5-1 四條綾乃
四條家は駅から徒歩十五分、住宅街のど真ん中にあった。
立派な庭付きの、二階建て白塗りマイハウスである。
庭は物干し竿と子供用のプールくらいであれば、二つ並べても余裕があるくらいには広い。犬小屋は無かったが、これだけ大きな家宅であれば、室内でも飼育が出来そうだった。
家族と同居しているのだろうか。
肩ほどの高さの門扉を通って、公道から敷地内へ侵入する。
二段上がった先にある玄関の前に立った。
「緊張してんの?」
カマキリの子供が、無数に玄関のドアにくっついていた。
黒ゴマのように小さな眼が、僕を見つめている。
卵から孵化したばかりなのか、色が透明に近い。親カマキリは見当たらないが、威嚇はしないに越したことはないだろう。
「恐怖心の方が強いですね」
「私の目には一般的かつ白いドアにしか映っていないのだけれど、他に何かあるのかしら」
「小さなカマキリが沢山います」
「縁起が良いわね」
「害虫ですよあれは」
「鰯の頭も信心からって言うじゃない。『幸運の虫』とか『祈り虫』とか呼ばれているくらいだから、試しに拝んでみたら道が開けるかもしれないわよ」
綾乃が玄関を開けて、僕を招き入れる。
正面には階段。左にリビング、右に和室。階段下に物置がある。階段を横切った先には浴室と脱衣所が設置されているらしい。和室の襖は閉じられている。リビング側のドアは外されており、代わりに木製のビーズカーテンが、ドア枠からぶら下がっていた。
予想はしていたが、屋内にも蟲が溢れていた。
子供のカマキリが多くまぎれている。
幼かろうが蟲には違いない。
「家の中にも蟲っているの?」
「いますね。そういうように見えます。蟲の中で寝た経験はありませんが、外に出れば基本的には蟲ばかりでしたから、このくらいなんとかします。なんとかしないといけない」
国立の喫茶店よりかは何倍もマシだった。
フローリングは蟲に覆われていないし、壁や天井には白い壁紙が見えている。少なくとも僕が知り得る限りで、この建物内が最も清潔な場所のような気がした。
理由は定かでないけれど。
蟲が見えてしまっている原因が分からないのだから、考察のしようがない。
革靴を脱いで土間から廊下に上がる。
靴の中敷きと靴下の間に、粘液を分泌する蟲がいたらしい。糸を引くような感覚が足底にへばりついた。廊下の板目に軽くこすりつける。他の蟲がやってくる前に、綾乃の背中を追ってリビングの方へと入っていく。
LDK構造のリビングには、大型テレビと、黒革のL字ソファが据え置かれていた。
奥には、家族で食事を囲めそうなダイニングテーブルがある。天井からは小型化したUFOみたいな白い照明が垂れていて、向かいにはキッチンの入り口が開けている。リビング側には、カウンターが飛び出していた。
「座ってて。お茶を淹れるわ。一回沸騰させた後の方が、蟲が入ってない感じがして、安心して飲めるでしょ」
国立の喫茶店で芋虫が入っていると自覚したのは、しばらく置いて冷めたコーヒーの中身だった。予め熱湯に近い飲み物が入っていると認識しておけば、蟲が見えてこないというのも一理ある。
ソファに座る。尻で蟲を潰した感覚はなかった。
肺から息を吐き出して、疲れのたまった身体を背もたれに預ける。
裕也さんは無事だろうか。
無事な訳あるものか。本当は出来るだけ早く助けに行ってあげたい。
だが、僕一人が抗議に向かったところで元の木阿弥である。
裕也さんが身を挺して僕を逃がしてくれたのに、それを無駄にしてしまうのは、絶対に避けたかった。
テレビ裏の壁をよじ登っていた幼いカマキリと目が合う。
縁起物を拝めば、状況が好転するのだろうか。
そんな簡単な話でもないだろう。
「はいお茶、火傷に気を付けて」
綾乃がお盆に湯飲みを乗っけて戻ってくる。湯飲みからは湯気が立ち上っていた。
お盆が僕の前に差し出される。
礼を伝えて、素手で受け取ろうとした。
「あっづ!?」
「あんた馬鹿なの?」
手で取るように勧めておいて、それはないだろう。
「でもまあ、このくらい熱かったら、虫だって寄ってこないでしょ」
お盆がソファ前のローテーブルに置かれる。
湯飲みの中に蟲はいなかった。
綾乃が隣に座る。
「改めて我が家へようこそ。色々と情報共有をしたいところだけど、私はこれ飲んだら寝るわ。眠いしね。理人の寝床は、二階の部屋以外だったら何処でも好きに使っていいわよ。ちなみに、私の部屋は階段あがった先の右手ね」
「改めて確認しますけど、泊まっていいんですか」
「私も私で今更なんだけど、その質問の意図を聞かせてもらえるかしら。理人には、私の招待を受ける以外の選択肢はないはずなんだけど」
「どう見ても、一人暮らしには見えないので」
「今は一人暮らしよ」
「そう、ですか」
今は。
含みのある言い方だ。
「あと、僕って一応は男なんですけど」
「無用な心配でしょう。それとも理人って、イグアナに欲情しちゃう系の人なの? 他人の趣味にあれこれ文句は付けたくないけど、憐みすら芽生えてくるわその性癖」
男として気を遣ったつもりなのだが、なぜ僕が憐みを受けなければならないのだろう。
「ナチュラルに自分をイグアナ呼ばわりしちゃったけど、私って、やっぱりイグアナに見えるんだ。何色? かわいい?」
「白とピンクの間みたいな」
「ウーパールーパーじゃあるまいし」
「これは僕の頭の中で合成されている錯覚でしょうから、実在するか如何については関係ないですよ」
「私のイメージカラーが、白とピンクの間ってことか。悪くないじゃん」
綾乃が、両頬に手を添えて喜々としている。
「写真でもイグアナに見えるのかな」
「今のところ写真の世界に限っては、有りのままの姿になるようです。海や空は青いですし、蟲が蔓延っていたり、二足歩行の獣がいたりという写真とは、まだ出会っていません」
「そうなんだ。もっと早く相談してくれれば、誤解も少なく済ませられたのに。なんて文句を言ったところで、それはただの後だしって奴よね。よいしょっと」
ソファを立った綾乃が、キッチンカウンターの端に置かれていた写真立てを持ってくる。
「最初からこうしていれば済んだ話だとは思うけれど、私も理人たちを警戒していたし、私の正体を明かすにはこのタイミングしかなかったのでしょう」
「なんの写真です?」
「私たちが写っているやつ。これなら私の顔も見られるでしょ」
両手サイズの写真立てを受け取る。
「イグアナ呼ばわりされて、ようやく謎が氷解したわ。どうして理人は、初対面で私の正体に気付かなかったのかって、ずっと頭をひねっていたの」
写真には三人が写っている。公園で遊んだ折に撮影したものらしい。
背景は緑一色で、平坦な草原が広がっている。カラフルなピクニックシートを敷いて、弁当箱をつついていた。
「私が依頼主を探している理由だって、普通ならすぐに察せられるはずなのよ。再三だけど最初はすごく警戒したわ。親友の死体を探している、なんて嘘まで付いちゃったくらいにね。でも気付かなくて当たり前だったのよ。だって理人は、私の顔が分からなかったんだもの」
何年も前の写真のようだが、見紛うこともなかった。
写真に写っている男は、あの依頼主、勲矢だった。
ピクニックシートの上で胡坐をかいた依頼主は、あどけない笑みを浮かべた二人の少女を抱きかかえている。
黒髪を長く伸ばした少女は、合成写真かと疑ってしまいそうなほど顔が整っていた。
幸せそうな家庭を写した一枚。
紗那ちゃんが二人いる。
そうではない。
そうではないのだ。
「これが私の正体よ。四條家の家族構成。父親の勲矢、姉の紗那と、双子の妹である綾乃。私はね、お姉ちゃんの死体を持ち去って、失踪した父親の行方を捜しているの」
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