第5話 ボルダリング

 そして週末。

 天気は晴れ。

 素晴らしい外出日和である。


 時刻は午前十一時。

 大学正門に集合した千草、巧、悠里。彩とは岡山駅で合流予定である。

「おっす~。晴れて良かったな」

 いつも元気な悠里がまず口を開いた。

「おはよ。流石『晴れの国』岡山だな。こっち来てからずっと天気がいいわ」

「……ビックリ。実家、半分、曇天」

 定位置である巧の背後で千草も壊れた機械のように単語を羅列した。

 今日は【イング】初めての学外活動の日なので、いつも以上に緊張している千草である。

「あはははっ。こっちではこれが普通だな」

「それは洗濯物がすぐ乾いて助かる」

 そんな千草の様子にも慣れたものの二人は会話を続けた。

「洗濯物って主婦かよっ」

 バシンッと巧の背中を叩きながら、笑う悠里。

「仕方ねぇーだろ。二人分洗濯物があると大変なんだよ」

 叩かれた巧は、たたらを踏みながら弁解する。

「え、何故に二人分?」

「え、何故って、俺と千草の二人分に決まってるだろ?」

 悠里が何を不思議がっているのか分からず、巧が首を傾げる。

「え⁉ ちぃちゃんっ、まさか巧に洗濯してもらってるの⁉」

 あまりの事にただでさえ大きな悠里の声が更に一段階増幅した。

「う、え、はい?」

 凄い勢いで詰め寄って来る悠里に、千草が引きつった顔で首を傾げながら答えた。

「か~~~。生活能力のない子だとは思ってたけど、まさかこれほどとは。そして、常識人の振りをした変態がこんな近くに」

 頭を抱えて嘆く悠里と、頭に『?』を飛ばす千草。

「おい、その変態って誰の事だ?」

 そして、悠里の暴言に噛みつく巧。

「お前だよ、お前っ。うら若き乙女の下着を使って日々ナニしてやがんだ!」

「洗濯だよっ!」

「バカやろうっ お前それでも男かよ!」

「うるせっ、何の話だよっ」

 勢いのまま言い合った二人はゼィゼィと肩で息をしていた。

「取り敢えず、この件は彩も踏まえて会議が必要だな。私ひとりじゃ手に余る」

 どうにか平静を取り戻した悠里はそう呟くと、並んで立つ巧と千草の間に割り込んだ。

「何なんだよ、狭いな」

「うるさいわ。ほら、ちぃちゃん行くよ」

「ひぃぃぃ!」

 憤然とする巧と、千草の手を引く悠里。そして、悲鳴をあげる千草と、端から見れば奇妙な三人組は駅へと歩き出した。

 休日ともあり電車にはそこそこ人が乗っていたが、無事三人とも座ることが出来た。


 中庄なかしょう駅から岡山駅までは二十分程。

 山陰本線より揺れの少ない電車は苦にもならなず、通り過ぎていく車窓の風景をぼんやり眺める巧と、向かいの席で、そんな巧を睨み付ける悠里。腕をホールドされ精神力MPが尽きそうな千草。端から見れば女子三人。どんな三角関係のこじれだと首を捻りたくなる光景だが、イマイチ関係性が分からない。そしてもちろんそんな事はなく、この状況を正しく理解しているのは悠里だけであった。

 結局駅に着くまで千草は悠里にホールドされたまま過ごすこととなった。

 時間にして僅か二十分程であったが、この時点で千草の精神力MPレッドゾーンに突入。朝だというのに今日一日体力HPのみで乗り切らなくてはならなくなってしまった。

 

 岡山駅に着くとすでに到着していた彩の車に乗り込み移動となった。

 普段であれば家族以外の車に乗るなどハードルが高すぎる千草であるが、悠里に引っ付かれて意識喪失気味な現在はそこまで思考が回らず、引き連られるままであった。

 座席の事で一悶着ありながら(千草の隣に座りたい悠里であったが、車に乗る時は助手席と決めているらしい)、ようやく解放された千草も意識を取り戻した。

「ほわっ⁉ ここはどこ⁉ 私は千草⁉」

「そうだよ」

 覚醒したら知らない空間にいた千草の驚愕に、巧が冷静に突っ込んだ。

「ははは、おはようちぃちゃん。最初見た時はどないしたんかと思ったけど、うん、元気そうで何よりや」

 運転席から彩の楽しそうな顔を覗いた。

「ひっ――あ、彩ちゃん。お、おはよう」

 一瞬ビクッとした千草であったが、それが彩だと分かると少し緊張を解いた。

 悠里から解放され、彩の顔を見たことで落ち着きを取り戻した千草は、改めて自分がいる空間を見わたした。

しかし、車の中――彩の車は薄いピンク色の軽自動車で、掃除が行き届いており、何か良い匂いもした。そして、そんなオシャレ女子な空間が千草に緊張を呼び覚ましてしまった。

(ああ、絶対に汚したら駄目だ)

 慣れないオシャレ空間に妙な強迫観念に捕らわれた千草はカチコチに固まってしまった。

「あはは そんなかしこまらんでもええよ」

 バックミラー越しに千草の様子を見ていた彩が笑いながら音楽をかけた。千草の緊張を取り除くためだろう。選曲もアニソンで、さすが千草第二の理解者だ。

 しかし、車内に流れる音楽。それが更に千草の心をかき乱す結果になってしまうとはさすがの彩も気が付けなかった。

 独りでに動き出す口、知らず知らずに身体が動き出してしまうビート。

 だが、人様の車ではしゃいでしまっては。まして汚したりするようものなら。

 無意識に動き出す身体を、残り少ない精神力で封じながら時間にして二十分。

千草にとってはまさに苦行の様な時間であった。

 

 そして到着した岡山市南区のとある施設。


 ボルダリング『グリーンガーデン サボ』


 看板にはそう書いてあった。

「よっし。着いたぞー」

 助手席に座っていただけの悠里が偉そうに車から飛び降りた。

「着いたでぇ~ 降りや~」

 運転した彩も後部座席の巧と千草の方を向き、笑顔で降車を促す。


 一見お洒落カフェのような入り口をくぐると、店内も小洒落れていた。清潔感のある白で統一された壁紙とウッド調の調度品。

 

「やぁ、園畑さんに宗兼さん。久しぶりだね。大学生活は落ち着いたかい?」

 店内を眺めていると声を掛けられた。

 そう言いながら受付から爽やかなイケメンが出てきた。

 身長は巧や悠里より高め、百八十センチくらいだろうか。短く刈り上げられた髪は茶色く染められており、良く焼けた肌と調和している。

「あ、須藤さん。どうもです」

 爽やかイケメンと知り合いらしく、悠里も気さくに挨拶している。彩もその横でいつものニッコリスマイルだ。

「大学忙しいだろうからもうしばらくは来られないかと思ってたよ」

「やぁ、私もそのつもりだったんですけど、思いのほか順調に進んで」

「へぇ、それじゃあ前に言ってたサークルは出来たんだ」

「はいっ。後ろの二人がサークルメンバーです」

 いきなり紹介された。千草は当然巧の後ろ定位置に。

「どうも。八雲巧です。園畑さん達と同じ川崎医療大学の一年です」

「やあ、どうも須藤晶です。僕はここの社長兼インストラクターで、二人とは結構古い付き合いなんだ。園畑さんのサークルに入ったって事はこういうの興味あるのかな?」

 そう言うと須藤さんは視線を受け付け横の巨大モニターに向けた。

 そこには丁度垂直の壁に赤・青・黄色。灰色・紫・オレンジといった様々な色のブロックがランダムに飛び出しており、若い女性がそれをスイスイと登っていくところだった。

 ボルダリング。

 当然知識としては知っている。が、

「いや、正直あまり興味はなかったですね」

「ははは、正直だね。後ろの彼女もそうなのかな?」

 ビクッ

 話を振られた千草が分かりやすく体を飛び上がらせた。

「あれ、嫌われちゃったかな?」

「ななな成瀬、ち、千草、です」

 巧に引っ張られて渋々前に出てきた千草は、どうにか名前だけ言うと再び巧の後ろに引っ込んでいった。

「うん。よろしくね」

 そんな千草の態度に須藤さんは気を悪くした素振りは見せず、笑顔で頷いていた。流石社長。チャラく見えても接客がしっかりしている。

「それじゃあ、今日は新メンバー二人の体験コースって感じかな」

「そうですね。そう思ってたんですけど、ちょっといいですか? 巧とちぃちゃんはそこで受付表書いて会員カード作ってて」

 そう言うと悠里は彩と須藤さんを引き連れて、少し離れたところで何か話し始めた。


 手続きが終わったころ、三人が戻ってきた。

「お待たせ。ナイスタイミングみたいだな」

「ああ、ちょうど手続き終わったとこ」

「じゃ、私らもチャチャッと手続きして来るから先に更衣室に行っといて」

「はいよ」

 メンバー唯一の男性である巧はそう言うと一人さっさと更衣室に消えていった。


 悠里と彩の手続きを待ってから、千草も一緒に更衣室に向かった連行された

 更衣室で前もって持参するよう言われていたジャージに着替えて、先程レンタルした靴を履く。普通の靴と違って土踏まずの部分がフラットになっており、変な感じで千草は頻りに足踏みをしたり靴の裏を見たりと落ち着きがない。

 支度を終えて、施設内に向かうと、一早く着替えを終えた巧がすでに須藤さんと待っていた。

 どうやら巧も履きなれない靴に違和感を感じている様子。千草同様にしきりに靴の裏を見たり、足踏みしたりしている。

「お、男性陣は着替えが早いね。関心関心」

 その様子を見て、うんうんと頷く悠里に連れられて巧と合流した。

「じゃぁ、初めての人もいるからまずは基礎からやって行こうか。君たちはどうする?」

 須藤さんが悠里と彩に視線を向けた。

「あー 私らはもう少し作戦会議してから参加します」

「そうかい? じゃあ、こっちはこっちでやっておくから」

「はい。お願いします」

 そう言うと悠里と彩は少し離れたベンチの方に歩いて行った。

「……作戦会議?」

 二人の会話に首を傾げる千草と巧。

「ああ、気にしなくていいよ。すぐ戻って来るはずだから」

「はぁ、そうですか?」

 二人の様子に気付いた須藤さんが見事な営業スマイルを見せてくれた。

「じゃあ、始めようか」

「「よろしくお願いします」」

 千草と巧は二人そろって礼をした。

 顔を上げると、須藤さんが驚いた顔で千草を見ていた。ずっとニコニコ営業スマイルを崩さなかった彼には珍しい事だ。

 視線が合い何事かと首を傾げる千草だったが、巧が助け船を出してくれた。

「あ、俺もこいつもずっと運動部だったんで、こういうスポーツの場での礼儀というか挨拶みたいなのは身体に沁み込んでるんですよ」

「ああ、なるほど。僕はてっきり更衣室で別人に入れ替わったのかと思ったよ」

『ははは』と頭を掻きながら笑う須藤さん。

「でも、そうか。運動部だったなら飲み込みが早いかもしれないね」

「お、お手柔らかにお願いします」


 こうして始まった、須藤さんのボルダリング教室。

 初めにボルダリングについて簡単な説明を受けた。

 その後、実力チェックという事で比較的大きいホールドのある垂直の壁を登ってみることとなった。

「じゃあ、まず八雲君から行こうか」

「はい」

 壁の高さは三メートル程。そこに形、・大きさ・色などが違う様々なホールドと呼ばれる突起のようなモノが付いている。まずはどんなやり方でもいいので、自力で登れるところまで登れとの事だ。

「よっと」

 巧は両手両足をホールドにかけ、比較的スイスイと登り始めた。

 背はそれほど度高くなく同年代の男子の平均ほどの巧だが、小中高の長い通学と部活で鍛えられた運動能力は伊達ではない。アッという間に一番上まで上りきった。

「ヒュ~。やるね」

「凄いなぁ、巧君」

 いつの間にか戻って来ていた悠里と彩の二人も感心している。

「まぁこれくらいはな」

 しかし、紐に釣られながら降りてきた巧は特に感動もない様子。

「ほら、次千草だぞ」

 そして、あろうことかすぐに千草に登れと促してきた。言外に『こんなの余裕だろ』と口調と顔が告げている。千草は言ってやりたかった『順番逆だろうっ』と。普通は上手い人の方が後にやるものだ。何故に巧が先で自分が後なのだ。と。

 心の中で憤怒に燃える千草であったが、その間にいつの間にかハーネスのセットが終わっていた。

「ちぃちゃんファイトやでぇ」

 彩が気の抜けた声援を送ってきた。

 行くしかない。

『ゴクリ』と目の前の壁に視線を向け、下から上にその視線を上げていく。

 高い。

 建物で言うと二階程の高さだろうか。普段は高いと感じない高さでも、いざ自分で登ろうと思うとこれ程高く感じるモノなのか。

『人は気の持ちよう』と言ったのは誰だったか。

「ちぃちゃん。大丈夫出来るよ」

 そんな負の感情のスパイラルを起こし目を回していた千草に、悠里が一言力強く声を掛けた。

 その眼は少しの揺らぎもなく、まっすぐ千草を見つめていた。

「う、うい」

 意を決して、歩を進める。

 右手をホールドにかける。次いで左手、右足。感触を確かめてから左足も地面から離す。

 あとは只、コレを繰り返していくだけ。

「成瀬さんは初め見た時どうかなって思ったけど杞憂だったね。園畑さんのお眼鏡に叶っただけはあるよ。これなら今日中に五級も狙えるかもしれない」

 無事に登り切った千草が操り人形の如く宙づりで降りて来ると、須藤さんが少し興奮した様子で口を開いた。

「え、五級?」

 突然『級』という習い事の様な言葉が飛び出してきたため、傍にいた巧が首を傾げた。

「ああ、ゴメンゴメン。つい興奮しちゃって。ボルダリングには『級』や『段』って言うのがあるんだ。これは明確に決まってる訳じゃなくて、そのジムのインストラクターが決めているモノだから、場所によって微妙に違うんだけど、だいたい十級から六段まであるんだ。今二人が登ったのが、十級から九級ってところかな」

「へぇ」

 要するに、難易度の様なものだろう。

 巧と千草は改めて自分たちが登った壁を見た。

 高いは高いが、ホールドの大きさは比較的均等で大きい。数もそこそこあり途中手足の移動場所に困る事もなかった。

 普通に登れるかどうか。これが十級、九級といったところか。

 まぁ、コレを登れない人はかなりの運動不足か、高所恐怖症のひとだけだろう。須藤さんがなぜあれだけ興奮しているの分からない。

「いやー、園畑さんが始めて来た時を思い出すね。あの時も驚いたな」

 懐かしむ様に須藤さんが腕を組み、目を閉じながら『うんうん』と頷いている。

「その時はどこまで行ったんだ?」

 巧が悠里に聞いた。

「ん? 確か五級までだったかな。そこで時間が来ちゃってさ」

 平然と答える悠里の口調には、時間があればまだいけたと言いう自負が感じられた。

「おいおい、勘弁しくれよ。初めてで四級までいかれたら、僕の心臓が止まっちゃうよ」

『はははっ』と笑う須藤さんの目はしかし、笑っていなかった。

「普通は初めてでどこぐらいまで行けるモノなんですか?」

 周囲になる壁を見わたしながら巧が質問した。

「う~ん。七級、いけて六級かな。そこまでは極端な話力づくでも登れるんだよ。でも、五級になるとコース取りとか考えながらじゃないと登り切れない。『ボルダリングが楽しくなるのは五級から』何て言葉もあるしね」

「へぇ」

 会話をしながら、しきりに身体を動かしている巧。千草は知っている、普段はクールぶっている巧だが、身体を動かす事や勝負事にはすぐ熱くなっしまう事を。

 しかし巧はともかく、何故須藤さんが自分に可能性を感じているか分からない千草であった。


 二時間後。

「うん。八雲君も成瀬さんも筋が良いね。ホールドの仕方は大体覚えたし、フットワークも良い感じだよ。成瀬さんも初めは色々言ってたけどムーブ何て四人の中で一番上手いんじゃないかな。うん、これで一通りの基礎はバッチリだよ」

 須藤さんより及第点を貰った。

 ちなみに、須藤さんの指導は実技中の講義もあった。

 ボルダリングとはロッククライミングの一種だそうだ。ロッククライミングは、岩を登る為に人工的な道具を使う「エイドクライミング」と安全確保の為ロープなどを使っても、それ自体は登る時に使用しない「フリークライミング」に大別される。更に、フリークライミングは安全用のロープを使う「ルートクライミング」とロープを使わない「ボルダリング」に分れる。その為、ボルダリングはロープを落ちても致命的なケガにならない三~五メートルの高さの壁を登る事が多いのだそうだ。

 それだけ聞けば一見危険なスポーツに聞こえるが、諸々の道具なしに始められるといった点では、初心者が始めやすいスポーツとも言える。

 そして、起源こそ屋外だが、ボルダリングとは屋内をメインにしたスポーツである。

 ボルダーと呼ばれる自然にある巨石を自分の手足で登る遊びがボルダリングの始まりであり、昨今急増している、屋内でカラフルなホールドが設置された壁を登るスポーツクライミングの一種である。

 二千二十三年から正式名称がボルダーに変更されたそうだ。

 何かボディービルダーみたいでカッコいいというのが千草の浅い感想だった。


 そのような歴史的な話があれば、当然ルールの説明もあった。

 まず、ホールドの横に「スタート」もしくは「S」と書かれたホールとを両手で持ってスタートする。そして上方に「ゴール」ない「G」と書かれたホールドを両手で保持してゴールとなるそうだ。それでは登ろうと手近なホールドに手を伸ばす――が、そうはいかないらしい。何とあの壁を彩る鮮やかなホールド達。そのどれでも使用していい訳ではなのだ。

 ホールドを見ると傍にテープが張ってあることが分かる。このテープは色や形、数字に違いがあり、それぞれ同じものを選んで登っていくのだ。これは設定されている課題別に分けられていて、先程須藤さんが言っていた「級」というものらしい。

 その為、ボルダリングとは級が上がるほど、いきなり登る訳にはいかなくなる。自薦にホールドを確認し、コースを見つけ出す必要がある。

 ボルダリングとは頭と身体どちらも使用するスポーツなのだ。須藤さん曰く、身体を使ったチェスのようなものとの事。

 と、こんな具合だ。

須藤さんの説明に挟んで、悠里がいくつか説明を入れたところもあった。

 例えば、二人同時には壁を登らない。着地の気を付けるなど、安全面に対する事が多かった。悠里の説明に須藤さんもその通りと頷いていた。

 千草としては言われるがまま素直に身体を動かすのみであった。

 リーチが長く力も強い巧はボルダリングに向いていたが、小柄の千草も身体のバネを上手く利用し壁を上りきる事が出来た。

「ち、ちかれた」

 久方ぶりの激しい運動にゼイゼイと肩で息をしながら、座り込む千草である。

「ははは、お疲れ様。みんなはこの後どうするんだい? もう少しやっていく?」

 そんな千草を見ながら須藤さんは笑って、後ろの壁を指さした。

 それは壁というより崖。角度がどう見てもおかしかった。

 反り返っている。

 爽やかな笑顔の下に、なかなかのドSを隠していたようだ。

「は、ははは、御冗談を」

 これまでの二時間で須藤さんにも若干慣れた千草が、苦笑いを浮かべながら言った。

 一緒に体を動かすことは互いの距離を縮めるのに良いようだ。

未だに【イング】のメンバーに慣れていない(主に悠里)千草の事を考えれば、須藤さんの接客力コミュニケーション能力の凄さが分かるというものだ。一方、壁が完全に取り払われた訳ではないが、時折悠里が千草の指導をしている事もあった。そんな時でも、奇声をあげたり、隠れたりせずにしっかり話を聞いていた千草である。

 その光景を残りの二人が感慨深く眺めていたりした。

 そんな事とは露知らず、須藤さんへ呪詛の眼差しを向けながら、助けを求めるように周囲を見渡す千草。

「お、良いね。二人も基礎はばっちりなんだから、次は応用編といこうか」

 ダメだった。

 視線が合い、任せとけと笑いかけてきた悠里に見事に裏切られた。

「そうやねぇ。アレぐらいやらんとせっかく来たのにもったいないわぁ」

彩もおっとりした口調と正反対な事を言い出した。

 最後の頼みの綱、巧は、『おしっ』と一言。まったくやる気満々でいらっしゃる。

 こうなってはどうしようもない。引きつった笑顔で気持ちとは裏腹に首が縦に動く千草であった。

「どうする? せっかくやるんだったら、勝負でもしてみる?」

悠里が何か言い出した。

 確かにこれまで千草と巧をメインに基礎的な事をしていた為、経験者の悠里と彩は慣らしのようなモノだったのだろう。

 現在は、これからの昇る壁を前に入念なストレッチを行っていた。

 その壁はどう見ても直角を超えて斜めに傾いていた。

「むむむ、無理だよ。私じゃあんな壁登れないよ……」

 改めて自分がこれから登らされる壁を見て巧に泣きつく千草であった。

「確かに経験者のお前らと千草とじゃ勝負にならねぇよ」

 ワタワタと両手を振りながら最後の抵抗を試みる千草。これには巧も賛同した。

「そんな事分かってるよ。だからチーム戦でどうだ? 私とちぃちゃん、彩と巧チームに分かれてさ」

 悠里がそれぞれを指さしながら、再度勝負案を提示した。

「いや、それでもなぁ~」

 巧が千草を見ながら首を傾げた。

 どうも乗り気になれない二人を見て、悠里と彩がばれないようにアイコンタクトをとった。

「あっれぇ~。もしかして巧自信がないのか? そりゃそうだよな。男子と言っても女顔の初心者が経験者の私らに勝てる訳ないもんな~」

 カッチーーーン

「あ? いいぜ、その喧嘩買ってやるッ。余裕で勝てるわっ! チーム戦でも個人戦でもやってやるよっ!」

 ちょろい。

 悠里の煽(あお)りに見事に反応した巧はその瞳に闘志の炎を燃やしていた。

 巧の負けず嫌いが発動してしまった。

「えぇ~。裏切り者~」

 やる気満々の巧に対して、千草は未だ乗り気ではなかった。どう考えても、自分が一番足を引っ張るのが分かりきっているためである。

「大丈夫だって。ちぃちゃん何気に運動神経良いしさ。さっき須藤さんから聞いたよ。運動部だったんだって。今度体育の講義一緒にとろうよ」

「は、は、は、っつつ謹んでお断り申し上げます」

 悠里の言葉に微妙な笑いとキレイなお辞儀を添えて返す千草。

「そうやよぉ。ちょっと練習すればウチなんかより絶対上手くなりそうやし」

 彩も笑顔で背中を押してくるが、最後の踏ん切りがつかない。

「そ、そんな事、ないよぉ」

「しゃぁないな――」

 中々踏ん切りがつかない千草に、ここで彩が最終手段をとった。

「じゃあ、勝ったチームには岡山駅にある有名ゼリー店のゼリーを進呈しようやないかぁ!」

 ガガ――ン

 その発言に、千草は雷で撃たれたような顔をした。

「ちぃちゃん?」

 固まる千草に恐る恐る声を掛ける悠里だったが、いきなり千草が覚醒した。

「やってやらァァァ‼」

「うわ⁉ ビックリした」

 突然の奇声に悠里がその場を飛びのいた。

 俄然やる気を出した二人を見て、悠里と彩はほくそ笑む。

 コイツ等、ちょろい。と。


 すぐに勝負を始めるのかと思ったが、悠里と須藤さんが流石にいきなり登るのは危険と判断、チームに分かれ三十分程練習時間を設けることになった。

 千草は一先ず悠里が昇るのを見せてもらう事になった。

 スイスイっと長い手足を上手く使い危なげなく登っていく。見ている分には凄く簡単そうに登っていくため『あれ? これなら私も出来るんじゃない』と錯覚してしまいそうになる。

「ほいっ まぁこんな感じかな」

 二分弱で上まで到達した悠里が、紐に吊られながら『シュルル』と降りて来た。

 いや、こんな感じって言われても。

 普段から感覚で生きている感じがする悠里だ。人に教えるのは上手くないのかもしれない。

 巧たちの方に視線をやると、二人とも思い思いに練習? をしている様だ。

 巧はどうやら、ひたすら登り感覚を掴む作戦のようだ。一方彩はというと、ベンチに座って自分の荷物を漁っていた。もう練習を終えたのか、それとも本番に向けて体力を温存させているのだろうか。

「ほら、ちぃちゃんも取り敢えずさっきまでの基礎を忘れずに登ってみな」

 意識的に目の前の壁から(悠里の視線からも)意識をそらせていると、悠里から声を掛けられた。

「う、はい」

 改めて見ると人の昇るものじゃない。

 だがしかし、やらねばならぬ。人には避けて通れぬ道があるのだ。そう、ゼリーの為に!

 千草はゆっくりと手に力を込め、脚を地面から離した。


 三十分後。

 向かいあう二チームが互いに相手を睨み付けていた。

 腕を組みヤル気満々といった雰囲気で目の前の悠里を睨み付ける巧。

 そんな事は関係ないと腰に手を当て、ニヤリと口角を上げて挑発の笑みを見せる悠里。

 巧の横で『んん~』と伸びをして、今更ながらストレッチをする彩。『お手柔らかにな~』と眼前の千草に手を振る余裕を見せているが、その眼はマジだ。

 そして、普段なら彩と気が抜けた仲間として、ゆったりまったりの千草はというと、先程からぞの場でジャンプをしたり、屈伸運動をしたりと一番落ち着きがなかった。

 逸る気持ちを抑えきれない。獲物を見の前にした捕食者の目をしている。

 誰もが臨戦態勢だ。

「よし、じゃあもう一度確認しとくぞ。勝負は二対二のチーム戦。それぞれが二回ずつ登って、速かった方のタイムを合計。速かったチームの勝ち。勝ったチームには負けたチームが岡山駅でゼリーを奢る。間違いないな?」

「おっしゃー やってやるッ」

「フフ オッケーやで」

「問題なし」

 三者三葉の了承の返事を聞き、悠里が満足そうに頷いた。

「じゃあ、まずは先攻後攻をジャンケンで決めるか。ちぃちゃん頼んだ」

「オッケー。これは前哨戦と言う訳だね。私に任せてっ。勝って本戦に弾みをつけてあげる」

 ゼリーがかかった試合である。人見知りの千草は成りを潜め、勝負師の千草が顔を出す。その眼をギラつかせながら、一歩前へ。興奮状態の為いつになく饒舌である。

「フフフ……。ヤル前からもう勝ったつもり? その意気や良しやけど、それはウチを舐め過ぎなんとちゃう? ええよ。掛かってき。世界の広さを教えたる」

 千草の気合の籠った宣誓を聞き、彩もゆっくり一歩踏み出した。

「イイね二人とも。『どんな事だろうと全力で』それでこそ【イング】メンバーだ」

 火花を散らす千草と彩の様子に、悠里が楽しそうに笑う。

 巧は何故か一人熱を冷ましたような視線を他の三人に向けているが、闘志を内で燃やすタイプだ。きっと内心は千草同様に燃え上がっているに違いない。

「準備はええかちぃちゃん?」

「……いつでも」

 流石は今まで悠里を傍で支えてきただけはある。その柔和な容姿からは想像できない程のプレッシャーだ。

 千草の額から一筋の汗が流れる。

 意志とは裏腹に、身体が後ろに下がろうとする。

「ちいちゃん」

 その時、後ろから声がした。

 下がりかけた脚に力を込め、踏みとどまる。

 相手の実力が上――それがどうしたっ。

 冒険者とは常に格上と戦い、そして勝利する者だ。

 それに今は一人じゃない。

 後ろを振り向くと、悠里が腰に手を当てた仁王立ちで、満面の笑みを湛え千草を見守っていた。

「ん!」

 そしてグッと腕を前に伸ばして、親指を立てた。

『勝ってこい』

 そう言われた気がした。

「うんっ」

 千草も同じポーズで答える。

「エエ仲間を持ったね」

「私には勿体ない程のね」

 二人の心が重なった。


「じゃーーーんけーん――――――――」


「よっしゃ――。勝ったよ園畑さんっ」

 互いに手を振り上げ、下ろしきる前に相手の手を見ては変え変えては見て繰り返す攻防を経て、千草は見事勝利した――ジャンケンに。

「良くやったちぃちゃんっ」

 悠里が歓喜の叫びをあげる千草をハイタッチで迎える。

「フっ 負けたわ。ちぃちゃんの気概確かに受け取ったで」

 一方ジャンケンに負けた彩は、その場に崩れ落ちていた。

 千草がダッと駆け寄り、その手を取る。

「分かったよ。私彩ちゃんの分まで強くなる」

「まったく、敵のウチにそんな事言ってくれるなんて……ほんなら後は任せたよ」

 今度こそガクッと力尽きた彩。

「彩ちゃ――ん」


「うるせぇよ」


「あいたッ」

 そんな千草たちの感動青春スペクタクルシーンを、巧の冷めた声と、まあまあ痛い突っ込みが切り裂いていった。

「いいから、さっさと先攻後攻決めろ」

「もぉ、良いところだったのに」

「ホンマやで。次はを失ったちぃちゃんの覚醒シーンだったのに」

「そうだぞ。私の出番はこれからだったてのに」

「やかましわ」

 三人の息の合った非難の声を浴びても、巧はどこ吹く風であった。


 巧に怒られたたにも関わらず未だにぶうぶう言っている悠里と彩に、一緒に交じろうとした千草であったが、巧にジロリと睨まれ素早く後攻を選択した。

「たくっ せっかく温まった体が冷えてきたじゃねぇか」

 先行となった巧・彩チームはまず巧が登るようだ。

 千草を含めた自由人三人の相手をしているため近ごろ小言が絶えない巧は、今もストレッチをしながらブツブツ言っている。

「あんまり眉間に皺寄せてると、せっかくの美貌が台無しだぞー」

「そうやでー」

「怒るな 怒るなー」

 そんな巧にみんなで声援を送る。

「おいっ せめて味方くらいはちゃんと応援しろよ⁉」

 真剣勝負の前にこの鋭い突っ込みとは。余裕があるようだ。が、


「クソッ ミスった」

 巧は見事に登り切った。

 しかし、本人の言うようにミスも目立っていた。コース取りを間違えて引き返そうとしたり、無理に手を伸ばして落ちそうになったり。初めに悠里が登ってみせたタイムより遅い二分半。

 だが、大筋では自分で修正し登り切った。この事実は千草に確かなプレッシャーを与えた。

「登り切ったか。やるな巧っ。じゃあ次は私だ」

 腕を回しながら、こちらもヤル気満々といった様子の悠里である。

 先程の練習の際に見た様子だと悠里にはまだ余裕があるように見えた。余程のミスをしない限り、巧の記録より早く登り切るだろう。

「ちぃちゃん良く見とけよ」

 そう言って登り始めた悠里は、やはり危なげなく登頂に成功。

 今回も二分ジャスト。

「いえっ~い」

 千草は戻ってきた悠里とハイタッチを交わす。

「さすがだねッ」

「まぁね――と言いたいところだけど、巧がコース取りをミスらなかったら、同じくらいのタイムだったよ。まぁ、それが五級の醍醐味でもあるんだけど。初心者と同じ程度じゃ素直に喜べないね」

 意識の高い事である。

 しかし、これで千草の心に少しの余裕が生まれた。

「盛り上がっとるとこ悪いけど、本命のお出ましやで」

 千草と悠里が話していると、自信満々といった声が飛んで来た。

 声の方に視線を向ける。

 先程悠里が登った壁の方――ではなく、荷物が置いてあるベンチの方に。

 そこには、口をもぐもぐ動かしながら、ウエットティッシュで手を拭く彩がいた。

「もぐもぐ――ゴックン。さて、ちぃちゃん。ちょっとリードしたからって安心するのは早いで。これはチーム戦。ウチにとったら三十秒なんて差はあってないようなもんや」

 そう言い放った彩は、最後に口元を拭くとゆっくり壁に向かいハーネースを付け始めた。

「す、すごい自信……」

「珍しくヤル気だな、彩」

「いや、運動する直前に食うなよ」

 三者三葉の反応があったが、彩はニッコリスマイルでスルー。

「ほな行こか」

 準備を終えた彩が不敵に笑った。

 そして、開始直後。落ちた。見事に手を滑らせた。

「あら?」

「あら? じゃねよっ。何やってんだよ⁉ 勝負だぞ、分かってんのか?」

 キョトンとする彩に、すかさず巧が詰め寄った。

「まぁまぁ。サルも木から落ちるってヤツやよ」

「やかましいっ。何がサルだ。そんな動きの鈍いサルがいてたまるか!」

「まぁまぁ。こんな時の為に二回登るルールーにしとるんやから。次は任せとき」

「当たり前だ。次同じ事したらただじゃおかねぇからな」

「うぅぅ。巧君は厳しいなぁ」

 巧に怒られた彩はしょんぼりしながらベンチに戻って行った。

「お菓子は禁止ッ」

 そして、流れるような動作で手に取ったお菓子の袋を巧みに取り上げられていた。

 お菓子を取られた彩が巧にしがみ付いて抵抗していたが、千草は知っている。無駄な抵抗であることを。

 ドンマイ、彩ちゃん。と心の中で呟いた。

 何はともあれ次は千草の登る番だ。

 巧と悠里の差が十秒あり。更に彩が失敗。

 これ以上ないという程プレッシャーを感じずに済むシチュエーションである。

「ちぃちゃん作戦覚えてるね」

 千草が準備していると悠里が声を掛けてきた。

「うん、バッチリ」

 親指を立てて返事を返す。

「うんっ オッケー。かましてきな!」

「ラジャー」

 敬礼と共にスタート位置につく。

「じゃあ、始めるよ? よーいスタート」

 須藤さんの合図で千草の挑戦が始まった。

 まずは足元をよく見る。

 人は上に登って行く時、どうしても視線が上を向く。そうなると腕ばかりに気を取られてしまい、結果腕力で登ろうとしてしまう。

 初級まではそれでも何とかなるかもしれないが、今千草の前に立ちはだかる壁はそうもいくまい。

 全身の力を上手く使って疲労を最小限にしなければ登りきることすらできないだろう。

 そして、足の置き方にも注意が必要だ。

 足はホールドにべったり付けるのでなく、つま先――親指の力が入りやすいところで立つ。こうすると足に力が入りやすく、安定感が増す。更に足首の可動範囲が増え、次への移動がスムーズになる。

 後は梯子を登る要領で左右の手足を交互に動かしていく。

 常に体を三点で支え、残る一つで歩を進めていくのだ。

 だが、これだけで登り切れるほど、この壁は甘くない。

 傾斜があると、自然と落ちまいとして腕に力が入り、肘を曲げ、結果壁に張り付く格好になってしまう。こうなると余力がなくなる上に身動きがとりにくくなってしまう。

 そのため、基本的に腕は伸ばす。

 そうすれば、視界が広がり、動くスペースも生まれる。

 また、腕を伸ばしたことで重心が下に行くため、足に力が入れやすくなる利点もある。

 そして、厄介なのが、届かないホールドだ。

 これはいくら手を伸ばしても届かない(千草のサイズ感に起因する)。

 そんなホールドに出会ってしまう事がある。

 そんな時は焦らずに、狙っているホールド側の足を、少し上のホールドに上げる。

 ゆっくりとだ。焦ってはダメ。

 ゆっくり ゆっくり

 浮いた方片足を別のホールドへ。

 そうすれば、いつか――届く。

 後は勢いだ。

 サルが枝の反動を利用して木々を飛び移るのと同様に、腕を起点に身体を捻り反動をつけ、狙うホールに半ば飛び移り指をかけて行く。

 そして、

「よっしゃ――‼」

 見事登り切った。

 時間としては巧より二十秒ほど遅かったが、それでも登り切った。

「ちぃちゃんナイスっ」

 今度は悠里が親指を立てて、迎えてくれた。

「ありがとぉぉぉ。園畑さんのおかげだよ」

 そして、登り切った千草はというと地上に降り立った途端、手足をワナワナ震わせてやり切った感を出していた。

「コラコラどこの小鹿ちゃんだよ。まだ、気を抜くのは早いぜ?」

「う、うん。分かってるぅ~」

 そう返事をする声も震えていた。


 一方。

 こうなってくると黙っていられないのが巧である。

 先程から一回目でミスをしたコース取りの確認に余念がない。その視線は目の前の壁に釘付けである。

「よし、じゃあ二巡目といくか」

 そんな様子を見て悠里がニヤリと笑い号令をかけた。

「っし」

 気合十分の巧である。

 ハーネスの準備も終わり、その視線は壁の頂上を見上げていた。

「じゃ、いくぞ~。よーいどんっ」

 素早くホールドに手足をかけ登り始めた。

 速い。

 シミュレーションはバッチリなのだろう。一回目より動作に迷いがない。

 先程の悠里の記録に迫る勢いで既に壁の中盤だ。

 しかし、本番はここからである。

 先程実際に登ったため分かるが、この辺りから手が届かないホールドが出てくるのだ。

 だが、

「くっそ~。これだからデカい奴は」

 巧も決して高身長と言う訳ではないが、人一倍小さな千草より十センチ以上デカい。

 千草では届かないホールドも手を伸ばせば届いてしまうのだ。

 その光景を見て歯噛みをする千草であったが、

「落ち着けちぃちゃん。作戦通りだ」

 悠里が先程と同様の悪い笑みを浮かべていた。

「え?」

 何を言われているのか分からない千草は首を傾げた。

「確かにちぃちゃんが届かないホールドでも巧は掴める。でも、その為には手を伸ばさないといけない。だけど、手を伸ばすと力が入れにくくなる」

「でも、登れてるよ?」

 確かにしんどそうな顔をしているが、それでも巧はミスをすることなく登り続けている。

「ああ。だけど、なまじ力があると腕の力だけで登ろうとするんだよ。それにここまで二時間の基礎。その後三十分の練習。そしてさっきの一回目。とくればそろそろ――」

 悠里が言いかけたその時、

「ああ⁉」

 一際急角度の位置で、伸ばした腕に力を込め上のホールドを掴もうとした時、足を滑らせた。

 咄嗟に、空いていた手で手近なホールドを掴んだが一瞬の停止の後、落下。

「あああッ クソ!」

 巧がロープに吊るされたまま、天を仰いで声をあげる。

「何で巧が失敗するって分かったの?」

 千草はそんな巧の様子を見つめながら、隣に立つ悠里に問いかけた。

「ん? ああ、それは力み過ぎだったからさ」

 何でもないように悠里がいった。

「力み過ぎ?」

「そ。まず最初の二時間だけでも次の日筋肉痛必死の運動量だったのに、その後三十分の練習。私たちはそこそこで練習を切り上げたけど、巧はひたすら登ってただろ」

「確かに」

「それに加えて、一回目の登頂。巧の腕はパンパンって訳だ」

「でも、私より巧の方が力あるから、それくらいじゃあんな落ち方しないと思うけど」

 本来の巧なら、両手でホールドを掴んだ時点で態勢を立て直せたはずだ。

「それは登り方のせいだね。ちぃちゃんはどうしても手が届かないホールドがあるから、全身のバネを使って登る必要がある。でも、巧は手が届いてしまうから、手の力をつかってしまう」

「だから、最後手に力が入らずに、落ちちゃった?」

「そういうこと」

 なるほど。デカい事も善し悪しという事か。

 悠里の説明に千草が納得している時に、地に落ちた(降りた)巧は彩に慰められていた。

「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」

 颯爽と手を挙げて壁に挑んだ悠里は見事登り切ったが、一回目より五秒ほど遅い登頂となった。

「いや、悪いちぃちゃん。本当はもう少し差広げときたかったんだけどさ」

 頭に手をやりながら戻ってきた悠里は、しかし特に疲れた様子はなかった。

 流石健康体育学科。普段から身体を動かしているだけはある。

「大丈夫だよ。次の彩ちゃん次第だけどかなり差があるし。これなら気楽に登れるよ」

 安堵の声をあげる千草に悠里が釘を刺した。

「差がある? それは彩を舐め過ぎなんじゃないか」

「……え?」


 現在、悠里の記録が二分。千草が二分五十秒。巧の記録が二分半で彩は記録なし。

 彩が登り切ったとしても巧より早くはないだろう。

 という事は早く見積もっても二分四十秒ほど。巧の記録と合わせて五分十秒。一方、現在千草と悠里の合計は四分五十秒。

 すでに勝ったも同然である。なのに、悠里はまだ勝負はついていないという。

 千草は恐る恐る彩に視線を向けた。

 すると、準備を終えた彩と視線が重なった。

『ニコッ』と、いつもと変わらない笑みを浮かべる彩。

 しかし、ゾッと背筋に走るものがあった。

 見ると千草の腕に鳥肌が立っていた。

「え?」

「本気、みたいだな」

 呆けた声をあげた千草に、悠里もその口角をあげて笑っていた。

「ほな、行こか」

 やはり普段と変わらない気の抜けた声で呟いた彩は、しかし、凄かった。

 千草の上位互換―――背が低い者の完成形と言われても納得するだろう。

 全身のバネを使い信じられない位置のホールドを掴んで登って行った。

 少しのミスで落下しそうなのだが、見ている者にそう思わせない安定感があった。

「ふぅ~ ゴール」

 そして、何でもなかったように登頂しきってしまった。

 そのタイムはなんと――二分二十秒。

 まさかの巧越え。

 合わせたタイムは四分五十秒。

 まさかの同タイムとなり焦る千草と、女子に負けたショックに茫然とする巧。

 悠里と「やるな」と彩とハイタッチを交わしていた。

「さ、ちぃちゃん最後の一登りだよ」

 予想外の事態に焦る千草は目の焦点を彷徨わせながら、

「あ、あの、同点だった場合ゼリーは」

 壊れた絡繰り人形のようにギギギっと首を動かしながら、彩に問いかけた。

「う~ん、そやね。勝った方にって約束やったから、勝者がいなければ『なし』かな?」

「ひぃいぃぃぃぃい⁉」

 半ば予想出来た彩の返答に、ムンクもビックリな悲鳴をあげる千草であった。

「大丈夫ちぃちゃん。コースは覚えてるだろ?」

 そんな千草の肩に悠里がポンと手を置いた。

「う、うん」

「それにさっきの彩の登り方も見た」

「――うん」

「じゃあ、あとはトレースするだけ。自分とどこがどう違ったか」

 どこが違ったか。千草自分と彩ちゃんとで。

 コース取りはほぼ同じ。身体の使い方は向こうに一日の長があるが、それはどうしようもない。一番の要因は

「……コース取りまでの時間」

「そうだ」

 千草の呟きに悠里が嬉しそうに答えた。

「確かに登る技術は彩が上だ。だけど、それだけで四十秒も差が出る訳じゃない。差が出たのは動いていない時間。つまりちぃちゃんがコースを目で見て決めている間、彩は動きながらコースを決めていた。だけど、それなら」

「うん、それなら少しは差を縮められるかも?」

「そうだ。何たって一回登ったコースだからね。そして改善点も明確。じゃあ後は精一杯やるだけさ」

「うん。私行ってくる」

 千草は顔を上げた。スイーツがかかった千草に怖いものどない。


 そして、

「おぉぉぉおおおぅっおぉぉ! ほ、本当に良いのっ奢ってもらって⁉」

 岡山駅に戻ってきた千草たちは駅構内にある一つのショップ前にいた。

「どうどうどうっ。落ち着いてちぃちゃん。大丈夫だからゼリーは逃げないから――おいっ巧ボケッとしてないで何とかしろよ!」

 結果として、千草は二分四十五秒で登り切った。

 その為、千草・悠里チームが四分四十五秒、巧・彩チームが四分五十秒となり、僅か五秒差で千草・悠里チームが勝利した。


 その後ボルダリング勝負に勝った後、そわそわしっぱなしの千草だったが、約束のゼリーショップの前まで来たところで、限界に達してしまった。

 店のショウウィンドウに飾られた色とりどりの果物が入ったゼリー。

 それが綺麗に瓶の中に詰めて並べられており、光の当て方で宝石のように光って見える光景に千草のテンションがマックスになってしまい、そのまま店に突撃しそうになったのだ。

 悠里がどうにか羽交締め、最後の醜態は回避している状態であった。

普段千草の手綱を握ってる巧はと言えば、先程の勝負に負けたのが余程ショックだったようで、普段の覇気がない。

「……ああ、頑張れ」

 返事にも普段の切れがない。

「もぉ~。ホラホラ。今日はみんな頑張ったからウチのおごりや。巧君も好きなん選びに行こ」

 止められる千草と、押される巧。端から見ると何とも奇妙な四人組であった。

 その後興奮した千草が中々ゼリーを選べず、結局彩のお情けでマスカットとモモのゼリーを、巧と悠里がイチゴのゼリーを、彩がピオーネのゼリーをそれぞれ選んだ。


 後日談として。

ゼリーを食べた、その美味しさに感動した千草の希望により、その後暫くサークルでのお菓子がゼリーになった。

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