4-2 闇医者の本質

 近藤組の事務所は、歌舞伎町の一角に建っている。


 僕が連行されたのは事務所ではなく、新宿区四ツ谷の高級住宅街だった。


 四代目近藤組組長、稲葉義武氏の自宅だ。


 いつ来ても建物の威風に圧倒させられてしまう。一言で表現するなら巨大な武家屋敷だ。


 凄まじい地価を誇るこの高級住宅街の中で、大きな池を囲うように和風庭園を盛り込んでいる家宅は、この武家屋敷だけである。


 隠遁するつもりもないのだろう。


 ヤクザらしく人目を憚って生活を送るどころか、地域の目印として存在感を示しているほどだった。


 僕を乗せた黒塗りの車が停止する。目的地に到着するなり、僕は玄関から伸びた長い廊下の奥へと連行された。


 板張りの廊下を進んだ先にあるのは、墨汁で虎と龍が描かれた襖である。この先に広がっている座敷間は、組の会合や宴会で用いられる部屋だ。大量の座布団と小机が川を成すように配置される様は見物である。


 襖を開けて中に足を踏み入れると、今日はその全てが取り払われていた。


 伽藍洞。


 最奥の床の間には、掛け軸と日本刀、胴丸が飾られている。


 その手前に、一枚の紫座布団を敷いた和服の老人が、結跏趺坐で待ち受けていた。


「よお理人、久しいな。そんな所に立ってねえで、とっとと座れ」


 稲葉義武、四代目近藤組組長である。


 鈍色のキセルを口端にくわえ、先端の雁首から紫煙をくゆらせている。


 顔中には抗争による大量の傷跡が走っている。左眼が潰れているのはその名残らしい。


 眼球は摘出されており、眼窩はすっかりくぼんでしまっている。


 両手の小指の第二関節から先はない。極道稼業で失ったのだと教えてもらったことがある。指は回収して、今も大事に保存しているらしい。いわく、切り落とされた指は魂の欠片であり、極道としてケジメを全うした誇りそのものなのだという。


 僕は入室を躊躇った。


 煙に大量の羽虫が集って、渦を作っている。キセルの持ち手部分は、赤蜘蛛の大群で被覆されていた。


 赤蜘蛛は手元から顔に登っているようでもあったが、潰れた左眼に巣くった赤蜘蛛が、キセル側に移住しているようにも見えた。


 かろうじて、赤蜘蛛たちの隙間から鼻先が覗いている。


 今日はひときわ、組長さんの顔が見えづらかった。


「ご無沙汰しております組長さん、ご壮健でいらっしゃいますか」

「見ての通りだ。俺ぁ、あと三十年は生きるだろうな。おい小平、座布団くらい敷いてやれよ。気が利かねえな」

「へ、へい!」


 部屋の隅にうず高く積まれていた座布団の山から、小平さんが一枚だけ抜いて持ってくる。組長さんから数メートル離れたところに敷いてくれた。


 お礼を伝えてから正座をする。すねの下から、生き物が弾ける感触があった。


「理人てめぇ、小平から聞いたぞ。目をかけた女がいるそうじゃねえか」


 部屋の隅で畳に正座をした小平さんが、据わりが悪いのか、数秒おきに座り直している。


「睨んでやるなよ理人。いいじゃねえか。その女、女房バシタにしてえのか」

「そんなつもりはないですが」

「そんなつもりもねえのに、裕也を使って国立くんだり小旅行したってか。冒険家だねえ。俺はおめぇのことを大いに買ってるんだぜ。出し抜けに部屋から連れ出されて、ゲロまみれになって帰ってくるとなったら、そりゃあ有事なのよ」


 何もかも報告済みらしい。


「せめて俺に一言くらい掛けてくれたって良かったんじゃねえのか。現地で何があったのかは裕也からも報告を受けているが、仮にも近藤組の代紋背負っている男がしでかせば、問題の大なり小なりあるとは言え、面子に泥を塗る行為と取られるもんなんだぜ」

「すみませんでした」

「謝るだけなら猿にだってやれる。知ってるか。大先生には釈迦に説法になるが、『頭を下げる』ってのは、脳みそから伸びた神経が筋肉に『縮め』って指令を出すことで生じる現象なんだぜ。謝罪の一言も同じだ。あんなん声帯が震えているだけじゃねえか。俺ぁそんな生理現象になんざ興味はねぇんだ。それによ、ベラが回ったって俺たちは頭が悪ぃからよ、真心と嘘の区別が上手く付かねえ」


 子供を優しく諭すような声色だった。


「理人よ、別に俺は難しい能書きを垂れているわけじゃあねえんだ。おめぇは俺たちに、この近藤組の代紋に、どう報いてくれるんだって話をしてんだよ」

「僕は」


 報いるもなにも、今も昔も僕に出来ることなんて一つしかありやしない。


「僕は、近藤組の皆さんに育てて頂きました。近藤組の皆さんが怪我をしたらそれを治し、組長さんがヨソの人を連れてきてそれを『治せ』と仰るのであれば、僕はそれを力の限りで治します。それこそが僕の存在意義であり、使命だと考えます」

「しっかり頭に入ってるじゃねえか」


 組長さんがキセルを口から外し、真横に配置されていた金属製の煙草盆に灰を落とす。


「偉そうに喋っちまったが、今すぐおめぇをどうこうするつもりなんてねえ。おめぇは近藤組の傘下にいる人間なんだ。おめぇさんが口にした『育てて頂きました』という台詞を真に受けるのであれば。その髪の毛、血液の一滴に至るまでが、近藤組の力で作られているようなもんだろう。身の振り方はよく弁えろってことだな」

「肝に銘じます」


 組長さんは、釘を刺すために僕を呼び出したらしい。


 会話を要約すれば、『近藤組に迷惑をかけるな』『仕事をちゃんとやれ』の二言で済むことだ。それをわざわざ、こんな夜分に呼び出してまで直接伝えてきたのだから、言葉の意味以上に含蓄があるはずなのだが。


「それにしても小平、おめぇどうしてこのネタを俺に伝えたんだ。そりゃあ筋を通さなかった裕也にキレてってのは、飲み込みやすい解釈だが、おめぇは裕也を慕っていたはずだ。これは裕也への裏切り行為でもあるんだぜ」

「は、はい」

「語ってみろよ。おめぇさんがどうして、兄貴分を売るような真似をしたのかを」

「そ、それは、その、オヤジに報告しないで先生を連れだすってのは、後々でトラブルになったときに、組の仲間がババ引かされるかもしれないって考えて、お上に報告しておいた方がいいって」

「違えよ、違え。その程度の理由で兄貴を裏切るくらい、おめぇはつまんねえ奴だったのかよ。そう思うならてめぇが身体を張って、裕也を止めるべきだったんじゃねえのか」


 だが国立にいく前、小平さんは僕らの目の前に現れなかった。


「俺が聞きてえのはよ、どうして呼ばれてもねえくせに、てめぇまで国立に付いて行ったんだってことだよ」

「は?」

「ほら、理人も驚いてるじゃねえか」


 あの場に小平さんがいた?


 そんなはずはない。


 僕らはあの日、小平さんに会っていない。裕也さんにも、そんな素振りはなかった。


「言えよ早く」

「え、あの、自分は」

「じれってえな、てめぇを虐めようってんじゃねえんだ。しっかりしろ」


 組長さんがキセルを煙草盆の隅に置く。パチンと鳴った。その金属音に弾かれたように、小平さんが声を放つ。


「だって、アイドルが一般人と軽率に会うなんて、駄目じゃないですか」

「アイドルだ?」

「知らなかったんです。毎晩毎晩、先生が女を呼んでいるのは聞いてましたけど、まさかアイドルが相手だったなんて思ってもみなかったんです。そんなの許せないじゃないですか。先生は世俗から離れていらっしゃるから、その手の判断が出来ないのも理解はしていましたけど、だったら、裕也の兄貴が止めてくれたっていいじゃないですか。でもやっぱり自分の勘違いかもしれないって不安になって、こっそり付いて行って、盗み聞きをして」

「待て待て待て。じゃあなんだおめぇは、アイドルの追っかけ魂に熱が入っちまって、特に誰かに頼まれた訳でもねぇのに、義憤に駆られて裕也を突き出したってことかよ」

「そういうことに、なりますね」

「そういうことになりますね、じゃねえだろおめぇ……こんなこと赤裸々に語りやがって。下手な三文芝居でも、もっとマシな理由で同胞を売るぞ」


 組長さんが、眉根に寄った皺を揉みほぐす。


「頭が痛ぇ。どう𠮟れってんだ。ったくよぉ。おい小平。俺から話題を振っておいてなんだが、おめぇの処遇については保留にする。今日はもう仕事に戻れ」


 綾乃がアイドルなのは知っていたが、何故それが腹いせに繋がるのだろう。


 小平さんは、衰弱した子犬みたいな声で返事をするなり、そそくさと部屋から出て行ってしまった。


 二人きりになる。


「組長さん、僕からもお伺いしたいことがあります」

「なんだよ藪から棒に」

「裕也さんは何処に」

「あいつなら懲罰室だ。そりゃそうだろ。組にとってお宝も同然のおめぇを、皆に内緒で連れ出したんだ。誘拐じゃねえか。懲罰だけで済んでるのは、これまでの貢献に免じてだ」

「裕也さんは悪くないんです、僕が我がままを言ったから」

「おめぇが我がままを言ったときに、上手く処理するのがアイツの仕事だった。業務怠慢に対して罰を設けるのは普通だ。それともなんだ、俺が甘ちゃんにでも見えたか」

「僕にも罰が必要です」

「いらねえ。いい女が目の前に現れて、てめぇは柄でもなくその尻を追っただけだ。男なら誰もが通る道だろ。同じ男である俺がどうして怒れるんだ」

「気に入ったわけではありません。僕には知りたいことがあって、それを教えてくれるっていうから会いにいったんです」

「その知りたいことってのはなんでぇ。この前おめぇさんの所に行った、死体処理の依頼主についてか」


 僕は愕然とした。


 全て知られている。


 この人は事情を把握した上で、僕を見逃そうとしているのではないか。


「なんで知ってんだって顔してんなあ。見くびるなよ。俺を誰だと思ってやがる」

「綾乃についても、組長さんは把握していらっしゃるんですか」

「綾乃?」

「あの子がどうして依頼主を探しているのかも、依頼主の居場所についても、組長さんはご存じなんですか」

「なるほど四條綾乃か。くくく、そういえばそうだったな」


 組長さんが口端を釣り上げる。上顎小臼歯の金歯が鈍く光った。


「そりゃあ、あの男を血眼で探しているだろうなあ。その肝心な依頼主は俺も探している最中でよ」

「血眼でって、それはどういう」


 組長さんが肩の高さまで右手を掲げ、質問を続けようとしていた僕を制する。


「おめぇに吹き込むメリットがねえな。聞きたきゃ本人から聞けよ。話はもう仕舞いだ」

「まだです、まだ他にも聞きたいことがあるんです」

「今晩は随分とお喋りだな。どうした理人、ご機嫌じゃねえか。ケツに火がついて、追い詰められた犯人みたいな目ん玉をしてるぜ」


 追い詰められているのは、そうなのかもしれない。


「今日はもう、組長さんの顔が見えないんです」

「顔だぁ?」


 首を傾げた組長さんの顔は、額から首元まで、完全に赤蜘蛛で覆われてしまっていた。


 餌を求めているのか、赤蜘蛛が絶えず蠢き続けている。


「診療所はあんなにも清潔で、無菌室みたいに塵芥の一切が除去されているのに、一歩外に出た途端に、世界は害虫で満ちていて汚くて、僕の居場所は診療しかないんだって訴えかけてくるかのようで、外の世界はとても怖くて、おっかなくて、その」

「へえ、それで?」

「僕は、ずっとシラガ先生の徒弟として勉強に励んで、近藤組の人たちに囲まれて育ちました。僕の家はあそこなんです。ずっと勉強して診療所にいるのが普通だと思って生きてきました。でもそうじゃなかった。僕が見ている世界と、皆が見ている世界は全然違う」

「おめぇ、飯は食ったか?」


 食べていない。


 ご飯が運ばれてくる前に、小平さんに呼ばれてしまったから。


「食欲が湧かないんです」

「頭に栄養が届いてなさそうな会話してんぞおめぇ。ちゃんと用意させるから、家に帰ったらちゃんと食べろよ」


 血糖が頭に届いていなくて、支離滅裂な内容を喋っていると思われたらしい。


「おめぇさんの訴えには、比喩みたいなモンがちょくちょく入ってるから、理解はしづらい所もあるけどよ、伝えたい内容は見えてきているぜ」

「比喩じゃなくてですね」

「ようはおめぇ、自分が何者なのか知りたくなったんだろ」


 その通りだ。


 僕は他の人とは違う。


 闇医者ではあるが、まっとうな医者ではない。学校とやらにも通っていない。外の世界を知らない。実父母の顔も知らない。頭がイカれている。世界を正しく認識していない。僕は近藤組に世話になっている身分だが、それを除けば身元不明の狂人である。


「いつかは、この時が来るとは思っていたけどな。いいぜ。お前が知りたいって望んだんだ。なんにせよ組のモンとして、いつかはテメェの魂に入っている墨の色を知ってもらわなきゃならなかった。もう大人だもんな。清濁併せ呑むくらいはやれんだろ」

「魂に墨、ですか?」

「業よ。原罪とはまた違うがな。おい、外に誰かいねぇか」


 襖が開く。部屋の外を守っていた黒服の男が顔を出した。


「壺を持て。英人のだ」


 御意、と小さく言葉を切った黒服が襖を閉じる。


 足音が遠ざかって行く。


「英人って、シラガ先生のことですよね。この屋敷に骨壺が保存されていたなんて知りませんでした」

「おおよ。『白髪頭のシラガ先生』、まさしく石塚英人その人だ。理人てめぇ、アイツの死に顔は拝んでねぇんだよな」

「はい。シラガ先生との近親の方が、ご遺体を引き取りに来たって伺っていたので」

「俺ぁそんな適当こいたんだったか」


 適当だって?


「壺を持ってくるのにも時間がかかる。倉庫に似たようなのが山ほどあるからな。もう少し話をしよう」


 組長さんが、右手にあるひじ掛けに体重を預ける。


「シラガ先生と呼ばれる老医師は、その運命の日を迎える直前まで仕事をこなしていた。やがて謎の死を遂げた。弟子にして我が子同然だった、おめぇを残してな。死体の行方は隠ぺいした上で、近藤組で預かった。石塚英人の死因について想像はつくか?」

「老衰ですよね。そう説明を受けました」

「そりゃあ無理筋な理屈ってんもんだろ。あいつせいぜい七十歳くらいだったろうに。おめぇもおめぇで信じるなって。日本人の平均寿命がナンボだと思ってんだ」

「違和感はありました」

「だろうな。死因は中毒死だ。なんの中毒でも構わないんだがよ、今回の中毒死は他殺によるものだ」

「他殺な訳ないじゃないですか。あれだけ周りに慕われていたっていうのに」

「おめぇ、ここが何処だか忘れてんじゃねえのか」


 四代目近藤組組長、稲葉義武の自宅だ。


 極道の家だ。


「冗談はやめて下さいよ」

「どう冗談だと思ったんだよ」

「それじゃあまるで、近藤組の誰かが、シラガ先生を殺したって言っているようなもんじゃないですか」

「誰かがじゃねえよ。俺がケジメ付けさせたんだから」


 後ろの襖が開く。黒服がブツを腕に抱えて持ってきたらしい。


 僕の隣を横切った黒服が、組長さんの前に、バスケットボール一つくらいなら入れられそうな桐箱を置く。


 壺ではなかった。


 組長さんが腕を伸ばして、手元に引き寄せる。


「ルビンの壺って知ってるか? フクダの壺とか色々呼び方はあるらしいが、おめぇにゃ精神医学とか心理学系の本は渡さなかったから、知らないか。一枚の絵に描かれた壺が、人間の顔に見えるとかっていう錯覚だよ。なんてことのない壺の絵なのに、人間の顔に見える方が普通なんだって言い張る奴が多いんだとよ。そういう連中にとって、知覚されなかった壺の部分はノイズでしかないんだ。理人にとってのノイズはなんだろうなあ。俺らがこの桐箱を壺って呼ぶのは、この中に入っている物こそが、俺らの本質だからだ。見ろよこの顔、綺麗だろ」


 桐箱の前面にある観音開きの蓋を外した組長さんが、中に収納されていた物を取り出す。


 僕に見せつけるように、小指のない両手でそれを高く掲げた。


「こいつぁ、おめぇを外に逃がそうとしたんだ。その前準備で身内を何人か殺している。ケジメを付けさせるには充分な理由だろ」


 血が抜かれたシラガ先生の生首は、穏やかに目を伏せていた。


 蟲が一匹も付着していない。組長さんの手を経由して、赤蜘蛛が飛び移ろうと試みていたが、生首に沁み込んだ薬品を忌避するかのように、畳の上へ落下していく。


「これまでの業績による恩情から、薬で眠るようには殺してやったから、苦しませはしなかったけどよ、他の悪党どものように、海に沈めたりアスファルトにしたりってのは、友人の立場からすると心苦しいところがあった。そういう経緯があって、あの男に防腐処理を頼んだんだ。せめて首だけでも遺せないかってな」

「あの依頼主に」

「そうだ。あの野郎、勲矢いざやは英人とツルんでいた時期があったし、実際にウチの仕事を任せていた時期もあったからな。ケジメのための薬品の扱いだとか、そこらへんも含めて全部やってくれた」


 組長さんが生首を桐箱の中に戻す。


 シラガ先生は、再び観音開きの蓋の奥に封をされてしまった。


「おめぇはこの生首の後継者だ。それが『てめぇが何者なのか』という質問に対しての最終的な答えだ」

「組長さんが、シラガ先生を殺したんですか」

「指示を出したのは俺で、手を下したのは勲矢だ。しかし死を引き寄せたのは、英人が選んだ行動そのものだ」


 じゃあなんだ。


 僕は今まで、シラガ先生を亡き者にした殺人犯を祖父のように慕い続け、いつ自分も首を切られるかも定かでないような環境で、ずっと働かされていたって言うのか。


 子供の頃から騙され、あらゆる普通を奪われ、家畜にさせられていたとでも。


「組長さんが、あんたがシラガ先生を殺したのか」

「賢く生きろよ理人、俺ぁおめぇまで失いたくはねぇんだ」


 目の前が真っ赤になる。


 彼我の間を大量に行き交う赤蜘蛛を蹴り飛ばした僕は、勢いよく立ち上がった。


「賢くってなんなんですか! シラガ先生を殺して、生首のまま倉庫で保存する行いは、そんなに賢いものだったんですか!?」

「そうだな。そしておめぇを殺すことが賢いとされる機会も、そのうち巡ってくるのかもしれねえ。言ったろう。おめぇの魂に入っている墨の色を知ってもらわねばならねえ。おめぇはカタギじゃねえんだ。れっきとしたキズもんだ。それも自分だけはマトモだと勘違いをしている、こじれたタイプの厄介モンなんだろうよ。俺ぁ理人と上手くやっていきたい。だが俺たちの本質はこれだ。義理立てて安楽死させた元同胞の死体を、どれだけ綺麗に丁寧に保存していようが、やっているのは犯罪なんだよ」


 組長さんが右手の甲で、桐箱の角をトントンと突く。


「格好の付く大人になりたいのなら、清濁を併せて吞めよ理人。それこそが、俺がてめぇに求める仕事の一つだ」


 この人を言い負かせるだけの、反論が頭に浮かんでこない。


「誰か、こいつを診療所まで戻してやれ。しばらく仕事は休ませる」


 襖が開く。黒服の男が足を擦って接近する。両脇に立つと、僕の腕をつかんで強引に廊下へと引っ張り出そうとした。


「まだです、話はまだ終わってません! 僕は近藤組に都合よく使われているだけだったんですか!? ご飯だけ与えられて仕事をこなして、そんなの家畜じゃないですか!」

「ぴーちくぱーちくうるせえな。発情した鳥みてぇな声を出してんじゃねえよ」


 右の中指で耳をほじった組長さんが、億劫そうに腰を上げる。


「おめぇは貴重な人材だ。ちょっとやそっと問題を起こしたところで、ほっぽっておけるような奴じゃねえ。外に出すにしても事情が込み入りすぎている。ここまで抱えちまった俺にも原因はあるんだけどよ」

「説明して下さいよ、何がどう込み入っているんですか!」

「はよ連れてけ、面倒になってきた」


 黒服が強引に僕を引っ張る。


「組長さん!」

「これはおめぇが始めた騒動だ。相応の代償はあるぞ、覚悟しておけ」


 襖が閉じる。最後まで組長さんの顔は、赤蜘蛛で覆われたままだった。


 玄関まで引きずられて、靴も履かせてもらえずに車に突っ込まれる。


 姿勢を整えるよりも先に車が動き出した。


「小平さん、車を止めてください!」


 僕の願いは聞き遂げられず、車は交差点をまっすぐ進んでいく。


「小平さん!」

「うう……すんません、すんません……ッ」


 鼻をすする音が耳障りだった。


 泣きたいのは僕の方だった。


 僕は未だに、自分のことしか考えていなかった。


 どうして小平さんが号泣しながら運転しているのか、理解出来なかったのである。


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