第16話:「齟齬」

 そんな折、残暑を引きずった十月初旬、奇しくも神保町のあの書店で、海外文学に関するイベントが開催されるというアナウンスがあった。

 私とヒズメさんが出会ったイベントとは全く違う主旨で、『海外文学入門』と称して翻訳家や文芸評論家がガイブン読者を増やそうというものらしい。

 取り上げる作家の中にギュスターヴ・マルの名前を発見したので、私はすぐさま予約し、十月五日の夜、私は意気揚々と神保町に向かった。



 駆除に手間取ったため、私がイベントスペースまで上がるとすでに開場されており、私は迷わずあの時と同じ、最後列の一番右の席に着座した。そして、ヒズメさんが来た時のため、あの時ヒズメさんと一致したギュスターヴ・マルの作品を左の席に置いた。


 しかし、イベントが開始されてもヒズメさんは姿を現さなかった。でも、私の中には確信があった。絶対に、また会えると。

 開始から十五分ほど経過した頃、後方でドアが開く音がしたので振り向くと、相変わらずくるくるとした黒髪で、白いマスクと少し色の入ったメガネをしたヒズメさんが入室してきた。席を探すようにきょろきょろしていたので、私はギュスターヴ・マルのハードカバーを手に取り、こちらに来るようジェスチャーすると、ヒズメさんは頭を下げて私の隣に座った。


「私、今日絶対ヒズメさんに会えると思ってました!」


 小声で言うと、ヒズメさんは少々疲れた様子で力なく頷く。やはりメジャーでの音楽活動は多忙なものなのだろう。身体には気をつけて欲しいな、と胸中で祈る。


 イベントがギュスターヴ・マルの紹介に差し掛かり、私はメモ用のペンを握り直してヒズメさんの方を見遣った。やはり疲れているのか、どことなく具合が悪そうに見えた。


「ヒズメさん、大丈夫ですか?」

 そう聞くと、ヒズメさんは初めて私を見た。その黒い瞳の中には輝くものがなく、毛細血管が妙に目立っていた。

「静井さん、そのことなんですけど」

「そのこと?」

 きょとんとする私を、ヒズメさんは正面から見なかった。

「今ちょっとだけ出ませんか?」

 これには面食らってしまった。何故ならいよいよ私たちが大好きなギュスターヴ・マルについて論じられるところだったからだ。

 しかし、ヒズメさんがこんなにも深刻かつ力なく言うのだから、よほどの理由があるのかもしれない、と思った私は、二人で席を立ち、退室してエレベーターホールまで歩を進めた。

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