4-4 運命の分岐点

 食欲がない。運ばれてきた料理には一切手を付けなかった。


 この二日間は服も変えていない。シャワーも浴びていない。食事はおろか、水しかろくに摂取していない。


 それでも腹は空かなかった。


 イライラして、眠気すら訪れない。


 鼻息が荒くなっている。


 意識的に深呼吸をした。


 無性に腹立たしくなって、足の裏でフローリングを蹴り飛ばす。何に腹を立てているのか具体的には思い当たらないが、とにかくむかついて、処置室の棚に入っているものを全てひっくり返した。壁にも投げつけた。


 楽しくて笑えた。


 突っ張った表情筋の感触が気持ち悪くて、またイライラし始めた。ひとしきり暴れて、疲労感を得た僕は、ソファに横になった。


 三時間後、深夜二時くらいに玄関のインターホンが鳴った。ソファで寝てしまっていたらしい。寝ぼけ眼の僕は、覚束ない足取りで玄関まで歩いて行く。


 鍵を開けて玄関のドアを外側に押す。


 僕はすぐに頭を覚醒させた。


 傷だらけになった裕也さんが、肩で息をして、屋内に身体を滑りこませてきたのである。


「よう」

「無事だったんですか!? 傷だらけじゃないですか!」


 裕也さんが左肩から壁際に寄りかかる。右瞼は青く腫れあがり、目が半分しか開いていなかった。近藤組の懲罰担当にこっぴどく虐げられたらしい。全身の至る所に発赤が散見される。顔中には、赤黒いかさぶたが張り付いていた。


「外でおねんねしている連中が起きちまう。とっとと出るぞ」


 外には小平さんと、もう一人別の組員が待機していたはずだ。エントランスの周りにも、常に数人のガードマンがたむろしている。


 倒してきたのか。


「いけません裕也さん! 僕を連れ出すなんて、次こそどうなることか」

「わーってるよ、そんなこと、百も承知なんだこっちだって」

「だったら」

「それでもだ。お前が診療所に居続けたいっていうのなら、それでも構わない。前までは俺だって、そういう未来も良いんじゃないかって、面倒ごとから目をそらしてきたんだ。でもお前は知っちまったんだろう。ここに居続ける選択の危うさがよ」

「裕也さんをこれ以上巻き込めないです」

「今さら過ぎんだよ。いつも通り、黙って兄貴分を頼っておけって」

「兄貴分だから頼れないんですよ! 次は絶対にタマを取られます。いくら僕でも、死んだ人間までは治せません」


 ふんと小馬鹿にされる。


「俺は死なねえ。今回だって、こうして不死鳥の如く舞い戻ったじゃねえか。お前のことはシラガ先生からも任されてんだよ。このままにはしておけねえ」

「裕也さんを犠牲にしてまで、我がままは貫けないです」

「我がままって言っている時点で、外に出たいっていう本音が漏れてんじゃねえか」

「そうだとしても、外に出たかったとしても! 紗那ちゃんの行方だとか自分の将来だとか、もっと知りたい情報があったとしても、そんな大きな犠牲を払ってまでやるべきことなのか、もう僕には判断が出来ないんですよ!」


 裕也さんが胸ポケットから、タバコの箱を取り出す。


 慣れた手つきで一本だけ取り出して、火をつける。


 煙を吐き出すと、玄関のドアに背を預けた。


「具体的な損得なんざ、実際に動いてみねえと見えてこねぇもんだろ。小難しそうな言い訳ばっかりしてんなよ」

「言い訳じゃありません。僕は裕也さんの身を案じて」

「じゃあ言わせてもらうぜ。俺の身を案じるってんなら、これから俺が言うことを一文一句漏らさず、その耳と頭に通せ」


 煌々と灯った煙草の先端が、数ミリだけ焼けこげる。


「ここまで来ちまったんだ。もうお前はこの診療所にはいられねえよ。無理に居座り続ければ、どんどん疑問と違和感だけが内側で膨れ上がって、息苦しくなった挙句にみっともなく破裂するだけだ。四條綾乃と面会したときにも、そうなったじゃねえか。お前はあれを繰り返すっていうのか」

「繰り返しません。診療所にいれば安全なんです。蟲もいないし、怖いことなんて一つも起こらないんです。寝て起きれば、またいつもに戻れます。患者さんが来て、治してあげて、僕の隣には裕也さんがいて。それで僕の世界は完結するんです。そのはずなんです」

「そんな保障どこにもないだろ。お前、蟲が見えるって言ってたよな。身体に這ってるってよ。蟲なんかいねえんだよ。それはお前の頭の中で作り出された幻影だ。どうしてお前にだけ世界がぶっ壊れているように見えるかなんて、俺には想像もつかねえよ。でもよ、色んなことを知っちまったお前にとってこの診療所は、もう今までと同じような目では見られねえはずだ。今のお前にとってこの診療所はなんなんだ。平和で楽しくて、パラダイスみたいな場所だったのか? それがこれからも続くと本気で考えているのか? 近藤組に飼い慣らされて、あのデスクの前に座り続けても、お前の人生は腐り落ちる一方だぞ」


 裕也さんが掲げた左手の人差し指は、リビングの奥にある僕のデスクを指していた。


 デスクには読みかけの教科書が散らばっている。


 その上にはノートパソコンと古びた聴診器が転がっており、手前にある事務椅子には、皺だらけの白衣が投げ捨てられていた。


 十数年間も付き合ってきた診察室だ。シラガ先生から受け継いだ空間だ。昔からこの部屋は不変だ。蟲もいない。敵もいない。新しいこともない。そんな診療所が好きだった。唯一の居場所だったこの聖域は、心と生活に安寧をもたらしてくれた。


 白衣に黒いシミが浮かんでいた。


「嘘だ」


 動いている。


 蟲だ。


 線維の内側から現れた大量のダニとノミが、白色の生地を瞬く間に食い潰していく。


 本と本の隙間からも、大量の害虫が滝のようにこぼれ落ち、フローリングの床へと広がっていった。


「こんなの嘘だ!」


 診療所が害虫の巣窟へと化していく。


 リビングの明かりが暗くなる。電灯の周りに蟲が巣くっているらしい。細い肢を床に擦り付ける音がする。布生地の縫い目から這い出すように、壁をすり抜けて来た黒いゴキブリが、縦横無尽に部屋の壁紙を走り回っている音だった。


「なんで! やだっ、来るな、こっちに来るな!」


 黒い波がこちらに押し寄せる。僕は玄関ドアの隅まで後ずさった。


 数十秒も経たない内に部屋中が黒く濁っていく。デスクもオフィスチェアも、そこにあった白衣も、ソファも廊下も、全てが黒い波に飲み込まれていく。


「外に出よう理人。もうそれしかないんだ」


 蟲がいないのは、僕と裕也さんが立っている場所だけだ。


 裕也さんの上腕をつかむ。すがりついた。ずるりと滑った。指先が緑色の液体で染まっている。裕也さんの服の下にいた蟲を潰してしまったらしい。僕は声帯を引きつらせながら、ドアにへばりついた。


「助けて、助けて下さいよ。僕の居場所がない、駄目になってしまった、国立であの話を聞いたせいだ、僕の内側で何かが変わってしまったんだ、何処もかしこも蟲だらけになってしまった、終わりだ、僕はもう終わりなんだ」

「理人!」


 両肩を裕也さんに揺さぶられる。


「変われ! 今すぐ! ここで! さもないと、お前の人生まで壊れちまう!」


 悩む時間なんてなかった。考える時間すら惜しかった。


 力いっぱいに頷く。


 次の瞬間に僕は、裕也さんに手を引っ張られて、玄関から飛び出していた。


 裕也さんに倒された小平さんたちが、廊下で倒れていた。全身が蝉に覆われている。僕らが駆け出すと、廊下の壁材に張り付いていた白い蛾が、一斉に空へと飛び立っていった。


 エントランスから公道に出る。生臭い空気がぬるりと首筋を舐める。足元では細々とした害虫が蠢動し続けていた。膝まで昇ってくる前に動かねばならない。一歩を踏み出さねば、あっという間に害虫が寄ってきてしまう。


 蹴散らせ、踏み潰せ、蟲は生き巣を求めて身体を昇ってくる、振り落とさねば自分が侵されてしまう。死に物狂いで蟲を払い落しながら、杳として知れない闇夜を行くのだ。




 つらかった。




 走りながら泣いていた。




 帰りたかった。




 戻る場所なんて、僕にはもうなかった。




 初めから、あそこは僕の家ではなかったのだ。




 僕の居場所は、どこにあるのだろう。




 大通りに出る。街灯の表面に害虫が張り付いている。辺りは仄暗い。サラリーマン風の男が、僕らの前を素通りしていく。蟲のせいで顔はおろかネクタイの柄すら見えなかった。


 視線を肌で感じて見回す。四方八方から通行人に観察されている。僕らを遠巻きに観察している人たちの眼窩から、死んだ蜂が滝のように落下していた。これも僕が作り出した幻影だというのか。


 公道に出た裕也さんが手を挙げると、一台のタクシーが止まった。


 促されるままに後ろの座席に座る。


 ドアが閉まる。助手席側の窓が開いた。


「おっちゃん、南阿佐ヶ谷駅まで頼む。金はこれでやってくれ。釣りは、後ろに乗ってる兄ちゃんに渡して欲しい」


 歯を出した裕也さんが、運転手に二万円を渡す。


「わりぃ理人、これしか思いつかなかった」


 裕也さんが申し訳なさそうに、後頭部をがりがりと搔いている。


「なに言ってるんですか、一緒に乗って下さいよ」

「しんがりなら任せておけ。格好つけさせてくれや」

「殺されちゃいますよ! すぐに追手だって来ちゃいます!」

「上等だ。殺される前に、全員ぶっ殺してやんよ」

「下らないことほざいてないで、さっさと乗れって言ってんだよ僕は!」


 目を丸くした裕也さんが、タクシーから身を離す。

 微笑まれた。


「それだけ元気なら、俺も安心できるってもんだ。おっちゃん、行ってくれ」

「運転手さん待って下さい、出さないで下さいよ」

「出してくれ。あんまり長いこと停まってると、後ろに迷惑になる。おっちゃん。マジで早く出さないと、キズもん同士の抗争に巻き込まれるぞ。とっととこの人畜無害な一般人を、安全なところまで運んでやってくれや。俺とこいつのナリを見比べれば、どっちの意見を尊重すべきなのか分かんだろ」


 僕が座っている席からでは、運転手の顔が死角になっている。長円形の茶色い虫が運転席のヘッドレスト上を蠢き回っていた。


「なんつーかよ。命を賭けて子供を守るのは親の役目で、いじめっ子から弟をかばうのは、強い兄貴の役目。そうやって、昔から相場が決まってんだよ。……なんてな。いつかゆっくり、この話もしたかったんだがなあ……俺が五体満足で生きて帰れたら、シラガ先生の墓参りでもしながらよ、酒を飲んで語り明かそうぜ。約束する」

「車の中で、いくらでも聞きますって! 大事な話なんでしょう!? だからお願いです、置いていかないで、僕を一人にしないで!」


 追手の怒声が路地裏から響いてくる。僕と裕也さんの名前を呼んでいた。


 時間切れだ。


「早く出せやッ! 窓ガラスぶち割られてェのかッ!」


 裕也さんの罵声を合図に、運転手がギアをドライブに入れる。エンジンの駆動音を轟かせたタクシーは、車窓を閉めることなく車道へと走り出した。


 ドアハンドルに手をかける。オートロックがかかっていた。


「お客さんじっとしててよ。こっちも訳わかんねえんだ。運ぶところまで運んでやるから、飛び降りとかはよしてくれ」


 バックウィンドウから後方を見やる。


 裕也さんが来た道を丁度戻り出すところだった。


 四方の車窓が蟲で覆われる。


 後ろも前も見えやしない。それでもタクシーは僕を運んでいく。


 居場所も大事な人も、仕事も夢も、全て失ってしまった。




 一寸先にあるのは、闇と蟲だった。

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