3-2 惻隠之心

 齢七十近くになる四代目近藤組の首長、稲葉義武のことを狡猾だと蔑む人は少なくない。


 血なまぐさいシノギを幾つも取り扱っているのは語るまでもなく、稲葉義武が動かした指先一つで、不穏な動きを見せた誰かがコンクリートに混ぜられ、地球上のどこかで舗装材料として使用されるなんていうのは、近藤組の一員であれば悉皆の常識である。


 残酷な一面を持つ男だと噂されていた方が、極道としてのメンツは保たれる。締まりのない運営を推し進める老人と思われては、極道の沽券に関わるというものだ。


 仕事の最中はあたりに睨みを利かせ、大砲のような大声で組員を叱咤激励する。


 襲撃の現場をまだ直接に見た経験はないが、時には、老いを感じさせない切った張ったの大立ち回りで、相手方を圧倒することもあるようだ。


 だがその稲葉義武も仕事を終えれば、ただの人間に戻ってしまう。


 特に僕に対しては、孫のように接してくれる。


 欲しいものは何でも買ってくれた。


 甘やかしすぎて、シラガ先生にたしなめられていた日もあった。


 そんな組長さんから一度だけ、刺すような視線を寄越されたときがある。


 シラガ先生から稼業を継いだ旨を伝えるべく、挨拶へ伺った折にだ。


 よく耳をかっぽじって聞けよ、と前置きがあった。


「おめぇは『人を助ける』っちゅう能力をもった偉ェ人間なんだ。だがな、おめぇみたいな特別な力を持った奴を妬む奴が、この浮世にゃ腐るほどいる。力を持つ野郎が憎くて仕方がないって、拳銃チャカを隠し持って集ってくるんだ。気安く自分の力をひけらかしちゃいけねえ。おめぇが動かなくても、困っている奴は勝手に足を運んでくる。おめぇはそいつらに、情けをかけてやるだけで構わねえ。己を過信して、あちこち首を突っ込む阿呆は、早死にするだけだ。俺ぁおめぇを失いたくない」


 僕は基本的に外出をしないし、世情や風聞にも大して興味がない。


 シラガ先生のように一生懸命に勉強をして、患者に向き合っていれば、少なくとも自分の居場所は作れるはずである。


 そう言うと組長さんは、髪が一本も生えていない自分の頭を撫でながら、相好を崩した。


「『惻隠之心そくいんのこころ』ってやつか。理人らしいな。それでいい。救いを求めてやってきた奴らに、憐みと同情をくれてやれ」


 僕はたくさん勉強して得たこの知識で、困っている人を救いたかったのである。


 それが全てであり、そのために生まれ、そのために近藤組に拾われたのだと信じて疑わなかった。


 組長さんは、僕が直接関わりを持つ人の中では最高齢だ。長老だ。七十年近くこの浮世を見定め、艱難辛苦を乗り越えた上で現職に居る人間の言葉は、まだ人生経験の浅い僕にとっては金言にも等しい。


 外の世界には危険が溢れている。拳銃チャカを持った奴に襲われるかもしれない。


 あんな場所には、好き好んで行くもんじゃない。


 そういう意識があったからこそ、綾乃のような奇面の類が累々と街に跋扈しているのかなと疑問に思っても、探索に出かけたいなんて、裕也さんにせがんだことはなかった。


 我がままも、口にしたことがない。


 昼夜問わず、雨の日も風の日も休まず守ってもらっているだけで有難いのに、いらぬ心労も負担も掛けたくなかったのである。


 だが綾乃と外で面会するのであれば、裕也さんに我がままを言わねばならない。


 一体どんな顔をされるのか、見当もつかなかった。


 女と会いたいという願い一点に関して言えば、今までのように脂下がった顔であれこれ尋ねられるだけなのだろうが、業務以外で外出をしたいなんて僕から願ったことは、稼業を継いでからというもの一度もない。


 僕は大事にされているのである。


 人を治せるだけの、特別な知識と技術を持っているから。


 綾乃のスマホからアラームが鳴る。


 重たそうに身体を起こした綾乃に、おはようと声をかけた。


「今度、会いにいきますね」


 返事が億劫らしい綾乃は、小さく手を挙げて頷いた。


 素早く身支度をした綾乃が出かけに言う。


「明後日の十三時。JR国立駅前のコメダ珈琲、二階の奥で待ってる。外で会うのに夜中なのは変でしょ。その日なら仕事も学校もないから私は大丈夫だけど、あとはそっち次第。仮に来られなくなってもやむを得ないわ。そのときは、一人でお茶して帰るだけよ」


 綾乃との連絡手段はない。


 裕也さんが首を横に振ったら、それまでだ。


「パソコンがあるのに、メールも無理なんて不便ね」

「近藤組の事業として運営されている診療所なので、セキュリティ一つにしても、組の意向に従わないといけないんです。それに、メールが入用になったことなんてないですから」

「不憫なくらいアタオカ極まってるわね」

「アタオカ?」

「気が乗ったら意味を教えてあげる。じゃ、また会いましょう」


 玄関から出ていく綾乃を見送る。


 去り際に投げキッスをされた。


 ねんごろしている演技のつもりなのだろう。


 それを眺めていた裕也さんが、ニヤついた顔で僕に言う。


「あの女とガラを交わすのか? へへ、稲葉のオヤジにも連絡しねえとなあ」

「そういうんじゃないです。ところで、相談があるんで中へお願い出来ますか」


 へいへいと浮薄な返答を背中で受け止めた僕は、リビングへと戻って、デスクの前に腰を掛けた。


 玄関の鍵を閉めた裕也さんが、勢いよくリビングのソファに着席をする。


「お前がこうして相談なんて珍しいじゃねえか」

「部屋の中にお呼びしたのは、折り入ってご相談がありまして」


 努めて冷静に、相談の導入を切り出す。


 裕也さんが姿勢そのままに、目の動きだけで視線を寄越した。


「他人行儀な口をタレんなよ。俺らの間柄らしくもねえ。ちょいダルいぞ」


 言葉尻でおどけて空気を誤魔化す態度が、僕の緊張感を煽った。


「綾乃さんと外で会う約束をしました。一人で出歩く許可を下さい」


 嘘は無しだ。嘘を貫き通せる相手でもない。経験を積んだヤクザに嘘は通用しない。


 背もたれに大きく寄りかかった裕也さんが、頭をぼりぼりとかく。


「こんなヤクザマンションで、男と女がむつみ合うってのも、限界があるよなあやっぱ。でもお前一人ってのは、オヤジが許さねえだろうし」

「僕の警備をするなら、少し離れた場所から見守るという手段だって取れるはずです」

「近くに敵が潜んでいたらどうする。俺にしろ他のガードマンにしろ、肉の壁をお前の前に展開するのだって、瞬時にってわけにはいかねえんだぞ」

「僕だってもう大人なんですから、最低限の自衛くらいはしますって」

「カチコミを甘く見すぎだ。いの一番でタマ抜かれるぞお前」

「そんなに外の世界には、危険が溢れているんですか」

「危ないから俺たちがいる。理人は俺たちにとって宝なんだよ。そんなお前が襲われてみろ。稲葉のオヤジが、怒髪天を突く勢いで機関銃を振り回すにちげえねえ。あのツルっぱげ性悪ジジイに髪なんてねえけどよ。あ、今俺が言った悪口は内緒な」

「言いませんし、言えませんってば」


 僕を大切に扱ってくれるのは嬉しいのだが、些か大仰なきらいがある。


 換言すれば束縛だ。


 今回くらいは見逃して欲しい。


「理人よ。そんなにあの女が良いのか? 飽きもせず、毎晩毎晩あんな常識外れな時間帯に、しかも歌舞伎町の外れにあるヤクザマンションに通い詰める、あの変わったイカレ女がよ。あの女に、いらんことを吹きこまれてるんじゃないのか?」

「そんなことはないですけど」

「お前よお」


 呆れ返ったように叱られた。


 叱られるような返事をしたつもりはないのだが。


「大人になったって自称するくらいなら、腹芸の一つくらい覚えておいても損はしねえぞ」

「腹芸ってなんですか」

「仮にもてめぇが惚れているっていう女を貶したんだ。ちょっとは憤れよ。裏があるのがバレバレじゃねえか」


 しまった。


「お前も一人の人間だから隠し事の一つや二つは、そりゃあるんだろうよ。だが肚割って喋ってもらわねえと、手を貸してやれもしねえんだって」

「どうせ駄目って言うじゃないですか」

「ガードマンとしてはな。でもよ、いまお前の前にいるのは誰だ? 俺はお前の兄貴分だ。困ってるんだろ? 手管を弄するような真似すんなって。俺だって、いつぞやの喧嘩でお前に怪我を治してもらった身だからな、お前が助けて欲しいなら、そう頼み込んでもらえれば手を貸してやるんだよ。他人行儀や、まどろっこしい交渉なんていらねえ。だろ?」


 今まで世話になってきた兄貴分に、僕は不遜にも交渉を持ちかけていたらしい。


 そういうことだった。


「お前が我がままを言うなんて、初めてのことだからな。興味があるんだ。ここから先は近藤組としての立場は無用だ。兄弟として話を聞くぜ」

「すみません」

「だから、そういうのはいらねえんだって。謝るな謝るな」


 羽虫を追い払うように、裕也さんが顔の横で手のひらを翻して否定する。


 こういう裕也さんの気安いところが、僕は大好きだった。


「ありがとうございます。実はですね」


 まずどうして僕がモルグで、去り際の依頼主に声をかけたのかを説明した。


 ご遺体である紗那ちゃんに一目惚れし、気になって諦めきれずにいた折に、綾乃が現れたこともである。


 紗那ちゃんに惚れていた秘密を漏らして、裕也さんに気持ち悪がられるのが怖かった。


 死体に惚れるなんて変な感性の持ち主が弟分なんて、心中穏やかでない部分もあるに違いない。


 それでも裕也さんは、鹿爪らしい顔つきで、黙って耳を傾けてくれた。


「お前は、紗那ちゃんの情報を握っているあの女に、まんまと外におびき出されようとしていたわけだ」

「おびき出されたっていうのは、語弊があります」

「語弊じゃねえだろ。騙されている可能性がぷんぷんしやがるってのに、危険を顧みずにお前は俺たちを出し抜いて、一人で会おうとしていたんだぞ。この馬鹿チンが」


 ぐうの音も出ない。


「だいたいなんであの女は、例の依頼主と紗那ちゃんの行方を追ってるんだ。紗那ちゃんが近藤組の誰かに殺されたっていうのも眉唾だが、ここまでやるかよ。一週間でこの診療所まで辿り着くって、スパイとして相当なやり手か、頭のネジが外れてるかのどっちかだぞ。俺が言うのもなんだが、変な挙動みせたら二度と太陽を拝めなくなるような魔界だからなこのマンション」

「覚悟はある、みたいなことは宣言してましたね」

「キナ臭え。ヤバいって俺の中の勘が告げてる。それでもお前は、あの女に会いたいのか」


 危険を冒してまで、綾乃と外で面会する理由。


「このタイミングを逃したら、僕はすごく後悔します。たぶんですけど、綾乃はもう二度とここには来ない腹積もりなんでしょうね。僕が裕也さんに話をした時点で、裕也さんが綾乃を強く警戒するのは、火を見る目よりも明らかですから」

「いっちょまえに主人公気取ってんじゃねえよ」


 なんだそれ。


「わーったよ。くそ、面倒な話になってきやがった」

「連れて行ってくれるんですか?」

「検討はする。オヤジには上申できねえ。俺もあの女には興味があるから、同伴もする。変な意味じゃねえぞ。どういうつもりでウチの弟分に近づいたのか、吐き出させてやらあ」

「頼もしい限りです」

「へっ、久しぶりに兄貴分らしく振舞えた気がするぜ」


 話がひと段落ついたところで、玄関の外まで裕也さんを見送る。


 今朝は羽虫が多い。


 裕也さんが外に出るやいなや、大量の蟲が服の上に張り付いた。


 蚊が大半を占めているが、中には蝿も紛れている。


 珍しい現象でもないから、特に突っ込んだりもしない。


 あとで殺虫剤でも撒いておこう。


 ガードマンは重労働だ。蟲が苦手な僕は彼らに頭が上がらない。


 玄関先の排水溝が黒くなっている。蝿の死体が堆積して詰まってしまっているらしい。


 幸いにして天気は良いから、雨水に濡れた死体の臭いが経つこともないだろう。


 とっとと、清掃員が片付けてくれるのを待つばかりである。

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