4-3 インスタント自殺衝動

 診療所に連れ戻された僕は、怒りで茹りかけた頭を水のシャワーで冷やすことにした。


 頭の中で怒りと失望とがぐるぐる渦巻いている。


 衝動的に壁に拳を打ち付ける。皮膚の表面から骨に向かって熱が滲む。シャワーが指に沁みる。第二関節から出血していた。


 シャワーを出しっぱなしにしたまま、バスタブの縁に腰をかける。


 不快だ。独力では解決の見込めない難題が、脳みその表面にこびり付いている。金槌のように、頭をバスタブに打ち付ければスッキリするのだろうか。


 空っぽの湯船に身体を入れてしゃがむ。両手をバスタブの縁に添えて構える。


 冷静になれない。額を自傷するなんて狂気の沙汰だ。下手をすれば頭蓋内にまでダメージが及んでしまう。冷静な自分を装った僕は、冷静な振りをして、一秒前の自分は冷静ではなかったと判断する。僕は力の入らない足でシャワールームを出た。


 相談する相手はもういない。綾乃は来ない。裕也さんもいない。


 時間をかけて身体を拭いて、いつもと同じワイシャツを着る。胸に写真が入っているのを確認する。感慨はない。ルーチンでしかない。


 一目惚れした相手に合わせる顔なんてない。


 診療室のソファに座る。蟲一匹いない白天井を仰いだ。


「死にたい、嘘だ、本当は生きたい、それも嘘かもしれない」


 すぐに静かになる。


「石になりたい、イグアナでもいい」


 この静けさが、少しだけ心地よかった。


 確たる一つの存在として、自分がこの空間に君臨しているのだと実感が得られるからだ。


 私物の少ないこの部屋が好きだった。


 部屋が空っぽだと、自分の内側がみっしり詰まっているように誤魔化せたからだ。


 蟲一匹いない、簡潔にして清潔なこの診療所は、大切な場所だった。


 外の世界を知らない僕にとっては、この場所こそが聖域のようなものだったからだ。


 ベッドもお風呂もある。服も食事も支給してもらえる。不自由のない生活を送れる。定期的に業者が清掃に入ってくれる。業務が始まれば、皆が僕を求めてやってくる。感謝してくれる。嫌な物事なんてほとんどない。


 ヤクザの息がかかっている診療所だから、誰も騒ぎなんて起こしたがらない。怪しい奴がいたとしても、裕也さんが事前に追い払ってくれる。


 僕は管理されていた。


 ここは犬小屋だったのだ。


 捨て犬を拾ったヤクザが、甲斐甲斐しく世話をするために作った部屋。


 それこそが、僕の知る世界の正体だった。


 図鑑や本で見た青い空や海は、架空のものだと学習していた。空が虹色に見えるなんて言えるわけがなかった。世の中は蟲に犯され、人類は存亡の危機に見舞われているなんて相談できるはずがなかった。


 ぶっ壊れたまま成長をしたという意味では、僕は特別であったのかもしれない。ヤクザや風俗嬢を診ることに特化した人間という意味では、確かに僕は重用に値する存在であったのかもしれない。


 普遍的ではなかった。異質であったのだろう。


 僕の人生の関節は、最初から外れていたのだ。


 そんな人間がまっとうな社会へ脱出したとして、どのように生きていくべきなのだろう。


 僕には人を診る能力しかない。医師免許とやらを持っていない僕は、それすらも禁じられてしまう。


 力がない。働けない。惨めだ。社会人として価値がない。そんな情けない自分を否定したい。足掻くのには手足が必要だ。手足を動かすのには力が不可欠だ。しかし力を手に入れる方法を僕は知らない。誰にも教わっていない。使い物にならない。


 僕は粗大ごみだ。誰にも知られずに焼却されたかった。消えたかった。


 衝動的な自殺願望が、僕の中で芽吹き始めていた。無価値な肉人形と化した、哀れな自分を認めたくなかった。


 自殺は駄目だ。重たい悩みを抱えた患者にも、そう話をしてきた。そのはずだった。僕は自殺をしたいのではない。もう自殺しか選択肢がないのだと、視野が狭まっているのだ。


 魅力的で賢い選択肢に思えて仕方がなかった。発作的に頭に浮かんでしまう。自殺衝動は、僕の冷静さなんて待ってはくれやしない。


 自殺が駄目なら、他の方法で自分を満たすしかない。


 空っぽの承認欲求を満たすには、診療を介して患者と触れ合うしかなかった。


 この部屋に留まるしかない。


 僕は近藤組に首輪をかけられていないと死んでしまう、そんな力のない奴隷であった。

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