2-1 地獄への道は善意で舗装されている
今は亡きシラガ先生から稼業を継いで、数年が経過する中で、特別報酬と呼ばれるご褒美を頂く機会が数回あった。
その多くは、一般的な病院での受診を困難にさせる事情や背景を持つ、政財界の面々を治療した場合である。
たとえば日本を動かしているお偉方が、お忍びの風俗遊びをしたときだ。歌舞伎町で喧嘩に巻き込まれたり、相手を殴ってしまったり、新宿周辺で性病を伝染されたりしたらどうなるか。
解決の一端を担うのは、歌舞伎町を牛耳っている四代目近藤組だ。
すると組には、多額の謝礼が入り、僕はそのおこぼれに与るわけである。
特別報酬の内容は様々であるが、大半は女の子が関係するサービスの無償提供だった。
近藤組が管理しているキャバクラで、一番人気の子と食事をしたり、その子を診療所まで呼んで、二人きりでお話をしたり遊んだりする。
遊ぶといっても、酒瓶を傾けながらボードゲームで遊ぶくらいのものである。
女の子と過度に接触する行為は、得意ではない。
特別報酬を断ろうとしたこともあるが、近藤組は厚意で僕にサービスを提供してくれているのだから、無下には出来なかった。
厚意にケチをつけるような、厚かましい真似はしたくない。診療所にまで遊びに訪れてくれた子を雑に扱うのも可哀相だ。
とどのつまり、特別報酬と銘を打ってはいるが、診療所に送られてきた女の子を、僕がもてなすことになるのが常なのであった。
人との会話そのものは好きであるから、話し相手が自宅まで来てくれるという嬉しい一面もあるけれども。
実のところ、僕は自由な外出が許されていないから、話し相手は常に求めていた。
外出が制限されている理由をシラガ先生に尋ねてみると、非常に貴重な存在だからと諭されことがあった。その曖昧な回答に当時は理解に苦しむ部分もあったが、稼業を継いだ今なら意味がよく分かる。
闇と栄華が入り交じり混沌と化した歌舞伎町において、スネに傷を持った者を含め、分け隔てなく治療をしてくれる診療所は、それだけで貴重な存在なのだ。
時には、他の極道グループに所属している者を診療するケースもある。近藤組にも、いくらか紹介料を支払っているはずだ。助けてもらったという恩や、義理といったシガラミのせいで、近藤組に頭が上がらなくなった組織が存在していることは、想像に難くない。
繁盛はしている。
それだけ困っている人が多いという、一種の証左でもあるのだろう。
もう一年前にもなるが、ある女性患者からこんな話をされた経験がある。
彼女は二児を育てるシングルマザーで、風俗嬢として生計を立てていた。膣カンジダ症という感染症に関して相談をしにきた折に、生活苦の愚痴を僕に吐露してくれたのだ。
「私たちみたいな日陰者はさ、皆が言う『普通の世界』が眩しく見えてしまうんだ。あっち側の生活には憧れがある。でもあまりにも眩しすぎて、嫌悪感も同時に抱えてしまう。その中で先生みたいな存在は、程よく温かくて良い感じっていうか、暗闇を柔らかく照らす街灯みたいなんだよね。先生に伝わるかなあ、私たちのこの害虫みたいな生態」
有難いことに、僕は周りの人から頼られているらしかった。
それは近藤組が頼られているのと、同義である。
極道界隈において、信用や義理は、特筆して重んじられる要素だ。
闇医者による診療行為は、幅広い層の信頼が獲得できる事業でもあった。その中核となる僕を、近藤組は何年もかけて育てあげたのだから、丁重に扱うのも道理というものだろう。僕の身柄一つで、歌舞伎町の趨勢に影響を及ぼすといっても過言ではない。
そのため外出の際には、必ず裕也さんや他の組員がガードマンとして同行しなければならなかった。
外で特別報酬を受け取るときも、ほぼ必ず裕也さんが横にいる。
例外は、診療所に患者が送り込まれたときだろうか。
診療時は、可能な限り一対一になるように心がけている。患者が無駄に緊張や警戒をしていると、問診で適切に回答を引き出せなくなるからだ。
診療所に入る前には、持ち物検査の他に、金属探知機を使った身体検査も行う決まりになっている。もし診療中にトラブルがあっても、大声を出せばすぐに裕也さんたちも駆けつけられる。
特別報酬として、女の子と診療所で二人きりになったときも同じだ。
だから今回の一件で授与が決まった特別報酬についても、あまり心配はしていなかった。
ゲームをするか雑談をして、終わりになるだろう。
一週間前に実施したエンバーミングが、大きな業績として評価をされたらしい。連絡をくれた組員によれば、僕は『水揚げ本マグロ』を頂けるそうだ。
言わずもがな、隠語である。
風俗店での勤務が決まったばかりで、かつ処女のために、演技も何もかもを知らない女の子を指す言葉である。
その隠語に近しい状況にある子が、僕の元に送られてくるのだろう。
女の子の扱いが不得手なのを把握しているのは、今のところ裕也さんだけだ。近藤組が気を遣って送ってくれている特別報酬なのは承知の上だが、さてどうしたものか。
相手は処女である。
不慣れ同士を掛け合わせたところで、交流が円滑になるわけがない。
僕があまりにも女の子に手を出さないから、変化球を投げかけてきたのだろうか。
余計なおせっかいである。
さて困った。性行為から出産までを学術的に語るならともかく、童貞の僕が処女の手ほどきなんか出来るはずもない。かといって女の子に恥をかかせたくもない。
第一の問題として、僕は女の子に触れるのが非常に苦手なのだ。診療中ならいざ知らず、それ以外では触りたくもない。
その理由は、裕也さんにすら告白したことがなかった。
きっと理解してもらえない。
あの美しいご遺体が相手なら、話は別である。
少女が奇跡か秘術かで蘇生され、僕の相手をしてくれるというのなら、それに勝る報酬はないだろう。
特別報酬が届けられる日取りは、今晩になっていた。
零時ぴったりで店じまいをする。
これからやってくる水揚げ本マグロに身を固くした僕は、いつものワイシャツ姿で診療所のソファに座って待機していた。
裕也さんの大声が、玄関からリビングにまで響いてくる。
「マグロが来たぞ。これから入室時の検査をするから、数分だけ待っててくんな」
水揚げ本マグロと称された女の子は、不憫である。
なんせ、ここはヤクザマンションだ。
冒険の経験が浅い少女が、いきなり魔王城へ突撃させられるようなものだろう。
ガチガチに固まった相手との会話ほど、やりづらいものはない。追い打ちをかけるような真似は避けて然るべきだが、セキュリティ的に致し方がないとも言える。
検査に手間取っているのか、水揚げ本マグロはなかなか中へ入ってこなかった。
今晩は小平さんが別の業務に当たっているから、診療所周りのサポートは裕也さんが全て請け負ってくれている。
何かトラブルが発生したのだろうか。
杞憂だったらしい。玄関の開く音がする。
「失礼します」
芯のある、落ち着いた女性の声だった。
女性の前でみっともない姿は晒したくはない。
足を肩幅に広げて、ソファに浅く腰をかけ直す。膝の上に肘をおいて前傾姿勢になった僕は、身体の前で手を組んだ。こうすると、どっしり構えているように見えるらしい。
廊下からスリッパの音が近づいてくる。
足底と床の擦れる音が妙に大きい。
まだ廊下にいるはずなのに、息遣いまで聞こえてくる。鼻息が荒いのは興奮からなのか緊張からなのか、僕を怯えさせるには充分すぎる異音であった。
容貌魁偉の大女だったらどうしよう。押しつぶされてしまわないだろうか。
大きな足音がリビングの中へと到達する。
やがて僕がいる方へ歩み寄ると、ソファの手前で立ち止まって挨拶をしてきた。
「はい、よろしく」
妙に投げやりである。
これまで特別報酬と称して、僕宛てに送られてきた女の子は、特別報酬に相応しい愛想が動きの端々に垣間見えているのが普通で、挨拶一つにしても礼儀が光っていたものだ。
ワンテンポ遅れてソファから身体を起こした僕は、果敢にも水揚げ本マグロに立ち向かう。
「こちらこそ、よろしくおね、」
嘘だと言ってくれ。
未曾有の恐怖と困惑を前に、僕は言葉を失った。
右腕で目をこする。
視界に変化はない。
「なによ。初対面の相手の顔と身体をじろじろ眺めるなんて、失礼じゃない」
眺めずにはいられなかった。
「私の見てくれが良いのは承知しているけれど、もう少し遠慮してもらえるかしら」
そこには、二足歩行の巨大なイグアナがいた。
全身が乳白色の鱗で覆われている爬虫類のくせに、黒いスーツを着ている。
ひざ丈くらいに伸びたスカートの裾からは、のそりと二本の太い足が伸びていた。
ずっと僕が抱えてきた、とある悩みのせいなのは、すぐに察しがついた。
女性は昔から苦手だ。
出来るだけ関わりたくもないし、触れたくもない。
一部の女性が、人間離れした化物の姿をしているせいだ。
近藤組の皆は平気な顔をしているけれど、どうしても僕には苦手意識があった。
鬼の角のように、人間の顔に異物が生えただけのように見えるときもある。タランチュラのように、眼球を複数持つ人と出会ったときは、怖くて目を合わせられもしなかった。それでも眼以外は普通であったから、人間として受け入れることが出来たのだ。
だが、こんなにも、はっきりと人外化生として認識した相手は、今回が初めてだった。
こいつと今晩を共にしろと?
彼女の見てくれに、人間らしさなんてとても感じられない。
全身は湿り気を帯びた鱗で覆われていて、指先には黒い爪が立っている。尻尾はない。時折口からはみ出す赤い舌先が、二股に分岐していた。
特別報酬として呼ばれた謎のイグアナが、フリーズ状態に陥っていた僕を凝視している。
目つきが悪い。まるで肉親を殺した敵を睨んでいるみたいだ。僕の胸元くらいの身長しかないくせに、野生動物さながら威圧感を放って直立している。
愛嬌を振りまかれるどころか、腕を組みながら威嚇をされている僕だった。
「聞いてる? ねえってば」
「あ、ああ、うん。混乱はしていますが」
「はあ?」
イグアナの眼瞼から白い膜が現れる。閉じたり開いたりしていた。
どうするもこうするも、覚悟を決めるしかない。
現実を受け止めよう。
世の中は広い。そういうこともある。
ここまで酷い状態の人と会うのは、流石に初めてだけれど。
「すみません。あまりにも美人だったから」
大嘘をついた。
つきたくて、ついたのではない。
イグアナの口からはみ出した舌先が、僕の視線を誘うようにチロチロと揺れている。
「純粋に、褒め言葉として受け取っておくわ」
「はは」
「先に釘を刺しておくけど、あなた個人にはあまり興味がないの。今日は仕事で来ているだけだから、勘違いはしないで欲しい」
イグアナは高飛車だった。
この高圧的な振る舞いも、特別報酬の一環なのだろうか。
高圧系女子に悦ぶ趣味は僕にはない。
せめてお淑やかに会話をしてくれれば、解語の花ならぬ、心美しいイグアナ嬢との貴重な対話であると前向きになれていたのだろうが、ただでさえ外見のせいでマイナスからのスタートである。
「始めるから、脱いで」
僕は脱ぎたくない。会話だけで時間を稼いで、平穏無事に一晩を過ごしたい。
「そんな急がなくてもいいじゃないですか、お話をしましょうよ」
「聞こえなかった? 脱げって言ってんの。脱がして欲しいわけ? そういうのがお望みなの? 面倒くさい。反吐が出る」
「望みとかそういう問題じゃなくて……まずは、お互いの名前とか教え合いませんか?」
「男のくせにいちいち細かいわね。早く脱ぎなさいよ」
苛立っているらしい。
らしいである。
人間の僕が、イグアナの顔色を窺える訳がない。
わざとらしく舌打ちをしたイグアナが、手に持っていた黒いハンドバッグを、フローリングの上に放り投げる。
「いいわ。そっちがその気なら望むところよ。脱がしてやるわ。そうよ、初めからこれは介護みたいなものだって、私も割り切っていたじゃない」
「介護って、いくらなんでも言い方が」
「うっさい黙れ」
黄銅色に太く縁どられたイグアナの瞳が、ぎょろりと獰猛に動く。
「まだ自分の立場が分かっていないようね」
イグアナが一歩前に踏み込んでくる。
一足一刀の間合いに怯んだ僕は、逃げるように一歩下がろうとした。
後ろ足を引いた拍子に、ソファに踵を引っかけてしまう。
情けない悲鳴を喉で絞りながら、尻から大きくソファの背もたれに倒れこんだ。
見計らったかのように肉薄してきたイグアナが、僕の腰の上にまたがる。
「大声を出したら殺す」
対面座位のまま僕の胸倉をつかんだイグアナが、僕の身体をソファの背もたれに押し付けてくる。
外見ほどの重量はないが、僕の逃走を阻止するには十分な体重であった。
「これからすることを誰かにチクっても、後々に殺す。そういう素振りを見せても殺す。外にいるガードマンには『とても良かった』とだけ感想を伝えればいい。こっちも不退転の覚悟でここまで潜り込んでいるの。私と二人きりにしたのは落ち度だったわね」
イグアナの長い爪が僕のベルトに触れる。かちゃかちゃと金属がぶつかり合う音がした。
スラックスの腰回りが緩くなる。下に隠れていたボクサーパンツが、露わになった。
「私は今晩、ここで殺されても構わない覚悟で部屋を訪れた。腹をくくって来たの。命綱無しで綱渡りをしている気分よ。その甲斐もあって、やっとここに辿り着いたってわけ。そういうギリギリのラインで生きている奴が、何をしでかすか分からないってのは、ヤクザ稼業をやっているそっちの方が、よくよく理解しているんじゃなくって?」
このままでは犯されてしまう。
太ももまで引き下ろされたスラックスを両手で握り、元の位置に引き戻すべく腰を浮かせる。
僕の胸倉を掴んでいたイグアナの手に、力が入った。黒い爪が首筋をかする。
「暴力は駄目ですってば。ねえ。お話をしましょうよ。お話。今ならまだお互いに理解し合えます。ソファに横並びして流行りの歌を口ずさみ合うくらいには、仲良くなれるかもしれませんよ僕ら。手始めに、そっちの要求を聞くところから始めさせてくれませんか」
「さっきから脱げって言ってるのに、一向に脱ごうとしないじゃない」
「無茶ですって。さっきから大声出すなとか殺すとか、滅茶苦茶じゃないですか。僕が今すぐ脱がないといけない理由だって、何一つないですよね」
「あるわよ。男性器から出すもんを出させる以外に、他に理由がいるの? 殺すとまで脅されているのに、あなたって随分と強情なのね」
「そんな下らない目的のために、命をかける人が何処にいるっていうんですか!?」
「奇遇ね、目の前にいるじゃない」
奇遇ではないし、目の前にもいない。僕は脱がない。
「でも確かにそれだけじゃあ納得しないわよね。だって、脱がす目的は出すもんを出させるためだけれど、私が危険を冒してまで近藤組の内部に入り込んだ目的は、また別だもの」
「その目的とやらを先に教えてもらえませんかね。目的の達成を手助けさせる約束を僕に取り付ければ、こんなレイプまがいな行為をする必要もなかったんじゃないんですか」
「大ありよ。事が済んだあとに、部屋に悪臭が漂っていなかったら、他の組員に怪しまれるじゃない」
どうあがいても、僕は犯される運命にあった。
「事情を呑み込めたのなら、その攻撃的な目をやめて貰えるかしら。一矢報いてやろうって魂胆が見え隠れしていて、肌がぞわぞわするの」
イグアナが爪先で僕のスラックスのチャックをつまんで、社会の窓を全開にしていく。
叫ぼう。助けを呼ぼう。
駄目だ。判断が遅すぎた。裕也さんが駆けつけるより、僕が殺される方が絶対的に早い。
「この診療所に潜り込んだ目的を教えてもらえませんか。僕にも関係のある内容だから、危険を冒してまでここへ潜り込んだんでしょう。違いますか」
イグアナは、ボクサーパンツのゴム紐に爪をかけたまま、その手を止めた。
「ある情報が欲しいの」
「分かりました。先にお望みの情報を提供するので、僕の上から退いて下さい」
「お断りするわ。これは取引なの。まずは、私から対価を提供させなさい」
「こんな強引なやり方で、筋が通るはずがないでしょう。対価なんて受け取れません」
「知らないの? 強制的に射精をさせても、快楽が得られるように男の身体は作られているのよ。便利な身体で羨ましいわね。私も初めて試すから、詳しくは知らないけど」
快感を一方的に押し付けて、気持ちよくしてやったという出鱈目な根拠のもとに、取引を成立させる腹積もりらしい。
「どっちがヤクザなんだよ、くそっ」
「あら心外ね。近藤組ほどの極悪ヤクザを私は知らないわ」
五本の鋭い爪が、僕の股間にある愚息を鷲掴みにする。
僕はひゅっと息を呑んだ。
「歌舞伎町を牛耳っているくらいものだもの。人殺しくらいは朝飯前なんでしょうけれど、人気アイドルを犯しつくしたあとに死体遺棄までするなんて、極悪非道の所業そのものでしょうに」
「ぼくは無関係、です」
「芸能関係の情報網を舐めないことね。近藤組が用意した闇営業に、あの子が首を突っ込んでいたのはもう把握しているのよ。っていうか、私の顔を見てどうも思わなかった?」
どうって。
二足歩行のイグアナが性処理をしに来たのだから、過去最高に慄いたに決まっている。
「呆れた。私の顔も見たことないんだ。アイドルとして結構売れているはずなんだけど」
「テレビとか、あんまり見ないので」
雑誌も読まない。
パソコンはあるが、もっぱら文献や調べ事をするための装置と化している。
「情報収集は社会人としての基本よ。社会人失格ね。反社組織の構成員だから当たり前か」
股間への圧が強まる。思わず変な声が出た。生理現象とはいえ、イグアナの指先で昂るなんて屈辱以外の何者でもない。しかし僕の意志に逆らって、身体が反応してしまう。
現実から目を背けるように顔を横にする。
摩擦が加わるたびに、唇の間から情けない息が漏れた。
「なんにせよ、一週間くらい前に、この診療所へ運ばれてきた子の情報を、私は集めているの。快楽に溺れている間に、その茹だった頭に鞭を打って、情報を整理しておきなさい」
「一週間前?」
下半身への刺激で興奮の最中にあった頭に、望外のフレーズが差し込まれる。
ここ最近で診療所へ運ばれてきた女の子なんて、一人しかいない。
「あの子のことを、ご存じなんですか?」
僕の股間を揉みしだいていた手が、ぴたりと静止する。
イグアナの大きな瞳が、僕の眼球の奥深くを覗き込んでいる。
「知ってるの?」
「知っているというか、対応はしましたけど。あの、彼女とは、どういうご関係で」
「親友」
は、と乾いた息をイグアナが漏らす。
「公算の高い博打だったとはいえ、本当にこの診療所が関係していたのね。だったら尚のこと、対価を与えるべきだわ。良かったわね。堂々と射精する大義名分が出来て。それで、あの子の身体は今どこにあるのかしら」
このイグアナも、あの子の行方を求めているのだろうか。
「早く答えなさいよ」
再び股間に圧力が加えられる。
イグアナの両肩を掴んだ僕は、勢いを付けて身体を引き離した。
「なによ」
「対価なんていりません」
「今の貴方に、拒否権なんてないんだけど」
「事情が変わりました」
「事情?」
「臭いで部屋をカモフラージュする必要があるのなら、一人で射精をします」
「よく分からないわね」
「僕も、その子の情報が欲しいんです」
依頼主から情報提供を断られた時点で、あの子との再会は諦めていた。
だからまさか、あの少女の関係者と、こんな形で巡り合えるなんて思いもしなかった。
考えを改めねばなるまい。これはチャンスである。
「あの子の情報を頂けるのなら、僕が知る全てを必ずお話をします」
「平気で人を騙す反社の言葉を、はいそうですか、なんてすぐに飲み込めるとでも?」
「僕は、ただの医者ですよ」
じっと見られている。
見定められているらしい。
もう一押し。
「利害関係ではなく共同関係を結びましょう。確かに僕は君の親友と会っていますが、素性までは教えられていないのです。でも、知りたかった」
「ふうん」
イグアナの両手が僕の首に伸びる。
気管を潰そうとすれば潰せる位置だった。爪を立てれば皮膚を貫いて、直下にある臓器をも引き裂けるだろう。
命に爪先を立てられている。
それでも僕は抵抗をしなかった。
「どうして、あの子の情報を知りたいの」
「一目惚れをした相手のことを知りたいなんて、当たり前の心理でしょう」
僕から手を離したイグアナが、瞠目して言う。
「恋って、死体に? 正気?」
「既にご遺体になられていることは、ご存じだったんですか」
瞬き一つしなくなったイグアナが、僕の顔をじっと見ている。
五秒くらい経ってから、掠れた声を漏らした。
「……やっぱりそうなんだ。あの子は、もう」
カマを掛けられていたらしい。
だらんと両腕を肩から垂れ提げて、悄然と天井を仰いでいる。
「私のスマホに、お別れのメッセージが送られていたから。信じたくはなかったけれど。本当に死んでいたのね、紗那は」
人間である僕には、天井の蛍光灯に興味を持った、爬虫類のようにしか見えなかった。
本来であれば無表情なわけがないのだ。危険を承知で親友の行方を追って、こんな所に潜り込んで判然としたのが、親友の死だったのだから、顔色一つ変わらないわけがない。
やがて瞳を濡らしたイグアナは呆然とし、石像のように動かなくなってしまった。
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