1-3 ネクロフィリア

 二十坪ほどのモルグの中央には、金属製の解剖台が設置されている。


 銀色の解剖台には、遺体から流れた血液や体液が溜まるよう、わずかな深みが設けられている。その下端にある排水孔にはゴム栓がはめ込まれていた。


 上端には、いつでも血が洗い流せるように水道付きのシンクが備え付けられている。水流で血を洗い流せる仕組みだ。


 床は白黒のタイルが敷き詰められており、解剖台の近くには排水溝が設置されている。


 臭いはない。遺体が運ばれてくればともかく、解剖台の真上には解剖台と同じくらい大きな換気システムが埋め込まれているため、排水溝ごときの臭いはすぐに消えてしまう。


 換気システムは、天井に棺を張り付けたような形で備え付けられている。既に稼働中のようで、低い吸引音を立てていた。


 このシステムのお陰で僕たちは、ご遺体から立ち上る死臭や、処置中に空気中に散る体液や薬品の暴露から守られるのである。


 それでも悪臭が鼻をつくのだが、慣れるしかない。


 死体の保存設備として、大きな風呂のようなアルコール固定槽や、冷蔵庫が壁前を埋めるように並んでいる。最近はあまり使用していない。主電源ランプは落ちたままだ。外装は全て金属色で統一されている。僕の一挙手一投足が、研磨された外装に投影されていた。


 壁際に配置されている大型の冷蔵庫から、死体の防腐処理に用いる薬液を取り出す。


 中性ホルマリン溶液にフェノール液、グリセリン溶液と変性エチルアルコール。

事前に依頼主から送られてきたレシピに沿って、薬剤の配合を行っていく。


 馴染みのない配合方法だったが、完成品を見てから、僕はレシピの内容に得心がいった。


 色が、血液のように真っ赤だったのだ。


 これをご遺体の血管に流せば、あたかも血色が戻ったようにハッタリを利かせられる。


 部屋から持ち出した器材を、架台の上に乗せていく。


 あとは依頼主が持ってくる器材と、ご遺体を待つだけだ。


 診療所に夕飯が運ばれてきたタイミングで、いったん部屋へ戻る。


 ご遺体を前に嘔吐する危険性を考えて飯を抜こうかとも考えたが、処置中に低血糖で集中力を切らすのも問題であろう。ほどほどに腹に入れてから、またモルグに降りる。


 零時前になった。


 青い施術用ガウンを棚から引っ張り出した僕は、白いワイシャツの上からそれを腕に通した。後背部の紐は裕也さんに結んでもらう。


 その上から更にビニールエプロンを付け、頭には青いヘッドキャップを被る。最後にマスクと大きなフェイスガードを装着し、ゴム製のグローブを両手にはめれば準備完了だ。


 モルグの出入り口が開かれる。


 真新しいスーツを着た男が、銀色の搬送台を引いて入ってくる。台を後ろから押している他の二人は、顔見知りの組員だった。


 台の上には、ナイロンで出来た等身大の袋が乗せられている。ジッパー付きだ。オレンジ色をしている。ご遺体が入っているのだろう。


 このスーツの男が、今回の依頼主らしい。


「宜しくお願いします」


 落ち着いた声で挨拶をした男が、直角に腰を曲げる。


 白髪交じりの頭髪は、オールバックにまとめられている。マスクをしている。年齢は判然としない。目尻には深い皺が刻まれていた。


 遅れて僕も会釈をする。


 しかしいつまで経っても、依頼主の男が頭を上げない。


 裕也さんと目を見合わせる。


「依頼主さんで、お間違いないですよね?」

「はい、間違いありません」


 男がおもむろに頭を上げる。


 言葉遣いや佇まい、いずれを取っても無駄がない。


 これほど綺麗な礼をする人間を、僕は見たことがなかった。


 僕に馴染みのない世界で、生きてきた人なのだろう。


 死体処理みたいな癖のある仕事を振ってくる人間は、たいてい対応に難がある。全員が全員ではないとは言え、これほど丁寧な人の依頼を受けたのは初めての経験だ。


 だが男の顔には表情がない。


 口から発される言葉の音も、極めて平坦だった。


 意識的に、顔色を変えないよう努めているのだろうか。


 男が裕也さんを見やる。


「執刀するのは私と、そちらの先生の二人で宜しいですか」

「理人先生とアンタとの二人だ。念のため俺が立ち合いをする。それでいいな?」

「そのつもりでした」

「そうかい。ちゃっちゃと始めてくれ」


 解剖台の真横まで搬送台を移動させる。


 ご遺体の入った袋の真下に、四方八方から手を入れ、合図と共に皆で遺体を持ち上げる。


 思いのほかご遺体は軽かった。


 そっと解剖台の上に安置する。


 搬送を手伝ってくれた組員たちが、今度は高さ一メートル弱ほどの機械を運んできた。


 エンバーミングマシンだ。


 潰れた四角形の機械の上に、大きくて透明な筒がくっついている。脇には赤いポリタンクがかかっていた。これで薬液を血管の中に送り込む。


 お手伝いの組員たちが、僕たちに挨拶をして退室する。


 小さな丸椅子を、壁際まで持っていった裕也さんが、どすんと腰をかけた。


「俺はここで見学している。俺が船を漕ぎ始める前に終わらしてくれや」

「承知しました。理人先生、宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しくお願いします。勉強させていただきます」


 依頼主が、部屋の隅に積まれていた丸椅子の上に上着を置く。


 僕がガウンとグローブを渡すと、慣れた手つきで身に着けていった。


 解剖台の近くに器材が乗った架台を寄せる。前準備を終えたところで、改めて『宜しくお願いします』と開始の合図をする。


 依頼主が、頭側から袋のチャックを降ろし始めた。


 ジッパーの擦れる音が、緊張感を高めていく。


 中身が露わになると共に、白い煙が立ち昇る。


 腐食を抑えるためのドライアイスだ。


 僕が今まで受けてきた死体処理の中で、ドライアイスを用いていた依頼なんて、かつて一度でもあっただろうか。いやない。かたや袋に詰められてすらおらず、腐食の進んだご遺体を相手にした経験なら、両手で数えきれないほどしてきた。道を外れた極道の処理に尊厳なんて求められていないからだ。


 このご遺体の扱いは丁寧すぎる。政界の重鎮でも入っているのだろうか。


 天井まで立ち昇った白い煙の中から、ご遺体が現れる。


 まるで、玉手箱の封を解いたかのようだった。


「えっ」


 僕は吃驚した。


 袋の中に収納されていたのが、傷ひとつない少女の裸体だったからである。


 いや。


 たかが少女の裸体ごときで、声を出すほど驚くものでもない。


 性別は違えども、未成年の遺体を処理した経験は僕にもあった。しかしそれでも、眼前に展開されたその白妙の裸体を前にした僕は、我が目を疑わざるを得なかったのである。


 瞬きをする。視線をご遺体から外し、数秒してからまた戻す。


 同じ人間とは思えなかったのだ。


 眠ったように目を伏せた少女の容姿は、それほどまでに美しかった。


 美人という表現すら生ぬるい。単に美人と呼ぶには次元が違い過ぎる。


 容姿端麗だの端正な顔立ちだの、形容すればいくらでも言葉を継ぎ足せるが、どれも言葉として不適切であり不完全であった。かといって、他に適切な表現も思いつかない。


 強いて挙げるなら、中性的な人型として美しかった。


 このご遺体が少年ではなく少女だと見抜けたのは、降ろされたジッパーの先に、二つの乳房があったからである。


「どうかしましたか」


 依頼主の冷たい声が、前額部を小突くようだ。


 初対面である少女の裸体に見入るのは、確かに失礼な行為だった。


「若い女性のご遺体に向き合うのは初めての経験なので、戸惑ってしまいました」

「そうですか。手技上で不明な点があれば、いつでも声をかけて下さい」


 依頼主の手で足元までジッパーが降ろされ、ご遺体の上に乗ったドライアイスが撤去されていく。


 少女の全貌が明らかになった。


 身長は、百五十センチほどだろうか。


 肉付きは悪くない。かといって肥満体系というわけでもなかった。男の目線から言えば限りなく理想形に近い。やや顔貌は幼いが陰毛も生えそろっており、乳房も発達している。成人に近い年齢なのかもしれない。


 濡れ羽色の黒髪が背中まで伸びている。一本一本に芯が入っているようで、何人たりとも寄せつけぬ気高さがあった。既に肉体の内部では、腐食が進行し始めている状況にもかかわらず、張りのある白肌には瑞々しさが残っている。


 長い睫毛のついた瞼は閉じられているが、今にも目を開きそうなほどの生気があった。


 眠っているだけのようにも見える。全身から溢れている美貌と生気とが、僕の中で錯誤を起こしているらしい。


 近藤組の皆が僕の審美眼を試すために、人工のご遺体を作って、からかっているのではないのか。だがそんな無意味で不謹慎な真似を、裕也さんが許すとも思えない。


 なんて美しい人なのだろう。


 常軌を逸している。


 化物じみてさえいた。


 人間の身体として、完成され過ぎている。


 誤謬を覚悟で例えるのであれば、アンドロギュヌスの化物──ギリシャ神話に登場する両性具有の美しい神をも彷彿とさせる美貌を前にして、僕は完全に圧倒されていた。


「この子はいったい」

「理人、それはナシだ。詮索しないのがこの業界のルールだろ」


 裕也さんの言う通りである。


 僕らの所に舞い込んでくる依頼なんて、十中八九、後ろめたい事情が隠れているに決まっている。余計な発言も詮索も、自分の首を絞めかねない。


 それを理解した上でもなお、僕は眼前の少女が気になって仕方がなかった。


 ずっと見ていたい。もっと知りたい。性格や振る舞いや、日常生活のこと、生前の声や交際相手の有無に至るまで、この子の全てを把握したかった。


 熱を得たエンジンのように、心臓が高鳴っていく。


 一目惚れだった。


 何を考えているんだ僕は。


 いくらなんでも不謹慎が過ぎる。死体に恋なんてあり得るものか。


 ならばこの胸に宿った仄かなる灯火を、どのように説明してくれよう。


 依頼主が少女の頭部と肩を持ち上げる。僕はぎこちない手で袋をつかんで、少女の裸体を守っていた袋を外してやった。


 依頼主の手が胴体へと移る。それに合わせて僕も手を動かしていく。


 少女の背中が暗赤色に染まっている。血液が背中側に流れて生じた死斑だろう。


 改めてご遺体の全容を眺める。惚れた少女の乳房と恥部が目に入った。すさまじい背徳感に襲われた僕は、咄嗟に視線をそむけた。


 取り外した袋を、真後ろに置きっぱなしだった運搬台に乗せる。


「黙祷しましょう」


 言われるがままに、目を伏せる。


 三十秒もすると、依頼主から声がかかった。


「最初に消毒を行います。理人先生は、消毒液と丸めた脱脂綿を用意して下さい」


 予め架台に乗せておいた脱脂綿を小さく千切り、丸めてからペアンと呼ばれるハサミ状の鉗子でつまむ。それを消毒液の入ったビーカーにつける。


 依頼主がスプレーで消毒を済ませたあとに、消毒液がしみ込んだコットンで、鼻の穴や口腔内などの穴を洗浄していく。


 必要に応じて上下の顎を縫い付けたり、瞼を接着剤で閉じたりする場合もあるらしいが、今回はやらない。死に化粧は後々にするとしても、これだけ安らかな死相に、僕らが手を加える必要もなかった。


「そこのマシンを使って薬剤を流します。入口は左側総頚動脈で、出口は右側大腿静脈です。私が出口を作るので、先生はまず総頚動脈の剖出をお願いできますか」


 了承の言を返し、架台からメスを取る。


 一目惚れしたばかりの女性の身体に、僕は刃先を入れなければならなかった。


 頭を振って邪念を飛ばす。


 仕事に集中しよう。


 左総頸動脈は、首を切った先にある太い血管だ。


 僕は白皙の肌を左指で押さえつけ、皮膚表面を緊張させながら刃先を入れた。


 プツりと皮膚が切れる感触と同時に、赤い血液が背中に向かって流れる。二センチほど線を入れて引っ張ると、中から黄色い脂肪が現れる。


「これを使うと便利ですよ。アニューリズムフックと呼ばれています」


 器具を手渡される。持ち手部分が波打っている細い金属の棒で、先端は三本指の小さなフックになっていた。


 柔らかい脂肪をかき分けていく。親指ほどの太い血管が露わになった。


 僕が丁寧に処置を進めている内に、依頼主は下半身での処置を終えたらしい。


 少女の鼠径部から現れた太い静脈には、カタカナの『ト』のような形をした、中の空いた金属棒が突っ込まれていた。


 金属棒の中腹にあるでっぱりには、機械と繋がったチューブが連結されている。


「私もそちらに行きます。お手伝いをさせて下さい」


 依頼主が、僕の対岸までやってくる。


 ピンセットで皮膚と脂肪をつまむ。もう片方の手に持ったピンセットで、頸部の内側から露出していた太い血管をつついた。


「総頚動脈はこれです。先ほどのフックをこの血管の真下に入れると、処置がしやすくなります。そうです。動脈に半分くらいまで切れ込みを入れて下さい。メスでもメイヨーでも構いません。それでいいです。次にチューブを動脈内に入れて、緊密に縫合をして下さい。ここが緩いと、薬液が逆流したり漏れたりします」


 教えてもらった通りに、少女の身体とチューブを繋いでいく。


 少女を悪戯に傷つけたくはない。


 実際の患者を縫うよりも慎重に、糸と針を血管に括りつけていく。


 一連の行程を終え、血まみれになった器材を架台に戻した頃には、血だまりのせいで少女の背中は真っ赤になっていた。


「機械を動かします。ここからは見ていて下さい」


 依頼主が機械前面のボタンを押す。モーター音が鳴り始めると、機械の上にある筒に入れておいた赤い薬液が、少女の体内に注入され始めた。


 みるみる内に、少女の血色が良くなっていく。


「このままポンプで圧力をかけます。そしてタイミングを見計らって大腿静脈に入っているドレインチューブの引き金を引いたら、内圧で血液と一緒に薬剤を流出させます」


 少女の右側の内股に挿入されていた金属棒の先を、依頼主が勢いよく引く。


 鼠径部に繋がっている廃液用チューブの中に、一気に血液が流れ込んだ。その先にあるポリタンクが、ぼたぼたと音を立てている。


 この工程を繰り返す必要があった。


 繰り返し、繰り返し。血管の中にあるゴミを掻き出すように、引き金を何回も引く。


 数時間も続けると、すっかり血管から血液が抜け落ちたらしい。チューブから排出されるのは、真っ赤な薬剤だけになった。


「チューブを外して閉創します。縫い方は単純結紮でいいですよ。生身の身体と違って、組織が硬いことに留意して下さい」


 チューブを外して、頸部の縫合を丁寧に進めていく。


 この少女の遺体がこれからどう扱われるのかは定かではないが、誰が見ても綺麗だと褒めてもらえるように針を通した。


 僕が半分ほど縫い終えたあたりで、依頼主は鼠径部の縫合を終えたようだ。


 手際が良すぎる。この依頼主も医師なのだろう。エンバーマーなるご遺体衛生処置を専門にした職業も存在するが、そのいずれかに違いない。


「慌てないで。早ければ優れているというものでもありません。それはただの拙速ですからね」


 僕が丁寧に縫合をして、依頼主の男が結び目の上の所で糸を切る。それを残り三回もやると、頸部に開いた切り傷は綺麗に塞がった。


「お疲れ様でした。これでおしまいです」


 壁にかかった時計を見やる。


 三時間しか経っていない。もっと時間がかかっていると錯覚していた。


 初めて行う処置だった上に、一目惚れした少女にメスと針を入れたのだから、緊張しない方がどうかしている。


 少女の身体を洗浄して綺麗にする。全身の水を拭き取って、髪をドライヤーで乾かす。


 最後に青梅綿で鼻腔などの穴を塞いで、体液が漏れないようにしたら、もう一度袋に戻して、その中にドライアイスを一緒に入れる。


 これで依頼内容は完遂だ。


 銀色のジッパーが、足から頭に向かって走る。


 お別れである。もう二度と会うこともない。


 血色が良くなった少女の顔は、生前の輝きを取り戻していた。


 愛しい、恋しい。


 そして名残惜しい。もう一度触れたい。


 自制しろ。不審がられるのは明らかだ。


 また会えないだろうか。


 それまでに、ご遺体が腐っていなければだが。


「この処置を施すことで、ご遺体はどれだけ長持ちするのですか?」

「今日の処置に限っていえば、一か月とちょっとは腐敗せずに、今の状態を保てると思いますよ。ドライアイスも本来なら不要なくらいですが、これは念押しみたいなものです」


 その残り一か月で、この男は少女の遺体をどのように扱うのだろう。


「ありがとうございます」


 超えてはならないラインだ。


 だが、しかし、僕みたいな所まで流れてくるご遺体なのだから、何かのきっかけで、また運命的に邂逅を果たせるのではないだろうかとも、妄想してしまう。


 そんな淡い期待を抱きながら、締め切られた袋の前で手を合わせる。


 部屋の奥で、裕也さんが立ち上がる音がした。


「やっと終わったか。待ちくたびれたぜ。じゃあ迎え呼ぶぞ」

「いえ、迎えは結構です」


 スマホを取り出した裕也さんの手が止まる。


「あん? それはどういうことだ」

「実は別途で、輸送業者を手配しておりまして」

「聞いてねえぞこっちは」

「それは大変失礼しました。こちらの手違いだったのかもしれません。近藤組にはご迷惑をおかけしないので、ご容赦いただけないでしょうか」


 舌打ちをした裕也さんが、どこかに電話をかける。


「待ってろ。確認する」


 依頼主が黙って頭を下げる。


 僕はガウンを脱ぎながら待つことにした。


 感染ゴミ用の段ボールに、脱いだガウンを投げ捨てる。


「上からも了承が得られた。金も結構もらってるし、運送の手間が省けるならそれに越したことはないってよ。好きに持って帰ってくんな」

「ご配慮痛み入ります。組長さんにも、宜しくお伝えください」

「はいよ。っていうか、この部屋から一人で運び出すつもりかよ。別の場所で待ってんだろ、その業者ってのは。職業柄、人間を運ぶのは珍しくねえから分かるんだが、結構大変だぞ」

「なんとかなります。私も手慣れていますから」

「そうかよ。それは余計な気を回したな。忘れてくれ」


 どうしてもこの依頼主は、一人でこの少女を運ぶつもりらしい。


 せめて解剖台から運搬台に移す所までは手伝おうと、ご遺体の入った袋に手を伸ばす。


 何も言われなかった。裕也さんも気を利かせて駆けつける。


 合図と共に、少女のご遺体を持ち上げて移動させた。


「報酬は既に指定の口座に振り込まれておりますので、お手すきの際にご確認いただけますでしょうか」

「もう確認した。送金が早くて助かる」

「では、私どもはこれで失礼致します」


 依頼主が運搬台を引いて、出口まで進んでいく。


 少女が入った袋から目が離せない。


 変なことを考えるな。


 あの少女と、僕との間に繋がりを作ってはならない。


 この場かぎりの関係のはずだ。


 死体に恋をするなんて、どうかしている。


「待って下さい!」


 僕の声を聞いた依頼主が、足を止める。


「ルール違反なのは理解しています。それでもせめて、その子の名前を教えてはもらえませんか」


 そこで僕は初めて、この男の感情を垣間見たような気がした。


「名前を知ってどうするのです? そんな質問は無意味でしょう」


 依頼主は表情を変えないまま、双眸の奥で得体の知れない情動を渦巻かせていた。


 怒りなのか哀しみなのか、それすらも捉えられないほどの機微だ。


 僕の勘違いなのかもしれない。


 それでも、このたった数時間の間、この依頼主が発した言葉の中では、強い感情が滲んでいるように思えてならなかった。


 明らかな拒絶である。


 出入り口の方を向き直した依頼主が、背中越しに呟く。




「これは忠告です。肝に銘じておいて下さい。この子のことを知ろうとすると、君は大切なものを失うかもしれません。いいですね。伝えましたよ」





 がらがらと音を立てながら、依頼主が搬送台を押していく。裕也さんが分厚い防火扉を開けると、小さく会釈をして少女と共に出て行った。


 その丸まった背中は、モルグに入った直後に見せた堂々とした礼とは打って変わって、どういう訳か、とても弱々しく萎縮していたのだった。


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