4-1 僕は正気です
日が完全に暮れて夜になると、いつもなら誰かしらが夕飯を届けてくれる。
玄関のインターホンが鳴る。
僕はてっきり、夕飯が運ばれてきたのだと思った。
玄関先には、顔を真っ青にした小平さんがいた。
「オヤジが呼んでます。すぐに準備してください」
急な呼び出しに、僕は面食らった。
こんないきなり召集を食らったのは、シラガ先生がお亡くなりになったとき以来だ。
慌てて身支度をする。下はスーツパンツで上はワイシャツにした。長袖を丁寧に折って半袖にする。組長さんは冷房を強めに設定することが多い。ネクタイは無しだ。
デスクの引き出しから、紗那ちゃんの写真を取り出す。
お守り代わりである。
ワイシャツの胸ポケットに写真入れて、玄関を出る。
「うっ」
いつもより蟲が多い。玄関先の廊下には蛾が大量に湧いている。共食いをしているらしい。大半が穴だらけの死骸である。外壁も床も、地の部分が蛾で覆われてしまっていた。
「先生どうかしましたか」
「大丈夫です。行きましょう」
星一つない空から、臙脂色の月が僕らを見下ろしている。
蛾が淡く照らし出されていた。呼吸のリズムに合わせて、薄い翅を羽ばたかせている。それを僕は容赦なく蹴とばして、エントランスへと向かう。
「小平さんは、この世界が醜いと思ったことはありますか」
「へ? この世界ですか?」
「この世界は、壊れているって思ったことはありますか」
「急にどうしちゃったんですか先生」
「答えて下さい小平さん。小平さんの目には、今何が映っていますか」
「もしかしてまだ体調が悪いんですか。困ったなあ、オヤジからの呼び出しは断れないし」
「小平さん、僕の声が聞こえていないんですか? 質問に答えて下さいよ。僕はしっかり喋れていますか? 小平さんは、本当にそこに存在している人間なんですか?」
僕の前を先行していた小平さんが、足を止めて振り返る。
顔面が、大量の蛾で覆われていた。
羽音がうるさい。
天井には、ひときわ大きい蛾が張り付いている。目をくれてやると、白い翅には幾何学的に何重もの線が描かれていた。複数の太点のせいで顔の模様にも見える。頭がイカれてしまった僕を、あざ笑っているみたいだった。
どうして一生懸命に生きてきた僕が、蛾から見下されなければならないのだろう。
「なんすかそれ、怖いこと言わないで下さいよ。……どこ見てるんですか先生」
蛾は害虫だ。殺さねばならない。足元にはたくさんの蛾が集まってきている。僕だって悪戯に蛾を殺したくはない。足を踏み入れたくはない。気持ちが悪い。
「先生?」
「僕は正気です。僕が最も正気でいるはずなんです」
小平さんが気の抜けた相槌を寄越す。
理解できるはずがないのだ。この壊れた景色は僕だけのものなのだ。
気付いていたさ。
壊れているのは、きっと僕の方なのだ。
僕は蛾を踏み潰した。ぎちぎちと足底で命が壊れる音がする。僕が救ってきた命の数を遥かに超える量の蛾が、怨嗟を上げながら潰れていく。歩けば歩くほど自分が壊れているのを実感させられる。僕だけが壊れているなんて不愉快だった。皆も早く壊れてしまえばいいと妬んでしまった。
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