である。
乾いた嘲笑が、ひび割れた唇の間からこぼれた。
明日になったら綾乃に自慢してやろう。
うろ覚えの夢の話をするように、冗談めかして嘯いてやろう。
両手で拳を作って、右胸に当てがう。
深呼吸をする。
止まらなかった呼吸の震えが、十日目の夜にしてようやく止まった。
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