3-1 僕は外の世界が嫌いだ

 その日の夜中にも、約束通りに綾乃は診療所へ現れた。


 新たな情報はないことを伝える。


 怒られはしなかったが、僕の仕事に興味があったのか、質問攻めにあった。しばらくすると質問に飽きたのか、昨晩と同じように寝てしまった。


 歯は磨いてきたという。


 化粧はそのままでいいのか。


 ともかく、情報を仕入れなければならなかった。


 小平さんにも探りを入れてみた。成果は芳しくない。


 それどころか、オシとやらが失踪して、落胆しているのを慰める役をさせられた。


 オシとはどうも、唯一神のような扱いを受けている存在らしい。


 神を喪失した瞬間に、世界が灰色になったと涙目に訴えられた。新興宗教にでもハマっているのだろうか。探りを入れると逆に地雷を踏みそうで、僕は直ちに撤退をした。


 近藤組に所属する上で、宗教や思想の縛りはなかったと記憶しているが、業務に差し障らない程度に活動をしてもらいたい。


 小平さんの診察が入用になれば、そのうちに裕也さんから声が掛かるだろう。


 心の病気は専門外だから、あまり気は乗らないけれど。


 精神的にやられているのなら、休養をお勧めしたいところである。


 ただし世界が本当に灰色に見えるのなら、それはまた違う病気として考えなければならなかった。思い当たる疾患はいくつかあるが、そのいずれも診療所レベルで診断を下していいものではない。紹介状をしたためて、総合病院へ送らねばならないだろう。


 世界はおろか、空だって灰色になるなんて、普通はあり得ない。


 あり得ない、が。


 小平さんの言い分が、物のたとえだったというのは僕だって理解している。


 少なくとも僕は、そんな空を見た経験がない。





 写真のように、青い空を眺めたこともないけれど。


 だって、僕が知る空や海の色は。




 綾乃のスマホがアラームを鳴らす。気だるそうに綾乃が玄関から帰っていく。それを見送る僕を見た裕也さんが、口をだらしなく緩ませて僕の肩を叩いた。


「ほどほどにしておけよ。気持ちは分かるけどな。さぞ気持ちも良かったんだろう?」

「想像にお任せします」


 セクハラをいなした僕は、軽く頭を下げてから玄関のドアを閉める。


 あまり長く玄関のドアを開けっぱなしにすると、羽虫が入ってきてしまう。


 蟲は得意ではない。小さな羽虫くらいであれば手で潰せるが、指ほどのサイズになると太刀打ち出来なくなってしまう。


 診療所内やモルグは定期的に業者を呼んで清掃をしている恩恵もあって、滅多に蟲は湧かない。料理はしないから生ごみはないし、仕事で発生した廃棄物なんかも、即日で近藤組の担当者が持って行ってくれる。


 部屋の中はいつだってクリーンだ。


 しかし一歩でも外に出ると、大量の害虫が壁を伝って、僕の方へと迫ろうとしてくる。


 出張で訪問診療をする日もあるが、正直言って苦痛だった。


 子供の頃は蟲が怖くて、自ら外出を控えていたくらいだ。いくら周りの大人たちに恐怖を訴えても、「蟲くらい手で潰せよ」と笑われるだけだったから、引きこもる以外に対策がなかったのである。


 あのシラガ先生ですら、解決に取り組んでくれなかった。


「組同士の抗争で、近藤組の手で殺されたザコ連中が、ヤクザモンになんかなるんじゃなかったって、害虫に化けて嫌がらせをしにきているのさ。そういう仕組みなんだよ、この浮世ってやつは」


 幼少期に、そう教わったのを覚えている。


 一部の女性が化け物じみた姿をしていることも、同じように、「歌舞伎町っていう地域は、そういうものだから」と軽く流されてしまった。


 なぜこんなにも、世界には蟲が溢れ返っているのだろう。


 それが自然の摂理なのだろうか。


 誰も教えてくれない。誰も知らない。本にも載っていない。いるものはいるのだから、もはや諦めるしかない。そういうことか。


 小説や図鑑に描かれている、美しき架空世界だけが頼りだった。


 そんな悪しき蟲の存在は、僕が本の虫になってしまった原因の一つなのかもしれない。


 僕は外の世界が嫌いだ。


 でも外の世界が好きになりたくて、本を読んだ。


 世界の何処かに、本に描かれているような理想郷があるのではないかと夢想したのだ。


 あんなぶっ壊れた世界で生きていれば、誰だって擦り切れもする。


 診療所を訪れる患者の多くは、世界を睨みつけているような尖った目をして来院する。殺気に近い威圧感を、僕に叩きつけてくる患者も少なくない。


 リストカットをした女性患者が、世界への呪詛を吐き散らかしながら来院して、なだめた例もある。


 自分でも実に不思議ではあるのだが、ほぼ全ての患者が僕の話を聞くと、穏やかになって帰って行くのだ。


 私も頑張るから、先生も頑張って下さいと、笑顔で帰るのだ。


 うぬぼれるのであれば、やはり自分には医者としての才能があるらしい。


 誇りである。生きがいである。


 今後どんな困難に巻き込まれようとも、人生の芯とも呼ぶべきこの誇りがある限りは生きていける。


 医者にしてくれて有難うと、今は亡きシラガ先生に、心の底から感謝をしている。


 また夜中にやって来た綾乃に、僕はそんな話をした。


「理人という人間を、私は少しずつ理解し始めているのかもしれない」

「どういう人間だと思うんですか」


 言葉を選んでいるらしい。間があった。


「医者の卵になった私が言うのもなんだけど、日本の医者なんて、貧乏くじの最たるものじゃない。捉え方によるのは勿論だけど、リスクばっかり背負わされる割に賃金は安いし、業務時間もべらぼうに長いでしょう。うちの附属病院なんて、臨床経験八年の先生が月給二十万くらいらしいわよ。私はそういうのを度外視してるから、医者を志したけど」

「僕は患者さんが笑顔になって、毎日ご飯が食べられれば充分ですよ」

「それって、人間として健全ではないわよね」

「普段の活動時間帯はともかく、規則正しい生活は心がけています」


 思案顔になったつもりらしい綾乃が、口元に右手を寄せる。


「生きてて楽しい?」

「楽しいですよ。とても充実しています」

「最近、外で遊んだりした?」

「出不精なので、外ってあまり出歩かないんですよ」

「この家ってテレビないわよね。パソコンはあるけど」

「必要な情報はネットから引いてますし、勉強も楽しいですから退屈はしてません」

「私に言わせれば、この部屋は退屈の極みよ。給料だって、近藤組からそれなりに貰っているんでしょう? もっと遊べばいいのに」

「退屈だなんてとんでもない。ここに住まわせてもらって、美味しいご飯までもらえる上に、欲しい本を伝えれば、なんでも買ってくれるんですよ。賃金までせがむなんて、いくらなんでも贅沢というものです。医者とは、より清貧であるべきでしょう」


 綾乃がだんまりを決め込む。


 変なことを口走ってしまっただろうか。


 イグアナと黙って睨めっこをしているのがおかしくて、僕は軽く噴き出した。


「急に黙りこくらないで下さい。なんか変でした?」

「別に。そういう雇用形態もあるんだなって、驚いただけ」

「小さいころから近藤組に育ててもらいましたから、恩を返すべく家のお手伝いをしているだけです。雇用とはまた違うのかもしれません」

「そうなんだ。正規雇用される医者よりも、闇医者の方が生きやすかったりするのかもね」


 綾乃がソファに腰かける。


 今日は妙に大人しい。


 昨日までは、粗野っぽくソファに横になっていたのに、今日は借りてきた猫のように足を揃えて座っている。


「提案なんだけど、明後日あたり外で会えない?」


 顔が引きつった。


 大量の蟲が蔓延る外の世界へは、行かないで済むなら、それに越したことはない。


「診療所じゃ駄目なんですか」

「私がしつこく診療所に通い詰めていたら不審じゃない。たまには会いに来てよ」

「外って苦手なんですよね。特に日中はつらくて」

「頑張りなさいよモヤシっこ。日光を浴びないと、若くして骨粗しょう症になるわよ」

「近藤組が決めたルールがあって、僕は一人で出歩けないんです。たぶん裕也さんが付いてきますよ」

「それくらいは説得しなさい。たまには一人で散歩がしたいとか、駄々をこねてみたら?」

「裕也さんの説得は厳しいですって」

「試す前から諦めないの」


 諦めるとかそういう問題ではなく、外が嫌なんだって。


「っていうか、僕ばっかり情報を提供しているじゃないですか。僕にも紗那ちゃんの情報を下さいよ。頑張って外出して、また一方的に話をさせられて終了なんて御免ですからね」

「あー……」


 綾乃が首だけを動かして、僕を見やる。


 すぐに視線を天井に逃がされた。


「やべ」

「はい?」

「そういえばそうよね。そうだった。ごめんなさい」


 頭の上で手を合わせている。パンと小気味いい音が鳴った。


「私いつもソファの上で死んでたもんね。これは私の不手際だわ」

「自覚はあったんですね。謝罪が無かったら、うっかり裕也さんを呼んでいたかもしれません、うっかりですけど」

「今日はちゃんと情報を渡すってば」


 床に放り出されていた黒革の鞄から、綾乃が一枚の紙を取り出す。


 四角形の厚い写真用紙を手渡された。


「あげる。紗那の写真。ほんとは昨日のうちに渡すつもりだったんだけど、許して」


 生前の紗那ちゃんだ。


 照明が降り注ぐ舞台の真上で手を振って、観客に笑顔を振りまいている。


 印刷面に指紋が付かないよう注意しながら、僕は両手で持った写真に見入った。


「あっあっ、写真っっ、本物ですかこれっ!?」

「反応がキモい、興奮し過ぎでしょ」


 食い入るように写真を見る。


 僕の知らない世界がそこにはあった。


 煌びやかにライトアップされた舞台の中央で、汗で首筋を光らせた紗那ちゃんが踊っている。黒と赤のタータンチェックのスカートから覗く白い太ももが眩しかった。

後ろには、同じ服を来たバックダンサーも写っている。焦点が紗那ちゃんに合わされていたため、身体が写真の端で切れていた。


「それあげる」

「良いんですか!? だってこれ相当な値打ちものですよね!? 芸術ですよ!?」

「そんな訳ないでしょ。家で印刷してきただけだし」


 大事にしよう。


 両手に携えられた写真を拝む。


 僕はワイシャツの胸ポケットにそれを入れた。重みがあった。


 紗那ちゃんの重みだ。


 僕の想いの重みでもあった。


 ポケット越しに写真に触れる。


「変なことに使わないでよね」

「丁重に扱うつもりです」


 一目惚れをした女性の写真で、ナニをするはずがないだろう。


 罪悪感で悶えるのが目に見えている。


「話を戻すけれど、もっと情報が欲しいなら外に来てもらえるかしら」

「飴を先に渡しておく作戦ですか。この写真はもう返しませんよ」

「どんだけ気に入ってんのよ。キモいというか、気持ち悪いんだけど」


 そこまで言わなくてもいいじゃないか。


 誰かに一目惚れをしたのなんて、これが初めてなんだから。


「外じゃないと見せらんないものもあるの。この診療所に来るときは、パソコンを持ってくるなとか、スマホは玄関で一時没収だとか、色々条件つけられてんだから」

「出してたじゃないですかスマホ」

「あれは目覚まし用よ。SIMも抜いてあるから電波も届かない。中のデータも検閲済」


 断る糸口が見つからない。写真を貰ったあとでは尚更であった。


 僕に裕也さんを説得出来るのだろうか。


「眠くなってきた」


 綾乃が目をこする。


「いつも眠そうですけど、仕事ってそんなに忙しいんですか」

「昼に大学へ行って、夜には仕事もしているせいね。遠くにロケで連れていかれるとかがないだけマシよ。寝て良い? 外に行くかは、私が起きる前に考えておいて」


 ばたんとソファの上で寝落ちする綾乃だった。

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