4-5 力なき愛と信仰の行く末に

 南阿佐ヶ谷駅前で、蟲蔵と化したタクシーから放り出された僕は、見知らぬ土地を徘徊していた。


 どの店も電灯が消えて、シャッターが下りている。


 細い道をぶらついていると、蟲まみれになった酔っ払いたちが肩を組んで歩いていた。


 声を掛けられる。泥酔しているのか言葉が正しく聞き取れない。無言で会釈をしてすり抜けた。背中の方から気持ちわりぃ奴だと暴言を吐かれた。お互い様だった。


 南阿佐ヶ谷という地名は知っているが、僕には土地勘がない。どちらが新宿側なのかも、推測がつかなかった。


 通行人には声を掛けられない。


 掛けたくもない。全身が蟲に犯された化物と、会話なんてしたくなかった。


 交番はもっと悪手だ。


 警察は身分証明を求めるものだと、裕也さんが前に教えてくれた。


 それに相応しい物なんて僕は一つも持ち合わせていない。身分どころか反社の関係者と発覚したものなら、職務質問で済まされるはずがなかった。


 タクシーでもらった釣銭を、胸ポケットに突っ込む。


 手の甲に尖ったものが当たった。引っ張り出す。


 紗那ちゃんの写真だ。


 元を辿れば、この子の行方を追おうとした所から全てが始まったのだ。


『この子のことを知ろうとすると、君は大切なものを失うかもしれません』


 全てを失った代わりに得たものは、惚れた死体の写真だけだった。


「心底どうかしてる」


 握り潰してしまおうか。


 結局僕は折り曲げすらせずに、それをワイシャツの胸ポケットの奥に仕舞った。


 頭を切り替える。これからの方針を立てなければならない。ヤクザマンションで診療をしていた闇医者から一転、ホームレスである。


 警邏に職務質問をされないようにだけ、留意しなければならなかった。


 道中に転がっていたホームレスらしい化物は、靴を履いていなかった。衣服はボロボロでくたびれていて、肌も黒煙に吹きさらされた後にように汚れている。


 僕はと言えば、二日前にシャワーを浴びていて、さほど服にも皺は寄っていない。靴を脱いだところで、せいぜい外で酔いつぶれた若い男のようにしか演出できないだろう。泥酔した不審者として扱われてしまうリスクがあった。


 裕也さんは僕を、南阿佐ヶ谷駅へ連れていくよう、運転手へ伝えていた。


 理由があるはずだ。


 標識を見ながら、南阿佐ヶ谷駅へ戻るルートを辿る。駅周りをぐるりと回って、散策するような歩き方になっていた。


 街灯が眩しい。鬱陶しい。くらくらする。見上げたところで、どうせ蟲が集っていて気分が悪くなるだけだ。下を向いて歩こう。その方が顔も隠れる。


 南阿佐ヶ谷駅の、別の出口へと到着する。


 シャッターが下りていて中には入れそうもない。両脇にはカフェらしい店舗が構えている。店先に屋根がないから、宿代わりになりそうもなかった。


 明かりがついていない店の前に、こんな深夜にもかかわらず誰かを待っている人がいる。


 近づいてみる。


「酷い顔ね」

「僕が来ること、知っていたんですか」


 透け感のあるレースブラウスを着た、二足歩行のイグアナ。


 四條綾乃である。


 明るい色味のデニムパンツを履いている。白いサンダルからは黒い爪が飛び出していた。


「人の私服をジロジロ見るなんて面白い趣味ね。初めて会った時も、こんな会話をしたような記憶があるんだけど、そんなに私の身体って魅力的なのかしら」

「誤解です」

「何がどう誤解なのか述べよ」

「そんなんじゃないんです。ただ、蟲がいないなって」


 綾乃の身体には虫一匹ついていない。爬虫類特有の硬そうな鱗が外気に晒されている。


 粒状の羽虫が綾乃の眼球に向かって滑空していく。半透明の瞬膜がシャッターのように降りて弾いていた。


「そう」


 寒そうに腕を組んだ綾乃が、目を伏せて嘆息する。


「理人には本当に、蟲だらけの世界に見えているのね」


 そういえば綾乃とは、国立の喫茶店で怒鳴り散らかして、それっきりだった。


「この前はすみませんでした。いきなり怒鳴ったりして」


 きょとんとされた。


 はあ、と溜息をついた綾乃が、頭を軽く下げる。


「私も不躾だった。理人の人生が思わぬ方向にシフトした責任は、私にもあるから」

「僕の状況を把握されているんですか。どうやって」

「裕也さんから連絡がきたのよ。『お前も責任を取れ』って怒鳴られた。言われなくても、自分が蒔いた種くらい拾うつもりだったけれど」


 連絡を取り合うような仲だったのか。


 綾乃が駅前で僕を待っていたのは、裕也さんから頼まれたからなのだろう。


「お互いに話をしたいことがあるでしょうし、歩きながら情報を共有しましょうか。構わないわよね。って言っても、拒否権はないんだけど」

「何処へ行くんですか。僕を匿えるような場所なんてもう」

「私の家に行きましょう。近藤組の連中には、まだ住所も知られていないみたいだし」


 名案だと言わんばかりに、凛然と綾乃は人差し指を立てていた。


「立派なマンション住まいだった理人には申し訳ないんだけれど、うちの安普請でしばらく我慢してもらうわ。外で寝るよりかはマシでしょ。ご飯くらいは振舞ってあげるから安心しなさい。料理は得意なのよ」


 有難い申し出ではあったが、不安まではぬぐえない。


 蟲が巣くっている場所では、まともに睡眠が取れる気がしなかった。


 今や診療所に戻ったとしても、同じことなのかもしれないが。


「お世話になります」

「素直で宜しい」


 味音痴なことは伏せておこう。料理を振舞ってくれるという綾乃の気を煩わせかねない。


 街灯に照らされた私服のイグアナが、軽やかにステップを踏んで道を先行する。


 小さく手招きをして、蟲まみれの住宅街へと僕を誘うのであった。


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