2-3 血潮の海、感覚野変性
診療の合間に、綾乃が突出して異形と化している理由について考察をしてみた。
イグアナは爬虫綱の有隣目であり、その下位分類としてイグアナ科に振り分けられている脊椎動物である。
知能は高く警戒心が高い。飼い始めの頃は攻撃されることもあるという。
だが一度関係性に慣れると、元来の温厚で大人しい性格もあって、自分の主人を見極めた上で懐いてくる動物だ。
綾乃が僕に対して攻撃的なのは、イグアナの気性からくるものなのだろうか。
最大限に僕を警戒した上で情報収集、それゆえの強行なのかもしれないけれど。
結果的に、紗那ちゃんの情報収取に手を貸す方針になったが、僕自身の命の安全は優先していきたいところである。
次に外見について考えてみる。
女性の顔貌は、タヌキ顔だのキツネ顔だの、動物を引き合いに出して語られる場合があるが、中には爬虫類顔なんて例えられる女性も存在する。
けなしているのか褒めているのか判断に難渋する部分ではあるが、爬虫類顔とは、イグアナを指して言及されることもあるらしい。
元からイグアナに似ている綾乃の顔が僕の網膜に焼き付いて、そこから発生した電気信号が視神経経由で僕の脳に到達した結果、イグアナとしての印象が強烈に刷り込まれた、という理屈はどうだろう。
いっそのこと綾乃本人に、親戚にイグアナはいないか質問してみたいところだが、その代償として、僕の睾丸がミンチになるのだけは避けたかった。
初めて会った日から二日後に、綾乃は約束通りに診療所を訪れた。
「風邪でも引いたんですか?」
スーツ姿のイグアナは、サングラスとマスクをしていた。
似合っていない。
マスクのゴム紐は、コブみたいに出っ張った眼球の後ろ側に、引っかけられるようだ。
「変装よ。一昨日来たときも部屋に入るまでは付けてはいたんだけどね。初対面の相手にサングラスとマスクをつけていたら、変に警戒されるもんでしょう。あの日は理人を油断させないといけなかったから、玄関に入ってからすぐに取り外したわ」
「大した自己紹介もせずに、『脱いで』とか脅してきたくせに」
「嫌な作業は瞬殺しておきたい性分なの。喋り出したら自分に嘘を付けなくなっちゃって」
「油断させるつもりだったんなら、嘘くらいついて下さいよ」
そして、僕への忖度をそろそろ覚えて欲しかった。
当時の心情は察するが、僕の性処理を嫌な作業扱いしないでもらいたい。
「私ね、頭に浮かんだ言葉を飲み込むとか、やりたいことを我慢するとか、色々と腹にためこむと、老けこむのが早いっていう俗説を信じてるの」
綾乃が黒革の鞄を、フローリングに放り投げる。
サングラスとマスクを外し、我が家でくつろぐかのようにソファに寝転がると、我が物顔でスマホを弄り始めた。
そこに転がったのは、家主である僕を除けば裕也さんに次いで、二人目である。
敵地にいることをお忘れなのだろうか。
くつろぎ過ぎだ。
「こんな手狭な部屋に引きこもってて、ストレスたまらない?」
「リラックスしながら仕事してますよ。この診療所は、自宅としての機能を兼ねていますからね。別の部屋には寝室もありますし、仕事が終わったらすぐに寝られます。便利ですよ」
「私生活と仕事が直結してる系ね。でもそれって、オンとオフの境目が曖昧ってことでしょう。どこからが『自分の時間』なのか区別ついてる?」
「全部が自分の時間です。区別する必要性がありません」
あっそ、と流された。
「んで、あれから新しい情報はあったのかしら」
「大きな進捗はありませんでした」
「二日だけじゃあ、そんなもんか」
意外や意外、イグアナは業務の遅滞に寛大だった。
「腑に落ちないのが、依頼主の言葉なんですよね」
「単純に、『依頼主の事情にまで首を突っ込むな』っていうサインだったとか」
「だからって、あんな言い方をしますかね」
「私が疑っているのは、紗那が殺された理由と、理人を雇っている近藤組との間に因果関係があるかどうかよ。つまりは『近藤組の機密に係る内容だから、深入りをするな』という忠告だった可能性ね。もし近藤組の誰かが、紗那の殺害に関与しているのであれば、事後処理を内密に進めるために、依頼主を理人に紹介するのは妥当でしょう。血で汚れた手を身内に洗わせているんだから」
「それが真相なら、部外者の綾乃に協力している僕は、限りなくアウトな存在ですね」
「バレなきゃいいのよ。上手くやって」
笑顔だった。
悪魔かよ。
イグアナだった。
その爬虫類顔で口角を上げて笑われると、かなりおぞましいものがある。艶然と微笑んでいるのではなく、悪どく表情を歪めているようですらあった。
オフィスチェアに座ったまま綾乃を観察してみる。わずかに表情筋が動いている。
心なしか感情も読み取れそうではあったが、勘違いの範疇からはまだ出られそうにもない。
「余談だけれど、ちなみに私はその男の正体をもう掴んでいるわ」
綾乃は、余談の意味を理解しているのだろうか。
充分なくらい衝撃発言である。
その割に、綾乃の声色は淡泊なものだったが。
気持ちを汲み取れるようになるまでには、まだかなりの訓練を要するらしい。
「あら怖い顔」
「正体を知ってるなら、最初から教えておいて下さいよ。昨晩あの後、依頼主について裕也さんに探りを入れちゃったじゃないですか」
「でも成果はなかったんでしょう」
「それどころか『まだ言ってんのかお前は』って怒られました。『お前には綾乃ちゃんっていうお気に入りの子がいるだろうが』って。すっかり気の多い男扱いです」
「きゃー、理人先生のお気に入りになった私は、今晩どうなっちゃうのかしらー」
「帰ります?」
「来たばっかりなのに今帰ったら、外のガードマンにも理人が早漏だってバレるわよ」
それは絶対に駄目だ。
僕は無言で遺憾を表明した。
「理人の弱みを握ったも同然ね。切り札として取っておきましょう」
忖度をしてくれそうな気配すらなかった。
「それはともかくとして、その男は紗那の父親よ」
「根拠はあるんですか」
「その男は紗那の芸能マネージャーでもあるの。殺害される過程でこの事件に介入して、エンバーミングをせざるを得ない状況に陥ったのでしょうね」
「依頼主が紗那ちゃんを殺した可能性はないんですか。仕事に疲れたとか、紗那ちゃんから反発されて頭にきたとか、理由ならいくらでも挙げられそうなもんですけど」
「絶対にない。本業の片手間に、愛娘のマネージャーを自分でやっちゃうようなあの子煩悩が、他の誰でもないあの紗那を殺すなんて、とてもじゃないけどイメージ出来ないわよ。エンバーミングするときも、号泣して大変だったでしょう」
「全然ですよ。処置は淡々と進みました」
そんなに意外だったのだろうか。
スマホを弄っていた手を休めた綾乃は、半透明の瞬膜を何回も開閉させていた。
「あの依頼主、そんなに紗那ちゃんを溺愛していたんですか」
「溺愛も溺愛よ。愛に溺れたくて、芸能界なんていう熾烈極める大海原に飛びこんだんじゃないかっていうくらいよ。あの超絶レッドオーシャンの界隈で、一人の女をあそこまでヒットさせた手腕は私も認める所だけど、愛に溺れて正気を失っていたからこその業績なんじゃないかとも私は思う。私生活なんて、あって無いようなもんだったみたいだし」
「レッドオーシャン? 海ってやっぱり何処も赤いんですか」
「なかなか拾いづらいボケかたするわね、あんた」
「ボケ?」
「レッドオーシャンってのは、ビジネス的に競争率が激しいって意味よ」
なるほど。
「昔に一度だけ海に連れていってもらったことがあって、そのときの海が赤かったんです」
「赤潮だったんじゃないの。プランクトンが大量発生して起きるってやつ」
写真での海は真っ青だったから、実物を見た時は驚いたものである。
もう十年近く前の話だ。懐かしい。
「そうかもしれないですね。空模様と同じで、海だって常に同じ色をしているものでもないですし」
「海と空の話はともかく、あの父親は紗那を大事にしていた。殺すなんてあり得ない。だからこそ、紗那の死を受け入れた上で、ここに運び込んだのが不可解なのよ」
「探りを入れる必要がありそうですが、今度は誰に当たるべきか悩ましいですね」
「裕也さんだっけ。あの人はもうやめた方がいい。警戒されてる。さっきも睨まれた」
「僕にとっての兄貴分ですからね。弟分がいきなり色恋に目覚めたら、惚れ薬でも盛られたんじゃないかって疑うのも、無理はないのかもしれません」
ソファの上で輾転反側としていた綾乃が、勢いを付けて上半身を起こす。
「馬鹿馬鹿しい。惚れ薬なんて幻想上の薬でしょ。惚れ薬の存在を信じちゃうくらい、ヤクザの頭の中って終わってるの?」
「皆々が想像しているような惚れ薬ではありませんが、それに類するものなら現存しますよ。日本では手に入りませんが、インバーマに、甘草やクコの実を混ぜた漢方など」
「聞きなれない薬品名ばかりで、胡散臭さが半端ないわ。流石は闇医者。ダークすぎる薬品に詳しいっていうか、もしかしてこの診療所にもあるんじゃないでしょうね」
「ありますよ。需要がありますし、極道が一枚も二枚も嚙んでいる診療所ですから」
「うわ、こわ」
目を尖らせた綾乃が、鱗に覆われた筋肉質な両腕を胸元の前でクロスさせる。
身を守っているつもりらしい。
「誤解されると嫌なので先に断っておきますけれど、僕自身は使ったことがないですし、綾乃に使うつもりもありません」
イグアナを発情させるなんて発想もなかった。
「そうね。理人はそういう蛮行をしそうにないわよね。一応は信用しているわ」
言動が一致していなかった。
綾乃があくびをする。ノコギリの刃のようにずらりと並ぶ小さな歯が、上下の顎の間から覗いていた。
「今回の成果はこんなもんかなあ。私はそろそろ寝ようかしら」
また横になった綾乃が、人差し指と中指を銃に見立てて僕に差し向ける。
あとは宜しくと言いたいらしい。
「泊まるなら事前に教えて下さいよ。パジャマとか用意してもらったのに」
「いらない。三時間くらい寝たら勝手に出ていく。授業に出る前に家で着替えないといけないから、泊まるっていうほど長居もしない。仮眠よ仮眠。電気はこのままでいいからね。真っ暗だと眠れなくなる体質なの」
厚かましいというか、ふてぶてしいというか。
喋らない分だけ、本物のイグアナの方が可愛らしいかもしれない。
せめてベッドで寝てもらえないだろうか。このソファもそれなりの値打ちものだから、座り心地が良いとはいえ、客人に身体を痛めさせるのは気が悪い。
声を掛けようとしたが、綾乃はすでに寝息を立てていた。
電源スイッチが身体のどこかにあるのか、器用な身体である。
明日は休診日だ。綾乃が目を覚ますまで、デスクで勉強をしよう。
僕まで眠りこけるわけにはいかない。勝手に帰るとは宣言していたが、次に会う日の約束をまだしていなかった。
それに、気に入った設定の女を見送らないというのも、不自然である。
最近購入したばかりの参考書を手に取って、ビニールの包装を破り捨てる。
人間が爬虫類化する、難治性疾患の加療に成功した一例、みたいな報告は記載されていないだろうか。
そんなエキセントリックな報告がこの世に現存していたとしても、教科書に掲載される可能性は低い。調べるのであれば、論文ベースで調査を行うべきだ。
綾乃の寝言が耳朶に触れる。悪夢にうなされているらしい。
「紗那、紗那」
目尻から涙が流れている。頬を伝って、ソファの座面にまで落ちていった。
大事な親友を失ったばかりなのだから、哀しみも泣きもするだろう。毅然とした態度で僕との会話には臨んでいるが、内心で深い傷を負っていることは推して知るべきである。
かといって、僕が慰めるのは筋違いだ。
そっとしておくのが一番だった。
三時間が経過すると、床に転がっていた綾乃のスマホがけたたましく鳴り始める。
気だるそうな綾乃が、寝たまま腕を動かしてスマホを拾い上げる。
乳白色の鱗で覆われたイグアナの顔色から、体調を窺うのは極めて困難であるが、朝には弱い体質のようだった。
「また今晩くるから」
機嫌が悪かった。ぶっきらぼうに吐き捨てられた。
綾乃が訪れる夜までに、新しい情報を仕入れておかなければならない。無茶ぶりである。
僕は黙ってうなずいた。空気を読んだ。
ふらふらになった綾乃を見送る。
玄関のドアを閉めようとしたら、裕也さんに肩を叩かれた。
「お前すげえな。あんなにフラフラになるまで抱いたのか」
「前の仕事で
「
「聞き返すのも躊躇うくらい下品な冗談ですね。僕はもう寝ます。今日の昼番は小平さんでしたよね」
「もうじき交代の時間だ。伝えることがあるなら伝えておくぞ」
「特にないですが、また同じくらいの時間にあの子が来ます。平気ですか」
「そりゃいいけどよ。ひとつ聞かせてくれ」
「なんですか」
「あの女は、そんなに具合がいいのか」
「おやすみなさい」
軽く頭を下げた僕は、頬をだらしなく緩ませた裕也さんをスルーした。
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