5-2 s/o Schizophrenie

 朝日が昇ると、綾乃が男物のワイシャツと褐色のチノパンを持って、リビングに降りてくる。


 ソファで寝ていた僕に挨拶をするなり男物の衣服を押し付けると、冷蔵庫からサランラップに包まれたおにぎりを一つ取って、頬張りながら颯爽と玄関から出て行ってしまった。


 四時間くらいしか寝ていないはずだ。


 毎度のことだが、あの睡眠時間でよく活動が賄えるものである。


 僕は蟲のせいであまり寝付けなかった。


 昨晩はなんだかんだで、三十分くらいは情報共有をしていた。


 今日一日分の朝飯と昼飯は、冷蔵庫に保存されているらしい。


 冷蔵庫を開ける。


 綾乃が食べていたものと同じおにぎりと、煮物が入っていた。煮物は一昨日作りすぎた奴の余りなのだという。今日中に処理して欲しいと指示をもらった。


 熱いお茶を淹れる間に、おにぎりを電子レンジにかける。


 食べ物に熱がしっかり通っているという確認をするのは、僕にとって非常に重要な儀式らしい。電子レンジにかけた直後のおにぎりには、蟲は一切入っていない。今まで外で出された食事は、小食だと言い張って逃げてばかりだったから、これは盲点であった。


 味は考慮していない。味音痴な僕は栄養のバランスだけを考えていればいい。


 それにしても、綾乃の不用心さが気がかりだ。


 僕を信頼しすぎである。数回しか会っていない他人を自宅で一人にするなんて、肝が据わりすぎている。


 綾乃は今日も大学で、医術の授業があるらしい。


 医術の大学とは、日本で医者になるに当たって、ほぼ確実に通過しなければならない教育機関なのだという。


 やがて授業が終わると、アイドルとしての活動が始まる。


『アイドルといっても、本格的に活動を始めて一週間と数日だからね私。紗那が居なくなって、すぐに失踪したってニュースが流れたんだけど、なんとかならないかって、プロダクション側から泣きつかれちゃったんだ。今までも紗那の代役をやったことは何度かあったし、空いた穴は、誰かしらが埋めなければならないのは自明だからさ。ちなみに明日は仕事ないから、夕方過ぎには帰ってくるわよ』


 双子ならではの替え玉営業であった。


『そういうことで、私は家を空けることが多いのよ。私の部屋と、その隣にある紗那の部屋さえ入らなければ、家の中は好きに使って。トラブルがあったら電話してね。また今度詳しく話をするけれど、理人みたいな奴は、ひとまず信用する方針にしているの。理解しがたいでしょうけれど、私の方はそんな感じだから、あとはテキトーに宜しくやっててもらえるかしら』


 素直に飲み込めない部分もあったが、テキトーに頷いておくことにした。


 綾乃は味方になってくれるらしい。


 それだけで、心が少し楽になった。


 おにぎりを平らげてから脱衣場に行くと、未開封の歯ブラシがあった。


 有難く頂戴して歯を磨く。


 お風呂は怖くて入れなかった。怖い理由は分からなかった。害虫と水の関係が、頭の中でリンクしてしまったのかもしれない。やむなくバスタオルを濡らして身体を拭いた。


 カーテンは閉め切っている。太陽が眩しかった。


 こんなに眩しいものだっただろうか。


 昼になって煮物とおにぎりを食べる。


 異変を察したのは、そのあとすぐだった。


 蟲が多い。


 明らかに増えている。


 恐怖に駆られた僕は、腰から下を凍らせたまま、部屋全体を見回した。


 太陽が南中に達したとはいえ、エアコンをつけているから、室温自体に大きな変化はないはずだ。窓だって開いていない。蟲が増える原因が思い当たらない。


 憩いの場が、害虫どもに穢されかけている。


 昨晩まではこんなんじゃなかったのに。


 この家も駄目なのか。


 くそ。


 なんで僕ばっかり、こんな酷い目に遭わないといけないんだ。


 舌打ちをする。


 火打石を素早く鳴らすように、何度も舌打ちしながら地団駄を踏んだ。


 座っていたソファの背もたれを拳骨で殴る。威嚇する獣のように荒々しく息を吐く。自分の置かれた状況が腹立たしかった。息を吐いている最中は感情のコントロールが付くが、息を吸った途端に、またイライラし出してしまう。


 変だ。


 どうして、こんなに苛ついているんだろう。


 いくらなんでも異常だ。ストレスで、今にも頭が破裂してしまいそうだった。誰か頭に穴を開けて、この蟠りを抜き去ってくれはしないだろうか。なんなら目玉を引き抜いて、楽にしてくれたって構わない。


 僕は何を考えて、狂って、変な気持ちに。


 ご飯が食べたい。


 さっき食べたばかりなのに。


 空腹で苛立っているのだろうか。


 ご飯が食べたい。


 冷静に考えろ。冷静になれ。冷静に考えるのが面倒だ。僕はご飯が食べたいのだ。何度も言わせるな。僕はお腹が空いているんだ。


 手と足が自我を得たように、小刻みに痙攣をしている。


 僕は冷蔵庫に向かって走り出していた。上部のツードアを観音開きにする。おにぎりの余りが一つだけ現れた。蟲が混ざっているように見えない。中には居るかもしれない。電子レンジなんて待っていられない。お腹が空いていた。仕方がなかった。僕は、おにぎりを包んでいるサランラップごとかぶりついた。


 上手く食べられない。じれったい。床に叩きつける。おにぎりが潰れた。ぐちゃぐちゃだ。サランラップがはだける。白米が外気に晒された。食べたい。僕はみっともなく這いつくばった。床にいた害虫を両腕で押しのけて、白米に舌を伸ばした。


 犬のように白米をむさぼる。


 不味い。これじゃない。僕が求めている味はこうじゃない。足りない。満たされない。


 お腹が空いた。ご飯を食べたい。なんで分かってくれないんだよ。イライラしてその場に転がり込む。奇声を上げた。ソファの方まで横転する。カマキリの子供たちが服越しに潰れていく。心地いい。イクラみたいだった。カマキリは美味しいのだろうか。食べてみないと分からない。冒険心は大事だと思う。今日の僕ならイケるはずだ。横転を止めた僕は床に寝そべって、カマキリの子供を睨みつけた。シラスを食べるようなものだろう。色も似ている。ひとたび胃の中に入れば、草も肉も蟲も人も押しなべて蛋白質になるものだ。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああッ」


 獣のつもりになってカマキリの子供を追いかける。手と足の動きがバラバラで、溺れている人みたいになっていた。巨人に襲われたカマキリの稚児が、可愛らしい悲鳴を上げながら逃げていく。きぃきぃ。手足をぶつけた床が大きく響く。それに合わせて、蟲たちが踊り出す。これは面白い。盆踊りみたいだ。楽しくなれ、もっと楽しくなってくれ。


 気持ちが悪い。吐きそうだった。みぞおちを締めつける悪心を発散するためにも、蟲たちにはもっと盛り上がってもらわなくちゃ困る。僕は手のひらを床に叩きつけた。そういえば僕の前世は天才ドラマーだったのを忘れていた、来世はカマキリになる予定だ。ゆえに僕は、カマキリから信心を集める義務がある。信心とは畏怖だ。僕を崇めなければ生贄として我が食してしんぜよう。カマキリおいちいおいちいカマキリおいちい。


 生まれて初めて食べたカマキリは、ほこりの臭いがした。


「ぇ、あ?」


 四つん這いになって、フローリングの板目に舌先を這わせている。


 舌を戻すのを忘れていた僕は、鼻から空気の抜けた音を出した。


 よだれが垂れる。蟲どもは猛獣と化した僕から逃れるように、部屋の隅に避難している。


 僕は、何をしているんだ。


「うあわああああああッ!」


 身体をひっくり返して、飛び跳ねながらテレビ台の近くまで後退する。


「なんで、なんでなんでなんで!」


 僕の唾液が床で池を作っている。


 悪夢だ、こんなのは悪夢に決まっている。


 きぃきぃと蟲が鳴いている。どんどん鳴き声が大きくなっていく。


 ぎゅっと目をつむった僕は、頭を抱えて身体を丸めた。


 見たらダメだ。絶対にダメだ。


 鳴き声がする方を見たら、嫌な予感が確定してしまう。


 僕の全身がマッサージ機みたいに震え出す。奥歯がガチガチと鳴っていた。


 見たら死ぬ。そんな気がしてならない。だがこれは僕が作り出した幻影だ。認めなければいいのだ。そこには何もいない。雑草を刈った後のような青い悪臭が鼻を突く。


 怖い、怖い、怖い。


 ちょっとだけ見よう。見てみよう。そうしよう。確認は大事だ。化物がいない確認をすべきだ。僕は冷静さを取り戻している。落ち着いて目を開くんだ。右側にはダイニングがあるはず。多少の蟲はいるかもしれないが、取るに足るものではない。


 震えの止まらない眼瞼を上げる。


 巨大なカマキリの頭が、ダイニングを押し潰して僕と向かい合っていた。


 茶色い顎を小刻みに動かして、僕を威嚇している。


「あああああああああああああああああああッッ!」


 僕は絶叫しながら走り出した。


 足がもつれて転びそうになる。低く唸りながら堪える。手足が痙攣して制御不能に陥った。不意にカマキリの子供を踏んで足を滑らせてしまう。


 顔面から床に滑り込む。


 黒板を引っかいたような音が聞こえた。歯をこすり合わせている。殺されてしまう。逃げたい。鼻から血が出ている。構うな。ほうほうの体でリビングから脱出する。玄関を見やる。


 玄関ドアが無くなっていた。階段も消えていた。行き止まりになっている。


「ううあ、あぁ、ああああ」


 顔が、鼻水と血と涙で汚れていく。


 蟲が一匹もいない場所へ行きたい。一刻も早くこの惨状から逃げ出したい。


 階段だった部分の真下にある物置が目に入る。ここしかない、間に合え、カマキリの気配が背後に刺さっている。隠れないと終わる、早く隠れないと隠れないと隠れないと。


 蛇腹みたいに切れ込みが入ったドアのノブを引いて、中にあった段ボールを持ち上げる。それを三回ほど繰り返し、最後に残った掃除機を外に追い出すと立派なスペースが出来上がった。


 物置の中には、奇跡的に蟲がいなかった。


 カマキリは追ってこない。


 僕は階段下の闇の中で、震えながら綾乃の帰りを待つことにした。

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