第16話 シューノーケリング

 船には田中さんの他にもう一人いた。

 良く日に焼けた海の女なガイドの日之西ひのにしさん。

「よろしくね」っと気さくな挨拶をするとすぐに船の操縦に戻っていった。何とも働き者である。


「シュノーケリングポイントにはすぐに着くから、先に装備の説明をしとくね」

 船が動き出すと田中さんが言った。

「と言ってもダイビングみたいに難しい道具がある訳じゃないけどね。マスクにシュノーケル、フィンにマリンシューズ、マリングローブ。どれも見たことや聞いたことくらいあるんじゃないかな?」

 田中さんが取り出した装備に視線を向ける。確かにどれも見たことがあるものばかりだ。マスクとは所謂ゴーグル、水中メガネの凄いヤツで鼻まで覆われるモノ。シュノーケルは言わずもがな、マウスピースとパイプが一体化した様なもので呼吸の為のモノ。フィンは足先に付けて泳ぎをスムーズにするものだが、コレが意外と大きかった。シューズとグローブは、まぁ、そのままだ。


「どうしてシューズやグローブが必要なんですか?」


 渡された装備を装着しながら悠里が聞いた。

 確かにシュノーケリングとは海の上でプカプカ浮かぶだけなのだから、シューズやグローブの必要性は感じない。

「ああ、それはねシュノーケリングが比較的海の浅いところでするからだよ。足や手を着く地面が岩場やサンゴ礁だったりするから怪我をしない様に必要なんだ」

「なるほど」

 納得したらしい悠里が装備の装着に戻るが、今度は別の手が上がった。

「でも、そんな浅いところに魚とかいるんですか?」

 一通り準備を終えた巧が首を傾げた。

「それはもちろん。深いところの方が魚が沢山いると思っている人が多いんだけど、本当は水深五メートルから十メートルあたりが一番生き物が多いんだよ」

 何でか分かる? と視線をよこす田中さん。

「……ん~、明るい、から?」

 顎に手を当てて首を捻る巧。

「その通り。深くなると太陽の光が届かないからね。植物プランクトンは光合成をするため、動物プランクトンはそれを食べる為、更に小魚は動物プランクトンを食べる為、て具合に生態系が成り立ってるのさ」

「なるほど」

「おっと。そうこうしている内にスポットに着いたみたいだ。みんな装備の確認をするから順番に見せてね」


 その後、田中さんのオッケーを貰い船の梯子からゆっくり海の中へ。

「テレビとかで見るグルんッて回るヤツじゃないんですね」

 物足りなそうに悠里が言った。

「お、やってみたいかい? アレはダイビングの時にするエントリー方法だから後でしてみる?」

「マジですか! お願いします」

 ボルダリングの時は経験者として教える立場だったが、今回は全員はじめてのシュノーケリングにダイビングだ。悠里もしたいことがある様子。

「お~い、ちぃちゃんも早く来なよ~」

 悠里、彩、と順番に海に入って行った段階で、次の千草がなかなか船から降りてこない事に気付いた悠里が海面から叫んだ。

 見ると千草は梯子の前でしゃがみ込み頭を抱えていた。

「大丈夫?」

 すぐに気が付いて日之西さんが千草の傍に駆け寄る。


「――――――」


「え?」

 千草が何か言っているようだが、声が小さく聞き取れない様子。

「体調悪いんなら無理したらダメだよ。私も船に残るから一緒に休憩してよ――それともしんどいなら一旦切り上げて戻ろうか」

 海の上での体調不良。その危険性をよく知っているからだろう。千草を心配する言葉の中に言い聞かせるようなものがあった。

「ちょっと田中君と相談するから、少しの間この子見ててもらっていい?」

 段々と緊張の色が濃くなっていくその言動に、話しかけられた巧がそっと頷く――事はなく、日之西さんの反対隣りに腰を落とし、千草の様子を覗き込んだ。

「――さい」

 まだ聞き取れない。更に寄る。

「――ゴメンなさい」

 ダイビングが中止になる事を誤っているのか? しかし、まだ疑いの視線を向ける巧。


「イイイイイイ、イキってゴメンなさい灼熱の太陽地獄の業火で焼かれるのでどうか許して下さい私なんかが青い海を見てすみません台風の黒い海がお似合いです」


 呪詛のようにまくし立てていた。

「ふっ」

 巧はいい笑顔を浮かべ立ち上がり天を見上げ――次の瞬間、千草の頭に鉄槌を落とした。

「った痛い!」

 これにはしゃがみ込んでいた千草も飛び上がって、抗議の視線を向けた。

「何をするッ⁉」

 いや、抗議の声も上げた。

「やかましわっ。まったく紛らわしい感じで陰キャ属性を持ち出すな」

「ぅぅぅっ、だって~」

「『だって』じゃねぇ! さっさと行け」

「ぅぅぅ、はぁ~い」

 渋々と言った感じで、千草が梯子を下りていった。

「えっ――と、大丈夫なの?」

 突然の出来事に置いてけ掘りを喰らう日之西さん。

「はい。今までテンションで誤魔化していた自分のいる状況を、実際に船に乗って海に出たことで客観視してしまっただけですから」

「えっと……よく分からないけど体調不良とかじゃないんだね?」

 巧の訳知り顔な説明も、イマイチ理解できない日之西さんが確認する。

「はい。夜更かしもしてないので体調は万全です」

「そっか――うん。それなら良いんだけどね」

 イマイチ納得しきれていない様子の日之西さんだが、千草と巧の様子を見て一応問題なしと判断してくれたようだ。田中さんには一応何か耳打ちしていたが。

「おお~、冷たくて気持ちいぃ~」

 そして海に入って行った千草と言えば、冬に熱い風呂に入ったおじさんのような表情を浮かべていた。力を抜いて浮かんでいる姿はまさに風呂に入っている様だ。

「はははっ ちぃちゃんお風呂じゃないよ」

 悠里も突っ込みを入れる。

「えへへ つい」

 照れたように笑いながら、みんなと合流する千草。

「へぇ、良い体感してるじゃん」

 その様子を見ていた日之西さんが驚いたように呟いた。

「アイツは能力と自己評価が乖離してますからね」

 巧もやれやれといった感じで、嘆息した。

「アレなら心配はいらなそうだね。君も早く行くと良いよ」

「はい」

 日之西さんに促され巧も海に入って行った。


「おおっ 本当に沈まない」

 巧が合流すると、千草が何やら興奮していた。

「ウェットスーツは浮力が凄いからね」

 その様子に田中さんも笑顔を見せる。先程日之西さんに耳打ちされた事を気にしていた様子だが、杞憂だったと安心したのだろう。

「しっかし、凄い透明度やね」

 まだ水面だというのに、底まで見通せるほどの透明度だ。

「今は特に透明度が高い時期だからね。でも、やっぱり潜ってみると別世界だよ」

 そう言われては、待ったがかけれないのが『イング』メンバーである。

「「「「せーの」」」」

 顔を見合わせて一斉に顔を水面につける。

「ほわー」

 そう言ったのは誰だか。シュノーケルを咥えたままなのではっきりと喋れるわけではない。しかし、感嘆の声が漏れるのはどうしようもなかった。

 眼下に広がるのは、砂地の海底。目の前を遊泳する小魚の群れ。視線を動かせば、砂地が岩場になっているところもあり、そこには更に違う種類の魚影が見え隠れしていた。

「っぱ スゲぇな!」

 顔追上げた悠里がシュノーケルから口を話して叫んだ。どうしても口に出してこの感動を伝えたかった様子。

「うんうんうん」

 同様に千草も激しく首を上下に動かす。

「綺麗やねぇ」

 彩も同意し、

「アッチの岩場の方まで行ってもいいですか?」

 と、巧もヤル気満々である。

「はははッ 気に入ってくれたかい。これが柏島の海さ。岩場のところはここよりも浅くなってるから手や足に気を付けてね」

「はいっ」

 そう言うと、再びシュノーケルを咥えて泳ぎ出した巧。

「あ、待てよ。私も行くッ」

 その後を悠里が追いかける。

「ふふふ ほなウチ等も行こか」

「うんっ」

 彩に手を引かれ、千草もその後を追った。


「いや~ 楽しかった!」

 その後も存分に海を堪能した四人。

 岩場では青、赤、黄色の熱帯魚の様な魚や珊瑚、色鮮やかなウミウシなどを見つけて大いにはしゃいだ。

「お疲れ様。凄かったでしょ。柏島の海は豊後水道と黒潮の流れがぶつかるところだから、凄くたくさんの生き物が生息してるの。なんと日本に生息する亜熱帯の魚の三分の一が柏島に存在るの。それにサンゴやウミガメ、イルカも見られるんだから、まさに絶好のダイビングスポットって訳」

 海から船に上がると、日之西さんが嬉しそうに迎えてくれた。千草たちが喜んでいる事が自分のことのように嬉しい様子。この人たちは本当にこの海が好きなのだと分かる。

 好きなモノが、他の人にも喜んでもらえる。こんなに嬉しい事はないといった感じだ。

「じゃあ、次はダイビングだね。こっちはこっちで違った感動があるから期待してて」

 そう言うと機器の準備に戻る日之西さん。 

 海から上がった田中さんに促され千草たちはシュノーケリングの装備を外していく。

「さっきシュノーケリングをしたところは一、二メートルくらいだったけど、今度は五メートルから深いところで八メートルくらいかな」

「八メートルか。でもそんなに深くないんですね」

 ダイビング装備の点検中の小休憩中。未だにシュノーケリングの余韻に浸って騒いでいる悠里と、それの相手をする彩。千草は久々の運動で疲れたのかグデッている為、巧が質問をした。

「はははそう思うかい? でも八メートルって言えばマンションの三階くらいに相当する高さだよ」

「う、そう言われると中々ですね」

 話しながらもテキパキと手を動かす田中さんの言葉に一瞬怯んだ巧。

「まぁ、でも言ってることは分かるよ。どうしてもダイビングっていうと深い海を想像しちゃうよね。テレビとかの影響かな。でも、あれは最低でもⅭカードを持っている人たちが潜ってるからね。体験ダイビングとは潜れる深度が全然違うんだよ」

「Cカードですか?」

「そ。体験ダイビングで潜れるのは十二メートルが限界。実査に潜るのは十メートル行かない事がほとんどかな。Cカード持ちのオープンウォーターダイバーで十八メートル。Cカードを持っていれば世界の海で潜れるようになるよ」

「世界の海か~。海を制覇するにはやっぱりCカードいつかは取らないといけないな」

 彩との会話中でも巧たちの会話が聞こえていたらしい悠里が腕を組んで神妙に頷く。

「海の制覇?」

 突然会話に入り込んできた悠里の言葉に田中さんが首を傾げた。

「ああ、気にしないで下さい。内々の話なので」

 巧が話を流そうとしたが、それに待ったをかける者がいた。園畑悠里、その人である。

「よくぞ聞いてくれましたッ」

 前傾姿勢でそう言い放った悠里が、【イング】というサークルについて田中さんに熱く説明し出した。

 すっかり悠里に毒された巧であったが、改めて考えてみれば中二病も甚だしい理由である。穴があったら入りたいと思う巧であった。


 数分後。

「はははっ。面白い事考えるぁ。でも、それじゃあ、園畑さんが言うようにオープンウォーターダイバーの資格は取っておいた方が良いかもしれないね。ウチでも講習しているからいつでも言ってね」

「おお、マジですか! ありがとうございます」

 思いの外好反応を示す田中さんと悠里の二人で、今後のサークル方針が決まっていく。

 グデっている千草にちょっかいを掛けながら、ニコニコしている彩がきっといいプランニングをしてくれるはずだ。


 

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