3-3 崩壊序章

 遠出をするのはいつぶりだろう。


 新宿区から外に出たのは一年ぶりかもしれない。腰を痛めた組長さんが、無理を押して参加したゴルフコンペに、応急処置係として付き添ったきりだ。


 裕也さんが運転する車の後部座席から、窓の外を見やる。


 この光景を前にすると、いつもこう思う。


 世界は壊れている。


 見ているだけで頭がおかしくなりそうだ。


 危険極まりない。


 白い診療室こそが日常である僕には、異質以外の何物でもなかった。


 空は相変わらず虹色に見えるし、河川は血を垂れ流したように真っ赤だ。


 そんな汚染水に、子供たちが素足を踏み入れているのが、高速道路の上から見えた。


 鬼ごっこをしている。


 賽の河原で鬼に追われ、血河に逃げ込んだ童が、あんな具合なのかもしれない。


 頭上では無数の黒い点が、天嵐を形作るように渦を巻いていた。


 羽虫だ。幾重にも重なって、大きな竜巻を形作っている。


 それを横切るように、巨大な鳥が滑空する。


 僕らの前方を走っている、貨物トラックほどの大きさはあるだろうか。蝋を塗りたくったような白い身体には顔がない。サモトラケのニケ像を彷彿とさせる。筒状に中が開けている首には、まだ声帯が残っているらしい。喘息患者が出すような、掠れた呼息音をまき散らしていた。


 裕也さんが、流行りらしい歌を口ずさみながらアクセルを踏む。黒塗りのマセラティ・クアトロポルテが、アスファルトに這う昆虫をぶちぶちと踏み潰しながら疾駆した。


 車窓に夥しい数のゴキブリが飛来して、僕に腹を見せながら次々と張り付いて行く。


 窓の外側が見えない。


 せめてもの抵抗として窓をノックしてみるが、ビクともしなかった。


「どうした理人」

「もしこの窓に弾丸が飛んで来たら、どうなるかなあと」

「なんだビビってんのか。ここは日本だ。高速道路上の車を狙ってスナイプされるなんて国会議員が相手でもあり得ねえし、お前はそこまでされる程の大物でもない」

「ゴキブリくらいは追い払って欲しいもんですが」

「うっわ、その台詞すげえ大物っぽいな。邪魔ものは消しておけってか」


 大笑いをした裕也さんが、また別の歌を朗々と口ずさみながら運転に集中する。


 頭のおかしい奴だと心配されたくなかった。


 僕はシラガ先生の一番弟子として、皆に期待されているから。


 ずっと、ずっとずっとずっと、僕が小さかったときからずっと。


 ついに僕は、シラガ先生の後継者となった。


 頭の中身を疑われるような言動は、差し控えるべきだろう。


 僕は至って正常だ。


 シラガ先生や裕也さんや、組長さんが大事にしている存在が、異常であるはずがない。


 世界の方が壊れているなんて再確認するまでもない。地表を覆うほど蟲が蔓延る世界なんぞ悪夢以外の何物でもない。人外の顔貌を持った二足歩行の亜人が生まれて来るのは、世界の終末を示唆しているからなのかもしれない。


 いま僕が座っている後部座席が、黒革ではなく、濁った肌色の皮で設えられているのは、世界に絶望した人間が自害して、その身体を再利用したからではないのか。羊や他の哺乳類からはぎ取った皮にも見えなくはないが。


 そんな世界だから、皆が身も心も壊すのは自然なことなのだ。


 僕のところに患者が多く訪れるのは、そういう理屈なのだろう。


 新宿から一時間半も車を飛ばすと、国立駅に到着した。


 駅近くの有料駐車場に車を止めて、三分ほど歩いた先に、綾乃と待ち合わせをした場所がある。


 診療所から離れれば離れるほど、世界の歪みが大きくなっていく。


 あの診療所は、僕にとっての聖域である。


 汚物の存在は許されず、蟲が集まることもなく、空気は澄んでおり、心の安らぎがある。


 それこそが僕の居場所だ。


 だが、ここはどうだ。


 空気中に汚泥が揮発しているかの如く風にはぬめり気があり、ひとたび息を吸ったものなら、肺が病に冒されそうな悪臭が放たれている。


 じっと立ち止まってみると、足元から赤黒い昆虫が這いあがってきた。


 振り払うべく足を動かす。


 靴の裏で、十の蟲が潰死する感触があった。


 気持ちが悪い。


 僕の気分を害するのは、蟲の存在だけではない。空が虹色でなくなっている。星一つない暗黒世界。こんな不吉な空を仰ぐのは初めてだ。吸い込まれてしまいそう。不安しかない。空に落下するような錯覚があった。かぶりを振る。改めて眼前を見据える。白猫が歩いていた。両目から赤い液体を垂れ流しながら尻尾を振って歩いていた。尻尾には大量のノミが付いていた。黒蜘蛛の大群が作っている流れに逆らって、道路の向こう側へと駆けて行った。歪んだ肉細工が。


「裕也さん」

「あん?」


 裕也さんの全身は、ゴキブリに覆われて真っ黒になっていた。


「もしかしたら僕は変な奴かもしれませんが、それでも今日まで、僕は僕なりに頑張って生きてきました」

「具合でも悪いのかお前」


 裕也さんの顔面が、大量のゴキブリの下に埋もれてしまっている。


「久しぶりに外へ出たので、僕にも想うところがあるのです。世界はこんなにも、僕に攻撃的だったかなと」


 裕也さんの表情が読めない。


「わりぃな理人。俺がこんなガラだから、お前までカタギに変な目で見られているのかもしれねえ。ったく見世物じゃねえってのによ」

「裕也さんのせいではありませんよ。周りが悪いんです」

「あぁ、お前■なかな■に美青■だから、衆目を集める■■方がないの■しれんが、ほとんど■俺■原因■■う」


 ゴキブリの羽音がうるさくて、裕也さんの声がまともに聞き取れない。


「行きましょう。綾乃を待たせると悪いですから」


 足早に目的地へと向かう。


 靴底で柔らかいものが潰れていく。配送用の梱包材を踏んでいる感覚に近い。歩けば歩くほど破壊が進む。ぶちぶち。僕は常識のある一般人を装って、平然と歩いてみせる。胸を張って、足元の黒い影に戦いを挑んでいく。


 約束をした喫茶店に入るころには、青かび色の体液が靴下まで浸食していた。


 店内に足を踏み入れる。


 大型の喫茶店だ。一階だけでも五十席近くある。


 高い天井にはアンティーク調の明かりが下がっている。蜘蛛の巣だらけである。ガラス張りの店内からは、壊れた景観がよく見えた。


 ガラスとは蟲が張り付きやすい場所だ。空調が効いた店内を羨むかのように、びっしりと甲蟲で覆われている。


 裕也さんが入口で手を挙げる。男性スタッフが案内をしに来た。


 安堵した。一般的な人間の顔貌である。


 二階へと案内される。裕也さんが前を歩いて、それについていく。


 奥の階段をあがる。二階は一階と似たような構造になっていた。


 四顧すると、見知った顔があった。


 サングラスをしたイグアナが、こちらに小さく手を振っている。裕也さんの姿を見るや否や、ソファから半立ちになった。裏切ったわねと、僕に剣突を喰らわせたいらしい。


 僕は席に近づきながら、首を横に振った。


「どういうつもりなのか、説明をしてもらえるのでしょうね」


 裕也さんが、綾乃の隣に大きく座り込む。


 気圧されたらしい綾乃が、文句を垂れながら席の奥へと移動した。


「そうかっかすんなよ。味方が一人増えたと思って、素直に喜んでおけって」

「味方ですって? そんな適当なことを」

「すまん、そこの姉ちゃん。俺レイコーで。理人はどうする」


 僕はまだメニューすら読んでいない。


 蛆虫が大量に集った、その厚紙に触れたくなかった。


「僕も同じ奴で」


 椅子の上を覆いつくしていた大量のアブラゼミを、右手で払い落す。


 全部死んでいるのか、肢が内側に閉じたままだ。


 席につく。柔らかいものを尻で潰した。払ったはずのアブラゼミが残っていたらしい。


 テーブルに視線を移すと、無数の黒蟻たちが渦を作って歩いていた。


 中心部で何十匹も息絶えている。ほこりを払う振りをして、全部床に落としてやる。


 対面にコーヒーカップが置かれている。


 黒い液体の中では、数匹の太い線虫が泳いでいた。


「なんなのよもう」


 納得していなさそうに席に座り直した綾乃が、コーヒーカップをあおる。


「何見てんのよ」

「平気なんですかそれ」


 綾乃の顔はイグアナである。


 きちんと口の先から、黒い液体を飲めているらしい。


 口端から溢れることもなかった。


「その質問も謎だし、この男が一緒にいるのも謎なんだけど。一から説明して」

「理人から聞いたぜ。お前、紗那ちゃんの行方を追ってるんだろ」

「文句ある?」

「期待を裏切って悪いんだが、あの子を殺ったのはウチの組じゃない。うちのシマで出来上がった死体なら間違いなく俺の耳に入る。こう見えて、重役を任せられるくらいの立場なんでね。あれは別のシマであがった死体だ」

「その言い分を裏付ける証拠はあるのかしら。人を騙すのはヤクザの得意技でしょう」

「あらゆるリスクを掻い潜って、うちの天才医師を郊外まで引っ張ってきた俺の行動力を信じてもらうしかねえな」


 紗那ちゃんの殺人に、近藤組が一役買っているのではと疑っていた節は、僕にもあった。


 だが独断で僕を国立にまで連れてきてくれた裕也さんが、この場で嘘をつくとはとても考えられなかった。


「裕也さん、ここで隠し事はなしですからね」

「わーってるって。依頼主の行方も、モルグを出てから不明のままだ。理由までは知らんがオヤジが足跡を追っている最中だよ」

「その理由とやらを、お伺いさせて頂いても宜しくて?」

「それはマジで俺も知らん。依頼主とオヤジの関係は、今になって始まったモンじゃないんだから、そりゃ知り合いが突然行方不明になれば、探そうともするだろうよ」

「今になって始まった関係性じゃないというのが、初耳なんだけど」

「そうかい。なんにせよ、この先の情報は企業秘密だ。いち会社員として、その線引きはさせてもらう。今回俺がついてきたのは、お前さんから話を聞くためだ」


 女性店員が、コーヒーカップを二つ持ってくる。


 楚々とテーブル上に配膳されたそれに、裕也さんが小さな器に入ったミルクを注ぐ。


 カップの横に置かれたミルクの器を、裕也さんがテーブルに叩きつけた。





「てめぇ、よくもやってくれたな」





 ドスの利いた声だった。


「要領が得ない喧嘩を売らないでもらえるかしら。面倒過ぎて死にそう。ヤクザの脳みそってやっぱり小さいの? 耳の穴から出て来ないか心配なんだけど」

「挑発すんじゃねえ、荒事にはしねえつもりなんだよこっちは。最初にちゃんと、てめぇの顔を拝んでおくべきだったぜ。毎晩マスクに、サングラスなんてしてきやがってよ」


 理由も分からず、態度を一変させて怒声を露わにした裕也さんに、僕は戸惑いを隠せなかった。


「裕也さん? やったって、なんのことです?」

「悪ぃが、こいつに先に筋を通してもらわねえと、話すことも話せやしねえ」


 ティースプーンでコーヒーを回している裕也さんが、綾乃にメンチを切る。


「どいつの入れ知恵だ、吐けよ」

「紗那の行方を追ったら、そこに理人がいただけよ。その様子だと、あたかも善を尽くして、例の診療所を運営していたってアピールしたげね。あえて尋ねるわ。貴方たち正気?」


 裕也さんが舌打ちをする。


「もう気付いてんのかお前」

「気付かない方がどうかしている。無給医なんて単語があるくらいだから、無賃金の医者なんて今日日珍しくはないけれど、糧だけ与えて働かせるなんて、非人道的な扱いにも限度があるわ」


 綾乃の言い分は不可解である。


 それのどこが非人道的なのだろう。


「私が医者を志す者でなければ、あんな会話にすらならなかったでしょうから、他の患者には、献身的な闇医者くらいに認識されているんでしょう。理人があまりにも可哀相よ」

「てめぇに俺らの何が分かる」

「一般論よ。もしかして、正論で殴られると火がついちゃうタイプなのかしら」

「煽んじゃねえ。勢いあまって、お前を殺しちまったらどうする」

「周りにいる善良な方々が通報するでしょうから、そちらが得をしないでしょう」

「ふざけやがって。お前、人様の平和をぶっ壊した自覚はあんのか」

「あら。理人と同席しているから、てっきり貴方もこちら側だと思ったんだけれど」

「こちら側?」

「理人を外へ逃がしたいんじゃないの?」


 僕を置き去りにして話が進んでいく。


「二人とも、一体なんの話をしているんですか」

「理人、今はちょっと黙っててくれ。あとで説明するから」

「嫌ですよ。だって僕の話をしているんですよね、僕が黙ってるのって、おかしくないですか。綾乃も綾乃で気持ちは分かりますけど、喧嘩腰にならないで下さい。近藤組は紗那ちゃんの行方にも殺人にも関係してないって、裕也さんが教えてくれたじゃないですか」


 つい大声になってしまった。


 慌てて口をつぐんで、周りを見渡す。


 近くには誰も座っていない。


「私から言わせれば」


 綾乃がコーヒーカップを静かに置く。


「本人の前でネタばらしをするなんて、意外を通り越して呆れたわ。てっきり全ての責任を背負って、生涯かけて騙し続けるものだと感心していたくらいだもの。それとも大事な弟分の身を慮ったのかしら。まるで今の理人は家畜だものね。餌をやって働かせて、それが世界の全てだと錯覚させて。心中ご察しするわ」


「家畜ってのは、いくらなんでも言い過ぎじゃないですか綾乃。聞き捨てなりません」


「聞き捨てならないのなら、むしろ幸いよ。それなら心して聞いて。そしてそっちの、裕也さんだったかしら。貴方は黙って、理人の回答に耳を傾けていて貰いたいのだけれど」


 表情の読めないイグアナの鱗顔が、わずかに前傾をとって接近する。


 切れ目の眼が、鋭く光った気がした。


「どこの大学を卒業したの、理人は」

「大学?」


 それは。


「そんなの、行ったことすらないですけど」


 大学とは。


 外の世界で糊口を凌いでいる人たちが、僕のように特別な能力を持った人間に追いつくために通わされている施設なのだと、組長さんが教えてくれたことがある。


 僕とは無縁の場所だろう。


「ほらね、そうだと思ったわよ。ご飯を恵んでもらって、困っている人だけを助けられていれば満足、とかいう狂気に満ちた医師道精神を語るだけじゃなくて、惚れ薬の効能を信じていたりだとか、まっとうな医学教育を受けている人間の態度じゃなかったもの」

「もうやめねえか、この話」

「良心の呵責があるとか、今になって弁解するつもりじゃないでしょうね。私は続けるわよ。どうして事情をかき回すような真似をするのかって顔しているけど、単に私は頑張っている人が、正当に評価を受けていない状況が嫌いってだけなのよ。こんなのはただのお節介で、紗那の情報を貰うついでのお話でしかないわ。それで理人、国試は何点だった? 必修は? 禁忌はいくつ踏んだの? 実技ってあった?」

「答えなくていいぞ理人。もうこの話は終わりだ」

「答えられるわけがないわよね。日本の医師国家試験の受験資格はいくつかあるけれど、基本的には、六年制の医学部医学科の卒業をもって受験する人がほとんどだもの。理人は無免許で医師行為を行っていた。ヤクザどもに軟禁されて、良いように使われていた」


 でたらめだ。


 綾乃は軟禁の意味を、辞書で引いたことがあるのだろうか。


 部外者との接触を防止することを目的とした、他人の自由を奪う抑制手段だ。


 僕は基本的に自由を与えられているし、患者とだってほぼ毎日触れ合っている。


「軟禁なんて、そんな人聞きが悪すぎますって。やだなあ。そうでしょう? 裕也さん」

「帰るぞ」


 裕也さんが腰を浮かせる。


 真実を尋ねているのに、その返事が帰るぞというのは筋違いじゃないか。


 僕は、生まれて初めて裕也さんを無視した。


「免許だかなんだか知りませんが、実際に僕は困っている人を助けてきました。勉強だって沢山してきましたし、それの何処が問題なんですか」

「理人、立て」

「そうですよね裕也さん。僕らは一つも間違っていない」


 裕也さんが、僕と目を合わせてくれない。


「ところで私、試しにもう一つ尋ねてみたいんだけど」


 まだ何かあるというのか。


 どうしてなんだ。


 どうして裕也さんは、一言も言い返してくれないんだ。


「理人は、どこの小学校を卒業したのかしら」

「さっきから失礼ですよ! なんで僕が、そんなところに行かないといけないんですか!」


 イグアナの顔は無表情なのではなく、分かりづらいだけなのだ。


 口を半開きにして沈黙されれば、それがどんな意味を持つ反応なのかを、嫌でも察せられてしまう。


「貴方、そんな昔から軟禁されていたの。この調子じゃあ義務教育課程の概念はおろか、日本国憲法の存在すら頭に入っていなさそうね」

「裕也さん、何か言ってやって下さいよ」

「上手くやったものね。日本中を騒然とさせるわよこの事件は」

「黙ってないで、僕がこれまで何をしてきたのか、教えてやって下さい!」

「無理よ理人。こいつもグルだったんだから。口から出てくるものがあるとすれば、懺悔か告解かの類でしょう。沈黙は雄弁に語るとはよく言ったものね。それとも弁解をするつもりすら、最早ないのかしら」


 俯いていた裕也さんが顔を上げる。


 綾乃の推測を否定して欲しい。


 馬鹿馬鹿しいと、一笑に伏しておしまいだ。


 僕はこんな妄想話をするために、国立までやって来たのではない。


 今まで僕が築いてきた頑張りと成果を、嘘で塗り固められた恫喝で、否定されるわけにはいかなかった。


「すまん」


 短い謝罪だった。


 裕也さんが口を閉ざしてしまう。


 そんなどうしようもない不良品を憐れむような目で、僕を見ないで欲しかった。


「私にも謝ってくれる? 他人の家庭の事情を解決するのに、出汁にされた側の気持ちも考慮してもらいたいんだけれど」

「何も知らずとも理人が幸せなら、それでも良いじゃねえか。けどよ、けどよ……俺だってどうすべきかなんて、分かんねえよ。理人に悲しい思いなんてさせたくねえよ」

「説教をするつもりはないけど、私は理人の今後だけが心配よ。でもそこまで私が言及するのはお門違いだろうし、これくらいにしておく。あとはそっちでやって」

「ざけんな。ここまで地雷踏み抜いた挙句に、あとはそっちでやってだと」

「遅かれ早かれ、いつかは破綻していたシステムでしょう。私はそれを暴いただけ。理人の立場を思えば、感謝の一つくらいして欲しいものね。近藤組の内部にいる人間じゃあ、こんな横暴は許されないでしょうし」


 頭が全く追いついていない。


 綾乃が論破して、裕也さんがそれを認めて謝って、その最中、話題の中心になっている僕だけが宙ぶらりんで浮いていた。


 一つも納得できていない、一つも心の底からの理解に至れていない。


 子供の頃から僕はあの診療所で軟禁をされ、自分の置かれた環境に疑問を持たず、至れり尽くせりとばかりに近藤組へ感謝を捧げていたと、そう言っているのか。


 そんな馬鹿なことが。


「裕也さん」


 近藤組に拾われて、恩を返さねばと気張って働いていた。


 シラガ先生の背中を追って、医者になった。


 勉強をして、たくさんの人を救った。助けた。


「お願いです裕也さん」


 シラガ先生も知っていたのだろうか。それとも組長さんの企みだったのだろうか。


 いつから飼われていたのか。


 僕はいつから。


「教えて下さい。僕は、近藤組にとって大事な存在だから、あの診療所に置いてもらっていたんですよね。僕は皆にとって必要だから、あそこに居るべきだったんですよね。僕は真っ当な医者ですよね。シラガ先生のようになれたんですよね。僕は家畜なんかじゃない、壊れてもいない、壊れそうになっている人を助ける側で」


 目がちかちかする。


 喉はカラカラに乾いていた。


 震えの止まらない指先を、コーヒーカップの取っ手に伸ばす。


 小指大の芋虫が、黒い液体の中で溺れていた。


「僕はおかしくない。壊れてなんかいない。壊れているのは、この世界の方でしょう」


 僕だけが壊れているというのなら、この害虫は全て幻影であるはずだ。


 証明してやる。


 僕は、僕が信じたいことだけを信じていればいいのだ。


 コーヒーカップを掴んで、一気に飲み干す。


 舌の上に乗っかった人差し指大の芋虫が身をよじらせる。僕は液体を嚥下するために口を閉じる。


 歯と歯の間で、エビが潰れるような感触があった。土と腐った魚が混ざったような悪臭が、口腔を経て鼻腔へと立ち上る。


 強烈な吐き気を覚えた僕は、手に持っていたカップに嘔吐した。


 胃液と混和されたコーヒーが、水鉄砲のように逆流して飛び散る。


 ぐちゃぐちゃに潰された芋虫の身体が、吐しゃ物の上で浮いていた。その饐えた臭いが悪心を催し、またえずく。


「やっぱり具合が悪かったのかよ理人」


 テーブルを回り込んで移動してきた裕也さんが、僕の背中をさする。


「店に来る前から調子悪かったの?」

「いいや。これは持病みたいなもんだ。……今から荒れるかもしれん」

「荒れるってなにが」


 外の世界は攻撃的だ。


 こんなにも僕に辛く当たる。診療所に引きこもっていろと訴えかけてくる。


 世界の方が壊れているのだ。僕は正常だ。運良く僕だけがまともでいられたからこそ、外の世界には僕の居場所がないんだって、居るべきではないんだって。


「空は虹色で」

「虹? 虹がどうした」

「海は血の色なんです。でも今の空は、真っ暗で何も見えないんです。コーヒーの中には芋虫がいて、車の外はゴキブリの山で、子供の頭の上にはハエが何万何億って集っていて、首のない大きな鳥が空を支配していて、人類は崩壊の一途を辿っていて、ついには獣が二足歩行をし始めました」

「おい理人、しっかりしろ」

「蟲がいるんです。それが普通なんです。なのに、なんでそんな目で僕のことを見るんですか。教えて下さいよ。僕はいつから壊れていたんですか。僕はいつから悪夢に迷い込んでいたんですか」

「どうしちゃったのよ急に」


 イグアナがのぞき込むように、僕の顔を窺っている。


 二足歩行で人語を使う獣が、そこにいた。


「なんでイグアナが喋ってんですか! どうして! 変じゃないですか! 最初から気付いていたんです、おかしいって気付いていたんです! 僕が壊れているんじゃなくて、イグアナの方がおかしいんだ、そうに決まってる!」

「イグアナってなによ」

「うるさい! イグアナは人の言葉を喋らないんだ!」


 テーブルに両肘をついて頭を抱える。肘の先から前腕に向かって大量の蟻が登ってくる。指先まで移動した蟻が髪の上へと跳躍し、頭皮の上を這い始めた。


 掻痒感に耐え切れなくなった僕は、爪を頭皮に突き立てた。


「これも近藤組が仕組んだことなんですか。どうなんですか裕也さん。シラガ先生も知っていたんですか。僕はずっと壊れた世界を見続けていました。今も蟲が全身を這っています。身体がかゆくてかゆくて堪りません。諦めていました。これが普通なんだって自分に言い聞かせていました。慣れてしまいました。でもこれ、普通じゃないんですか? 僕だけなんですか?」


 遠くの席で他の客がザワつき始めている。変人を迫害するような嫌な視線で、僕の方を見ている。関わらないように距離を取って、その上で興味深く観察をしている。


「お前が普通だと思うなら、それで良いんだって。もう深く考えるな。変な話をされたせいで、パニくってんだよお前」

「誤魔化さないで下さいよ、早く答えて下さ──うぅ、ぉぇえ」


 胃が突然痙攣して、空っぽになった中身を逆流させる。


 喉の奥が全開に開いても、物が一滴も出てこなかった。


「お客様、どうかされましたか?」


 コーヒーを持ってきた女性店員の声がした。


「わりぃ姉ちゃん、汚しちまった。金なら多めに払う、とっといてくんな。理人もう行くぞ。話なら後でも出来る」

「話はまだ終わって、っア」


 ゲロまみれになった服の胸元を手繰り寄せられ、裕也さんの肩に担がれる。


「離して下さい! 離して!」

「周囲の皆さま、大変ご迷惑をおかけしました。──四條綾乃、お前にはこれを渡しておく。てめぇが最後まで責任を取れ。俺には、取れる責任と取れない責任があるんだよ」


 暴れる僕を意に介することもなく、綾乃に紙らしきものを渡した裕也さんが、軽い足取りで席から遠ざかっていく。


「ちょっと待ちなさい!」


 階段を下っていく。


 最後に見えたのは、あんぐりと口を開いて犬歯を剝いていた、乳白色のイグアナの間抜けな面だった。







 奇妙なことに、途中から僕の意識は無くなっていた。




 綾乃が僕の方を見ながら立ち尽くしていたのは覚えている。暴れる僕を連れて店を出た裕也さんに、車に乗せられたのも覚えている。


 高速道路に乗った記憶がない。マンションのエントランスをくぐった覚えもない。


 僕は診療所のソファの上で横になっていた。


 身体を起こす。


 壁に掛かった時計は、夜の十一時を示していた。


 頭はすっきりしている。嘔吐をした割に身体の調子はいつも通りだった。胃液の影響で歯がきしむのと、口臭が絶望的なのを除けば、すぐにでも働けそうですらある。


 蟲もいない。イグアナもいない。


 裕也さんもいない。


 歯を磨いた僕は玄関を開けて、外に誰かいないかを確認した。


「あれ、お目覚めですか先生」


 小平さんがいた。


「どうも。裕也さんはいないんですか」

「あの人なら、オヤジに呼ばれて事務所に詰めていますよ。先生、体調悪いんでしょ? 明日は休診にしてもらったんで、ゆっくり休むようにと、オヤジから言付かっています」


 小平さんの額に羽虫がくっつく。


 むずがゆかったのか、額にシワを寄せた小平さんが手で羽虫を追い払う。


「蚊が多いなあ今日。先生はとにかくお休みになって下さい。夏だからって冷房つけっぱなしで寝たら風邪引きますからね」


 玄関が閉まる。


 静かになる。


 白い壁紙が貼られている診療所は、いつも通りだった。


 蟲なんて一匹もいやしない。




 いつも通り、僕の世界だった。



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