5-3  Out of control

 日が落ちる前に、スーパーの袋を両手に提げた綾乃が帰ってきた。


 偽物かもしれない。僕を殺しにきた近藤組の人間かもしれない。慎重に対応したい。綾乃はリビングに荷物を置くと二階へ上がっていった。すぐに慌てて一階へ降りてくる。僕の居場所を探しているらしい。


「どういう頭の構造をしてたら、あの状況で出ていくなんて思いつくのよあいつ」


 怒っていた。


 内側からドアを叩いて、存在をアピールしてみる。


 僕の気配を察したらしい綾乃の足音が、近くまでやってくる。


  唸り声を小さく漏らして、ノックを返してきた。


「これはこれで開頭して、脳みそがどうなっているのか見学してみたいものね」

「僕の頭は壊れている。お腹も変なんだ。食べても食べても満たされないんだ。今までになかったレベルで、幻を見るようになった。死ぬべきなのかもしれない」

「死にたいの?」

「死にたくない。生きたくもない。怖いんだ。世界が怖い。昔から怖かった。急にもっと怖くなった。蟲くらいなんとかなるって、調子に乗ってた。気が付いたら床にいたカマキリの子供を食べてた。僕は壊れているんだ。こんなの治せないよ。こんな病気は聞いたことがない」


 ドアに刻まれた蛇腹の隙間から、綾乃のイグアナ顔が見える。口元に手を当てて考えこんでいるようだった。


「裕也さんの言い分は、真実だったということね」

「なにが」


 綾乃がドアの真横に座る。


 服と壁紙の擦れる音が人間の気配らしくて、ほっとした。


「私、明日から学校休むから。一週間くらいなら、なんとかなるでしょ」

「いいの?」

「どうせ一週間後は夏休みだし、上手いことやるわ。それよりも今の理人を放置する方が問題だもの。自覚しているのか知らないけれど、今のあんた、どう考えても薬を没収されたジャンキーそのものなんだから」


 薬。


 使った記憶なんて。


「国立で別れるときに、裕也さんから連絡先もらっていたの。南阿佐ヶ谷にヘルプで駆けつけたのも、向こうが私の連絡先を既に知っていたからよ。昨日電話を掛けなおしたら電源切られていたから、足が付かないように、スマホを捨てたか壊したんでしょうね」


 紙のようなものを渡していた覚えなら、確かにある。


「あの人、電話を切る直前に『食事に薬が混ぜられていた』って言ってた」

「ご飯、食べたよ」

「診療所に居たときって、どこぞの料亭から食事が運ばれて来てたんでしょ?」


 食事は必ず決まって、近藤組が世話をしている料亭で作ったものが運ばれてきた。物心つく頃からの習慣だ。ごくまれに違う物を食べるときもあれど、基本的にはいつも同じものを食べていた。


 あれが実家の味という奴なのだと、僕は定義していた。


「僕は子供の頃からあれを食べていて、子供の頃から世界は壊れていた」

「私もさほど臨床的な薬の扱いには詳しくないのだけれど、苦みとかはなかったの?」

「僕、味覚が弱いから」

「味覚が弱い?」

「味音痴なんだ。かなり強めの甘味と苦味しか感じられない。塩味とかは、ほのかに感じる程度。人よりも多く医術を学んだ代償で、生まれつき味覚がないんだって教えられた。実は耳も少しだけ弱い」


 ドアの外で、ゴンと重たい音がした。


「頭をぶつけた音だから気にしないで」


 かなり大きな音だったが。


「理人のご飯にはヤバいものが混ざっていて、信じられないことに、マインドコントロールを目的に、子供の頃から怪しげな薬を投与され続けていた。生活や業務に支障が出ないよう、絶妙に調整をしながらね。こんなの目の当たりにされたら、否定なんか出来っこないわよ」

「僕を薬漬けにする必要性がない」

「薬のない欲求不満な生活に陥ったら、否応でも古巣に戻りたくなるでしょ。それに薬が原因で『世界が壊れていた』ように見えていたのなら、外にだって出たくもなくなるわ。一石二鳥。ほんと、これを思いついた奴は、地獄に落ちるべきなんじゃないかしら」


 また壁越しに重たい音がした。


「理人も理人よ。疑問に思わなかったわけ? 仮にも闇医者だったんでしょう」

「組長さんが言っていたけれど、精神医学とかの本は抜かれていたみたいだし、あれは専門家の仕事だから不要だって教わっていたんだ。全部が全部じゃないけれど、救急医学の一部とか、仕事に関係のない分野とかもそんな感じで」

「もういい。理屈が滅茶苦茶すぎて、聞けば聞くほどキレそう」


 綾乃の足音がドアの前までやってくる。


「そこに居ていいわ。用事があったら大声を出して。今日から私はそこの和室で寝る。これから私なりに依存症の治し方を調べてみるけど、基本方針は『薬を抜く』なのは間違いないでしょ。規則正しい生活をして、適切な食事と運動をする。心を整える。自覚してる? 口調すら変わってんのよあんた。私相手に、心の壁を作る余裕すらなくなってる」


 綾乃が、冷蔵庫から水の入った2Lペットボトルを持ってくる。


「低ナトになられても困るから飲みすぎる必要はないけど、適度に飲んで」


 低ナトリウム血症のことを指しているのだろう。水分を補給しすぎると血が薄まって、血中の電解質量が相対的に低くなってしまう病態である。


「落ち着いたら外に出てきなさい。一緒に料理作るから」


 ドアの外にペットボトルを配置した綾乃が、遠ざかって行く。


 小さく開けたドアの隙間からペットボトルを中に引き入れる。蓋をねじって開封する。一気に喉に流し込んだ。物置は空調がないから蒸し暑い。汗だくだ。


 胸ポケットに紗那ちゃんの写真が入っているのを思い出した。慌てて取り出す。ふやけてはいなかったが、僕の汗がべっとり沁みついていた。


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