2-2 童貞の早漏で候
数分もすると、微動にしていなかったスーツ姿のイグアナが動き出した。
ソファの背にしなだれかかった僕の上から降りて、図々しく真横に腰をかける。
「名前は、理人先生だったかしら」
「初めて呼んでくれましたね。てっきり、名前を教わっていないものかと」
「これでも一応は、あなたの貢ぎ物になる予定だったのよ。名前くらい教えてもらえるわ」
「そういえば、水揚げ本マグロでしたね」
「なにそれ」
失言だった。
「コードネームみたいなものです」
「変なコードネームで呼ばれるのって、割と不愉快なのよ」
「じゃあ名前を教えて下さいよ。そうしたら、コードネームなんて不要になりますから」
鼻を鳴らしたイグアナが、そっぽを向く。
「綾乃よ、綾乃」
「綾乃さん」
「呼び捨てでいい」
「フェアじゃないので、僕のことも呼び捨てにしてくれるなら」
「その方が私も楽だわ。喋り方も、丁寧語じゃなくても構わないわよ」
「喋り方は昔からこうなんです」
「なんとなくだけど、その特徴からして、理人の人となりが滲み出ているわよね」
「僕のですか?」
「ええ。あんな横暴を働いた後だから尚更だけれど、常に怯えてるっぽいというか、小動物みたいな目をしてるというか。その上、瘦せ型の身体で、顔色も悪い。患者を診るっていうよりも、患者から心配されてそう」
等身大のイグアナに股間をまさぐられたら、誰だって怯える。
「それで、理人は私にどんな情報を提供してくれるのかしら」
僕が把握している限りの情報だ。
そしてこれは、僕が生まれて初めてしでかす、近藤組への裏切りでもあった。
僕はあの子の、紗那ちゃんの情報を求めている。
生きとし美女の身体ではなく、腐りゆく死人であったとしても、また会いたかったのである。
さっそく綾乃に、この診療所にエンバーミングの依頼があった時点から、僕が紗那ちゃんの御遺体に一目惚れをし、依頼主が単独でご遺体を持ち帰った所までを解説する。
綾乃は説明中に一言を発することなく、滔々と話をし続ける僕の声に耳を傾けていた。
「これが僕の知る全てです」
「紗那の身体を綺麗にしてくれたことも含めて、お礼をするわ。ありがとう」
目を伏せた綾乃が項垂れる。
「アイドルとして闇営業をしていた紗那は、近藤組の誰かに殺された。むしろこの部屋で殺されたとすら推測していたのだけれど、理人の言葉が真実なら、見当違いだったようね」
「近藤組の誰かが手を下した可能性は、ゼロではないしょう。今までも、組員が作った死体を、僕が始末するというシチュエーションはありましたから」
「血液就下はあった?」
「何ですかそれ」
綾乃がまじまじと見つめてくる。
すぐに顔を背けられた。
「死ぬと血液が重力に従って下に集まるもんなの。その血液の色が、アザみたいに皮膚の表面に現れたのが、いわゆる死斑」
「それなら背中の方に、くっきりと出ていました。僕自身の目で確認したので間違いありません」
「死後三十分くらいから出現し始めて、十五時間前後で色が最も濃くなるものだから、理人が見た死斑が、本当に背中だけにあって濃い色だったのなら、それなりに時間が経過していて、ずっと仰向けにさせられていたのでしょうね」
「綾乃は物知りですね」
「調べただけ。こう見えて、医者の卵なの。本業は学生。治療に関係のない内容でも、食指が動いた対象は、片っ端から調べるようにしているの」
綾乃は誇らしげでもなく、そっけなく吐き捨てた。
「アイドルもやって、医術の勉強もして、近藤組へのスパイ活動もやってのけるなんて、綾乃は多才ですね」
「こんなリスクだらけの潜入活動は、これが最後にしたいものだけれど」
「そうすべきです。僕が指摘するのもなんですが、この診療所に探りを入れるなんて相当な無茶ですよ。ヤクザマンションって呼ばれているんですよここ。近藤組の幹部も住んでいますし、この部屋に入るときだって、男の人に持ち物検査とかされたでしょう。どうやってこの診療所へ流れ着いたんですか」
「人伝いよ。闇営業の一環で、近藤組が携わっている店舗で聞き込みをしていたら、理人の話が出てきたの。近藤組絡みの死体は、あの診療所を介して処理されるってね。スマホのメッセージを見て、紗那は既に殺されていると踏んでいたから、博打で飛びこんだってわけ。スムーズに紹介してもらえたのは、私の愛想と、交渉力の賜物でしょう」
「メッセージの詳しい内容は」
「教えると思う? デリカシーが無さすぎ」
すっくと席を立った綾乃が、背伸びをする。
「さてと。もう帰る時間だから、ちゃちゃっと射精してくれる?」
「射精はちゃちゃっと済ませられるもんでもないですし、僕はまだ紗那ちゃんの情報をもらっていません」
「名前は判明したじゃない。おめでとう、真実への第一歩よ」
こいつの名前なんか、暴君イグアナで充分だ。
「冗談だってば、そんな顔しないでよ。今日はもう時間が無いから、また来たときに、教えてあげられる範囲で教えてあげる。理人も組員から、もっと紗那の情報を集めてみてよ。明後日の診療後とかどう?」
「僕は構いませんが、綾乃さんが訝しがられませんかね。裕也さん──外にいるガードマンも言い包めないといけませんし、どういう名目で来院するってことにします?」
「そんなの、『綾乃ちゃんのことが気に入ったから、またすぐに会いたい』で充分でしょ」
「いやあそれはちょっと」
女の子の扱いを不得手とする僕が、裕也さんに色ネタを振るっていうのか。
酒の肴として、爆笑される未来が目に浮かぶ。
「もしかして、女の子が駄目な人だったりする?」
「そうですが何か問題でも?」
「うっわ悲惨、外見通りの中身」
「怒ってもいいですか」
綾乃が鼻先にチョップを掲げる。謝罪の意のつもりらしい。
「ごめんごめん。理人と会話をしていると、つい弄りたくなっちゃって。じゃあ、さっき私が乗ったときは、抵抗しなかったんじゃなくて、出来なかったんだ」
「僕の尊厳が鰹節みたいに削られていくんで、この話題はもうやめましょう」
「だって面白いからさ」
綾乃が小さく舌を出す。ウィンクをされた。
獲物を前にした爬虫類が、舌なめずりをしているようにも見える。
「私はトイレに行きがてら、時間を潰してくるわ。射精をするのに、三分もあれば事足りるわよね」
「三分って、僕をなんだと思ってるんですか」
「童貞で早漏」
「デリカシーが無いのはどっちなんでしょうね」
綾乃は、口さがなくて正直者なのだろう。
忖度が出来ないとも言う。
根から悪い人ではなさそうだけれども。
腰を据えて話をすれば、人間として理解し合える存在なのかもしれない。
「努力はします」
「応援してる。妙案を思いついたわ。私のブラジャーを貸してあげましょうか」
「妙案でもないし結構です」
綾乃がトイレに退散する。童貞に加えて早漏なのは事実で、悔しいことに綾乃が三分ぴったりで戻ってくる頃には、ティッシュの処理も含めて完遂してしまっていた。
三分間で男のデリカシーを学習したらしい綾乃が、今度こそ僕を弄らなくなった。
切なくなった僕は、力の抜けた手を振りながら、玄関先で綾乃を見送るのだった。
「裕也さん。あの子が気に入ったので、また明後日に呼びました。手配をお願いします」
「マジかよ。そうかあ、お前もついに男になっちまったかあ。兄貴分として俺は嬉しい限りだぞ。料亭に赤飯を炊いてもらうように伝えておくか」
「変な噂が立つので、絶対にやめて下さい」
そういえば、紗那ちゃんの情報だけじゃなくて、綾乃自身の話も聞けていない。
ヤクザマンションに特攻してくるような女だ。ロクでもない身の上話になりそうである。機会があれば話を掘り下げてみたいが、藪蛇の予感も否めない僕であった。
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